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写真&インクルージョン

Twitterにのせたこの2枚の写真。
まずこの「小林しげき」のポスターを個人あるいはその個性、そしてその周囲(ここではあえて背景とは言いません)を社会、あるいは個人が身を置く環境と考えます。そうするとこの2枚の写真は、ある個人・個性が異なる社会・環境に、まったく同じありようで存在し、ミスマッチを起こしている状況ということになります。

ただ早速ではあるのですが、そのように定義してみたところで、やはりこの2枚の写真それぞれはポスターと周囲を合わせて1枚の写真です。
それ以外に存在のしようがありません。
意識の中でポスターと周囲を切り離すことができたとしても、その途端にポスターが写真の枠外に飛び出すなんてことは当然起きません。「周囲」に意識を絞っても、写真からポスターだけが消えるなんてことも当然ありません。逆も然りです。

つまり写真というのは、必ずそこに写っているもの漏れなくすべてによって画面が構成される、そのように見ることを強いるメディアだということです。これは写真の面白いところで、とてもインクルーシブだなと思います。
動画の場合は、ある瞬間に映っていたものが次の瞬間には画角外に消えていたりするので、そういう性質を見出しづらく感じます。

ここで例に挙げた2枚の写真は、このポスターを構成しているデザインや小林しげきの微笑みが、場所にかかわらずまったく同一であることや、掲示されている場所とまったく調和していない様を、面白いな、変だな、でもそれでいい、これがこの場だ、と思って撮ったものです。

社会や環境が個を圧倒していた時代においては、個が全体に調和していることは効率的で望ましかったのだろう(今でもほとんどの場においてそうだと思います)と思いますが、今は必ずしもそうでなくてよい。それだけの時代ではまちがいなくないだろうと思います。

調和しているしていないにかかわらず、そもそもその「個」までを含めた全体で一個の社会なわけですから、調和していない様をどう面白く捉えるか、そこから何か生み出せるものはないか、そんな風に、写真的に社会を捉えるのが面白い時代なんじゃないかと思います。



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