「店員に態度がでかい人」の宗教観について

お金が基準の人

私の身近には居ないんですけどよくネットやテレビで聞く、
「店員に態度が横柄な人」
が本当にいるらしい。

結論から言えば、そういう人には近づかないほうがいいです。
なぜなら「お金が基準」の人だから。

何でそういう態度をとるかというと「お金を払っているから」。そこで考えられることは「お金を持っている人」が偉いという価値観だということ。これって実に乾燥した、簡単な見地の世界観だなって思いませんか。

逆に恐らく多数派だろうと思われる、そういう態度を取らない人は人の上下に「お金」の価値基準を置いていない人か、そもそも人間関係の上下に関心の薄い人だろう。

人間関係って宗教観に基づくんです。ちなみに僕は特定の宗教に属してないです。あえて言うなら共産主義(宗教否定主義)ではありません。それ以外は割と許容してるほうだと思います。

「宗教観」は生きる「基準」

「人間」って「にんげん」以外の読みでは「じんかん」(社会)っていうくらいで、社会的だからこそ人間なわけですよ。そこの価値基準は「どういう風に生きるか」ってことに直結してそれは「生きること」の基準っていうこと。

「お金」を何で人間の「基準」にしちゃうかって、それ以外の基準が見つからないからだと思うんですよね。「数学が苦手」だとか、「漢字が苦手」「運動が苦手」っていうのと同じで、「基準の置き方が苦手」ってことだと思ってます。基準が分からないから、分かりやすい「数字」に目が行く。

僕は中国哲学をやってるんですけど、哲学は虚構だって言われることがあります。一方ではそうですけど、絶対そうだと思ったら大間違い。哲学は世の中の「虚構」を虚構として見ようっていうもの。
学問としては「虚学」っていう方向で、要するに「お金」にならない学問。

反対は「実学」。実学は金融学や工学などのすぐにお金になる学問。最も「虚ろ」なのが宗教(神)学だって、キリスト教神学に詳しい佐藤優が言ってました。

仏教は「全ては空である」っていう教えがあるっていうのは日本人ならなんとなく聞いたことがあると思うけど、宗教は「物体」「具体」を、実用的な見地から見ないイメージがあるじゃないですか。「全ては空である」「色即是空」ってそういうことだし。

それを更に言語として説明するのが「哲学」。「哲学は神学の婢(はしため)である」(ダミアニ)っていう言葉もあります。

要するに哲学は、「人としての生き方」「如何によく生きるか」にシフトした学問です。

私自身はファストフードでも、家電量販店でも併せて数年バイトしたことがあるんですけどそういう人には会ったことがありません。ヤーさんを接客したことがあるけど、そこまで横柄じゃ無かったし。

大多数の人はお金を人間の価値の基準にしようとしないと思うんですけど、そういうことが苦手な人もいるってこと。それが共産主義。少数派っていうのもよくわかりますよね。

いずれにしろ、そういう人はいるわけで、僕はそういう人と戦うのは苦手なので出来るだけ近づかないようにしてるんだと思ってます。だから無意識にそういう人にも逢わないんだと思ってます。

↓note以外でブログもやってます。


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