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見ようとしなければ見えない

それは、弱者。正確には、“自分より弱者”と感じている人々のこと。
…って、自分もある意味弱者で、でも強者の部分もあり.。…誰でも両面あるもの。多くの人が無意識に、自分の強者の部分を強く意識して生きている。
2年前の2020年、喫茶店で耳に入ってきた話は…某テーマパークでダンサーをしていたけれど仕事が無くなったので転職先を探してる。今後ダンサーは難しい…。
コロナが広がって以後、仕事が危機的状況になった話はよく聞く。でも、実際に失職につながった話を、私が耳にしたのはそのときのみ。親しい人…飲食業の人も踏ん張っていて同じ仕事を続けている。
なので、街中にテナントスペースの空きが増えていることに気付いても、不安になりつつも、自分事としての実感は少なかったです。ニュースでは、様々な業界での危機的状況がこんなに報道されているのにも関わらず。
初めて、仕事がなくなることの不安を“自分事”として味わったのは、乾ルカ「おまえなんかに会いたくない」を読んだとき。飲食関連会社で働く女性がコロナの影響でいきなり自宅待機となり、正社員でないため生活費が困窮…リアルでぞっとした。
フィクションはノンフィクションよりもノンフィクションに迫る。そのためにもフィクションって必要です。
私たちは、普段の生活では、自分事でない弱者の辛さはわからない。人の心は、基本的に、自分事でない弱者の気持ちには共感を覚えないようになっている。でないと不安や恐怖に耐えていけないから。
いつだって、自分事でない弱者のことは、現実感のない遠い世界のことなのです。
自分が弱者側として声をあげたとき、初めて人々の無関心さに気づいたりする。一時的に共感や同情を寄せられたとしても、自分ほど切羽詰まっていないと肩を落とす。
人の世界も、他の動物と同じく、弱肉強食の世界。でも誰しも弱い部分はあるわけで。単純に考えても、人は皆老いていき必ず肉体的弱者になるわけだし。
自分事でなくても、弱者のことに想像を巡らせる。自分事として捉える。
こうした想像に自分の心がどれほど耐えられるかは、人により違うけれども。
弱者のことを見ることに、意志的になることは大切。あえてそうしないと、自分事でない弱者のことは、ま~ったく見えない。
その意志は、私の、みんなの幸福実現に向けた、必要最低限のことで…。世界平和の最も下部の礎、と強く思います。

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