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「新しい未来のテレビ」と言うけれど

動画配信サービスABEMAで、月初めの日曜日に放映される7.2時間の生番組「7.2新しい別の窓」(通称:「ななにー」)の5月1日放送分の予告が出た時、私はとてもワクワクした。

地上波各局を代表する「テレビマン」たちが、配信番組にやってきてテレビを語る。
公取委の「注意」に明らかなように、前事務所退所をきっかけにテレビ側から「干されている」格好だった稲垣吾郎さん、草彅剛さん、香取慎吾さんが時には揶揄と嘲笑を浴びながらも新たに挑戦し、切り開いてきたインターネットの世界。そこに名だたる「テレビマン」がやってくるというのは単純に興味深かったし、ある種痛快な逆転劇を見るようで少々意地の悪い満足感をも感じたのだ。

しかし実際に当日の放送を見た後は、なんとも言いようのないモヤモヤと落胆しか残らなかった。
もちろんそこで語られた内容には、テレビの一時代を作ってきた人たちならではの視点があり、裏話があり、メディア批評としては一定の価値があっただろう。これを地上波テレビではなく配信番組でしかやれないというのが、まさにテレビの「今」を現わしているというのは何とも皮肉だが、それも含めて意味はあった。

それでも、これが「ななにー」で放送されたものだということを考えれば、やはり後には不完全燃焼感しか残らない。
それは言うまでもなく、「ななにー」の演者も視聴者も、テレビによって深く傷つけられた経験を持つ「被害者」だからだ。

「裏話」というのなら、なぜテレビがあんなふうに演者と視聴者を傷つけたのか、それをテレビ側はどう考えてるのか、それが「ななにー」視聴者が一番知りたい裏話だ。それを語らない時点で、そこで語られる一見ホンネ紛いの威勢の良い放言も、全ては途端に嘘っぽくなる。シラケてしまう。

彼らはいつも「テレビの前のみんなも楽しんでくれた?」と、画面の向こうを忘れなかった。
そんな彼らを、テレビの向こうのことなんて何も考えない人たちが、彼らが大切にしていたテレビを使って貶めた。
今回出演したテレビマンたちが、直接的にそれに関わったというわけではない。しかし散々彼らにそっぽを向いて、公取委から「注意」を受けたような自分たちの側の作為は無視し、需要がないと蔑んでおいたテレビ側が、自分たちが自由に語れる場所一つ自分たちの領域では作れずに、彼らが開拓した場所にこんな風にしれっとやって来て、テレビに傷つけられた彼らと視聴者の前でテレビを語るのが、どうしても飲み込めなかった。
テレビ離れを嘆いて危機感を口にする側が、自ら夢を売る虚構の箱であることをぶっ壊し、 見たくもない裏側を、これでもかと見せつけてきた現実には向き合わない。それだからダメなんでしょう?と思う。

それでも彼らがテレビが好きで、まだテレビのために一肌脱ごうとしていることは、テレビマンたちの話を前のめりの姿勢で聴いてた香取慎吾さんの姿に象徴されている。
彼ら自身も視聴者としてテレビに夢中になった世代であり、テレビが最も元気な時代に多くの経験をさせてもらえた恩を、決して忘れてはいないのだろう。
本当は、テレビを元気にしていたのは彼ら自身でもあったのに。
少なくとも「平成」のテレビを語る上で欠くことのできない彼らの存在を、今はなかったもののように扱っている、テレビの側はこんなにも裏切っているというのに。
そう思うとやるせなくて仕方ない。

思えば、閉め出されたこと以上にやりきれなかったことは、彼らの実績や功績への敬意の無さ、それが軽んじられ、嘲笑すらされたこと。しかも彼らの存在に一番恩恵を受けたはずのテレビが、自ら率先してそれをやったことだ。
テレビ局にとっても自己否定に等しいのに、それをやった。今もやっている。本当に異常なことだと思う。

今回の企画が本当の意味で「新しい未来のテレビ」への第一歩となるためには、まずテレビ自身が、自らの存在意義を棄損したこの異常さを総括しなければならなかった。
それができない以上、テレビにはやっぱり未来はない。
そして次世代のメディアを謳いながら、結局そうしたテレビの負の遺産を継承していくのなら、ネット配信番組の未来もないと思う。

あの日私たちが見たものは、彼らと視聴者への暴力であり、テレビの自殺だった。閉め出されたのは彼らでも、彼らを失って力を失ったのはテレビの方だ。
それでも結局、瀕死のテレビに手を貸すのも彼らなのだろう。テレビの側がそれに応えられる力を残しているかは別として。
こうやってテレビマンたちに場所を提供している3人も、現在進行形で地上波テレビを盛り上げている中居正広さんと木村拓哉さんも、いくらなんでも人が善すぎ!と歯がゆささえ覚えるけれど、そういう人たちじゃないですか、SMAPって。



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