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短編台本/0:0:2/厄捨て山

怖くないです。タクシーの運転手とさびれた山奥の風習について話す乗客。

0:山奥・タクシーの中
A:*姥捨《うばすて》山ってのはね、齢六十になった老人……今となっちゃ老人なんていうのもまだ早いが、とにかく『時が来た』老人を捨てにいく山のことでね。捨てられるのが父親だったり、母親だったり、捨てにいくときに孫や息子がついて行ったり。捨てにいく家族はどんな気持ちだったのかは推し量れないし、色々な場合があったそうな。
B:しかし、年寄りの意外な知恵の深さで連れ帰られるという点がかなり広まっていますね。
A:お、詳しいですね、この辺りの伝承に詳しい方で?って、まあこんな*辺鄙《へんぴ》な山の中にタクシーを飛ばそうって方ならそのあたり詳しくてもおかしくはないですな、あっはっはっ。
B:ここもそういった場所ですからね。あらゆる地方にそういった働けなくなった年寄りを捨てるという場所があった。でも年寄りが難題を出して、捨てるものがそれに答えられずに、まだまだこの老人には価値があるぞと連れ帰るといった流れの話が多いようですね。例えば『火を紙で包んでみなさい』というものがある。運転手さんならどうします?
A:『火を紙で包む』か、なかなかに難しいですな。火は何かについているはずだから、それを紙で……いや、燃えてしまうかな。
B:なかなか機転がきいてますよ。答えは『提灯に火を灯すように』です。
A:ははあ、なるほど。発想の転換ですな。いわゆるコロンブスの卵みたいなものですかねぇ。普通は今ある道具を使ってどうにかしようとするのを、もともとある道具を使ってどうにかしようとするというのは、なかなかに思いつかない。
B:他にも『灰で縄を編んでこい』というものがありましてね、これにはどう答えます?
A:灰で……いやいや見当もつきませんな。
B:縄を編んで燃やせば良いのですよ、これで灰の縄が出来上がる。
A:作る順番を逆にするわけですか、それはまた発想の転換ですな。
B:それを聞いた若者たちは、年寄りの知恵に感心して、まだまだ我々にはこの年寄りの知恵が必要だ、と村のルールである姥捨の習慣に反論する材料を得て老人たちを連れ帰るわけです。
A:発想の逆転というのはなかなか若者には思い浮かばないものなのですかねぇ。
B:機転というのはその瞬間に思いつくからすばらしいものだと受け取られるものなんです。まさに年の功で手に入る観点なのかもしれない。経験的に知っていることは若者に比べると雲泥の差ですからね。姥捨の習慣は知識や経験という面から見れば愚行に他ならない。特に口伝が主だった田舎であれば尚更です。しかし、生活が苦しく労働の役に立たなくなった老人を真っ先に切り捨てていくのも短期的な目で見るのであれば合理的に映ったのも間違いない。
A:そこは学の違いというものでしょうなあ。今のように本やインターネットで他人の見解を得ることができる時代であれば、また違うのでしょうが。私はさっぱりなんですがね。それにこんな山奥じゃつながらない。
B:いや、現代の方がひどいかもしれませんよ。インターネットに書かれていることは、多角的に物を調べるのには向いていない。何しろ調べる側が即その場で答えを求めているものですからね。しかし、それは口伝や職人芸でない場合は多かれ少なかれ言えることで、信頼できると決めたメディアと自らが決めた場所からの情報なら信用するしかないが、多く目に入るのは素人によって削ぎ落とされた『本来の内容が略されて違う内容になる』。
A:よくありますなあ、SNSでしたっけね。災害の時にデマが流れてそのまま本来のニュースが目につかなくなる事案、テレビで見かけましたよ。中にはテレビがその情報を放送してしまったこともあったとか。
B:インターネットにも年寄りというより、慣れというものがあれば経験則として正しい情報、長年の経験というものが生きてくるのでしょうけどね。
A:しかし、今となっては年寄りの知恵というものが活きる機会も少なくなってきたんじゃないですか?いわゆるおばあちゃんの知恵みたいなものはどんどん、一般生活に生かされてきているように思えるんですが。
B:それでも小さい頃の思い出や、細かい日常の知恵では年寄りの知恵というものは生きていくものですよ。それに何より、インターネット世代ではめったに重視されることのない年寄りの知恵というものの中には厄落としというものがありましてね。
A:ほほう、厄落とし。
B:そうです、今年一年の厄を吸い取ってくれた人形、もしくは体にこすりつけた形代を川に流して厄を落とす、というやつですよ。この辺りの川にも厄流しの習慣はあったはずですが。やはりご存知ですか?
A:ハイハイ、流し雛や灯篭流し、精霊流しみたいな行事は結構たくさんありましたよ。時期になると光が川を流れていくのが見えて、素晴らしく綺麗な風景で。こんな山道でなければもっと観光スポットになったものなんですがね。
B:それは壮観でしょうね。本来ならば川に流すのは人の形に切った紙である形代や、大事にしていた人形、専用に作られていた人形なのでしょうが、そういったものは手軽に手に入る反面、効果は気持ち程度といった気はしませんか。それに、あれだけ沢山の人の厄を受け止めてくれる川というのもすごいものだと思いますね。川は流れていく、運ぶものだから厄を直接受け止めるものではないにしても、最終的に受け止める場所は必ずある。それが途中の神社にしろ、海にしろ、大変な量の厄がたまるのでしょう。
A:たしかにあれだけの数が流れているのを見ると、どんな厄が流れているのか、ちょっくら恐ろしくもなりますわな。日常生活をしている人ですらあんなに厄がたまっているんだ。
B:そうですねえ、日常生活をしているだけで厄を吐き出していく生き物と考えれば、我々人間は何とも業の深い生き物ですねえ。
A:お客さんも厄流しに詳しいようですが、厄を流しにきたんですか?
B:私は、そうですね、厄は自分で払うタイプなので、あまりそういった行事には参加したことはないのですが。今回関しては約流しをしてもいいかなと思ってこうやってタクシーに乗ってはるばる山奥でやってきているわけですよ。
A:物好きですなあ。こんな山奥にもう厄流しなどする人もいなくなってしまったというのに。
B:まあ姥捨山に雛流し、精霊流しに、形代流し、色々なものが流れていた場所ですし、それだけ清浄な場所なのではないかなと思ったわけですよ。こうやって走っている道路も心なしか気分がいい。
A:そうですか?ああ、そうかもしれませんね。こうやって川下りの道を走っていると、すごく気分がいい。ダムができる前は多少はバスも走っていたんですが、今はほとんど誰も通らない道になっていて、荒れてはいるんですが、こう、だれかと一緒に走っていると何とも落ち着くものですなあ。
B:ところで、運転手さん、厄流しで強力なものがあるんですよ。ご存じですか?
A:強力なもの、ですか。いや、*寡聞《かぶん》にして存じませんな。
B:川の水で禊を行うというのもあるんですがね。……じゃじゃーん。お酒です。
A:はっはっは、そりゃいい。確かに昔からお供え物としてはお酒はよくありますなあ。いろんなお酒がありますが、私はやっぱり日本酒が一番です。
B:お、気が合いますね。私も日本酒が一番好きです。といっても、飲むほうではないんですが。
A:あまり飲まれないんですか?
B:あ、いえいえ、飲むのは飲みますけど、用途ですよ。
A:用途……。飲む以外に何かあるんです?
B:お供えですよ、お供え。
A:ああ、なるほど。確かにお供えにはお酒がつきものですね。私はビール一缶とかでも十分なんですが。
B:あー、ビールで厄は祓えるのかなぁ。ちょっとわかりませんね。
A:あっはっは、確かにビールで厄払いというのは聞いたことがありませんね。
B:ま、私はこうやって今回は自分の飲まない日本酒を持ってきたわけですよ。
A:おや、さしさわりがあったら申し訳ありませんが、このあたりで事故でも?
B:いいえ、事故かどうかはしりませんが、なんというか、見るに見かねてというか。昔、この辺りはそれなりに村があったのはご存じですよね。
A:ええ、村、集落というにはちょっと栄えてましたよ。あそこの米で作る酒がうまかったのをよく覚えています。毎年のように子供たちが夏祭りの綿菓子で口を汚して、川に洗いに行くんです。村の顔役も管理そっちのけで酒を飲んで騒いで、そしてみんな講堂に集まって寝るんですよ。あの頃はよかったなぁ。
B:にぎやかだったんですね。
A:ええ。それにその翌日は、流す雛がある家は流し雛、そうでない家は空の精霊流し、ちょっとした不運に見舞われた人は形代流し。みんな一緒になって楽しんでました。私もタクシーを出して、村の子供を乗せて川沿いの山道を下って、あの綺麗に小さく灯る明かりを見せていたもんです。
B:さぞや楽しかったでしょう。
A:ええ、とても。こうやって川を下って。下って。下って。そして。そして。
B:そして、思い出をみんなに残した。
A:(ぼうっとして)はい。
B:ダムに沈んだ村からずっと、こうやって、もう流れない厄を見守ってきたんですね。
A:私は……。
B:最後に、一杯。ここのお酒ですよ。探すの苦労したんですから。
A:そう……だったんですね……。
0:二人、タクシーを降りる。
B:ありがとうございます。見晴らしもいいし。いい酒が飲めそうです。
A:帰りはどうなさるおつもりで?
B:最近はこんな便利なGPSでタクシーを呼べるアプリがあるんですよ。
A:電波、届きます?
B:衛星電話仕様です。
A:衛星電話……それなら万全ですな。
B:ずっとここを走っていたかったですか?
A:いや、流し雛を眺めていて、羨ましいなと思っていましたよ、ずっと。でも、私はただ走っているだけ、川に身を投げることも考えましたが、気づくとずっとタクシーに乗っていた。
B:ここで、終わることに後悔はありますか?
A:後悔、というか意味を見いだせなくなったんですよ。ずっとお客を乗せて走る。それは生活のためでした。生活のためでなくなってからは、たまに見える綺麗な風景を眺めながらずっと走り続ける。いくら走っても走っても厄流しが続いている風景が続くんです。本当に流されるべきは、知恵できりぬけることもできなかった私だというのに……。
B:村がダムに沈んでからもタクシーの運転を続けていたこと、もうこの世のタクシーではなくなっていたことに意味を見出せなくなっていたというのは違うんじゃないかな、と思いますよ。
A:そう、でしょうか。私はあのにぎやかで温かい村がなくなるのに、ただタクシーで走って、役人を連れてきて、そして沈める手伝いをしたようなものなんだ。当然反対をした。あの伝統がなくなるなんて考えられなかった。ずっと、ここで村でタクシーをしていたかった。ちょっと遠出をする人の足でいたかった。みんなにあの厄流しの明かりを見せて、来年も見に来ようと約束をしたかった。
B:それでも、村は沈んでしまった。あなたは別にここに縛られてはいなかったはずだ。村を沈められたのはもちろん悔しかった。だけど、家族のために働いて、そして普通に人生を終えたはずだ。何十年も前の村から町まで下りてくるタクシーとしてい縛られる必要はなかったはずだ。あなたを縛っていたものはなんですか?
A:私を縛っていたのは……そうですね。結局、あの村の温かさが忘れられなかった、それだけなんだと思います。ただの客室乗務員。普通に暮らしていれば誰も自分のことを覚えちゃいない。生活空間で閉じた家。そんな私が、あの村では一人の人として、ずっと覚えていてもらえたんです。どこに行っても、いつもありがとうって、お礼を言われて。それだけで私は嬉しかった。だから、私は最後の厄流しのときに、自分の厄を流すことができなかった。ただ、形代を体にこすりつけて、流すだけのことができなかった。その結果が。
B:沈んだ村から降りてくる幽霊タクシー。
A:本当に、私、幽霊だったんですね。実感なんか全然ありませんでした。
B:で、一杯、やっていきます?
A:はい。
B:……それでは。今度はうまく流れていけるといいですね。

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