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【小説】ある日

「今日は……男か……」
 とりあえず上体を起こし、両腕を眺めた。肌艶がいい、若いな。
 三畳ほどの部屋をぐるっと見回すと、プロ野球選手のカレンダーが壁に吊るされ、ベッドのすぐ下には、土埃を被るミズノのバックが置かれている。
「野球でも、やってんのかな」
 時計の針は朝の七時を過ぎていた。学生だとしたら多分、不味い時間だ。鉛のように重い体をゆっくりと立たせ、部屋の戸を開けてみると、ここは二階らしい。ちょうど正面に下りの階段があった。後ろに振り向けば、起きた部屋の左隣りにもう一つ、これはもう少し広い部屋があり、キングサイズのベッドがその部屋を覆っている。恐らく両親の寝室だろう。
 段差の高い、螺旋丈の階段を下ると、広めのリビングが朝の光を浴びており、透明のガラス机に父(と思われる)が新聞を広げ、母(でしかないだろ)が一生懸命、日清の袋を開けていた。
「おはよう」
 二人が同時に俺の方に顔を向ける。体は血の繋がった親子だろうが、中身は赤の他人である。この瞬間が一番、辛く難しい時なのであるが、もはやこれほどのことで動揺する経験値ではなかった。
「ん……」
 若い子供が親にする挨拶はこれがベストだ。少し生意気な子供であればいつも通りだろうし、親と仲のいい子供であれば「体調が優れない」とでも言っておけばいい。
「何だ、今日はそっけないな」
 父が微笑を浮かべた。仲がいいんだな。
「いや、ちょっと体がだるくて」
 いつもどおりの風を出すよう心掛け、父と迎いの席に座る。父の左にはもう一つ椅子があったが、二対一で向かい合う食卓の二の方は両親が占める場合がほとんどだ。
「だるいって、大丈夫?」
 母が心配そうに流し台から顔を乗り出す。
「大丈夫だよ。少し寝起きが悪かっただけだから」
「そう……」
 と、呟きながら俺と父の前に目玉焼きの乗ったトーストを置いた。続いてキャベツ、ミニトマト、よくわからない葉っぱが新鮮な色合いを醸し出すサラダに、暖かそうな湯気を揺らすコーンスープが運ばれてくる。
なんだ、この家は豪華だな。ここのところは朝食が質素な家庭での〝ある日〟が続いていたからありがたい。
 上機嫌でパンの耳からかじり出す。
すると不意に、
「でも、だるいというのは体が拒絶反応を起こしているのかもしれない。辛かったらやめてもいいんだぞ?」
 苦しそうな父の目線をちらっと見、考えた。
辛い? やめていい?
 まず考えられるのはいじめだ。家の雰囲気や両親の態度から考察すると俺は学生。しかも身長的に高校生。高校生ともなるといじめは陰湿だ。自殺しているケースだって数知れない。
「いや、大丈夫だよ」
 黙りこくるのも不自然なのでとりあえず、取り留めもない返答をする。
「でもあれだぞ、続けることがすべてじゃないぞ」
 やはりいじめだ。「学校に通い続けるのがすべてじゃない」そう言いたいのだろう。
「大丈夫だって。最近は友達も出来てきてるから」
 いじめを受けている子の親は、この言葉を聞けば大抵安心する。以前いじめられっ子の
〝ある日〟を経験しておいて良かった。
「は? 何を言っているんだ?」
「え?」
 父の怪訝顔がとてつもなく怖い。
いじめじゃないのか?
 じゃあ、何なんだ。
続けるのがすべてじゃないもの……。
「野球部。あんた最近、ずっと補欠で、練習もレギュラーの子たちのサポートばっかりで、
やっている意味が分からない。とか言ってたじゃない」
 
  補欠のある日
 
そっちか……。
 左頬がひくひくしている。悔しいのだろう。
まだまだ考察が足りないか……。
生まれてこの方、誰かの〝ある日〟を生き続けて二十年になる。朝が来れば、誰かの肉体として起き、誰かの〝ある日〟を生きなければいけない。
 赤子から老人、黒人から白人、男女からゲイ。あらゆる年齢、人種、性別の人生の断片を生きている。どうやら〝俺〟と自称をしている彼には、決まった個体としての存在、〝体〟というものがないようであった。魂が夜のうちに浮遊しているのか、はたまた胡蝶の夢のように架空の世界線なのか。誰かの、そしてランダムな人間として一日を過ごし、また朝を迎えれば、今度は別の人間として人生の一部を生きなければいけない。
つまり俺の人生は、人の人生の断片〝ある日〟の連続で成り立っていた。
 それも二十年がたっている。
 最初はわからなかった。生まれたばかりの知能では他人の肉体を宿したところで、それが他人の体だという自覚がなければ、他人の体を拝借するという概念すらない。ただその肉体が潜在的に持っている本能、知能、理性のみを使い生きてきた。
 しかし、〝ある日〟を生きていくにつれ、自我が生まれてくる。そして、知能も加算されていき、次第に、おかしい……という感情が芽生え始めた。
 自分は他の人とは何かが違う。他の人は、朝を迎えるたびに自分を取り巻く環境が変わったりはしない。他の人は、一つの肉体だけで生きている。自分みたいに新しい肉体に宿ったりもしない。そもそも、他人の肉体に宿るという時点で神秘に溢れている。
 そんな疑念が募り始めた時、脳科学を専攻する大学教授の〝ある日〟を送ることが出来た。どんな肉体に宿ろうと、自我は健在ではあるが、その肉体が持っている知識量、理解力などは肉体に受け継がれていた。
 すなわち、脳科学者の〝ある日〟を送っているうちは、脳科学者の能力が彼には備わっている。
 僕はその日、血眼になって己の中で起きている神秘について、関連しそうな本を読み漁った。さすが学者なだけあって理解力が高く、かなりの冊数を目に通すことが出来た。
 残念ながら脳科学の関連本に自分と当てはまる事象は存在しえなかったが、その学者が持っていた宗教本の一つに、
少し、似てないか……?
 と思うものがあった。
 
「しやぁす‼」
 爆発音のような声が、背後の両耳を震わせた。振り向いてみれば、青々とした坊主の頭皮が、会釈ばかり見えている。
俺が……先輩なのか? 道端で、大変だな……。
 人の肩幅程度しかない歩道の白線で向かい合う二人は、後続する同じ制服の人たちの迷惑だったようだ。
「いいから、早くいくぞ」
 坊主の背後を気にしながら呟くと、
「失礼します!」
 頭を上げ、両手、両足をピンと伸ばした、まさに行進のような歩き方で俺の前を遠ざかっていく。
めちゃ厳しいな……。
 以前にも野球部の〝ある日〟を経験したことがあるから「しやぁす‼」という、言葉になっていない言葉が、挨拶を意味するものであることは察しがついた。しかし、ここまで声を張り上げ、恐らく先輩が許可を出すまで頭を上げられないというのは類を見ない厳格さである。
部活、やれるかな……。
 誰かの〝ある日〟を送るということは、その人の今ある現状を、一日耐えなければいけない。今の時代、楽と呼べるような境遇に置かれている人間はごく少数だ。嫌が応でも未来へ繋がらない、しかも慣れとは皆無の事象を、一日限定で行わなければいけない。
まぁ、何とかなるか……。
 だが、彼には二十年分のゆとりがあった。いざという時の対処を心得ている。
 彼は、恐らく何百回と通っているであろう通学路を足の本能に任せ、まるでいつもの日常のように、他の生徒と共に歩を進めた。
 
多分、ここだよな……。
通っているであろう学校につくと、視界の正面にはコルク色のグランドが広がり、野球
ブランドのジャージを着た青年たちが、それぞれバットを振ったり、グランドの周りを走ったりしている。朝練というやつであろう。
 ローマ字のロゴマークが印字されているエナメルバックを肩にかける俺も、自然、参加しなければいけないはずであった。
 グランドの端の方を遠慮がちに歩き、出来るだけ目立たない方策を考えている時、
「ごらクソ餓鬼、死にてぇか?」
「いいえ」
「あ? 先輩の返事は?」
「は、はい‼」
 バックネットの裏で、さっきの青坊主が図体の大きい先輩と思われる人に、バットでペシペシと太ももを強く叩かれていた。
うわ……。
 左頬がひくひくしている。怖いのだろう。ゆっくり、後ずさりを始めた時、
「ん?」
 その図体が、背後の俺に気付き、ゆっくりと首を擡げる。
やばい……。
 引きつった顔で、その動作を凝視することしかできなかったのであるが、その図体の目
と、俺の目が合わさった時、予想とは真反対の反応が起こった。
「お、島ちゃあん。朝練来るなんて久しぶりじゃん。一緒にさ、こいつしごこうぜぇ」
 その顔は、満面の笑みである。
「はぁ……」
 気の抜けた息のような声を発すると、
「さ、いつものさ、ケツバット頼んますよ」
 俺の手に、ひび割れて使えなくなったのであろう、金属バットを手渡した。
 不意に青坊主を見ると、先ほどのきびきびとした厳格な覇気は消え失せ、半泣しているようにも見える。
だから、学生は嫌いなんだ……。
 自分の置かれている状況に半ば察しがついた時、自分でも驚くほどの憤りを覚えた。
 〝ある日〟をいくつも続けていると、あらゆる年齢の社会を経験する。社会とは一概に、会社勤めをしているサラリーマンだけの世界ではない。子供の世界にも、青年の世界にも、専業主婦の世界にも、会社を辞めた老人の世界にも、人と人とを結ぶ数多の関係、ネットワーク、つまり社会がある。
 その社会の中でも、彼は、学生の社会が最も憎悪を感じる世界であった。
 精神的に未熟な中で、クラスなり、部活なり、少人数の閉鎖的な空間の中、組織の中心人物が唱える思想を正しいと思い込む。中心的な人物とは、クラスであれば、先生、人気者。
部活であれば監督、キャプテン、部のエース。
 以前、一般的に「やばい」とされているカルトな宗教の〝ある日〟を経験したことがあったが、そのカルトと、学校の閉鎖空間は何ら変わらない。まだ、あらゆる年齢層と交流できるだけカルトの方がましにも思える。
 〝ある日〟を放浪し、数多の人生を経験する彼にとっては、学校こそが最も居心地が悪く、非効率であり、危険であり、憎悪を感じざるおえない場所であった。
 その典型とも思える状況が、彼の目の前で起きている。
 コンッ
 バットのグリップで頭を打つ音は、綺麗な「コンッ」となる。
「痛てぇ……。何すんだよ、島ちゃん」
「いじめてる暇あったら練習しろよ」
 出来るだけの冷徹な視線を、頭を抱える大きい図体に向ける。が、彼の表情は、嘲るような笑みとなって
「はっ、冗談やめてよ島ちゃん。今更練習したところで何になるんだよ」
 ふざける笑みに、一種のまじめな諦めが浮かんでいることを、あらゆる人生を経験する彼は見抜いた。
「今更って……。諦める必要ないだろ」
 と、つぶやいた時である。
「ち、ちやぁす‼」
 大きい図体と、その背後にいる青坊主は、緊張の線が張り詰める顔へと豹変し、直立不動となった後に、俺の背後に深深と頭を下げた。
「え……」
 大体、察しはついた。
野球部の人間がここまで緊張する人物。そんなもの、一人に絞られる。
嘘、だろ……。
 認めたくない。俺の両手にはバットが添えられている。先輩が二人、後輩一人。先輩の一人が素振りでもなくバットを持っている。もう、終わりであった。この状況、認めたくない。
「し、島! 監督だぞ‼」
ああ……やっぱり。
 僕の「目立たない」という目標は、無残にも、消え失せた。しかも、部内いじめだ。〝ある日〟を終えた後も、俺のせいでこの体の持ち主は被害を被るであろう。
「ちやぁす……」
 頬を引きつった諦めの表情で、背後に振り返る。
うわ……。
 下目遣いで俺を見るその男は、身長が180を超えようか。体つきもよく、筋骨隆々の、先の図体のいい彼とは比べ物にならないほどの体であった。
「何をしている」
 肩幅が広くても大きいと感じる険しい輪郭で、蔑んだ視線を向けてくる。
「いや、その、あの……。すみませんでした‼」
 とりえず、謝るしかない。失敗をした時はこれに限る。どんな内容だろうが、どんな状況だろうが、必要以上に謝る。これが、多くの人生を送る彼の一番のトラブル解消術であった。
「ん、仲良くしろよ……」
 うっすらと髭を蓄える中年の顔つきは、険しさを保ったまま、何事も起こらなかったように通り過ぎていった。
「…………」
 バックネットの裏はしばらく、静寂になるしかない。
「え、は、え……」
 緊張からの緩みが拍車をかけ、余計に動揺を誘う。
「どういうこと?」
 と、呟いてしまうのも仕方ないと思う。確かに監督の両眼には先輩が二人、後輩が一人、先輩の一人が素振りでもなくバット持っている。という光景が映っていたはずだ。こんな光景、いじめ以外の何物でもない。これを見過ごすような人間は、馬鹿か、関りを持ちたくないと考える人間だけであろう。
 ましてや自分の部員がいじめをしている光景を見て、何も行動をしない監督など聞いたことがない。
どういうことだ……。
 心の中でもう一度、連呼すると
「いやぁ、俺ら補欠で良かったぁ」
 図体のいい、いじめっ子が清々しい表情で、ぐうっと、両腕を上げて背伸びをした。
「やばかったな、島ちゃん」
 ポンポンと俺の肩を叩くその表情は、純粋な笑みだ。
「何も言われなかったけど、大丈夫か?」
「大丈夫だろ。俺ら補欠だし」
「補欠だと何で大丈夫なんだよ。確実にいじめてる光景だっただろ」
 単純な疑問のつもりだった。だが、この、補欠の性根が染みついてしまっているいじめっ子は、
「補欠が何をしようと、どうなろうと、監督の知ったことじゃないじゃん」
 当然だろといった表情で答える。
 ほぼバックネット裏に突っ立っているだけの朝練を終えると、ホームステイ中の日本人と、地元の外国人が仲良く会話をする声が鳴り響く教室の中で、俺は唖然とした。
こんなことが……と思う。
補欠が何をしようと、どうなろうと、監督の知ったことではない?
 本当にそうだとしたら、屑ではないか。
確かめる必要がある……。
 この体の持ち主には悪いが、久しぶりに〝本気〟を出すことにした。
 
職員室にはコーヒーの香りが充満する。どこの学校でもそうだ。一昔前は強烈なタバコの煙が覆っていたそうだが、中年の誇張した武勇伝のようにも思える。
「何をしにきた?」
 机のノートパソコンを凝視する監督は、その顔のまま、めんどくさそうな口調で呟いた。
「あの、今日の朝練のことですが……」
「ああ、あれか。後輩に指導していただけだよな?」
 ノートパソコンの画面は、エクセルでも、ワードでも、パワーポイントでもない。ただの野球動画である。野球部の練習があるだろうから三時半には仕事を終え、朝も通常の出勤。こんな労働条件なのに数少ないパソコンに向かう時間も野球の動画。
この人は、仕事をしているのか……。
 ということを、学生の〝ある日〟を送るたびに思う。
「な?」
 不意に左へ顔を回し、俺と目を合わせて今度は少し強めの口調で問いかけた。気圧されそうにもなるが、もう覚悟を決めるしかない。
「いえ、後輩をいじめておりました」
「…………」
 拍子抜けした表情をしているのだろうが、顔の険しい人間は拍子抜けした顔も険しく思える。
「で?」
「は……」
「で、何だ?」
「え、だから、後輩をいじめておりました」
「そうか、今後は気をつけるんだぞ」
 またノートパソコンに戻る顔は元の険しさに戻っている。
「あの」
「なんだ⁉」
「後輩をいじめていたのに、これでお終いでしょうか……」
 監督はもう一度顔を回し、呆れた表情で
「処分して欲しいのか?」
「このまま終わるよりはましです」
自分も監督の前で険しい表情を披露する。険しくせねば直ぐに屈してしまいそうになる。
「…………」
 さすがに、険しい顔は眉間に皺を寄せ、顔を歪め始めた。
自分から処分してくれと職員室に乗り込んでくる生徒など、恐らく今までも、今後もいないであろう。一日しかこの肉体を管理しない俺だから出来る芸当であった。
「はぁあ……」
 他の教員が振り向くほどの大きなため息を垂らすと、険しい顔つきは、
「じゃ、一週間草むしりでもしておけ」
 めんどくさい表情を前面に出し、さして長くない後ろ髪を乱雑に掻き始める。
「それで、終わりでしょうか?」
「あ⁉」
「注意したり、怒ったり。普通の指導者ならばすると思うのですが」
「ちょっと、こっちこい」
 襟元を掴まれ、ほぼ引きずられるのも同然で、職員室を後にする。他の教員も見ている。だが、誰もが気づかないふりをしている。
学校自体が、おかしいのか……。
 一種の諦めを胸に抱き、息も苦しいほどに襟を掴まれながら、険しい怒り顔の歩調に必死で足を追いつかせる。
 
「ごらクソ餓鬼、死にてぇか?」
 まず、高校生と同じ脅し方をするのに驚いた。
 バット、ヘルメット、ボール……。野球道具の充満する、日の光を拒絶した暗い倉庫に閉じ込め、何をするのだろうか。
 すると、いきなりであった。
がっと、首を掴まれる。
「補欠のくせして生意気なこと言ってんじゃねぇぞ」
 加減をしているのだろうが、既に息をするのも苦しい。
 次第に首を掴む指は、爪を立て、苦しみだけでなく痛みを帯び始めるよう仕掛けてくる。苦しく、痛い。この感情で脅しをかける。非人道だと、なぜ気づかないのか。
「俺の気を煩わせるな! 補欠が……」
 監督が首を放すと、膝の力がなくなった。何の抵抗もなく、脚が崩れ、尻もちをついてしまう。
「こんな足腰だから補欠なんだよ」
 蔑んだ目でへたり込む生徒を眺め、暗がりの倉庫から建付けの悪い引き戸を開ける。
 瞬時にして淡い光が注ぎ込まれ、土を被る野球道具は暗さで隠れていたその色合いを取り戻す。
 辺りは静寂。微かな挙動の音でさえ、聞こえる。その挙動は、全身からである。全身が、恐怖で震えている。この体の本能であろう。本能から、恐怖を感じている。
こんなことを、していいのか?
 たまらなかった。
「補欠でなかったら、監督の気を煩わせてもよろしいのでしょうか……?」
「あ?」
「補欠でなかったら、生意気なことを言ってもよろしいのでしょうか……?」
「おまえ、いい加減にしろよ」
「補欠でなかったら、人をいじめたら叱る。そんな当然のことをしてくれるのでしょうか……?」
「補欠でなかったら……」
 もう一度、首を掴まれ、へたり込む体を無理やり立たされる。今度は、本気で掴んでいる。もはや息もできない。
「ほ……け…つで、なかっ……」
 水落を殴られても、そこまで痛みを感じない。それほど、首の苦しみは酷かった。
 
         *
 
ああ……やばいな。
 これまでの経験がそう訴えている。
 体がまるで、宇宙のような黒く淡い空間に飲み込まれているようだ。水のように肌で感じることはないが、何か、優しい何かに包まれている感覚がある。
 そこに、背中から光の紐のような、金色で輝く何かが細くゆり動いて自分を通り過ぎていく。光の線は、一本ではない。何十本も自分の背中を通りすぎていき、目の前に、それぞれがそれぞれの場所で結び付き、変形し、文章のようなものを作り出していく。
やっぱり、そうか。何度か、経験がある。
 〝ある日〟は、一日二十四時間とは限らない。その日のうちに意識が飛べば、もうおわりなのだ。もう二度と意識を飛ばした体で起き上がることはなく、朝になればまた平然と誰かの〝ある日〟を送ることになる。
 それまでの間の時間がこれであった。光の線は相変わらず何本も己を通り過ぎて何か文章を作っている。といっても、何の字かわからない。ラテン語のような一、二角で書けそうな文字が横並びで何十行も記されているのだが、今まで調べた中で何の言語にもあてはまらない。
「よし……よし。紙みたいのに書いてる」
 この不思議な空間で思わず声が漏れるほど、自分の中では手ごたえがあった。
 
『なにも、世界を創造するだけが神とも限りません。中東の少数派宗教では、神というのは我々の生きている記録なのだそうです。それは、大きな大きな一冊の本であり、その本が意識の断片を全く無作為に選ばれた人間に送り、少しだけ入れ替わることで、あらゆる人のあらゆる時代の断片〝ある日〟の記録集のような物を作る。その存在そのものが神らしいのです。そして、入れ替わった人間はそのお礼に今までの人生が少し好転しているのだとか』
 
 脳科学者の〝ある日〟を送った時、やけに頭に残った内容である。
自分も、そうかもしれない。本能的にそう思った。光の線が止まって字のように変形するのは、どうやらうっすらと見える四角の何かの中であった。自分の読んだ宗教本の内容が正しければ、恐らく、紙のような何かだろう。
自分の読んだ宗教本も、あらゆる宗教を概説的に説明した本で、あまり詳しい説明も、その宗教がどのような名前でどのような教えなのか全くわからない。ただ、自分が神である本の意識で、目の前の光の線が自分の見たもの、聞いたものを記録し、自分はお礼として体を借りた人物の人生が少し好転するように動く。とても上手く、宗教本の内容と重なっていた。
意識が飛ぶ寸前に、他の教師が駆けつけてくる音が聞こえた。あの暴力顧問に証拠を隠蔽する時間はない。少なくとも謹慎処分にはなるだろう。そうしたら、もう少しは野球部内でも平等にチャンス与えられて、もう後輩をイジメることもなくなるかもしれない。
自分はもう二度とあの体に戻ることはないから、本当の所はわからないが、彼の人生が今日をきっかけとして好転したのではないかと思う。そう願いたいところもある。
光の線が、うっすらと見える四角の枠を覆い尽くした。すると、文字となった線は一斉に眩い光を輝かし、粒となって砕け散った。
 
     *
 
 天井が見える。排管が何本も見える天井で、あまりいい部屋とは言えない。
「No.1107! Get up!」
 柵越しに、警服を着た白人の男が僕に叫んでくる。
「……。イエ、イエッサー」
 これはまた、なかなかの〝ある日〟になりそうだ。

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