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本物

言葉は矢を放つように、いやもっと速く、雷に打たれるように瞬間的に心をつくものがいいのだと考えていたふしがある。それは曲がりなりにもコピーを気にするようになったり、HIP HOPの韻やパンチラインが好きだったりすることが、影響しているように思う。

つい最近、それが「違うな」というよりも「こんな捉えかたがあるのか」と感じる経験をした。今年の納めに少し書いておきたい。

「一生勉強」という言葉

今年を振り返ると、(正確には2020年末からであるが)「ぶんしょう舎」と「企画メシ」の1年だったと言ってまったく過言ではない。楽しく学び、実践し苦しみ、悔しくてまた挑戦する。どちらもその繰り返しで、(成果が出せているかは別として)ここ数年でもっとも充実していたとはっきり言える。

ぶんしょう舎で学んでいるときから「これはもう間違いないんだな」と思うことが何度かあった。講師のみなさんの話の中に、共通する言葉があったのだ。
「一文が長くなりすぎないように」と菅原さくらさんや橋口幸生さんは言われていた。「伝えたいことを明確に」とさらに複数の講師のかたが言われた。「書き出しにこだわれ。冒頭にすべてをかけろ」とは、何度言われたか覚えていない。

もしかしたら文章を書く人にとって基本中の基本、誰もが知っていることばかりなのかもしれない。けれど知識やスキルが乏しい自分にとっては、さまざまな経験を積んだ講師のみなさんが共通のことを言っている。それだけで、間違いなく大切な言葉なのだと確信を持てた。

ぶんしょう舎での経験があってから、ほどなくして参加を決めた企画メシ。企画メシの半年間を話すと長いので割愛するが、その最後の最後「完走報告会」で、ひとつの言葉に再会した。出会ったのではなく「再会した」。10年以上前にその言葉に出会ったことをしっかりと覚えている。

完走報告会のスライドでその言葉を見たときは「あー……これは」くらいに思っていた。それがずっと頭の中に残っていて、いろいろな考えがめぐって、ぶんしょう舎のときの「間違いない」とはまた少し違う感覚になる。すごく漠然とした表現になるが、自分にとってこの言葉は「本物」なんだろうなと思った。

その言葉は「一生勉強」である。

Kさんと「一生勉強」

大学生のときに、Kさんという先輩がいた。所属する課程も違えば、年齢も少し離れている。自治会の仕事で知り合い、それすら代が違うので一緒に仕事をすることはなかったのだが、何かと目をかけてくれる先輩だった。

話は逸れるがKさんは規格外というか、恐れずに言うとブッとんだ人だった。最初に遊んだときはテーマパークに行き、マスクをかぶり「タイガーマスク1枚」と言って入場券を購入しようとした。「メガネを買いに行くぞ」と言われ、福岡からなぜか熊本まで足を運び、4万円のメガネを購入したこともある。台風の日に数人集めて、大学で鬼ごっこをしたこともあった(そのあとカラオケに行った気がする)。

いつだったか忘れてしまったが、おそらく自分の大学卒業の前後だったと思う。Kさんから言われた言葉が「人生は一生勉強だからな」だった。なんとなく分かる気がしたのと、知ったような顔で答えるのも違う気がしたのとで。当時は「マジすか」というような返事をしていた気がする。

いつからか特にKさんと接する機会はなくなり、ごくたまに何かの場で会って少し言葉を交わすくらいになった。でもKさんの動向はことある毎に目にし耳にした。時系列はバラバラだが教師をしたり海外に行ったり、大学院で学んだり講演や講師をしたり。

同じ大学に行った者からすれば、その進路はブッとんでいるとは言わないまでも規格外であるように見える。だがKさんが自分で道をどんどん切り拓いていることは明確だ。大学生当時から思っていたが「一生勉強」の言葉を見て再度Kさんのことを思い出したときに、やはりあの人はすごい人なのだと感じた。

阿部さんと「一生勉強」

「一生勉強」の言葉に再会するきっかけとなったのが「完走報告会」。今年の6月から半年間受講した、コピーライターで作詞家の阿部広太郎さんが主宰をされている「企画でメシを食っていく(企画メシ)」。その受講を終えて、企画生5人に学んだことや変化を聞くイベントだった。

企画メシに参加したのは、タイミングの妙と言うほかない。ぶんしょう舎で阿部さんの講義を受けていなければ、今年の企画メシがオンライン主体の講座でなければ、おそらく参加していなかった。海外含め全国各地から集った企画生の中には、自分と似た状況の人が少なからずいるはずで、いまでも不思議な縁を感じる。この半年間は課題に取り組む苦しさもあったが、それを上回って楽しさと面白さで満たされた。

完走報告会では一緒に半年間課題や講義と向き合ってきた5人がZOOMで阿部さんと話し、そのほかの企画生や先輩企画生が見守る。5人の変化や展望が聞けて嬉しく、自分は企画メシの講義の延長戦のような気持ちで臨んでいた。

最後に阿部さんの総括があり、阿部さん自身の目標や今後について話されていた。そのときにスライドに書かれていたのが「一生勉強」という言葉だ。「あー……これは」とKさんのことが思い出される。と同時に、旗振り役として先頭に立ってくださっていた阿部さんが、この中の誰よりも貪欲に学び手の気持ちを持っているのかと驚いた。

言葉が「本物」になる感覚

完走報告会の後からこの言葉がずっと離れなかった。10年以上前にそれを言ったKさんは、我が道を切り拓き進んでいる。先日企画生の前でそれを言った阿部さんは、コピーライター・作詞家やさまざまな講座の講師として多方面で活躍をされている。自分が接してきたすごい2人が言うのだから「間違いない」言葉だと思う。

ただそれだけではない。自分の今年の経験がとてつもなく充実し、同時に足りない部分ばかりを感じる悔しいものであったこと。今年から始めた新しい挑戦もあり、それは明らかにゼロから、最後尾からのスタートであること。正直まだまだ停滞を感じ悩んでいる部分もあること。

ここから進み続けるには「一生勉強」なのだろう。その考えにたどり着いたときに、言葉が自分にがっちりとハマった気がした。言葉がじわじわと沁みわたるというより、占有されるかのような感じがした。人から言われただけじゃない、自分ごとだと思えたからだろう。それなのに漠然とした表現にしができないのが自分の足りなさでもあるが、この言葉は「本物」だなと思った。

「間違いない」と「本物」の間に優劣があるとは考えていない。もちろん、そのほかの言葉に間違いや嘘があるともまったく思わない。すごいと思う人たちが熱心に伝えてくれることに共通点があると、それは「間違いない」と感じられる。それがさらに自分ごととして考えられると、その言葉は「本物」になる。言葉が自分のものになった、そんな感じだろうか。

「一生勉強」なんてそんなの当たり前だろう。考えなくても分かる。そういう人もいるかもしれない。でも「本物」になる感覚は、どこか違う。今後も自分の中にずっとあり続ける言葉だと思う。
これまで「座右の銘」を聞かれると、その都度困っては何か思いついたような言葉を言っていた。たぶん「一生勉強」は自分の中でそれにあたるのだろう。


言葉は矢を放つように、いやもっと速く、雷に打たれるように瞬間的に心をつくものがいいのだと考えていたふしがある。けれど、半年間さまざまな人に熱心に伝えられて「間違いない」と思える言葉がある。10年以上経って、自分のこととして捉えられると「本物」になる言葉がある。
今までそう思えていなかった言葉も、これから変わっていくときが幾度もあるかもしれない。

これからどれだけ「間違いない」言葉に、「本物」の言葉に出会えるだろう。その機会を多く得られるよう「一生勉強」をしていこうと思う。

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