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【哲学】芸術とは何か?何でなければ芸術でないのか?

台風接近により土日の予定が吹っ飛んだのでだらだらと本を読んでいたら、なんというかこれまでの学びを振り返ってみたいなというおたく心に駆られてしまいました。学部卒レベルの文学知識なんてファミコンでも処理できるくらい軽いんですが、書き留めようと思います。

大学四年の春ごろ、卒論から逃げるようにして興味を惹かれたトピックが「芸術の定義」でした。芸術とはなにか、なにをもって芸術といえるのか、というごくごく陳腐な本質主義ですがそれにすがっていたわけです。

そんななか記していた論考もとい屁理屈を以下に残します。かっこつけて数式とか使ってますが言語が不正確になっているだけです。

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芸術とはなにかと定義を試みるとき、クラスター説などによるのではなく、なにがしかの必要十分条件を特定してそこに議論を還元させられるような、つまり本質主義を保ちたい。好みの問題であると言われればそれまでだが、あえてその好みを理屈によって追い求めてみようと思う。
 つまり、芸術の必要十分条件を探るのが本稿の試みである。その試みをどこまでも追い求めた点で、僕はダントーの『ありふれたものの変容』に共鳴する。
 どのような定義がよいか。僕は徒手空拳で、ラマヌジャンのように神託のごとく降ってきた定義を提唱するのではなく、かねてより議論の俎上にあげられてきた定義を丸め込み、それを修正するような、概念史的な手法をとりたい。ある時代にxは芸術である=df xはFであると記述し、それは確かに真のように見えるも、議論が繰り返されるうちに当の定義がすり切れ、外延が狭まりすぎてしまうような事態、これは往々にして生じる。たとえば「経験」という概念がある。ジョン・ロックにおいてそれは「観念を知覚すること」と定義されたが、バークリーによって「観念」の可能域が狭められ、ヒュームは観念という語の使用を諦め「印象」に替えるようになる。ここから「経験」概念を立て直すには2つの方途があり、一方は知覚する対象として観念以上のものを認める、W.ジェイムズ的な手法であり、もう一方は観念よりもすぐれた概念の適用を求める(たとえばそれを言語に求めたウィトゲンシュタイン、記号に求めたパースなどの)方向である。これらを詳らかにすることは本論ではないので「芸術」の話に立ち返ると、xは芸術である=df xはFであると一旦定義しつつ、Fの拡張・変遷を認めるところまでを定義に含みこむのが僕の意図するところである。そして、定項Fの変遷をもたらす力は言うまでもなく、芸術のハードケースの検証が適している。
 そういうわけで僕は、xは芸術である=df xは鑑賞者zが解釈した(=作者yによって意図された現実の模倣)である」という、変項x、作者y、鑑賞者zによる合成関数的な定式(x=f(z),z=f(y))により、芸術の外延をxのとりうる域として定めようと思う。芸術は現実の模倣・再現であるか、あるいはあるべきか、という議論は、アリストテレスに端を発するほど由緒があるし、今では例えばネルソン・グッドマンの『芸術の言語』でそうされているように、棄却されるのがもっぱらである。しかし、現実や模倣といった概念を拡張してやれば、それはただちに棄却されるほどすり切れた定義ではないことがわかる。以下、そのことを示していく。そのために、定義の右辺の定項(解釈,意図,現実,模倣)それぞれについて極端な場合、つまり当の定義ではぎりぎり追いつかないようなハードケースを考えて、都度定義にフィードバックし、xの外延の輪郭を鮮やかにする、このような形で議論を進めよう。

1 作者、意図、現実、模倣

 われわれはすでに、芸術作品の集合{x}を、作者yと鑑賞者z、および諸々の定項を用いて、x=f(z),z=f(y)として定めた。しかしまずは、合成関数が一般にそう御されるように、鑑賞者zを固定してx=f(y)として考えてみよう。すなわち、xは芸術である=df xは作者yによって意図された現実の模倣である、となる。このとき、作者の意図が作品内部の要素であると認めるならば、話は純粋に芸術の存在論となる。ただし、定義項に鑑賞者を含めている以上、ここでの議論の多くは暫定的、つまりzの固定を外すことではじめて完成するものが多い。

1-1 作者

 作者に関するハードケースとは、ごく素朴に考えれば、「不在」「不明」「定義不能」の3点のいずれかに収斂される。

1-1-1 作者の不在

作者が不在でありながら、芸術であるとしうる場合はなにがあるだろうか。たとえば都会の薄汚れた生活に辟易した誰かが、荘厳で開けた自然の景色を目にしたとき、「芸術だ」と思うことがあるだろう。ただし、この「芸術だ」という言葉は、言葉にできない感動を発露しただけであり、芸術の定義に妥当する発話であるとは限らないし、妥当しない可能性が大いに考えられる事例である。また、ここでは自然の作者が不在であることを前提している。超自然的な、神的な存在が自然を作りたもうたではないか、という反論は一見ナンセンスなようだが、芸術を定義するにあたっては一考の余地がある。すなわち、同じ現象に対して作者の存在を認めるか否かは開かれているという示唆が得られる。
人工知能が演算により、なんらかの芸術作品めいたものを生み出した場合を考えよう。このとき、作者は誰(あるいは何)だろうか。そのときわれわれは、作者は人工知能であるとも、人工知能を作り出した人間であるとも、あるいは生身の人間がいないゆえに不在であるとも言い得る。ここから、芸術の定義項に含まれる作者yに何を代入するかは、同じ事象であっても選択の余地があることがわかる。自然の景色の例でいえば、y=0(自然の作者はいない)ともy=超自然的存在ともしうる。ここでは以上を示唆し、議論を開いておくにとどめよう。

1-1-2 作者の不明

 作者が不明でありながら、芸術であるとされる作品があるか考えてみよう。「不明」はここでは「不在」とはっきり区別される、つまり「存在」を含意している。これに関しては「誰にとって」不明であるかという視点を織り交ぜることが有益であるから、2 - 1 - 2に議論をわたすことにする。さしあたっては、(誰かにとってのみではなく)万人にとって作者が知られておらず、かつ芸術とされうる作品があるか考えてみると、これはいくらでも例が思いつく。「茶摘み」とか「さくらさくら」といった日本の童謡はひろく作者不詳であるし、オランダのある博物館に所収されていた絵画が、葛飾北斎の肉筆のものであると最近の研究でようやくわかった事例もある。この場合、作者が葛飾北斎であるとわかってはじめて、その絵画に芸術的価値が認められたわけではない。よって、作者の不明はそれだけでは定義のハードケースとはならない。

1-1-3 作者の定義不能

 作者が「定義不能」であることと「不明」であることは、ここでははっきりと区別される。また「不在」とも、容易ではないものの区別される。ありていに言えば、「不在」とは作者が「いてもよいが、いない」場合であり、「定義不能」とは作者が「いてはならない」事態を指す。ただし、ここでも「不在」の場合と同じく、ひとつの事象に対して作者をいるともいない、はたまた定義不能であるとも言い得る場合が考えられることは注釈が必要である。たとえば、(それが芸術作品であるとは声高らかには言いたくないが)匿名ネット掲示板で盛り上がったスレッドがあり、その全体を「作品」と見る場合。あるいは、小説の作中に登場する作品、たとえば『ドラえもん』におけるひみつ道具。ひみつ道具はドラえもんが発明したのではなく、かれが21世紀で購入したらしいが、ではその道具の作者は誰か。フィクションの領域に作者の存在を認めず、さらにその道具の創意工夫に、『ドラえもん』作者からの自律性を見出す場合、その道具の作者は「定義不能」であるとすることはそうおかしな話ではない。もっとも、ここまで踏み込むと鑑賞者zの視点を無視できなくなるから、議論は暫定的にここまでにしておく。

1-2 意図

 さて、以後は作者そのものに関するハードケースは考えず、つまりごく素朴に作者が存在するものとして、その作者の意図が芸術をハードケースたらしめる場合を想定してみよう。考えられるのは、意図が「過少」である場合と、「過剰」である場合である。これらは芸術そのもののハードケースとなりうるだろうか。これらについては、純粋に作品に対する存在論的なまなざしでいえば、ハードケースとはならず、意図を鑑賞者がどのように受け取るかによって価値が変わってくる問題である。一方では、作者の意図が見えてこない作品は鑑賞するに値しないと断ずる向きもあれば、他方で偶然の産物のほうが仕組まれていないとかいって芸術的価値を高く見積もる向きもある。ただしこれらは繰り返すように、認識論的な位相のもとではじめて十全に語られることである。だからここでは意図の「過少」や「過剰」が具体的にどういうケースを指すかを例示するにとどめる。

1-2-1 意図の過少

作者が意図していたのは異なる作品が生まれた場合や、芸術的な意図をなんらもたない人間が偶然ある産物をもたらした場合、などを指す。前者の場合については、作者の当初の意図通りにものが制作されることというのは実際ごくまれであり、制作の過程で意図がフィードバックでを受けることがふつうであると思えば、「当初の」意図の過少については論じるまでもない。後者の場合については、イチローが外角低めの投球を反射的にバットで拾い上げ、それがきれいに外野と内野の間にポトリと落ちたとき、その打球やバッティングが「芸術だ」と言い得る。イチローはしばしば自分の打球は狙って打っていると発言するけれども、全てがそうであるとは考えづらい。

1-2-2 意図の過剰

 一般に「メッセージ性の強い作品」といわれるものが、意図の過剰のゆるやかな例であるが、「作品」という物言いがそこにあるようにハードケースにはなっていない。さらに過剰である場合、それはコンセプチュアルな訴求がそのまま芸術に転じて捉えられる場合だろう。所謂コンセプチュアル・アートとされるものものはここに帰することができる。コンセプチュアル・アートをひろく芸術作品として認めるならば、芸術の定義の定項である意図は、それが過剰でもある可能性まで、選言的に含意しなければならない。

1-3 現実と模倣

 「芸術は現実の模倣」であるという命題が槍玉にあがるとき、現実の境界線をどこに引くかが暗に前提されている。現実の含む範囲がある人にとって狭ければ、そこに属さないものを模倣・再現していると思われる作品は上述の命題の反例として働くことになる。ネルソン・グッドマンが「AがBを再現するのは、AがBに目に見えて似ているとき、またそのときにかぎる」 と芸術における模倣を定式化し直すとき、彼は現実は「目に見える」ものであることを暗に前提している。もちろんそれがもっとも素朴な現実というものの捉え方であることを否定はしないが、現実をただ実在論的に考えてしまうと、芸術とされている作品が模倣しうる対象のさまざまを取りこぼすことになるだろう。
 たとえばJ.D.サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は冬のニューヨークを舞台とした少年少女の活劇を描いているが、これを「ニューヨークにおける少年少女」を模倣・再現するということはなんら不自然ではない。ここでの「ニューヨーク」は作品で描かれているような仕方では実在していない。しかしモデルとしてのニューヨークはまちがいなく実在している。ここにおいては現実を実在論的に捉えても問題はなさそうである。
 次に、ジョージ・オーウェルの『1984年』。この作品における舞台は、世界をユーラシア、イースタシアとともに三分するオセアニアである。ここでの「オセアニア」は何を模倣しているといえるだろうか。むろん、現実に存在する、六大州としてのオセアニアではないだろう。では、『1984年』における「オセアニア」は、現実に実在する何ものも模倣していない、とするのは不自然だろうか。そうではないように思える。というか、『1984年』をとりあげるまでもなく、フィクションにおいて現実との対応関係が完全に不明な架空の都市・地域が舞台となることは、まったく珍しいことではない。
 では、『1984年』におけるオセアニアという舞台、あるいはかのディストピアめいた世界観そのものは、現実における何ものとも対応関係にないのかというと、そういうわけでもない。われわれは、今の世界が「ユーラシア、イースタシア、オセアニア」にあたる何ものかに統治されるありさまを、少なくとも頭の中で思い描くことができるし、そのありさまから「今の日本はどうなるか」「ロンドンは」といった帰結を導くことすら可能である。こういった事例まで現実に含みこみ、芸術の定義の外延を広げようとするとき、もっとも適したモデルはウィトゲンシュタインの「論理空間」である。『論理哲学論考』において彼は「論理空間のなかにある事実が世界である」 と言う。「ロンドンがオセアニアによって統治された」という事態は、実在はしないけれども、論理的に可能である論理空間内の事態である。そしてその可能性としての論理空間を世界ひいては現実として認め、この模倣物として芸術作品を捉えるとき、芸術の外延の定義ははるかに鮮明かつ、実感にそぐうものとなるだろう。
 まとめると、芸術の定義において模倣対象となる現実は、単に実在して知覚可能なものに範囲を絞るのではなく、ウィトゲンシュタインの論理空間的な位相にまで広げることが、芸術の外延を定めるにあたって有益である。次に論じるべきは、これまで注釈なしで用いてきた「模倣」という語の意味するところである。ただし、模倣対象である現実を概念拡張したいま、単に知覚・外見的なコピーにとどまらないことはすでに明らかである。というよりもはや、ここでいう「模倣」には、いわゆる記号と対象における指示関係しか残っていない。そもそも「模倣」という言葉が選ばれたのも、論争における「現実」がしばしば暗に実在論的な意味で固定されてきたことを暗に示すためであった。であれば、いまや、芸術の定義としては、作者によって意図された現実の「模倣」というより、「対応物」「指示物」といった表現にとどめておくのが適切だろう。


2 鑑賞者、解釈

 ここまで、芸術作品の集合{x}を、鑑賞者zを固定して、作者yと諸々の定項との関数関係において考えてきた。「作者」「意図」「現実」「模倣」を定項にとることで、すでに自然そのものやコンセプチュアルアート、フィクションなどの、しばしばハードケースとされたり従前にはなかった芸術ジャンルまで含みこみつつ、芸術の定義が生成するさまを見届けることができた。ここに鑑賞者zという要素を加えることによって、議論は芸術の認識論の位相へとスライドし、さらにいくつかのハードケースを検証することができる。そして当初に定めた芸術の定義は、外延を広げすぎないながらも、ますます応用が利くものとなるだろう。以下、そのことを示す。議論の道筋は、すでに前項においてひとおおり論じた「作者」「意図」「現実」「模倣」それぞれについて、そこに鑑賞者とその解釈という要素が加わると、事態はいかように変容、そして完成するかを確認する形で進められる。

2-1 作者と鑑賞者、解釈

 前項において保留したのは、あるひとつの芸術作品という事象について、その作者を同定する可能性が複数に開かれている場合があるという議論であった。その可能性を抱くのは当然鑑賞者である。可能性が複数あることによって起きる事態は、卑近なものから深刻なものまで様々である。ここでは鑑賞者の解釈によって作者の認識がずれ、それが作品の芸術的価値の認定に影響を及ぼす事例をとりあげたい。それは作者の「誤認」である。
 作者が「不在」であったり、複数に同定可能な場合もありはするものの、ある一人の作者がその作品に対応しており、それが共通に認知されている場合がもっともありふれていることは論を俟たない。しかしたとえば、知覚的に区別不可能な、作者の異なる2つの芸術作品a,bについて、鑑賞者がそれぞれに対応する作者A,Bをも識別できない場合が想定される。一方の作品aが他方の芸術作品bよりも後発で、Aがaのbに対する知覚的区別不可能性を意図していた場合、aは他方の真作bに対して贋作とよばれる。存在論的に考える場合、作者Aが意図した作品aと、作者Bが意図した作品bは容易に区別されるけれども、ここに鑑賞者という項を追加すると、作品aがある鑑賞者にとって贋作と気づかれず、作品aと作品bが区別されない場合、あるいは作品aを作者Bが意図して制作したものと誤認する場合が新たに考えられる。これらの場合において、作品bの芸術的価値は悪い意味で揺るがせとなって認知されてしまう。それゆえ贋作は芸術において問題とされてきた。ただ、本稿にできる指摘は、ある作品が存在論的に要素としてはらむ作者が、鑑賞者へとわたされると誤認される、つまり2式x=f(z),z=f(y)のうち、後者を前者に代入するときに、定数扱いされるはずのyがふたたび変数となることが考えられる、この事実である。よって、当初想定していた合成関数的な定式は、このように非数学的な処理がおこなわれる可能性を排除しきれない。そのことを踏まえたうえで定義を応用することが肝要となる。

2-2 意図と鑑賞者、解釈

 意図についても作者そのものと同様誤認されるケースが多い。それについては繰り返しになるのでここでは省くとして、意図特有のハードケースとして考えられるのは、意図が「まったくわからない」および「わかりすぎる」場合である。これらは作者が実際にどう意図していたかとは、影響こそするだろうが、直接対応関係にはないことに注意が要る。とかく、前者はシュールレアリスム、後者は(ふたたび登場するが)コンセプチュアルアートとして語られる。

2-3 現実と模倣と鑑賞者、解釈

 現実とその模倣=対応物についても、鑑賞者という項を混ぜ込むと、再びコンセプチュアルアートというケースが顔を出す。ここではデュシャンの「泉」、涼宮ハルヒシリーズ「エンドレスエイト」を特に念頭に置いている。それぞれ、対応の「距離」と「表現形式」によって語ることができる。

2-3-1 対応の距離

 あるものの模倣、1 - 3の議論により脱色した表現をすれば対応とは、あるものに対してそれを模倣する作品が距離をとる図式を含意する。その距離は作品によって様々である。たとえばダヴィデとその彫刻の距離関係と、『ライ麦畑でつかまえて』におけるニューヨークと実在するニューヨークの距離関係とを比較すると、定量的には計れないものの、前者のほうが後者よりも短いと思われることは納得いただけるだろう。同じダヴィテという現実に対しても、その忠実な彫刻と、そのデフォルメされたイラストとでは、やはり距離が異なる。
 この対応の距離について、極端なケースを考えてみよう。まず、それが無限遠のように思われる場合、それは極度にデフォルメされる、心象風景などの極端な表現形式をとっていることが多い。ところがこの場合、芸術作品としては、前衛的や過激などの尖った評価こそ受けるかもしれないが、芸術のハードケースであるとまでは認知されづらいように思われる。たとえば私は、ピカソの『自画像』を、それが自画像であるというまなざしのもと鑑賞すると、それがなんの自画像であるのかまったくわからない。しかしだからといって、それが対応物との距離の無限遠を理由に芸術でないと判断することはない。本稿の扱える範囲を超えていることだが、模倣=対応物そのものによって芸術的価値が認められうる。それが対応物「そのもの」性による評価なのか、あるいは現実「ではない」という関係性によるものなのかは、なお検討の余地がある。
 対応の距離のもうひとつの極端なケースは、ゼロである。つまり、作品そのものを見ただけでは、現実とまったく見分けがつかない場合である。これこそデュシャンの「泉」である。これが芸術作品として認められる条件が、上に示唆したように、現実「ではない」であるのだとしたら、現実と作品の対応距離以外に、その作品を現実から引き離す要素がなければならない。定項として容易されている「作者」「意図」がその役割を担うことになるだろう。デュシャンという「作者」がいると認識した鑑賞者は、ただの便器を現実ではないものとして(快いかどうかはともかく)鑑賞することができる。あるいは、デュシャンの「意図」をそのままか、あるいは誤認して受け取った鑑賞者も、便器を(優れているかどうかはどもかく)作品として鑑賞することができる。逆にいえば、デュシャンという「作者」がいることを知らないままに「泉」を見た場合、あるいはデュシャンの「意図」を鑑賞者なりの仕方で受け取れなかった、雑駁にいえば解釈できなかった場合は、本稿における芸術の定義のなかに、かの便器を現実から引き離す要素はもはや残されておらず、「泉」を芸術作品として認識することはできなくなる。
今後検討するべきは、上述のような場合において「泉」を鑑賞する場合においてもなお、それを「芸術作品」として認識しうることに首肯するのであれば、芸術作品の条件を現実「ではない」性におくのをやめるか、「作者」「意図」「現実」「模倣」以外の新たな定項を容易することが必要になってくる。現状前者は議論しきれているわけではないので、突破口がありそうなところではある。

2-3-2 対応の表現形式

 最後に、「エンドレスエイト」の場合を考えよう。かの作品の特徴は、幾度もループする世界という物語構造を、視聴者に追体験させる際に、必ずしも知覚を満足させない仕方での表現形式をとったことにある。ループの追体験だけなら、8週も似た放送をする必要はまったくなかった。以上の特徴を本稿の文脈に引き込んで説明するならば、以下のようになるだろう。京都アニメーションという「作者」が、幾度もループする夏という論理空間上のコンセプト的な「現実」の「模倣」としてアニメを作る際に、コンセプト的な「現実」とその「模倣」との対応関係における距離を、鑑賞者の知覚を満足させるような仕方に変換するのではなく、まさにコンセプトのまま表出した。一般に「作者」の「意図」は概念的な形式をとるけれども、それは「作品」に表現されるにあたって、様々な変換を経由する。エンドレスエイトにはそれが欠けていた。「xは芸術である=df xは鑑賞者zが解釈した(=作者yによって意図された現実の模倣)である」のなかで、「意図された」「模倣」に隠された芸術の前提、つまり概念的な意図は変換するべしという当為を揺るがす事態ことエンドレスエイトであったと考えられる。

……ここに、当初の定義の生成は一旦完成をみてよいだろうが、今後もエンドレスエイトのように、諸々の概念や述語に隠された前提を揺るがす異端の登場は待ち構えなければならない。そしてその都度定義の外延を、今回の試みのごとく鮮やかにせしめる、時には定項の取り替えを要請されることもあるだろう、それも含めて芸術概念史を編むということである。

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