漢詩自作自解⑧「朝歌覧古」
河南省鶴壁市の北に安陽市があります(前回「霊泉妙境」で示した地図を参照してください)。
安陽は殷墟で有名な町です。
私は霊泉妙境に宿泊後、張君らとともに殷墟を訪れました。
殷墟からは甲骨文字が発掘され、文字の都とも称されます。
3000年以上昔の遺跡ですから、規模はそれほど大きくなかったのですが、出土した青銅器や甲骨、玉石器などはとても立派なものでした。
ただ、出土したのは貴重な文化財ばかりではありません。
夥しい数の殉死者の骸骨も発掘され、私にはむしろ彼らの姿のほうが衝撃的でした。
ところで、殷朝最後の王は紂王(帝辛)です。
『史記』によれば、愛妾妲己に溺れ、日々酒池肉林の宴会を開いたとか、炮烙という残酷な刑罰(炭火の上に油まみれの銅柱を渡し、その上を罪人に歩かせ、足を滑らせた罪人が火中に落ちるのを見て楽しんだ)を発案したとか、王に諫言した比干に腹を立て、彼の胸を切り裂いて心臓を抉り出したとか、とにかくろくでもない逸話に事欠かないあの“暴君”です。
しかし、甲骨文字の発見により、これらの“史実”は根本的に見直されつつあります。
古代中国の研究家、落合淳思さんによると、紂王は酒池肉林の暴君どころか、祭祀(権威確立)や狩猟(軍事訓練)を熱心に行う真面目な政治家でした。
そのことが発掘された甲骨文字からわかるというのだから驚きです。
次は、甲骨文字からわかった紂王三年1~6月の政治活動表です(落合淳思『古代中国の虚像と実像』による)。
落合さんは、「見てのとおり、かなりの過密スケジュールであり、とても『酒池肉林』をしている暇などはなかったのである」(前掲書p43)とおっしゃっています。
王の仕事には祭祀や狩猟だけでなく、つまらぬ会議やら面倒な決裁やらもあったでしょうから、酒池肉林どころか、休憩時間もろくになかったことでしょう。
この事実を知ったとき、私は心から紂王に同情しました。
昔から「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、敗者が悪く描かれるのは常ですが、しかし紂王ほど実績と世評との落差が激しい例も稀なのではないでしょうか。
紂王の最期は、『史記』周本紀に次のように描かれます。
――紂王は周の武王の軍と牧野の地で戦った。
敗れた紂王は鹿台に登り、宝玉を身に付け、そこで焼身自殺した。
武王は鹿台に突入し、紂王の遺体に自ら三本の矢を射かけ、剣で切りつけ、鉞でその首を断ち大白旗の先に掛けた。
さらに紂王の二人の愛妾の縊首した姿を発見すると、彼女らの遺体にも同様のことをした。――
なぜ遺体をこんなにもひどく辱めることができるのでしょう。
聖王として崇められる武王が実は血も涙もない悪党であったことを、『史記』は図らずも示したのではないでしょうか。
紂王と武王を比べたとき、どちらがより暴虐であったか知れたものではありません。
甲骨文字の解読から、紂王は前代まで続いていた人身御供を廃止したとも言われていますから、紂王はむしろ名君に近かったかもしれないのです。
周本紀のこの記述が恐ろしいのは、武王一人のことに限りません。
司馬遷が“聖王”の事績としてこのことを『史記』に書き残したということは、「相手は暴虐である」と認めさえすれば、聖王であっても躊躇なく残酷になってよい、むしろ残酷である方がよいという倫理観があったと言えなくもないということです。
一般社会にこのような道徳意識が蔓延していたとしたら、それは武王個人の冷血よりもずっと恐ろしいことではないでしょうか。
ところで、紂王の亡くなった鹿台とは、妃である妲己の歓心を得るために朝歌の地に建てられたとされる宮殿です。
その朝歌は現在の河南省鶴壁市淇県でにあった地名で、前回ご紹介した霊泉妙境もこの淇県にあります。
朝歌にもよい白酒があり、張君が私のために買い求めてくれました。
帰宅後、私は一人朝歌老酒を喫しながら、殷墟への旅を振り返り古の紂王に思いを馳せて一首をものしました。
朝歌覧古
商都少女唱晨曲
商都の少女 晨曲を唱う
朝歌老酒如珠玉
朝歌の老酒 珠玉の如し
巷説殷紂尽悪逆
巷説 殷紂は悪逆を尽くすと
契文帝辛無乱俗
契文 帝辛に乱俗無しと
史実王席不暇暖
史実は 王の席 暖まるに暇あらず
東奔西走臨僵局
東奔西走 僵局に臨む
姫発簒奪主君国
姫発 主君の国を簒奪す
伯夷叔斉恥周粟
伯夷叔斉 周の粟を恥ず
万代不息罵敗声
万代息まず 敗を罵るの声
独酌唯悲無有辱
独り酌んで唯だ悲しむ 無有の辱
〈口語訳〉
朝歌にて昔をしのぶ
殷の都であったここ朝歌では、若い娘さんが晨曲をさわやかに歌っている。
その歌を聞きながら喫する朝歌の老酒は、香りも味わいも実にすばらしい。
その昔、朝歌の地で殷の紂王は亡くなったが、世の人々はみな彼は暴虐であったという。
しかし、甲骨文には、彼が暴君であったという記述は全くなかった。
史実では、紂王は席の暖まる暇もないほど忙しかったのだ。
祭祀を司ったり狩猟を行ったり、粉骨砕身して国家の危機に対処しようとしていた。
そんな紂王に姫発(武王)は反旗を翻し、主君の国を簒奪した。
伯夷と叔斉は、周の食べ物を口にすることを恥じ、首陽山で餓死した。
今に至るも敗者を罵倒する声はやまない。
私は一人酒を酌み、ただ紂王に対する故なき侮辱を悲しむばかりである。
〈語釈〉
〇覧古…古跡を訪ねて、当時の面影を偲ぶこと。
〇商都…「商」は殷の別名。朝歌は紂王の時、殷の都であった。
〇晨曲…朝の歌。地名に掛ける。
〇珠玉…真珠と宝石。美しいもの、すばらしいものの喩え。
〇巷説…世間の評判。
〇契文…甲骨文のこと。
〇帝辛…殷の紂王のこと。
〇席不暇暖…一つの席に座っている暇もないほど、非常に忙しいことのたとえ。
〇僵局…難局。行き詰まった局面。
〇姫発…周の武王のこと。
〇伯夷・叔斉…孤竹国の公子の兄弟。武王が殷を打つため挙兵した時、王の馬車を止めて「主君を討つのは仁ではない」と諫めた。周王朝成立後、二人は周の粟(穀物)を食べるのを恥として国を離れ、首陽山に隠棲したが、最後には餓死した。
〇無有…実体のないこと。
〈押韻〉
曲・玉・俗・局・粟・辱
入声・三燭
冒頭の場面は空想です。
華やかな観光地となった現在、若い歌姫がレストランで明るく歌うさまを想像しました。
彼女も聴衆たちのほとんども殷の悲劇のことを忘れているでしょうし、紂王のことを問われれば暴君だと答えたことでしょう。
殷墟と朝歌とは場所が異なりますが、双方とも殷の都であり、一体としてとらえていただければと思います。
最後は、自室で一人、旅を回想しつつ酒を飲んでいます。
紂王に同情するとともに、どうすることもできない己の無力感を嘆いています。
敗者は常に罵倒されます。
敗れると、勝者でもない者までが集まってきて、罵詈雑言を浴びせかけます。
事実に基づいて、公平に判断する目を持ちたいものです。