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社会問題に対する態度

社会問題を直接解決することは、私にはほとんどできない。 しかし、社会問題を解決する人を応援することは、私にもできる。 その機会に恵まれていることに感謝しよう。

    • あらゆる議論に必要だと考えられる3つの主義

      私があらゆる議論に必要だと考えている主義は3つある。 1.当事者主義 即ち、その議論の経過や結論を尊重して行動に反映する決意があること 2.移行主義  即ち、それまでの事情を認め、感謝した上で、より良い方向を目指すということ 3.一致主義  即ち、お互いの目的および用語の定義を一致させようと不断に試みること  

      • "それ"であると同時に"それ以外"

        個々人の体験は局所的であるので、 人生/世界は常に、"それ"であると同時に"それ以外"である

        • 運命論(因果律)の再評価と、有用論の着想

          ・運命論(因果律)は、常に役に立つ訳ではないが、ポケットに忍ばせておく価値はある ・自己批判は、その目的が自己肯定にある場合にのみ、有用である

        社会問題に対する態度

          人間は全てをコントロールすることはできない

          人間は全てをコントロールすることはできない。 (個人としても、集団としても) ゆえに、たとえ一部でもコントロールできている時点で、 それは既に大変に上出来なことなのである。

          人間は全てをコントロールすることはできない

          空虚であるゆえに

          私は空虚であるゆえに、 私の行為に主体性はない (ので安心せよ)

          空虚であるゆえに

          メモ:ゼロでもマイナスよりはずっとまし

          たとえ空虚(ゼロ)であっても、 「どうして自分なんか生まれてきてしまったのだろう」 と言う気持ち(マイナス)よりは、 ずっとましであり、有難いことである。

          メモ:ゼロでもマイナスよりはずっとまし

          忙しいうちは

          忙しいうちは、 「これが終わって、もっと時間がたっぷりあって、落ち着いたら、何かが自分の内側に見つけられるんじゃないか」 と思うもの。 でも、いざ休みの日が始まって数時間もしないうちに、そんなものは幻想に過ぎないことが分かる。 落ち着いた自分の内側に見出せるのは、ただの空虚である。 何かがあればいいのに。

          忙しいうちは

          「それで満足か?」を自分に問い続けることによって

          今まで自分の犯してきたあらゆるウソ、あらゆるムダ、あらゆる恥、あらゆる非礼について、(大抵の場合)実は自分は満足しているのだ、ということが分かるのである。 何故ならば、もし仮に満足していないのならば、この身体は既に変化を求めて動き出しているはずだが、実際には動き出していないからである。 (但し、そうでない場合もある)

          「それで満足か?」を自分に問い続けることによって

          蒟蒻畑は食べ過ぎないこと

          蒟蒻畑は食べ過ぎないこと

          メモ:「生きている世界が違う」のではなくて、「生きているレベルが違う」のだ

          ふと、久々に思い出した感覚があるので、メモしておく。 以前は、自分から遠くに見える人たち(例えば芸能人とか、頭のいい人たちとか、何となく"一流"みたいに見える人たちなど)と自分とは、「生きている世界が違う」のだと思っていた。 でも、実際に色々な場所に出掛けてみたら、実はどうも違ったのだ。 意外とみんな同じような場所(土地)を歩いているし、同じようなものを食べて、同じような道具を使って、同じような駅から同じような乗りものに乗っている。 ただ、それらに向かう態度(姿勢)・認

          メモ:「生きている世界が違う」のではなくて、「生きているレベルが違う」のだ