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手をつないでも、世界で一番この人が遠い。「恋人」に求めるもの。

わたしが「恋人」という関係に求めるのは何だろう?

noteで見かけた一文。
うむうむ、これはとてもその人の価値観と人生観が出る、おもしろい問いだなぁ、と心に残る。
私が「好きなひと」「恋人」に求めるのは何だろう?

一緒にごはんを食べる?
それは確かに大事。
「好きなひと」と食べるごはんは、ひとりで食べるごはんより、数倍美味しくて楽しい。
でも、「好きなひと」は、恋人に限らない。
家族にも、友達にも、職場の人にも、一緒にごはんを食べてしあわせ、を感じる人はいる。
有難くて、しあわせなことだと思っている。
なので、一緒にごはんを食べましょう!とお誘いしたいのは、なにも恋人に限らない。

悲しい時に一緒にいてくれる?
まぁ、確かに。
しんどいときに、一緒に居て、話ができて、拙い話に耳を傾けてくれる人は、貴重で、かけがいがない人で、大事な人。
でも、それは恋人に限らない。

性的な関係を持つ?
まぁ、恋人と言えば、これかなぁ、と考えてみる。
でも、色々事情もあるし、狭い意味での性的な関係を、恋人に望んでいるのか?と問われると、必ずしもそういうわけではない気もする。

でも、そうだなぁ、手をつなげるといいな、と思う。

昔、別れる別れないの瀬戸際で、恋人と手をつないだことがある。
今も思い出すたびに、胸が痛くなる。
手をつないでいるのに、とてつもなく相手が遠かった。
「こんなに近くにいて、触れているはずなのに、今、世界で一番この人が遠い。」
つないだ手から、「実在」をひとつも感じ取れなかった。
悲しくて、胸が痛くなって、「終わり」を実感した。
それまでも、今までも、あんなにも明確な「終わり」を実感したことがない。

なぜ、そんな瀬戸際に手をつないだんだろう。
手をつなぐこと。
相手の手を求めることは、相手を求める自分の気持ちの表れ。
自分の気持ちに相手が応じてくれたら、相手も自分を求めてくれている。
そう思えれば、安心できる。
ずっとそう思っていた。
でも、受け止めて、手をつないでもらっても、こんなにも遠くて悲しい。
どんなに求めても、形で答えてもらえても、気持ちが伴わない。
相手の気持ちが、自分に伝わらない。
そんなことがあるなんて、思ってもみなかった。
だからこそ、その記憶は鮮明で。
相手を求め、応えてもらい、通じたと思えた瞬間の貴重さが身に染みた。
その悲しさ、貴重さは、自分で「終わり」の幕を引く、原動力になった。

自分でない誰かの体温。
求めたものに応えてもらえる安心と嬉しさ。
応えてくれたと実感できる、誰かとの関係。
わたしが「恋人」という関係に求めるのは、きっとそういうことなんだろう。