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新聞に記事を書く

昨年の8月、社内で新聞が創刊された。Livesense Timesという。

タブロイド版のサイズで、世に発行されている新聞と同じ手触りの薄くざらっとして端がぎざぎざした紙に印刷され、2週間に一度発行されている。その佇まいの圧倒的な新聞らしさは、紙質だけではなく、ロゴや段組、使われているフォントなど、デザインの細部の細部まで凝ることで実現している。

社内のメンバーで作り、社員、もしくはかつて社員だった人たちを中心に発行され、読まれている新聞だが、「Livesense Timesは社内報ではない」。「社内と社外をないまぜに」書かれ、社内のことを社外に、社外のことを社内に問い、問い返され、紡がれることに重きをおいている。

そこにエディターとして参加して9ヶ月、数えてみたら7記事を書いていた。今まで16号ほど発行されているので、半数弱の号に携わらせてもらったことになる。

紙で発行されている、ある種の公共的な媒体に文章を書くということは、通常の仕事で文章を書くのとも、過去に学生時代レポートをまとめるのとも、また趣味で好きに文章を書くのとも、大きく異なる点がいくつかあって面白い。

前回noteに文章を書いてみて、その違いをあらためて強く感じたので、今日はそのことをつらつらと書く。

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まず、新聞は紙なので物理的な制約がある。なにかといえば文字数だ。ひとつの記事に与えられている文字数は厳密に決まっている。改行などの関係で数文字は調整できる(正確には紙面デザインを手掛ける子に、してもらっている)が、十数文字の過不足はまずい。

私の文章はよけいな修辞が多く、まわりくどいので、文字数はたいてい圧倒的に多すぎる。一度記事を書くと、そこからひとまず7割〜5割くらいまで文字数を削ることになる。

削りながら、伝えたいことを伝えるのに、本当に要る表現はなんなのかを見極めていく。センテンス単位でごそっと削る時もままあるので、それで論旨がつながるか、不用意に前段を受けてしまっている接続詞や指示語がないか、前後を注意深く読み返す。

そうやって規程の文字数にある程度近づけた記事を、確認してもらい、指摘をもらい、書き換えたり、要素を書き加えたり、さらに大幅に削ったりして、最終的な文字数にまで調整していく。


次に違うのは、書くネタだ。通常の仕事でも趣味でも書かないものを書く。

半分以上の記事は人に話を聞いて、まとめる。社内でインタビューするが不慣れで不躾な質問にみんな丁寧に真摯に答えてくれるので毎回頭が下がる。

ネタは携わる編集部の構成員みんなから集められ、確定されるのだが、ネタ出しの前提がなにせ難しい。

社内にしか意味がないものではいけない。
社外の一般論だけでも意味がない。
新聞記事なので「今」それを書く必然性も必要だ。
これらを全部満たさなければいけない。

たいていの号で、ネタ出しは難航し、記事の内容の確定間近になると、関係者のSlackチャンネルは、主筆の「ネタを…」と呟くBotのような発言だけが繰り返され、なかなか重苦しい雰囲気になる。

自分で出したネタを書くことが多いが、他の人が提案したネタを割り振られることもある。ただ記事にするのに難航するか否かは、自分が出したネタかどうかとはあまり関係がない。自分が出したネタでも文章の構成やオチが浮かばないと迷走して難産になるし、人から与えられたネタでも、起承転結がすっと立ち現れてくれると、文章に落としやすい。そもそも人から「これ」とテーマを与えられて書く、ということがあまりない体験だ。


最後に、編集の存在だ。書いた文章に赤が入る。

視点の抜け、要素の過不足、表現の不足や過剰さ、伝わりやすいか否か。指摘が入り、文章を書きかえると、当初に書いたのとはまったく違う文章に変わっていることもある。

これは指摘する人間の技量に依るところが大きいのだろうが、他者の目線がはいることで、文章は確実に読みやすく、伝わりやすく、記事に込められた情報は重層化する。そうやって、自分の文章が「みるみる変わっていく」工程はひどく面白い。


書いている時は、楽しいというよりは正直しんどい。時に、喉の奥から血の味がする気がするくらい、しんどい。

文章のインプット量が激減しているせいか、書きたいことを的確に表す言葉は全然出てきてくれないし、要旨がシンプルに伝わるように書けているのかは心もとないし、暗闇の中でつたい歩きをしているような気持ちで書いていることが多い。

ただ、そうやってあやふやな気持ちでなんとかうみだした文章が他者の目を介し、また文字数の制限を経て、人の目に届く形に整形されていく体験は得難く楽しく、そこでようやく書いてよかった、という気持ちになれる。


そして、新聞に記事を書くことと、こうやってnoteなどのWebの媒体に文章を書くことの、「書き手の私」にとっての一番の違いは、人の反応を気にしないですむことだ。

Webでの文章には、容易に反応が返ってくる。古くmixiであればあしあと、FacebookやTwitterであればイイネ、ブログでは拍手にコメント、Slackではアイコン、そしてnoteであればスキ。

反応はモチベーションになり、そして足かせになり、中毒となる。

これらの機能を悪いとは言わない。ありがたいとも思う。ただ、これだけ付き合っても、適量の服用がえらく難しい。

新聞は、ほとんどの場合、書いたものに対して反応はない。だから書くことに集中できる。

そして、たまさか届けられる記事の感想は、反応、というよりは一定の重みがあり、とても貴重な贈り物のようで、嬉しくて、なにより中毒性がない。ありがたく押し頂き、噛み締め、そっと仕舞い、次に書く時の気持ちに影響しない。

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この体験が私にもたらしたことは小さくない。

思いが、問いが、考えが、「新聞」という形にのって、WEBでの文章よりも遅い速度で、けれど物質としてのある種の重みを伴って、人の手元に届く。

この取り組みを陳腐化させず、続けられる一助でありたいと思う。

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