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考える力。考え続ける力。考え抜く力。

人生で誰かといる時間が大切なように一人でいる時間もどれほど大切か。
考えて、考え続けて、考え抜いて、自分に取り組む事は、人生の時間で必要だ。その時の得た閃きのような自分だけの視線を見つけた感動を覚えていないか。発見を忘れていないか。

人が見落とす、人が見ない、人が見逃してしまう、人が通り過ぎるものに目を向ける事。普段の景色や物事にも映すように自分自身にも向ける。それが自分を解き放つ。
直感を疑い、直観に生きる。超客観を経て、相対化させる。集中と決意はこうやって作られていく。考えながら動く言葉を吐きながらまた動く。価値はきっとそこにある。

久しぶりに天気はぐずついている。
雨の日が心地よい感覚も似ていると思う。
一日の天気も自分も捉え方は変わるものだ。

そんな折にソールライターの展示会に触れた。
文化村は近所なのに数年前の展示には行けなかった。今回は雨でも一切気は落ちず、むしろ頃合いの日和だ。求めるように足を運んだ。

「ブレ」については、前にも述べたが彼の視線(写真)は、日常の隙間を捉えている。映らないものに想像を掻き立てているのが伝わるよう。きょろきょろと多くの情報に目を奪われた先の隙間を抜けた時、ふと見る一枚の景色の中。
そこに彼の回想を考えてしまう。少しそこにアウラも残している。

その視線にはきっと何かを想い、言葉がある。そしてソールライターが残していた言葉に惹かれた。
それは色川武大の言葉に似ている。

「自分の関心に他人を参加させようとすることを、一応、やめてみよう」

ここには期待が含まれている。世界は他人の期待で満ちていて、その期待を捨てる事が勇気である、と。面倒や手間を楽しむ事がどれだけ商業的でなく、自分の価値ある視線を伝える事がどれだけ無意味か、と。
その結果楽しむ事が出来る、と。言っている。

世の中にはまだ繋がっていないものがある。辿れば素晴らしい糸が自分の目の前にきっとある。大切なものも目を向けなければ気付く事はない。
自分が気づいていない未来の未知の機会や可能性は、今自分が目を向けている事によって見えない事がある。

それこそがセレンディピティでその先にあるんだと思う。
今まで踊りや旅で体を動かして、色んなものを見てきた。
音や言葉で心を動かして、かけがえなない体験を過ごしてきた。
一瞬で思い出せないくらい程に。それだけで価値がある。
その価値を"人生は使われなかった機会に満ちている"と残して淡々と振り返る事も楽しんでいる。
それは商業的なモノを一切に捨てた一つの集中と決意の姿勢の先なんだなと。

落合陽一氏は、「ソールライターの眼差し」が心地よいと言っていた。
そう、眼差し。その温かい言葉を言いたかったなあ。




言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!