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#5 「考える」と腹の底がスースーする。とは?

めんどくさいの哲学 #5

[これまでのまとめ]
●うちの2人の息子(27歳と23歳)が、それぞれ大学院と大学(中退)を経て、家に帰ってきたが、就職活動に踏み出せずニート状態に突入。当人たちは、これではいけない、と考えてはいるらしいのだが、毎日、ゲームをしたり動画を見たりしながら行動を起こす気配なし。
●なぜ彼らは行動を起こさないのだろう? と考えると、これはひとえに「めんどくさい」からなのでは? と考える。
●めんどくさいとは、「〜をしなくてはならない」と「したくない」という相反する力が出会うときに生じる感情で、人間の本能とも言えるもの。
●めんどくさいを払拭するには、せっぱつまらせることが大切なのでは? つまり、飯を食べさせず放り出したほうがいいのでは?
●だが、自分の経験としては、せっぱつまって、ちょっと誤った道を歩いてきたように思う。
●人は、追い詰めれば成長するのでは?
●これも、自分の経験としては、おいつめられてもうまく成長できた感じがしない。
●せっぱつまらす、追い詰める以外の方法で、彼らがめんどくさいをなんとかする方法はないだろうか?←イマココ

 ではどうしたらいいのでしょうか?

 さっそくで申し訳ないのですが、じつは結論はすでにあります。それは

 「考える」です。

 「就職しなくてはいけない」と「就職したくない」の間のめんどくさいに欠けているもの、それは「考える」です。まず問うべきなのは「なぜめんどくさいのか?」ということでしょう。そうすれば「なぜ就職しなければいけないのか?」「なぜ就職したくないか?」と問いは連鎖していきます。連鎖の先に、解決のいとぐちが見つかるかもしれない。「そんな風に考えること自体めんどくさいよ」と思うかもしれませんがだいじょうぶ。「なぜ、そんな風に考えること自体めんどくさいのか?」という問いが立ちます。問いはいつも、先回りしてそこにあるのです。

 何かすごく偉そうに断言していて、恥ずかしいです。そんなの知ってるよという人も大勢いると思います。でもぼくは、つい最近、考えるとはどういうことか気づいたようなのです。それはあるサイトがきっかけでした。最近、『独学大全』という本が大ヒットしている読書猿さんのブログです。
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-685.html

 これは、何か文章を書こうとしている人に対するアドバイスです。文章を書こうとすると、さまざまな自己検閲が入ります。「それ、おもしろいの?」とか、「書く価値あるの?」とか、「誰が読むの?」とか、「誰かのまねじゃん」とか。その自己検閲が、人が文章を書くのをためらう理由なのです。ためらわず、書くには、とりあえず20分間タイマーをかけて、その間とにかく書き続ける。何かのマネでも、誤字でも、つまんないことでも、あらゆる文章を評価する基準を捨てて書き続ける。書くことがなくなったら「書くことがなくなった」と書いてもいいからとにかく書き続ける。
 自己検閲によって書けなくなることは、ぼくもよくあるので、ぼくも試してみました。ところがこのやり方、意外な効果があったのです。自然と、自分との対話が始まるのです。つまらない言葉を書いたときは、「なぜ、こんなつまらない言葉を書くのか?」という問いが生まれ、書けなくなったときは、「なぜ、いま書けなくなったのか?」という問いが生まれる。そして、それらの問いになんとか答えようとしているうちに、頭の先っぽだけで行われていた「考え」が、腹の底の「考え」を引きずり出して、「そういやこういうことを自分は思っていたのだな」という発見があり、はたと思ったのです。
 あれ? これはもしかして、「考える」ということなのではないか?

 一般的に、「考える」というのは、頭を整理して、そこから結論を構築していく、というようなイメージではないでしょうか? そうではなく、このとき体験した「考える」は、頭の先ではなく、腹の底の思いを、浚渫(しゅんせつ=川や堀などの水底をさらって、深くすること)するような感触でした。心の奥底の泥をさらって、腹の底がスースーと水の通りが良くなるような感じです。問いを繰り返して、心の底を浚渫する。ここに、「考える」の緒(いとぐち)があるような気がするのです。

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