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タイムリープという究極の異化【文芸論】

 ロシア・フォルマリズムの中心・ヴィクトル=シクロフスキーによれば、日常にて見慣れたものを非日常的な形で提示し、慣習によって鈍らされた感覚の克服こそが芸術の目的に他ならないという。そうだとすれば、タイムリープという異化(Drfamiliarization)現象は小説の芸術的本質のある部分を構成しているといってよいだろう。以下、そのことについて論じる。

 デイヴィド・ロッジはThe Art of Fiction(1992, Penguin)において、小説の芸術的本質を50個抽出して論じる仕事をなしている。本論は51個目の本質をくみだそうと試みるものである。


 タイムリープ(Time Leap)という語は和製英語であり、初出は筒井康隆のSF『時をかける少女』(1967, 鶴書房盛光社)とされる。『時をかける少女』の主人公は、はじめは意図せず、やがて意識的に、時間をさかのぼる能力を発現させる。この遡行の仕方を筒井は「跳躍(leap)」という活き活きとしたアクションになぞらえた。

 
 タイムリープは当然現実に起こしえないが、もし起きたとしたらその当人にとってどのような意味をもつのだろうか。『時をかける少女』の時間遡行においては、仮に3日前にさかのぼったとしても、記憶は現在のまま保たれる点に注目しよう。現在の記憶を保つその人は、3日前に遡行し、当時では原理的に得ようのなかった知見をもって行動をおこすことができる。そしてその行動は当人にとって、人生を「やり直す」ことを意味する。3日前になしえなかったことにふたたび挑むことができる。取り返しがつかなかったはずの失敗を帳消しにできるかもしれない──以上がタイムリープの当人にとってのわかりやすい醍醐味である。

 ケン・グリムウッドの『リプレイ』(1990, 杉山高之・訳, 新潮社)を例にとろう。本作の主人公も『時をかける少女』のそれと同じく、記憶を保持したまま過去にリープすることができる。夫婦生活が煮詰まった43歳から、自由を謳歌していた18歳、大学一回生に戻る主人公は、その状況だけではじめ心を踊らせるのだが、かれは青春の折、恋人と添い遂げられなかったことや諸々の失敗を記憶しており、その「やり直し」を図る。あるいは43歳時の記憶や記録を用いて、賭け事に次々と買って巨万の富を築く。それはあくまで物語の序盤も序盤を彩るにすぎないが、ここではタイムリープの当人にとっての醍醐味をひとつ確認するにとどめよう。その醍醐味は、読者であるわれわれに決してなしえない、けれどもやってみたい「やり直し」を小説のなかに仮託するきっかけとしてもはたらく。


 以上の「記憶保持」と「やり直し」という醍醐味は、しかし容易に悲劇的意味へと転じうる。まず、「記憶保持」について。タイムリープの当人が3日前でも現在の記憶を保つということは、裏返せば、3日前という「今」において当人だけが3日後の記憶、ひいては世界を覚えていることと同義である。仮に3日後、世界が何らかの危機に瀕し、それを阻止すべく記憶をたよりに動こうとしても、その記憶の正しさを保証してくれる人間は3日前には誰一人としていない(もちろん、当人のほかにリープしてきたひとがいれば別だが)。

 ここに、タイムリープした当人にとって究極の「孤独」が立ちあがる。タイムリープしなければありえなかった記憶を保持する当人にとって、3日間の世界は、その孤独により「異化」されたものとして現れる。

 その世界が「異化」的であると認識できるのがタイムリープした当人だけである、つまり他の人々にとって3日前の世界は何でもない「今」であるということが、ますます孤独を深める。先にあげた『リプレイ』において主人公は、ケネディの暗殺を阻止しようと動く。それは義憤に駆られたというより、ケネディが殺されなかったら世界はどうなるだろうという好奇心からきた色が強いけれども、とにかく、ケネディの件を18歳当時の方々に持ちかけるも、取りつく島もない。そこで主人公は、はじめて「記憶保持」が単なるアドバンテージではないことを知る。そして、のちに主人公と同じくタイムリープに巻き込まれたある女性と出会い、「孤独」を紛らわすという仕方で愛を育んでいく。


 なお、ある人物が非日常的な体験を経て元の日常に帰るも、体験が元の日常を以前とは「異化」されたものに見えしめる、という物語構造自体は、タイムリープに限らなくとも珍しくはない。ただ、タイムリープ的小説の場合、その構造がきわめて鋭く機能する。物語の肝であるところの非日常的な体験が、たしかに存在していたことを保証するのは当人のはかない記憶だけであるが、その記憶は「今」にとって完全に異質であり、「今」のなかに体験の記録を見出すことはできない。元の日常に帰ってきたとて、それはほとんど「振り出しに戻った」のと変わらなくなってしまう。この「はかなさ」が、上述の「孤独」とともにタイムリープの当人にとって悲劇でありうるゆえんであり、読者であるわれわれにとってカタルシスを得うるゆえんでもある。さらに以上の議論により、タイムリープという要素が「異化」を究極的に強める装置であることも示された。



 つづけて、「やり直し」について。未来の記憶を保持しているからといって、主人公がやり直すことを容易には許さず、さまざまな困難を小説は仕掛けがちである。たとえば運命論の導入がそれだ。科学用語では「世界線の収束」とも言い得るだろう。記憶をもとに過去で異なる行動をしたとはいえ、結局もとと同じような結果に収束してしまう、運命から逃れることはできない、という思想を小説に乗せる場合、それは主人公によって大いなる困難として立ちはだかる。その困難をいかにして乗り越えるか、あるいは折り合いをつけるか、が読者にとってはカタルシスを得る材料となるだろう。『リプレイ』の主人公は、43歳の同じ時点でいつも命を落としてしまう運命を回避するべく、様々に過去を改変しようとした。


 自分の行動の無力さと、困難を乗り越えるべしという構造も、それだけみれば珍しくはない。その困難の背後に、運命という見えざる力が働いていることも含めてである。しかし、その運命の正体がなべて精神的なものではなく、「時間」というわれわれを根源的に規定するものであるとすれば、時間の経過による結果の収束を乗り越えるというのは、ただならぬ困難として主人公に降りかかる。そして何より切ないのが、仮に遡行した3日前において結果を変えることに成功すれば、世界線の様相は変わり、かつてあった主人公の3日後はなくなったことになる。俗に「バタフライ・エフェクト」と呼ばれる現象である。結果改変後の3日後は、記憶を保持する主人公にとって、またしても「異化」された世界として現れるし、その世界はほかの人々にとって、またしても何でもない日常である。この途方もないギャップが、タイムリープを究極の「異化」たらしめるのである

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