チャックの中身 ―楽しいだけでいれないときも

2020年6月22日発売の『週刊文春WOMAN』に、同誌の表紙のための自身のアートに寄せた香取慎吾さんのインタビュー記事が掲載された。

「コロナ後の世界」をテーマとして与えられて描きはじめた表紙は、「表紙ぐらいは明るく」という編集部のイメージとは離れたモノクロで、それは彼自身の心境のあらわれだったという。

香取さんは率直に、新型コロナウイルス感染拡大下にある気持ちを吐露する。
「いろいろと急で、やっぱりつらい部分がある」
「しかも、そのつらさをあまり口にしちゃいけないような空気も感じる」「だけど実際、僕自身はつらい部分がある」
「だから、このつらさを一回言ってみない?」
「そのうえで新しいこれからの未来にちゃんと向き合いますから、と世の中に言いたい」

そりゃあ、そうだろう。
予定していたファンミーティングも初のソロコンサートもキャンセルとなり、自身がプロデュースするブランド店も休業。月に一度の生番組はリモートになり、いつもなら観覧が入るライブもできない。
来るべき日のための忍耐だと理解していても、未だエンターテインメントの将来像は見えない。そんな中では、強い葛藤があってあたりまえだ。

しかし、それでもなお、この香取さんの率直な言葉は、私にはとても新鮮に映った。

SMAPはそのファッションや言動ひとつを取ってみても、早くから飾らない、自然体、等身大というイメージが強いアイドルだったと思う。
テレビを主戦場にしていた彼らの物語は、まるで「SMAP」というドキュメンタリーを見るかのように、その成功、失敗、挑戦、挫折、喜び、悲しみ…のすべてが多くの人たちに共有されてきた。

それでもある種のドキュメンタリーがそうであるように、それはきちんと演出されたエンターテインメントであり、ある意味ではフィクションだった。
その裏側にあるリアルを見て見ぬふりして、私たちはそれを消費してきたし、彼らもまたエンターテインメントの担い手として、意識的にも無意識的にも、自分たちの物語として見せるものと見せないものとを峻別してきたはずだ。

思い出すのは、2014年「FNS27時間テレビ」での中居正広さんと香取慎吾さんの「チャック論争」だ。
過去の解散危機を躊躇なく語る香取さんに対して、中居さんは、それは自分にとっては開きたくない「チャック」だと言った。
香取さんは、結果的に解散していないのだからチャックを開いても良いというスタンス、中居さんは(おそらくそれに関わるドロドロした経緯を)面白く見せる自信がないと、それを拒んだ。

しかし、後の様々なインタビュー(例えば、以下の記事)を見るにつけ、香取さんにとってのそれは、かつては痛んでいたが今は癒えた内臓。ちょっと秘密めいているようでいて、実は見せても構わないアイドルのカバンの中身。何が起きたかではなく、その時の喜怒哀楽で動いた心、それ自体だったのかもしれないと感じる。
一方で、今まさに受けている傷を見せることは決してしない。
それは彼にとっては別のチャックの中身であり、彼の言う「プライベート」なのかなと思う。
そういう意味では、香取さんも中居さんと大きく違っていないし、多分、他のメンバーも線の引き方に多少の違いはあっても、基本的には同じなのだろう。

https://www.asahi.com/articles/ASM4V3RBMM4VUCVL00C.html

この個展は、今までの仕事の中で一番「僕」が見えるもの。楽しんで作ったものも多いですが、作品に添えたキャプションにマイナスな気持ちやネガティブな言葉を書いたものがあって、驚く人もいる。僕からあまり聞いたことがないからだと思います。


それはあの2016年以降の様々な出来事においてもそうで、どれほど色々な憶測が飛び交っても彼らが沈黙を守ったこと、守っていることは「SMAP」 という物語にとってはとても大切なことだ。
そこにひとたび演者の人としての生々しさが透けて見えれば、受け手は途端に白けてしまうから。それがまさに中居さんが言っていた「チャック」に関わることなのだろう。
そしてそれは、面白く楽しく幸せであるべきエンターテインメントを届けることに全力を傾ける、彼らの矜持そのものだとも思う。

2016年以降、テレビと芸能界は自分たちで作った「夢の世界」の約束事を、自分たちの手で木っ端みじんに破壊した。
そうやって見たくもない裏側を勝手に見せつけ、
業界のルールとやらを押し付けて見たいものは見せず、
「はい、色々片がつきましたから、以前のようにチャックの外側だけ見て楽しんでください」
ではあまりにムシが良すぎる。
もう、「中の人」がいることをみんなが分かった上で、後ろのチャックを見ないフリをするのがルールだった時代は終わった。
今は、「ここにいるのはモノじゃない。楽しいだけではいられない、怒りもするし泣きもする、叩けば傷つく人間です」って言わなければいけないし、言っていいんだと思う。

一度見せてしまった裏側の記憶と、そこから受けた傷は決して消えることはない。それは彼らが提供してきたエンターテインメントにとって、致命的な重荷にもなり得る傷だ。
そんな消えない傷の記憶を持ちながらも、それでも成立し得る全く新しいエンターテインメントをどうやって再構築するのか。そのために、今なお懸命に試行錯誤をしているのは傷つけられた彼らの方だ。
無理やりチャックをこじ開けられてしまった以上、その中身も含めてエンターテインメントに昇華しようという覚悟だ。

彼らの最近のインタビューには、明らかに初めて聞く話題が増えた。
若い共演者への関わり方や、プライベートの話、年齢を重ねることに伴うあがき、今までは涼しい顔でやっていたことの裏側を覗かせるようになった。
それは今までとは違うチャックの開け方だな、と感じる。
露悪趣味とは違うし、いらずらな苦労自慢でもない。
でも、人として当たり前の感情、華やかさの陰にある地道さ。
SMAPはカッコ悪いところも見せてきたグループだけれど、それでも見せて来なかったそういう部分の一端を見せるようになったと感じる。

そして、この新型コロナウイルス下。その変化は、さらに明確になった。
あの個展の時でさえ、香取さんが開いたのは過ぎた日の「マイナスな気持ちやネガティブな言葉」についてのチャックだった。
しかし今彼は、彼が経験している現在進行形の心の揺れ動きを率直に語る。
いみじくもそれは、あの中居さんが緊急事態宣言下のラジオで語った「ちゃんとボクも辛いから」という言葉にも重なって見える。

その変化が意図的なものなのかどうか、私にはわからない。
ただ確かに言えることは、
「弱さを見せたら社会から切り捨てられるのではないか」という恐れに捉われ、それゆえに、一方では「弱さ」や「傷つき」を見せる人を過剰に叩くような、
まるで「弱さ嫌悪」(ウィークネスフォビア)とでも呼ぶべき空気が蔓延する時代の中で、この、変化しつつある彼らのあり方は、明らかにアンチテーゼになるということだ。

しんどい状況にもかかわらず、逃げること、弱音を吐くことをためらい、傷つけられても、じっと耐えることを余儀なくされている人たちがいる。
自分よりももっと大変な人、苦しい人がいるのだからと、自分のつらさを飲み込んでしまう人たちがいる。
ある日突然、今までのあり方を否定され、変化することを求められて、すぐには受け入れられずに途方にくれる人たちがいる。

「弱さを見せること」が重荷になる時代に、
「つらいことをつらいと言うこと」に罪悪感を持たされる時代に、
傷を隠さなければ、自分を守れない時代に、
今までずっとそれをしてこなかった人たちが、そのチャックを開く意味を考えている。

「このつらさを一回言ってみない?」
僕らもそうだから、君も。
僕らは、このしんどさにおいても繋がることができるよ。

彼らがこれまで開かなかったそのチャックを開けるのも、
やっぱり、今それをいちばん必要としている誰かのためなのかもしれないな。
そうやって彼らは結果的に、これまでがずっとそうだったように、この時代の多くの人たちに、また寄り添うのだと思う。

いや、そんな大袈裟な話ではなく。
少なくとも私は救われた。ホッと息をつけた。彼らが開いて見せてくれた、そのチャックの中身に。





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