見出し画像

夏論 (Summer Theory)

われわれはどうすれば強くなれるのか?
強くなるにあたってどのような妨げがあるのか?
強くなろうとすることがなぜ感動的(泣きアニメ)なのか?

"そろそろ問わねばならない。夏を迎えに行くのはわれわれなのだ"


まず前提として、人間は少しでも強くなりたいと思っている。これに賛同できない場合、そもそもの道の公理系が違うのでここで袂をわかつことになる。

加えて、論を進めるにあたり2つの前提を共有したい。①強くなるとは、夏や春に漸近することである。②社会という輪郭の確定した共同体が常にすでにそこにある。これらは現時点で理解されなくてもよい。前提したいのは、本論の解説をとおしてこれらが理解される確実性である。すなわち、①を理解しうるゼロ年代的な想像力、そして②を理解しうる高度経済成長期以降の生活構造、これらをごくあたりまえに体得していることを前提としたい。

これらのうえで、各述語についてあらためて定義づけを確認していくところからはじめる。


1-1、定義の確認① 速度


速度とは、日々の充実度をとらえるための指標である。速い人生は充実しており、遅い人生にはなにもない。

光陰矢の如しということばがある。楽しい日々はあっという間に過ぎ去っていくような感覚を覚える。逆に、苦しい時間はいつまでも続いていくように感じ、それが一層苦しさを増すこともある。ここから、可変であるところの世界の時の進みは、われわれの生き方、日々の過ごし方によって都度異なって感得されるといってよさそうだ。

しかし「世界の時の進みは可変」というのは感覚的には確からしくとも、はっきりとした誤謬をはらんでいるので、今一度「世界の時の進みは不変」という叙述を固定したうえでいまの事態を記しなおそう。時の進みは不変である。唯一可変なのはわれわれ人間の速度だ。われわれが速ければ、まるで世界が速いように錯覚する。これは世界がわれわれによって構成されている以上あたりまえである。

この時点で、すでにこのようなことが言える。われわれは速くならないといけない。速くなることが、強くなることにつながる。


1-2、定義の確認② 社会と世界と宗教


社会

社会とは、われわれが望むと望まざるとにかかわらず、常にすでにそこにあり、そこで(基本的には)死ぬまで生きていかないといけないような場のことである。われわれはふつう労働者として社会に参画する。社会は輪郭が確定している点で特徴的である。つまり、これは誰かにとっては社会であるが、ほかの誰かにとっては社会でない、といったことがない。社会であるものは常に社会なのである。

世界

世界とは、われわれが選択可能な、都度人間関係や趣味、恋、共通目的などによって構成される場のことである。たとえば、高校同期とゲームをする場合、会社の同僚と飲み会をする場合、ヘーゲルを読むために遠方より集まる場合、恋人と通話する場合、風俗で快に善がる場合、年始に親戚と久闊を叙する場合、これらはそれぞれ違った「世界」としてわれわれのもとに現れる。世界は社会と異なり、輪郭が確定していない。あったはずの世界が消えたり(あるいは消したくなったり))、異なっていたはずの複数の世界が一緒になったり、あたらしい世界が生まれたり、といったことは不断に起きる。われわれはいくつもの世界を行き来しながら生きている。

*世界は人間によって構成される(世界と人間は一体である)という事実はよく覚えておかれたい。世界が変容すれば人間も変容する。

宗教

宗教とは、社会の外にありながら、社会とは別のコードによって自律し、そのうちに住まうことができる場のことである。たとえば、アカデミアは明らかに社会とは異質な共同体だが、そこに拠って生活することが取り急ぎは可能である。こういった事態を抽象して表現するならば「宗教」とよぶのが適切だろう。

宗教は構造上普遍的ではあるものの、基本的に社会に住まうことになるわれわれにとっては、第一にイレギュラーな選択肢として現れる。本論においても社会・世界に比べるといったん存在感が薄い。


社会と世界に関する諸定理

われわれは社会から基本的に逃げることができない

われわれは社会のなかで生きていくしかない。基本的、と留保をつけているのは一応社会から逃避する、世を捨てる選択肢も可能ではあるからだ。ただし、それによって生きていくことは現代の生活構造において極めて難しい。(なお、社会からの逃避がある程度の現実的な勝利を収めたとき、それは宗教とよばれる)とかく、われわれは強くなろうとするにあたり、まずは社会のうちに住まいながら強くなる手法を探るのが適当である。

※なお、社会の存在を見知ることなく、その外部にて生きることができる存在として子どもがいる。本論ではそのような存在一般を少年とよぶ。少年は社会からの逃避を無自覚的に達成している。この無自覚的というのが重要であり、たとえわれわれが社会から逃げきれたとしても、それは自覚的な行為であり、少年に戻ることは決してかなわない。この少年論には後にふたたび立ち返ることになる。

世界は社会に包含される

世界がわれわれによって構成され、われわれが社会のうちに住まっていることから、上の定理が導かれる。一見すると社会からかけ離れたような世界であっても、それは必ず社会を前提した場であらざるを得ない。

世界の許容量は人によって異なる

まず、世界を許容するという感覚を理解されたい。われわれは都度、新しい世界を許容しつつ生きている。しかし、あたらしい世界を求めていくこと自体がストレスである(人間は現状維持を好むので)し、世界を許容しつづければ自己同一性が揺るがせになるリスクが高まる。

社会・世界の速度は不変であり、人間だけが可変である

これは速度を定義づけた際にすでに断じたことであるが、改めて確認しておく。

社会は人間を遅くする

きわめて重要な定理である。社会で言いなりになって過ごしていると、人生はたちどころに進みが遅くなる。これはわれわれが強くなるにあたってきわめて厄介だ。というのも、われわれは基本的に社会から逃げることができないからである。すなわち、何もせずにいればわれわれはどんどん人生を遅くせしめられるがゆえ、自覚的に速くなる努力をしなければならないのである。

※なお、先述した少年は社会の外部にいるので、人生を遅くせしめられる外部要因をもたない。ゆえにただ生きているだけで日々を速く、充実させることができる(これは感覚的にも容易に理解されるだろう)。


1-3、定義の確認③ 夏と春と冬


次にこれらの定義づけを行う。そのために、これらに対するわれわれのラフな感覚をよりどころとする。なお、一般に夏と春と冬とくれば四季の残り、秋まで考える必要がありそうだが、これは強くなる云々の話をするにあたってトリビアルなので無視して構わない。

われわれが「夏」を感じるのはどんなときだろうか? たとえば夜の代々木公園をサウナ帰りに歩くとき。仲間たちと野球に興じるとき。島を訪れて開けた海原を眺めるとき。これらは季節的な夏のイメージに継起して思い起こされるものだが、別に季節が夏でなくとも夏であることは可能である。たとえば悪友の家に集まって酒をくらい、千鳥足で終電後の夜道をほっつくとき。季節が冬であろうと夏を感じることができる。

これらを抽象すると、「じぶんの世界に対するはたらきかけ方」という軸でまとめられるように思う。つまり、じぶんが世界とのかかわりをうまくやれており、社会に対して害をもたらすことなくはたらきかけ、一体になれているという感覚、これが夏である。

先ほどの夏の定式をすこし変えるだけで、春の感覚を表現することができる。夏とは「じぶんが世界とのかかわりをうまくやれており、社会に対して害をもたらすことなくはたらきかけ、一体になれているという感覚」であったが、この「世界」を「人間」に置き換えると春になる。

最後に、またしても夏の定式の「世界」を「社会」に置き換えると冬になる。簡単にいえば、社会との一体化はきわめて寒く最低な状態ということである。


上記を簡潔に定式化すると、夏=世界的情緒、春=人間的情緒、冬=社会的情緒、ということになるだろう。われわれは都度、これらの情緒を行き来しつつ生きている。


さて、最初に確認した通り、夏や春に漸近している人間は強い。われわれは強くなるために夏や春を目指していくことになる。しかし、夏や春に漸近することと冬から逃避することは必ずしもイコールでない点に注意しないといけない。

夏と春と冬に関する諸定理

夏と春と冬はそれぞれ両立する

世界と人間と社会は排反ではない、どころか一体であるからだ。ここから示唆される恐ろしい事実は、たとえある瞬間において夏だろうと、すぐさま冬へと転じてしまいうる、このことである。(逆に、冬ばかりの人生であっても、ある瞬間を切り取れば夏である、といった気休めも可能である)われわれは夏や春をつかみ取るべく、不断の努力をつづけなければならない。

夏と春と冬は感覚(主観)の次元においてのみ有意に議論される

先の諸定義より、夏と春と冬はあくまで「じぶんが」世界に対してどう感じているか、という感覚的=解釈的次元の話であることがわかる。ゆえにたとえば「夏自体(Summer-in-itself)」といったものを想定することはナンセンスである。そのようなものがあったとして、われわれには──ましてや世界的完成に乏しいおたく一般には──決して経験することができないだろうからだ。とはいえ、カントによって物自体をしりぞけられた以後のドイツ哲学の潮流のように、一種の独我論に陥るつもりも本論ではない。人間は速さにおいて可変であり、世界とかかわり、時には世界の速度を変えたと錯覚するほど一体となりうるからだ。(なので、仮に「独世界論(world-solipsism)」というのならばそれはある程度的を得ているかもしれない)

*上記の原則に基づき、たとえば「夏である」「夏らしい」といった述語こそ正しけれ「夏"がある"」という物言いはおかしい。また、「夏を感じる"ツイートがある"」など、「じぶんは夏だと感じていないがその世界(ツイート)における特定の主観はそれを夏を感じているだろう」といった客観的な夏の描写は、成り立つには成り立つが、原理的な夏ではないから、本論では以後はっきりと区別する。

*上記の原則に基づき、同じ状況をある人にとっては夏であり、ある人にとっては夏ではなく、ある人にとっては春であると感じる場合がある。夏や春は主観の話であり、夏は世界的情緒、春は人間的情緒であるが、世界は人間によって構成されるため、世界のうち人間のみに着眼することによって夏が春に転じうるからである(逆も然り)。


さて、ここまでにおいて議論の道具立ては揃った。ここからは、夏に漸近するための真理が、ただひとつ、夏の方程式Ma=Fへと収斂していくことを示す。つまり、F(強くなる=夏や春へ漸近する)とは、M(デカくて)かつa(速くなる)ことであり、かつそのときに限ることを示す。


夏や春へ漸近するとは、夏や春の定義に従い、世界や人間に対してうまくやれているという感覚を、人生のうちできるだけ多い瞬間において得るということに他ならない。この「うまくやれている」とはどのような事態なのだろうか?

*なお、世界は人間によって構成されているという原理にもとづき、以後は春に関する議論を措き、「夏へ漸近する」ための方途に絞って論を展開することにする。


2-1、夏の方程式の証明① 「うまくやれている」(Ma)とは?


夏は主観であるから、「うまくやれている/やれていない」というわれわれの素朴な感覚から議論を始めることが適当だろう。

夏の例として先に示した、「うまくやれている」事例をまずは列挙する。

・夜の代々木公園をサウナ帰りに歩くとき
・仲間たちと野球に興じるとき
・島を訪れて開けた海原を眺めるとき
・悪友の家に集まって酒をくらい、千鳥足で終電後の夜道をほっつくとき

これらの現象から、「うまくやれている」に関する以下の共通点を帰納する。

・世界=人間との一体性
・社会との隔絶性

結論を先取りすれば、「うまくやれている」とは上記2点を満たしていることである。

*これらはあくまで感覚的次元の議論である旨、再度注意を促そう。社会との隔絶性とは、あくまでわれわれが「社会と隔絶されることができている」と「感じる」かどうかが肝要なのであって、実際にはわれわれは社会から逃れることはできない。しかしそれでもかまわないのである。


世界=人間との一体性

じぶんが世界と一体になれているという感覚。そこにじぶん以外の人間がいる場合、その人間も含めて世界と一体化できているという感覚が「うまくやれている」実感を構成する。ここである読者ならば、「定義上、世界は人間により構成されるのだから、このような一体化の感覚は得られて当然ではないか?」と疑問に思うかもしれない。これに対して回答するために、まずは以下の定理を導入する。

世界の持続性は人間の速度にもとづく

つまり、ある人間が遅くなればなるほど、かれによって構成される世界は崩れるリスクが高まるということである。これは感覚的にもじゅうぶん理解されるだろう。社会や自堕落に没入すればするほど、かつてあったかもしれない世界は日々存在を薄めていく。

したがって、じぶんが遅くなればなるほど、世界との一体性の感覚が失われるのである。世界の人間による構成性も、所詮程度の問題であることに注意されたい。

その程度の問題には、じぶんだけでなく、その世界に同じく参与している他の人間のそれも関わってくる。じぶんだけが速くても、他の人間が遅ければ世界は遅く、じぶんとの一体感すら失われる。

さらに、ここで定理「世界の許容量は人間によって異なる」を思い出そう。ある人間がもつ世界の許容量は、当然不変ではなく、その人間の生き方によって変動する。仮に許容量が著しく低まり、かつて許容でき、一体となれていた世界を受け容れきれなくなったとき、世界との一体性は失われる。当然、許容量の話もじぶんだけでなく、世界に同じく参与する他の人間にも問われるのが難しいところだ。

やや回りくどくなってきたが、要するに、「うまくやれている」感覚の条件であるところの、じぶんと世界=人間の一体性は、世界の持続性によって支えられ、それはその世界に参与する(とじぶんが認識している)すべての人間の速度、および世界の許容量に依存する、ということである。のちに、この世界の許容量をM(デカさ)、速度をa(速さ)として再定義することになる。


社会との隔絶性

われわれが夏を感じる、世界にたいして「うまくやれている」感覚を支えるもうひとつの条件は、社会と隔絶できているという虚の信念である。じぶんはいま、社会から逃れられており、社会を前提しない社会でやれているという感覚。もちろん、実際に社会から逃れることは基本的にはかなわないし、少なくとも日常的な次元で夏を感覚している場合、すぐ隣に社会があるにも関わらず目を瞑っているだけであることがもっぱらである。

では、どのようにすれば社会との隔絶性を感覚できるのか? それを理解するために、社会は人間を遅くする動因であることを思い出そう。社会との一体化は、人生が遅くなることとニワトリタマゴである。逆にいえば一般に、日々が速いとき、社会から逆らっており、隔絶されていると感じやすくなる。また、社会からの隔絶先としての世界が用意されている必要があり(あくまで隔絶先というのも錯覚に過ぎない)、そのための努力を不断に行っていかなければいけない。その努力とはやはり、M(デカくなること)とa(速くなること)なのである。


さて、いまや世界に対してじぶんが「うまくやれている」という消息について分析されたし、その条件がM×aに帰されることも示唆された。次はこのM、aについて解き明かすことで、夏を迎えに行くことにしよう。


2-2、夏の方程式の証明② Ma(デカくなり、速くなる)とは?


結論、M(デカくなる)とは、新たな世界にたいする許容量を増やすことである。a(速くなる)とは、日々を充実させること=新たな世界を求めていくことである。新たな世界を受け容れるための構え、素地を作り、実際に世界を求めて行動をおこすこと。デカさと速さが絡み合い、夏への漸近が始まるのだ。

ありていに言えば、これまで参与していた世界に参与しつづけること。これまでなかったような世界を作り出し、その持続につとめること。より多くの世界を許容できている人間にたいして、われわれはデカくて速いと感じる、これである。同じ年齢のはずなのに、じぶんよりずっと世界を経験している人間はデカくて速く見える。そういった人間は、知ってか知らずか夏の方程式を幾度も解いており、じぶんの知らない様々な夏を経験している。

次はわれわれがこうなる番だ──たとえば、ここに一人のおたくを仮定する。おたくは恋をしたことがなく、炎天下で運動をしなくなって久しい。おたくの世界とは、140字以内で語られる皮肉と、冷房の効いた孤独、洗われずに放置された食器、アニメ、YouTube、まんが、これだけである。このようなおたくは極めて許容している世界が少ないし、おそらく世界の許容量自体が極めて少ないのだろう。このようなおたくが夏に漸近するためには、デカくならないといけない。すなわち、外へ繰り出し、恋をし、見知らぬ人と関わらないといけない。それが苦しいならば、ひとりやおたく仲間と旅に出て、自然を訪れ、海のさざめきやマイナスイオンを感じるだけでもよい。そこには間違いなく、それまでにはなかった世界があり、夏を感じるための場がある。

こんなものは引きこもりが外に出ただけだと嗤う人間もいるだろう。しかし、それはおたくの夏にとって何の妨げにもならない。夏は主観であり、世界はそのひとにとっての世界だからである。そのひとにとってのMaを積み重ねることで、間違いなく夏へと漸近しているから、安心して努力をつづけていくのがよい。


3 結論と夏の泣きアニメ性


さて、いまや次のことが示された。夏への漸近、つまり世界にたいして「うまくやれている」という感覚を日々において少しでも増やすこと、このためには、デカくて速くなる必要がある。デカくなるとは、新たな世界への許容量を増やすことであり、速くなるとは、新たな世界へと参与する機会を求めて行動することである。以上が夏の方程式、Ma=Fの全容である。


本論のもくろみはすでに達成されたが、最後にAppendixとして、夏のもつ"泣きアニメ性(Nakianimelity)"について補足することで、本論をしめくくることにしよう。


なぜ夏は泣きアニメなのか? それはデカくで速くなるという努力が自覚的であらざるを得ず、無自覚に夏を享受できていた"少年"になることが決してできないからである。また、"うまくやれている"という感覚の条件であった"社会との隔絶性"が実際は錯覚であり、"世界=人間との一体性"がきわめて脆いものだからである──人間の速度はつねに変わり、それによって世界の持続性が常に失われる危険をはらむので。一般に泣きアニメとされている現象は、以上の抽象論のいずれかに該当しているだろう。自覚的努力では決して少年だった頃に帰れないという不可逆性、セカイを信じる錯覚性、セカイそのものの脆弱性、といった具合にである。

夏へ漸近しようとすることは、以上のような性質を帯びるものであり、それらはひとことでいって「泣きアニメ性」とまとめられる。その泣きアニメ性を引き受け、いっそう泣きアニメとなることを覚悟しつつ、それでもデカくて速くなろうと自覚的に努力すること。われわれが強くなるにはそれしかないのである。


*以上で本論は一旦締めくくられるが、今後の課題として、この度前提とした社会構造に歴史性をもたせることがある。つまり、高度経済成長以前、あたりまえのように「社会」の概念が人口に膾炙していなかった時代、ひとびとはどのように世界とかかわり、夏へ漸近していたのか? 社会の周辺にある宗教はどのようであったか? このあたりの議論を深めることで、夏論(Summer Theory)はいっそう深化されてゆくだろう。


<了>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?