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癡人の独語

親記事>『辻潤著作集2』の入力作業と覚え書き
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いずこに憩わんや?

   ――或は『癡人の独語』の序に代う――

 われわれが生きている間は太陽や空気や、「宇宙線?」の影響を免がれないと同時にさまざまなバイ菌の影響から兔がれることも出来ないのである。聴きたいと思わない時でも無遠慮にラジオはさまざまな音響を放送して来る。われわれも亦ひどく饒舌である。「文学」は畢竟、饒舌の異名に過ぎない。溪聲山色長廣舌という有名な文句があるが、まったくその通りである。
 現在の私の唯一の慾望とでもいうべきものはどこかに「隠遁」したいということだけである。陶淵明のことなどを時々考えてみるとひどく羨望の念が起って来る。彼氏にはかえり得る故郷があった。しかし、私の場合に於てはかえるべき故郷もないのである。たとえ故郷がないにせよ、金さえあればどこか落ち着き得る静かな山間を撰択することも出来るのであろうが、肝腎の金がなければそれを実行しようという第一気持さえ起っては来ないのである。私は病人でもあり、年もとったのである。恐らく社会的に見れば立派な落伍者であり、無益な人間であろう。であるが故にせめて少しなりとも他人の邪魔にならないような生活をしたいものであるというのが偽りのない現在の念願なのである。まことに元気のないこと夥だしいものがある。
 私は昨年、東北の旅からかえってからというものはまったく住所不定であちこち友人や親類の間を彷徨して厄介をかけていた。住所が不定なため落ち着いて友人諸君にハガキを出す気持も起らず、況んや原稿などを書く気など更に起らなかった。頭のわるくなったのもその原因ではあるが、なにより落ち着いてねるところがないのでは仕事が手につかないのは無理もないと思ってもらいたいものである。
 さて、私は最近『癡人の独語』という文集をやっと出すことが出来る機会を得た。私はそれによって久しぶりで自分の独立した部屋のある家に住むことが出来そうなので、今からそれを楽しみにしているのである。まったくぎり考えてみても私は一個の「癡人」以外のなにものでもない。自分のことを「癡人」などと称することは見方によるとイヤ味な感じがしないこともないが、ほかに適当な言葉を探しあてることが出来ないので、しばらく「癡人」を借用して置くのであるが、その音から来るかんじがなんとなく「ツジジュン」ときこえないこともないのである。
 この中に納められた零細な雑文は過去数年間に於ける「癡人」の「生活記録」であって、謂わば一種の「報告書」でもある。私はこの文集を別段改めて世に問おうというような了簡は少しも持ち合わせてはいない。ただ、従来私のような人間の書くものでも愛読して下さる人達へ、私がどうやら未だ生きているということを知らせ、多少自分の最近の心持を伝えたいためにほかならない。
 私がまことに滑稽な洋行をすませてかえって来た時に、Y新聞に「西洋からかえって」という短文を書いた。その中に私は露伴と鏡花の両先生に一寸言及したので、「辻潤は巴里みやげに露伴と鏡花を携えてかえった」といってひやかされた。それから引きつづき西洋文明にケチをつけるようなことを時々発表して「反動派」になったといって知友から嗤われたりした。しかし、私の書いたものを熟読している人なら、私が無茶苦茶に西洋を貶しているのでないことはわかってもらえると思う。だが、西洋にも所謂、科学文明に反対している人達はいくらもある。私は「科学文明」そのものが別段わるいとかいいとかいうのではなく、現在のような人間の道徳意識の水準から推して、どう考えても機械文明はよろしくないと考えているのである。
 人間の生活の幸不幸からいったら、少し極端な話かも知れないが、例の老子の「小国寡民」説に賛成せざるを得ないのである。しかし、恐らく、何人もそれが直ちに実現出来るものであるとは信じないであろう。しかし、古来からの所謂「文明」なるものは幾度か栄えては亡んでいる。「文明」が亡びるということと「国」が亡びるということとは別である。日本でも「江戸文化」はなくなったが、反対に新しい西洋の文化が侵入して、現在では日本独特な域にまで到達して来ている。
 話が少しそれたが、大体に於て、この書は自分の矛盾した支離滅裂な意識の表現だと思ってもらえばいい。いわば「癡人の迷妄」を語るもので、いつまで経っても澄みきった心境などには到達出来そうもない。尤も親鷺のような人でさえ、「いずれの行も及びがたい」と告白しているのだから、自分のような人間が迷っているのはあたり前の話だと考えている。
 人間の賢愚強弱美醜は天地自然の道理? であっていかんともなしがたい。しかし、等しくこの世に生を享けて生まれてきたのであるから、生きる権利があり、愚者は愚者なりに、弱者は弱者なりに物をいう資格があると思うのである。私はこれまでに比較的自分のいいたいことをいって来たし、やりたいと思うことをやって来た。初めから三井、岩崎を志したこともなければ、ゲーテ、シエクスピアを目標としたこともない。だから、その点ではなんの悔いもかんじてはいない。ただ自分の書いているものが所謂「文学」であるかないかは別として、なん等かの意味で同類のために幾分でも慰めになればそれで私は満足なのである。
 自分のように生活力の薄弱な人間がよくもこれまで生きてこられたと時々不思議に考えることがある。幸い私は次第に外界の物慾に誘惑をかんじることが年と共に少なくなって来たので自分だけは気楽であるが、しかし、省みて自分のような人間を「父」に持った子供達に対してはまったく頭があがらず、なんといっていいか、弁解や謝辞の言葉をさえ知らないのである。
 自分は従来ダダだとかニヒリストだとか自分でもいって来たし、人からもいわれて来た。しかし、私は現在あらゆる符牒やイズムから解放されたいものだと思っている。まったく名の名とすべきは常名ではないのだ。しかし、他人がとやかくいうのは勝手次第であるが、私はこの際、一切の名目を放棄したいと思うのである。「形空虚に充ちて、乃ち委蛇に至る」という文句が荘子の中にあるが、自分に理想がありとすれば、強いてそんな風なものだといいたいのである。
 人間には天地の正体を把握することが出来ないように、自分の正体をもハッキリと掴むことは不可能なのである。モンテーニュのような賢人すら、「われまたなにをか知らんや?」といっているではないか?
 版元のS氏は僕のことをなにか「聖者」の出来損ねみたいに吹聴してくれるのであるが、それはまったく贔屓の引き倒しというものでまことに微苦笑ものである。尤も「聖者」も見方によれば一種の「変質者」であり、「狂人」でもある。私の場合に於てはもはや改めて説明の必要もない程正札付きなのである。
 飯を食うことが私の生活であるように、文学することも、自分の生活以外のなにものでもない。この自己分裂の見本の如きものは一見反智識的、仏教的、唯心的に見えるかも知れない。しかし、自分では必ずしもそうとは思わないのである。唯好んで私はパラドキシカルな物のいい方をするから、それがわからない人達からはひどく誤解されるかも知れないのである。しかし、時節柄ことわって置くが、この中には自分一流の「日本精神」が流れていることだけは断言出来る。
 禅家の文句には如何にも鬼面人を脅かすような文句が沢山ある。芥子粒の中に須禰山が入っているなどという。これは電子の中に全宇宙が包含されていると飜訳しても差支いない。
森羅万象の中に自己を放擲して生きる程融通無碍なことは恐らくあるまい。こうなると、もはや、東洋的だの、西洋的だのといっているようなことが、甚だケチ臭く思われて来るのである。
 いずこに憩わんや? まずたのむ椎の木もあり夏木立――しかし、なにも椎の木とかぎったことはない。御寺の本堂もあれば、公園のベンチもある。いや此処に辻潤著わすところの『癡人の独語』という至極安直な廃屋がある。同好の人々よ、しばらく自由に憩い給え。敢えてこの「愚書」を三原山患者にでもデジケートしようか?

                     ――昭和十年八月、大森にて
                                辻潤

錯覚した小宇宙

  ――Our faith comes in moments;
    our vice is habitual. ――Emerson.

 人体が一個の「小宇宙」であるという思想は別段珍らしい考え方ではない。禅家では芥子粒の中に須禰山さえ入っている。これは比喩だが、電子の中にひょっとしたら全宇宙が包まれているのかも知れないのだ。
 自分は少年の時分からひどく空想癖が強く勿論、妖怪変化の類が好きだった。長ずるに及んで神秘家になったところで別段不思議ではあるまい。しかし、なぜ自分がロマンチケルであるかということは説明のしようもない。
 自分は近頃では益々理論というものの如何に無価値なものであるかを痛切にかんじるようになって来た。但し、麻雀が好きだという位な意味で理論を弄ぶことの好きな人達を別段咎めようとは思わない。世に真理というような固定したもののあることを信じている人程、気の毒な人達はないと考えている。現代の多くの狂信的マテリヤリストは原始基基督教徒と一向変りがない。かれ等の中には立派な殉難者が沢山にいる。
 畏友古谷栄一君はかつて「人間の自我は錯覚」という説を発表した。自分はその説に大に推服しているものである。簡単に結論だけをいうと――人間つまり一人の個人は形而上的には一人でも二人でもなく、恰かも水のように流動して融通無碍だというのである。唯その流動が永い間の惰性によって一点を中心として緊縮されているに過ぎないというのである。故に「死によらずんば之等の何千万年の惰性を打砕して本然の微分流動に放化し、散却することが出来ぬ」が一度心眼を開いて黙想するならこの縦鼻横目の活人そのまま彼を微分流動の中に放って考えることが出来る。要するに一の個人は只彼を中心として全宇宙の流動循環が浪打ち来るその一切の力の尖端に於ける全宇宙の一表現、一仮現に過ぎぬ。それ故――個人はそのままで全宇宙である。
 勿論、どうして惰性のために「自称」が出来あがったのだかということは不明なのである。しかし、所謂、普通に「自己」と袮している、またそれをさも重大な意義ででもあるかの如く振りまわしている輩の如何にくだらないかは大方の経験によって分明である。
 自分は夙に人生を左程有意義に考えてはいず、人間の生活を寧ろ悲惨で滑稽なものだと考えているのである。勿論、自分達の生活をもひっくるめての話である。どうしてもこんな不合理で馬鹿々々しい生活はあったものじゃないと思う。しかし、どうもこれが今始まったのではなく何千万年か続いているらしいのには恐縮しているのである。全体、如何なるそこに道理があるのであろうなどと考えても、せいぜい聖書の創世紀でも信ずるよりほか名案も浮んでは来ない。
 一度理性を働かして物を考えると、自分は忽ち懐疑派になる。これはひどく逆説じみてきこえるかも知れないが、自分が心霊というような物の存在を信ぜざるを得ないのは自分が如何にスケプチックであるかという証拠なのである。自分に解らないものを全部否定する勇気のある人の如何に幼稚で無邪気であるかを私は嗤わざるを得ない。自分にはアインシュタインの「相対性原理」という説が勿論よくわかってはいないが、わからないからといって彼の説が誤謬であるなどといえた義理ではない。
 古谷式の個人即宇宙説からいっても人間は誰でも霊媒になる位な可能性はもっている筈である。しかし、エレメントの結合は森羅万象と共に無限に複雑しているから、「可能性」はあるが、やはりそこには特別な「天才」が存在しているわけである。普通人の聴覚とベイトウベンの聴覚とを同一視するわけにはいかないのである。犬や猫は恐らく人間の所有していない遙かに微妙な嗅覚を持っているに相違ない。
 禅家では無念無想というようなことを常套語に使用しているが、やはり一種のトランス状態に没人した意味だと自分は考えている。そこになにか普通とは異なった心的現象が現われて「悟得」することになるのであろう。問答も常識的に考えると人を馬鹿にした洒落の交換とも思われるが、やはり一種のテレパシイが行なわれるのだと自分は信じている。由来、直覚は天才に付き物ではあるが、これを昔から「霊感」といったのはまことに当を得た言葉だと思っている。偉大なる科学者のすべての大発見や発明も単なる理性の働きによっては決してとげられなかったに相違ない。
 自分は近頃、自分の生まれた「日本」という郷土に生息している「日本人」の正体をハッキリ把んで見たい欲望にかられている。ほんとうにハッキリした「国民性」というようなものがあるかどうか、あれば、それは実際どんな風なものなのであるか、等々に就いてである。勿論、ひどい雑種であることだけはわかっている。それがどの位な程度の雑種なのであるか、しかし、国も狭いし、随分長年の間他国ともあまり交際せず、相互の血液はかなりな程度まで濃厚に融合している筈であるから、自ずから別種の「国民性」が出来あがっているわけである。しかも、それが外国特に欧米の影響を苦もなく受け入れて、忽ちその思想や生活までかれ等の模倣をするに至ってはよほど独創性の缺如した「国民性」だと見える。自分は今日の十中八九までの日本の不幸な現状は所謂欧米の文明を盲目滅法に模倣した結果だと考えている。今に至ってはとうてい挽回の道もなさそうだが、一応忠告だけはして置きたい。
 話が岐路に亙ったが、自分は一般の日本人のあまりに常識的なのを軽蔑したいのである。これには儒教(孔子の説に非ず)の影響が多分に低流になっていることと思うが、英米の所謂ブルジョアジイの似非偽善的な紳士道徳の影響もかなり混っていることであろう。一言にしていえば功利的でケチ臭く、俗悪にして下卑ている――このブルジョアジイから物質的な富を剥奪してしまうと逆にプロレタリアートが現われて来る。いずれも下等なマテリアリストで、所謂駱駝が針のメドを通るより、もっとむずかしい手合いである。
 人生――もっと広くいえば我々の目睹する現象界はこのままでは到底解釈は不可能である。心霊界があると信ずる方が理窟に合っている。一概に空想とか迷信とかいうが、全然根拠のないものからはなにも生まれては来ない。普通の官能を標準にしてすべてを解釈することはまったく浅薄にしてとるに足りない。一滴の水の中に蠢動するアミーバにはアミーバの世界しかわからないと同様、人間を万物の霊長などと自惚れたら、もうなにもかもわからなくなってしまうであろう。
 元来、科学というものは現象界の法則や、作用を説明するものだが、それが一定不変であるとはどうしても信じられない。人間の知力の変化に伴ってどんな風になるか計り知られないのだ。だから絶対不動の真理などは到底今のところでは考えられない。だから、自分はいつでも半信半疑だ。幽霊を見たという人は多分見たのだと自分は信じている。頭からそんな馬鹿なことはないなどとはいわない。極端にいえば我々の眼に映じている現象は全部錯覚であるかも知れないのだ。猫の見るアポロの像と、われわれの見るアポロの像とがまったく同一だとは到底信じられない。これは階級闘争の理窟にも応用出来る。僕は階級闘争などという生ぬるい説はきらいだ。闘争という方面から見れば男女はいうまでもなく生物の各自がみなそれぞれなん等かの意味で闘争しているのだ。生きているということは搾取していることである。唯その程度に千差万別のちがいがあるばかりだ。此処まで押し詰めると理窟はなくなってしまうらしい。
 心霊問題の研究が必要か否かというような質問はある意味で愚問だともいえる。必要でないといえば、みんな不必要だし、必要だといえば一つとして必要でないものはない。だからその方面に趣味をもってやりたい人は大いにやった方がいいと思う。学問は道楽で、茶や、麻雀をやるのと大差はない。生産、生産とうるさくいう人達がいるが、そんなことは始めから問題にもならん屁理窟である。しかし、若し人間がみんな労働をしないでも、安楽に生きてゆく方法さえあればそんなことはまことにどうでもいいことになってしまうのだ。遊んでなるべく楽をしたいという本能が人間にある間は、だがいくら朝から晩まで汗水を滴らして働け働けといったって無理な理窟である。そんなことを口でいう奴に限って、自分は一向働いていない連中が多い。
 ダダイズムという名称は今では既に黴か生えて場末の古道具屋の片隅に転がっている化物だが、自分のいわんと欲した意味は一般世間からは甚だしく誤解されたし、現に今でも依然として誤解されている。
 自分がダダといった意味は、自分のミクロコスモス的自覚に名づけた名称にすぎない。自分はコスモポリタンであるが故に、真の愛国者である。偶像破壊者であるが故に、デイストである。自分は出来るだけ融通無碍でありたいのだ。しかし、自分は限られている存在だから、決してアプソリュートではあり得ない。
 マルキシズムや唯物思想や、アメリカニズムや、大衆や、エログロや、その他一般に喧々囂々として附和雷同する街頭の流行論に附随して僕などが今更チンドン屋の旗持の一人になる必要は毫もない。自分は自分の「個」をあくまで掘って、自分でなければいえないようなことをいって見たいと欲している。読者は僕の支離滅裂な理論の矛盾に躓かないようにしてもらいたい。

錯覚自我説


 現代においてはすべて形而上的な一切の思想は季節外れである。芸術(特に文学)においても幻想的な、主観的な、浪漫的なものはすでに過去の遺物ででもあるかの如く蔑視されている。
 時代の潮流と共に歩調し得ないあらゆる思想や芸術はほろび去るがいい!
 来るべき天国への鍵は新興プロレタリアートのみで把握しているのだ。自余のブルジョア的、小ブルジョア的、インテリゲンチャ的の一切は来るべき天国への資格を欠いている。かれ等はやがて小気味よくもほろびんとしている人種どもである。たとえかれ等が如何にもがきあがこうとも最早生命の道を無残にも断絶されている過去的亡者どもである。
 現実的、科学的、生産的なもののみが未来の栄光に与かり、潑剌たる健康な新世界に生きる資格を有しているのである。
 私は果して然るか否かについてここに論じようとする者ではない。否、それには全然関係のない一友人の最近の著述について少しく語ろうとしているのである。
 自我とはなんぞや? 自我とは人間の錯覚より起った一つの迷妄である。一切は相対的である。宇宙は歪んでいる。エーテルは果して存在しているか否か? マルクス的価値とアインシュタイン的価格とはいずれが高価なるや否や? 神聖にして犯すべからざる物は世界に果して幾個存在するか否か?――凡そこれ等の問題は極めて高遠に形而上的なる問題である。
 凡そ形而上的思索とは現実的な価値から遙かに距離した物品である。われ等はパンによってのみ生きる者である。思想は決して飯の菜にさえなり得ない程に空漠たるものである。「自我」の存在の有無の如きはわれ等の生活となんのかかわるところぞ。むしろ、市会議員の選挙に狂奔するこそ有意義である。
 錯覚自我説とはなにか?
 錯覚自我説とは人間の自我なる意識は万有者の持てる普遍意識で個体に現われた個体意識の錯覚だという説である。
 一切の存在は万有生命の惰性の表現である。宇宙は微分流動している。古谷栄一君の中に辻潤が存在し、辻潤は今これを書いている瞬間、かれの耳にしている蛙の音楽と交流している。かつてオランダの放浪哲学者はわれ等が太陽の子孫であることを説いてきかせた。人間の故郷は太陽であるという説である。かつてわれわれは太陽中に棲息していたことがあったともいえるのである。しかし、太陽は果して吾人の中に現に存在しているのである。
 人間の生活は本来は無目的な生命であった。非合目的な生命であった。なん等の方針方向なるもののない生命であった。
 人間の意志にはふた通りある。生命意志と実行意志とである。前者は生活力であり、生物意志であり、植物や鉱物さえこれを持っている。後者は実行力がある、意志は決しておのれが本来目的として欲しないものを目的としない。かれが目的を立てる時は必ずやすでにかれは大劫初からそれを目的とせねばならぬ様に運命づけられている。かれの目的とはただかれに与えられた運命の追認的ホンヤクであり、自己欺瞞である。
 経験的には意志は価値によって導かれる。ゆえに価値は意志より原始的のものに見えるがそうでない。意志あってはじめて価値なるものは設定せられるのである。


 価値は機制に付帯した副感情である。副現象である。複雑な主観がおのれの中にある惰性必然の機制を感ずると、それを遂ぐる事においてある快感を感ずる。この快感から誘われてある価値感を主観は感ずる。そうして何かある特殊な偉大な価値が実在するかのように錯覚を起す。ゆえに価値は意志同様にこの盲目必然の傀儡である。
 人生における一切の価値の真相はこれである。誠に一つの錯覚である。形而上的な原本的無価値の妄動に惰性が加わって出来た動向に主観的錯覚の加わった空想が価値である。
 人生が形而上的に巨大なる無意味だといい得る事はこの処から確証を得る。
 徹底的な形而上的虚無思想はここを通らねばならない。
 個体なるものはその如何なる個体でも本来が本当の個体ではないから本当の統一はない。一つの個体は無数の執意、無数の惰性の中心に過ぎない。ただその中の一つのものが偶然の事情で最も強い型式を獲得したので、他のものは亡びたのでなく、皆その下に雌伏したのに過ぎぬ。それゆえ一朝事情が変ずれば勿ち雌伏したものは雄飛し、崛起して第一のものを覆す。そうしてそれが調整する余地がなければその時に大抵個物は破壊される。個人は滅亡する。或は精神の破産となる。若し人間が真に永遠不滅な絶対統一的な強健な自我を持っているならこんなことはない筈である。が、自我はただ個人の存在の一追加物に過ぎない。個人が一時的事情によって自我的傾向を帯びたのである。
 個物、生物個体、これ等のものは本来一個とか二膕とか一人とか二人とかいう数でかぞえられる存在ではない、数を超越した存在である。万有は一切が微分流動であるから海に立って水を数え、空に立って風を数えることの出来ぬように、形而上的には星を数え、魚を数えることが出来ない。ただ経験的に、方便的にある措定と仮定の上に立って数えるだけである。形而上的には一人の個人は一人でも二人でもなく、今や水の如く遍融無碍の流動在である。ただその流動が長い間の惰性によって一点を中心として緊縮せられたに過ぎぬ。死によらずんばこれ等何千万年の惰性を打砕して本然の微分流動に放化し、散却することが出来ぬ。が一度心眼を開いて黙想するならばこの縦鼻広目の活人そのままのかれを微分流動の中に放って数えることが出来る。要するに一の個人はただかれを中心として全宇宙の流動循環が浪打ち来るその一切の力の尖端における全宇宙の一表現、一仮現に過ぎない。それゆえ、個人はそのまま全宇宙である。
 私は今、徒らに古谷栄一氏のパアロットになっているのではない。私はすでに十余年前から仏教の実在観に降伏してしまっている人間なのである。そうして古谷君の旧著『オイケン哲学の批難』なる著書は、私の十年来の愛読書の一ツなのである。
 私は古谷栄一氏の著書に対して非常な興味をもっていたが、更にその人物に対して更にそれ以上の好奇心を抱いていた。しかし、氏の十余年以上の沈黙は私をしてしばしばかれの存在をさえ疑わしめたのであった。
 しかし、偶然は私をして遂に氏との親交を結ばしめた。氏は拮据十余年かれの仕事に没頭して、千数百枚にのぼる『循環論証の哲理』と、約六百余枚にわたる『錯覚自我説』と更に驚くべき創作とを完成させていたことを知ったのである。
 私は形而上学の学徒でもなければ、マルクスの信奉者でもない。哲学史をすら通読したことさえない人間である。しかし、古谷君の『オイケン哲学の批難』なる書物は何ゆえか私を非常に魅惑せしめて数回反復熟読せしめた。かれは一面すばらしき詩人でもある。決して単なる形式論理的、講壇的、乾燥無味的哲学者ではない。
 新著『循環論証の新世界観と錯覚自我説』とは氏の哲学のエッセンスで、これだけ読めば十分にかれの思想を知ることが出来る。
 現代はまことに形而下的時代である。功利主義万能、唯物史観全盛時代である。この時にあたって、古谷氏の如き偉大なる形而上的ドンーキホーテが現出して、形而上的欲望のために万丈の光焔を吐くことは実に僕のひそかに愉快とするところである。
 形而上的思索の如きは無用の長物であるかも知れぬ。宇宙が三角であり、四角であり、自我が錯覚であると否とは生きる上になんの必要もないことかも知れぬ。しかし、必要と不必要とを問わず、人間は形而上的にも思索し得る生物であるのだ。
 西洋哲学の講釈や、東洋思想の解説者はなるほど腐る程いるかも知れない。しかし、真に独創的な思想を披瀝し、それを血肉的に体験して、日常生活の上にも、それを生かしている人間はまことに少ない。
 単なる思想は概念である。それが如何に唯物的であろうとも畢竟一つの概念である。飢えたる人間にとってはバイブルがなんの役にも立たない如く、マルクスの資本論も同様に役には立たないのである。


 人間が生きる上において哲学や芸術が不必要だというような考えは、生きる上にタバコや酒が不必要だという説と少しもちがいはないのである。心要、不必要を論じて極端に行けば人間が生きていることそのことが不必要であるとさえいえる。われわれはなんのために生きているのか、国家のためか、両親のためか、愛する女のためにか、無産階級解放のためか、芸術のためか、酒のためか、資本家のためか――生きる対象は無数に存在する。しかし、決して自分一人のわがままのためには生さてはならないのである。
 私は今、これを古谷栄一君のために書いているのである。氏の著作が一人でも多くの人々に読まれることを希望して書いているのである。私は一人の友達のために、友達を愛するがためにこれを書いているのである。
 しかし、果してそれが古谷氏のためになるかどうか私は確信は出来ないのである。偶々私の如き者がランタアンを持つためにかえって古谷氏の真価をその結果において傷つけることになるかも知れないのである。
 とに角、私がこれを書いたことは古谷式にいえば劫初から定められた一つの惰性である。古谷氏が書かせたものでも、私か書いたのでもない……DADAが書いたのだ。

あるばとろすの言葉

  ――慈悲は神に在り、行きて飲め!!――ケイヤム

 自分には飲酒の性癖があり、それがかなり長い間続いているために、精神的にも肉体的にもアルコオルの影響を離れては「自分」というものを考えることが出来ない。自分の旧い友達で若死したYという詩人は、かなりひどい飲酒家で、彼はまったく酒と心中したといってもいい位無茶苦茶に酒を飲んだものだが、彼はよく「――アルコオルという奴は立派に“人格”を持っている――」とよく口癖のようにいっていた。彼はいつもたいてい酔っ払っているので、「現実」と「夢」の記憶が判然としないといっていた。彼はかなり酒癖がわるく酔うと眼が瞠って来る方で、まったく「自己」を忘却することが出来たらしい。しかし、彼は稀に見る純粋な詩人(彼は殆んど雑誌などに一度も作品を発表したことなどはなかった)だったから、酔った時の彼の直観の鋭く働いているのを見ると時々物凄いようなかんじがした。勿論、そんな時は、自分もたいてい酔っていたから、一層それをヴビッドにかんじることが出来たのであろう。
 英語でアルコオルのことをスピリッ卜というのはたしかに面白く意味深い言葉だ。深く酔っている時にはたしかにシラフの時とはちがった意識が活躍している。潜在意識が動いているというのか第六感というようなものが働いているのか、なにしろ後で考えて、度々不可思議だとかんじることがある。
 宗教家と芸術家は元来同一の素質のものでそれを極めて卑近にあてはめてみると、市井の居酒屋でグデングデンに酔って人にも自分にもわけのわからぬ囈語を吐き散らしている泥酔のルンペンと変わりはないのだが、つまり飲んでいる「酒」の種類がひどくちがっているばかりなのである。ペイトオベンの音楽なぞというものはそのわけのわからぬねごとの最高なるもので、あれを普通の人間――つまりシラフの人間がきいてもわかるわけがないのだ。わからないけど、唯わかったような顔をしているだけの話だ。
 人間は酔うとみんなたいてい「本音」を吐くものである。その人間がどの位の程度の人間だがということは酔っている時に一番よくわかるものである。
 昔、ヘブライの予言者達は「神酒」に酔いしれて野に叫んでいた。かれ等は「詩」を高らかに朗吟していたのである。しかも、それを真に解するものは恐らく極めて少数の人達であったに相違ない。若しイザヤやエレミヤの徙が現代の東京に現われたなら、かれ等は直に松沢か市ケ谷に収容せられるであろう。
 自分は多少知名であるがため、屡々「書」を書くことを強要される。自分はたいていの場合それを拒んだことはないが、内心常に苦笑を禁じ得ない。拙劣な文字は自分と雖も見てあまり愉快なものではない。しかし、陶酔している時には、稀れに自分でもすぐれたとかんじる「文字」を書くことがある。そんな場合にはたいてい後で考えてみても、なにを書いたか記憶していない場合が多い。その巧拙は程度の差ではなくまったく違ったものなのである。勿論、自分は書道に志したことは一度もなく、まったく自分独自のものでその「文字」は自分の「性格」の単なる表現に過ぎぬ。だから時として全く興味深い「文字」を羅列することがあるのだ。自分は自分の書く「文章」と、「書」とを比べて考える時、後者の方が遙かに「芸術」に近い気がするのである。
 陶酔している場合には「霊魂」が直接に飛躍するからそれを「文章」などにする余裕はないのだ。自分はシラフで歌をうたうことなどまったく不可能だ。すぐれた音楽の天才は恐らく常に陶酔の状態にいるのであろう。
 たいていの人間は、特に大都会に蝟集している人間の耳には市井の騒音しか耳に入らない。(ラジオ)かれ等の聴くものは常に「人籟」なのである。田園に棲息している人間の耳にしているのは「人籟」若しくは「地籟」である。
  「天籟」を聴く者に至っては恐らく稀有といってもいい。
 荘子の『齊物篇』の冒頭に南郭子纂という人が出て来る。彼は机にもたれ、天を仰いで嘯いている。荘子はそれを形容して「嗒焉として共耦を喪うに似たり」といっている。彼は所謂第四次元、若しくは五次元の世界に没入しているのである。常人の隕から見たら彼は立派な「白痴」に見えたに相違ない。
 そこへ顔成子游という弟子が入って来て、先生の様子があまりに変っているので尋ねる。
 ――どうも今日の先生の御容子は今までにまるで見たことがありません。まったく別人の感があります。道の極意に達するにはそんな風に形は枯木の如く、心は死灰のようにならなければ駄目なものでしょうか?――その時先生の子纂はその問に答えて、
 ――おまえの質問は甚だ当を得ている、まことによろしい、実は今日己れは全然自分を喪ってしまっているのだが、おまえにそれがわかるかね? おまえなどは、まだいつでも「人籟」ばかりきいて「地籟」をさえほんとうにきいたことはあるまい、況んや「天籟」などは夢にもきいたことがなかろう――そこで子游が如何にも先生の仰せの通りだと思ったので、どうしたならばその「天籟」を聴くことが出来るかと尋ねる。そこで南郭先生が惇々としてそれを説明することになるのだが、それは直接『齊物篇』を読まれた方が遙かにいいと思うから略して置く。しかし、「人籟」ばかりきいている人には一寸わかりにくいかも知れないがそれは仕方がない。
 「天籟」はつまり心霊の世界のことなのであるが、人智が進んで、「人籟」をきく事ばかりに夢中になってしまっている近代的な人間には、中々そんなことをいっても信用はしない。寧ろ山野にいて、なんにも知らない無智な人間の方が「天籟」をきく資格が充分に備わっている。少なくともかれ等は常に「地籟」に親しんでいるからである。
 近代の科学的智識――即ち「根拠の原理」に囚われている人間は、彼の「猿智恵」が発達していればいる程「天籟」には縁遠い人間になってしまっている。凡そ物には順序というものがあるから、人間は霊界に参じようと思えば先ず一切の「人為」を捨雎して、猫や犬の弟子にでもなった方が遙かに「天籟」に近づく捷径であると自分は近頃考えている。昔、基督は「汝等幼な子の如くならざれば天国に入るを得ず」といっている。そうして、所謂、パリサイ、サドカイ(現今のマルキストの如き徒輩)の所謂智識を誇りとするやからの如何に「天国」に縁遠い人種であるかということをつくづく慨嘆しているのである。
 ソドムやゴモラの滅びたように、また羅馬の滅びたように、やがて世界の文明国と称している都会もかれ等の所業によって痛快に亡び去るであろう。現にその機運が此所彼所に現われている。それは単に資本主義が崩壊に瀕しているばかりではないのである。「審判の日」が近づいているのである。まったく耳ある者は聴けといいたい位なものである。
 自分はこの前にもいったが、心霊の世界をあまり科学的に研究することは賛成してはいないのである。勿論、絶対に反対する者ではない。唯その効果を疑っているのである。自分をむなしくし、心を謙虚にして、未知の世界を信ずる人々の方が「神」を見ることが出来ると自分は信じているのである。
 人生は到底「現世」だけでは解決は不可能だと思う。若しそれが「可能」だとすれば夙に解決されなければならず、第一初めから、そのような疑問も起らず、人間はさまざまに苦しみ悩むようなことはないであろう。いくら「文明」を誇っても未だに天災地変疾病を兔がれることが出来ず、ひとえに業悪の中に蠢めいて激甚な「生存競争」に人々の形相は次第に悪鬼羅刹に近づいてくるではないか? レーニン、ムッソリニの如きはいかにもその頭目としてふさわしい形相をしている。そうして、かれ等の多数はまたそれを崇拝しているのである。まことに歎かかしい極みである。
 人間にはさまざまな種類があって個人々々が一つの世界だと見た方が正しいようである。そして人間が相互に各自の意志を表現する場合、使用している言葉が不完全な上に、たいていの人間は自分の真に感じていることや、深く考えていることを表現するものではないのである。故にたいていの場合、人は相互に他人のいうことを最初から信じないように習慣づけられている。かれ等は「虚偽」を常套手段としているのである。かかる人間に対して、真実の世界即ち「霊」の世界を説明することは極めて至難である。「ことば」が既に汚されているのである。であるから、古来の聖賢や哲人等はたいてい比喩をもちいた。もちいざるを得なかったのである。禅僧は由半言語を蔑視し、以心伝心を力説したのは、つまり悟りの境地が到底通俗的な言葉では表現し難いばかりか、言葉はかえってそれを伝える邪魔にさえなる場合が多いと考えたからである。
 オスカア・ワイルドの如きは彼自身があまりに彼のパラドックスに溺れ過ぎ、またそれを解することの出来ぬ衆愚のために遂に身の破滅をきたしたとも思える。饒舌を謹み得ないのは由来文人の常である。 (昭和六年九月)

えふえめらる

 生まれて生きている「自分」というものは、誰か見知らぬ人間によって投げられた毬のようなものだ。運動の法則によってある定められた時間の間動き続けているに過ぎない。つまり惰性によって動いているのである。
 このような比喩は別段珍らしくも、新しくもなく今まで恐らく無数の人間によって考えられ、いわれて来たことに相違ない。そうして自分も亦そんな風に考えてみるのである。
「自分」をこの地上に転々させている「誰か」が神であっても悪魔であっても孰れにしてもかまわない。どっちにしても「自分」には別条はなく、またどっちにも考えられるのである。それに「神」や「悪魔」の内容に至っては殆んど無限に豊富で、人間の数と同じ位それは色々に考えられるのである。「神」や、「悪魔」というようなものが実在しているか否かということはわからない。しかし、人間がこれまでも、また現在でもそれに就て考えていることは事実である。勿論、大多数の文明人達はそれを否定するに相違ないが、しかし、その否定の論拠は決して明らかではないのだ。
 なぜ自分がこんな風なことをいい出したかというと、自分が物を考える態度を少しばかりハッキリさせて置きたいためにほかならない。つまり、自分のような人間は絶えず物事を色々な風に考える質なので、たとえば「神」や、「悪魔」の存在に就いても、ある時はそれが実在しているように考えてみたり、ある時は「なぜ人間はそのようなことを考えるのか?」というように考えてみたり、色々と信じたり信じなかったりする人間であるということを明らかにして置きたいのである。
 しかし、唯自分の態度として自分の考えはまったく「自分」だけのことで、如何なる場合に於ても他から強いられたものでもなく、自分以外の大多数の人間の考え方に同意するためでもないということだけを断言して置きたいのである。
 だから、自分の考えは他の人々と全然異なっている場合もあればまた他の大多数の人々の考えと一致している場合もあるのである。そうして、その時々にひどく矛盾することがある。自分が「自分」を「1」として考えるように、自分を構成している各細胞も各自を「1」として考えているかも知れない。若しくは考えることが出来る。
 人体を一個の「小宇宙」と考える考え方もある。胃袋の細胞はまた胃袋を一個の「小宇宙」と考えることが出来るであろう。或はまた人体を太陽系と比べ、心臓を「太陽」に比べて考えることも出来るであろう。そうした場合、脳髄は神々の集合するオリンポスとも考えられるかも知れない。
 近頃、新聞を見ると、「組織」とか「細胞」とかいう言葉が度々出てくる。そうしてそれ等の言葉は所謂「社会運動家」の間に用いられているらしい。
 人間を簡単にある一ツの鋳型に入れ、それを機械的に組織して、ブルジョアジイに対抗せしめ、新社会を出現せしめようとする運動をやる人々が社会運動家なのである。それに対してブルジョアジイはまた色々と防禦策を講じている。
 この場合も、手足の細胞が人体の中央にいる胃袋やその他の細胞に対して反逆を試みているようにも思われるのである。
 そればかりでなく、人体には常に無数のバクテリヤが侵入して、組織を攪乱しようとしている。各細胞はそれぞれそれ等のバクテリヤと応戦して、かれ等を撲滅しなければならない社会が不断の争闘場裡であるように人体も亦常に戦場なのである。
 宇宙が不断の争闘によって維持されているという説は夙にヘラクリトスによって説かれている。

 調和は唯だ異なるものの適度の配合によってのみ成り立つ。白色が七色の綜合であるといわれているように。
 「不生不滅」とは調和の世界である。それはまた「不増不滅」でもある。エマアスンの「コッペッセエション」はその世界を説いたものである。また「因果応報」の倫理説でもある。
 若しニヒリストに理想があるとすれば、それは不断の「調和」を実現せんとするものである。「虚無」の世界とは「白色」の世界の謂である。「昼」に対しては「夜」の世界である。
 達磨が面壁九年したというのは彼の内生活の表象に過ぎない。沈黙は調和の世界である。

ぺるめるDROPS

 一ツの整理、無精者が偶々気紛れに部屋の掃除をしてみる。一切の整理の結末は自殺、それでいい加減にして、また凡ゆる塵埃の中に没入する。それが日々の生活。

 物を書くことはある意味で遺書のなしくずしだ。子供達をして再び無駄な思索と浪費とをさせたくないという老婆心。しかし、それも結局、浪費に終るのではあるまいか。鶏が自分の孵した家鴨の子に対する懸念ではあるまいか。

 思想の問題は終りを告げてしまった。一切の哲学書を屑籠の中に投げ込め!

 エホバと阿弥陀とは死んだ。その代りにマルクスとかレーニンとかいう偶像が出現した。

 一切の信仰は一切の言論と同様に自由であるべきだ。狐や狸を拝む人間が未だに存在しているのは不思議でもない。

 人間の歴史は人間痴呆の記録だといった人間がいる。
 現在は過去一切の蒐積だ。現在も亦刹那に過去になりつつある。凡ゆる新旧の問題は先ず其処から出発しなければならない。
 如何なる時代も常に過渡期だ。

 チョン髷を散髪にしたことは必ずしもその人間が新しくなったことではなかった。
 断髪はある意味で新時代の女性――所謂モダアンガアルのシンボルであるかも知れない。しかし、チャブ屋のボッブド・ヘヤアは必ずしもモダアンではない。

 意識的であるということはわれわれにとって不必要であるというよりは寧ろ甚だ邪魔でさえもある。われわれは今、生活を第一に奪還しなければならない。野蛮に対する烈しい憧憬。

 金力や権力は徒らに高慢な猿を製造する。

 昔、女が袴をはいたのを嗤った時代があった。断髪や自転車に乗る女を嗤う人間は今でも沢山ある。しかし、袴をはいているが故に嘲笑される女はまさか今時はあるまい。
 銀座の真中を頭巾をかぶって歩く女がいたらそれこそ物笑いの種であろう。
 社会主義のユウトピアが実現された時、かれ等は次に如何なるユウトピアを夢想するであろうか?
 粗製濫造、贋物、質より量、支那ソバ、大衆文芸、ラジオ、誤植、誤字、なんとか大系、うなぎ食堂、皿盛ソバ――みんな新時代の象徴だ。
 全集は大抵の場合書物ではなく気の利かぬ装飾品の一種だ。

 あまりに倫理的な人間はダラクするより生きる道を見出すことが出来なくなる。

ふらぐめんたる

 現実的、科学的、社会的は現代のスローガンだ。これに反対するものは人非人だ。だが一切の存在で現実的でないものは一ツだってありはしないのだ。
 人間が本来社会的な生物なら、改めて社会的たといわないでもいつでも社会的に生きているに相違ない。
 個人主義は社会的に生きる上の一つの信条以外のなにものでもありはしない。

 「叛逆」はそれ自ら一つの壮快美である。
 文学に於て新しい唯美主義を、空想を、幻想を、主観的を。

 音楽は最も非現実的な芸術だ。文学を音楽えの方向へは別段新しい主唱でもない。マラルメやペエタアやボオドレエルやヴェルレエヌや、それ等の旧きサンボリスト等の夙に提唱し、実行し来たところである。

 私は其の意味での文学上の反動派になりたいと今実に考えている。

 私という人間が益々無用の長物たると同時に、私の芸術をもまったくなんの役にも立たない存在に完成させることを理想とする。

 かくの如く悉ゆる意味に於て功利的な現代にあって新しき芸術至上主義者たることより偉大な「叛逆」はあり得ない。

 現実的な、功利的な、ユダヤ的な尻馬へ乗って騷ぎまわり、呼びまわり、跳ねまわるものをして勝手に跳ねまわり、呼びまわり、騒ぎまわらしめよ。
 かれ等が益々かれ等であればある程、自分は益々自分をハッキリ感ずることが出来るのだ。

 かつて如何なるブルジョア的精神が真の芸術を理解し得たか?

 私の所謂貴族的とは荘子の所謂「樗」の如き存在を意味する。凡そ非階級的な存在なのである。
 私は人非人的、反現実的空想者たることを理想とする一個の現実者に他ならない。

ダダの吐息

 自分の知っている位なことなら人も知っているだろうと考えるのも間違いだが、自分だけが知っていて人は知るまいと考えるのもまちがいだ。

 世の中には対者のみさかいもなく自分だけの世界を標準にして饒舌る人間がいるが、聴く方は随分と迷惑する。

 一切は偶然であると同時に必然でもある。

 近代の小説の面白味は心理描写の深さと、細かさに尽きている。しかし、人間がみんな進歩すればそんなことは当然家常茶飯事となってしまう。そして人間がそんなことを最早問題にしなくなる時が早晩来るに相違ない。

 人間の悲劇はかれ等の無智と愚劣との産み出す産物に過ぎない。

 人間は自分を縛ばる繩を自分で発明したのだ。

 他人の言説に動かされなくなった時に、人は初めて彼自身の独自を獲得する。

 忠告とは相手の人間を軽蔑することだ。

 力は徳だ。

 物質を伴わない同情は無意味だ。

 自分は物質的欲望が少ないのではない、唯、精神的欲望が強いばかりだ。

 自分は自分を享楽する時間を一番要求している。

 自分は独り居る時、一番自分らしく感じることが出来る。

 私は酒に酔うと人の顔が見たくなる、殊に女性の顔が――
 酔わないでは女性とのバランスが凡ゆる意味に於て俺にはとれない。

 厚顔無恥は処世の最大秘訣だ。

 子供は自覚しないエゴイストだ。

 現実的に生きていない空想家などという者はこの世に一人だって存在はしない。

 メタフィジックのない現実主義者は浅薄だ、現実を無視する理想家は皮相だ。

 懐疑者の如く思索し信者の如く実行せよという言葉は黙ってシャベレというが如きものだ。

 異った人間が集まって同人雑誌を出す。

 現在は過去の集積に相違ないが、それだからといって歴史を尊敬する義務も必要もない。

 ゴビの砂漠にエデンの起源を発見したところで人間が楽園に帰れるわけでもあるまい。

 他人から付けられなければ自分の値打がわからない人間は不幸だ。

 人間の生活に秘密などのあり得る訳がない。

ダダの言葉

 真夜中に煙草のハイログラフを読む楽しみを君は知っているかね!
 その時、マラルメは片手を猫の背中に突こんでいたことは勿論だ。
 孤独というにはあまりに空想が多過ぎるのだ。
 お寂しゅうござんし上うね――などといってもらっては少しばかり挨拶に当惑する。
 真夜中に一本の紙巻を吸うことの喜びを知らない人とは手を別たなければならない。

 五ツの大贋造宝石――とハンスアルプがある時いった。
 硝子の粗末な水柱と、貧弱な一羽のカナリヤとを青い鳥と水晶に早変りをさせたのはわが善良なるヴェルレイヌだったのだ。

 芸術はおもちゃだ、少なくとも自分にとっては……
 銀のお馬――それを彼はダダと命名する、ダダはおもちゃの異名に過ぎない。
 赤ん坊にはミルクとウエーフアー、おもちゃは不必要だ――などという暴論に私は賛成出来かねる。

 私はいつまでも大きな赤ん坊だ、飴だけしゃぶっていたんでは満足出来かねる。

 兎と亀の手のかけっこをする話を今でも私は愛玩している……僕等の仲間は酔うとよく「向こうの小山に……」と合唱する癖があるが私はそれを聞いたり歌ったりするといつでも愉快になる。

 灰色の壁にアラビアンナイトの映画を見る事の出来ない人間は不幸だ。

 昔々支那に列子というダダイストがいた。彼は老子の孫で荘子の兄貴だった。
 彼は遊ぶことが素敵に好きだった、友達に壺丘子という相棒がいた。此奴も蛇の道は蝮で遊ぶことが好きな奴だ。
 LとK とがある日ある所で落ち合った、
 ――おい禦寇、おめえは遊びが好きだってえが、一体なにをして遊ぶのが一番好きだ。
 ――知れたことよ、何にもしねえでいても俺は面白くって耐らない。

 ボオドレエルによればダンディというものは何にもしない人間なのだそうだ。

 僕には文学や芸術の話をする友達が甚だ少ない。勿論きらいというわけではないが、酒を飲んだり喰い物の話をしたりする友達が一番多いようだ。

サンふらぐめんた

   ――ダダは深く沈む――

恋愛は結局霊魂の問題だ――私は執拗なロマンチケルだ

この世に恋愛ほど自分をアスパイヤアさせるものはない

酒の法悦はそれに比べて恐ろしくブルウタルだ

地上に恋愛を求めることは空中に金を求めることよりも至難だ

恋愛と音楽と智恵と……

静かに深い湖水の面に美しい雲の姿が映じている

自分は唯、自分の霊魂の底深くひとり住んでいる、地上に浮び上がって来た時、私は最早自分ではないのだ

自分は神を信じない、しかし自分の霊魂を信じている

真夜中にひとり静かに霊魂の奥深くひたる楽しさ

霊魂は美しく濡れている。れいろうとして静かに輝やいている

汚濁の底から美しい蓮花が咲き出る――その上にきらきらと日光が照りわたる

噴き出る泉の音を聴け――山路をひとり寂しく辿るうれしさ

霊魂がきよらかに澄めばすむ程、私の足は地上から離れてゆく

光瀾の中に私の霊魂は赤子の如く戯れている

ニヒリズムは理想の極北だ、オウロラボレヤリスの花がその上で爆発する

真理は遍在する

真理は不在だ

音楽は最高のロマンチケルだ、私の霊魂はその浪に漂いながら深く、高く行方も知れず昇ってゆく

疲れて瘠せおとろえた馬の眼に私はある時仏陀の姿を見た

達磨は尻を腐らせた――その時彼の霊魂は全宇宙に瀰漫した

荘周はこの世の覆らんばかりに哄笑した――その時白雲の飛行機が彼を迎いに来た

ダダが娼婦の股の中に深く首を突ッこんで合掌した――その時娼婦の五体から燦然と金光が迸ばしって彼女がマリアに早変りをした――ハッハッハッ

闇の底に深く沈め、沈め、深く沈め……

私は最早無作法な賎民達と袂を分かたなければならない

私はスピノザを友とすることを喜ぶ者だ

地上一切の理想が姿を掻き消して、私の霊魂が初めて更生した

自分が孤独になればなる程、真実に同類を受することが出来るようになる

子供を生むことは人間の最大な罪悪だ――しかし、子供のためにこそ鬼子母神も遂に神になり得たのだ

名も知れぬ路傍の雑草や、石コロや、塵り芥の中に深い霊魂が眠っているのだ

孔子やマルクスは偉大かも知れないが、下等な人間だ、かれ等は支那人と猶太人のモデルなのだ

猶太人にも基督がいたり、スピノザがいたり、ワイニンゲルがいる、支那人にも老子や荘子がいる、王陽明などという人物もいる

欠伸が出ればエクセントリックにもなるではないか

僕はプラトに別段感心しているわけではない、しかしただ「永遠の女性」にあこがれているばかりだ

結局、だがしかしだ、円満に常識が発達して、貯金をすることは彼の趣味ではなかったのだ

まことの芸術家が生まれると、その家は亡びる

私の理想的人物は美しく愛らしい子供だ

基唇は彼の父に対してどんなにハンブルであったろう

私は貴族だ、ブルジョアでもプロレタリヤでもありません

私はトランセンデルタルなことがひどく好きです

霊魂は清く麗わしく静かに生きてゆくことを愛しています

わが国の農村の上に祝福あれ、田園を荒蕪させる者の上に禍あれ!

村のやさしき乙女達よ、工場に出かけることをやめて下さい

村の善き青年達よ、都会にあこがれることをやめて下さい

争闘を奸む野獣の如き人々よ、おまえ達は地獄に落ちるぞよ

町の中に清らかな水をながせ、公園の樹木を愛撫せよ、深林の中にきよき町をこしらえよ

日向の新しき村に祝福あれ!!

牛よ、馬よ、犬よ、――魚達よ、もうしばらく辛抱しておくれ

人間が楽しく働くことが出来て、みんな食べられるようにならなければいけません。それが出来ないうちは一切はダメの皮です。いくらエラそうなことをいってもダメです。問題はタダそれだけ、あとは悉く枝葉――

なんにも知らない子達を不幸に陥し入れるような世の中は呪わるべきです
少し考えて下さい――私は御酒が飲みたくなりました

おうこんとれいる


 世の中が不景気で大多数の人達が困っているのに、自分がなんにもせずに毎日酒を飲んでアフラアフラしているように思われることはあまり愉快なことではない。しかし、私はそう思われても別段たいして苦にはならない。自分は夙に人生に対して「白旗」を掲げて生きている人間だからである。
 なぜ仕事をしないのかとよくいわれる。酒を飲むことが仕事だなどといっても勿論通用する筈がない。どうしてそんなに人の事が気になるのかと時々可笑しく思うこともある。しかし、そんな風に心配してくれるのはありかたいことだと思っている。だが、時にありがた迷惑にかんじる時もあるのだ。
 自分の頭はあまり簡単ではない。意識がたえず分裂している。統一を欠いているのだ。なにかある事をいおうとすると、同時にいくつも異なった考えが浮んで来る。(これは立派にアルコオリック患者の症状だ)それをいちどにみんな表現することが出来れば一番いいと思うのだが、それは到底不可能だ。だからその中のどれか一つを撰択しなければならない。若しそれを一時に表現出来たとしても、恐らくそれは人から理解されることはむずかしいことだと思う。
 振子が極端から極端へ絶えず動揺しているのだ。だからそれを「文字」に表現することは劫々むずかしいことなのだ。意識の世界は自分にとって殆んど興味がなくなってしまっている。表現されたものを見るといつでもまるで似ても似つかないような物になってしまっている。
 いつ頃からだか、自分は「宿命的日本観」という文章を書こうと思いながら、未だにそれを果たさずにいる。結論は極めて簡単で、自分が「日本」というような土地に生まれ合わせたことは宿命的だという考え方なのだ。若し自分が仏蘭西に仏蘭西人として生まれたなら「宿命的仏蘭西観」という文章を書くでもあろう。
 どの位の間かそれはわからないが、かなり長い間自分達はこの国で生活して来た。この国の空気を吸い、気候風士の影響を受け、朝鮮でも、支那でもない特殊の生活を発達させて来た。幾代かの祖先の血がわれわれの体内に流れている。それは如何ともしようのない事実なのだ。われわれはこの特殊の自然に順応して生きようではないか?――その方がリーズナブルではあるまいか? なぜ自分達とは全然ちがった人種の風俗や習慣を模倣しなければならないのか? 諸君はそれを不自然には考えないのかというような考え方をなるべく細々と詳しく論じてみたいのである。
 しかし、実をいうとこの考えはほんの序説であって、自分の考えはそれからまだまだずっと先にゆくのである。早くいうとジャンジャック・ルソオにもっと輪をかけた考え方なのである。
 非科学的、反智識的、非文明的、非機械的――凡そ現代的常識を一切顛覆することによってのみ成立する生活様式の確立――そうしてそこにのみ動物としての人間の真の幸福が獲得されるであろうという理想論――若しくは恐るべき空想? を捏ねあげてみたいものである。
 意識的から意識的無意識的への転向?


 アメリカの一社会学者は「低人の反逆」という書物を書いている。秩序ある文明の重圧に耐えられない人間共が勃興して、それを破壊しようと企てているのが現代の世界的情勢だというのである。自分は偶々その書を読んで「低人」の自覚を得たのである。彼に従うとルソオの如き人物も立派に「低人」の先覚者として数えられているのである。

 丘博士の「人類降り坂説」というのがある。自分は昔からこの説に対してかなり興味を抱いているのである。博士の進化論的立場から論じられたもので、人間の文明が進むにつれて個人意識が発達し群としての意識が次第に衰え、利己的になり、人間同志の闘争が激烈になり、その結果人類は益々不幸にたり、遂には父子兄弟も相互に相喰んで亡んでゆくであろうという説である。これはたしかに一理ある説で、そういう観点から見ると、現代の現象は昔に比べてたしかにその説に近づいているように思われる。スチルナアも「万人の万人に対する闘争」の世界を暗示している。
 しかし、一方ではロシヤのコンミニスト達は内面はどうか知らないが、少くともその外面に於てはしきりに衆団意識――即ち群としての意識――を高調して個人意識を排撃しているのである。若しかれ等の期待しているような世界が一般に実現されるとすれば、当分「降り坂」説はその権威を失墜するであろう。
 人類をかりに地上に於ける他の生物に比して高等と考え、欧羅巴人を最も文明な人種と考える見方からすると、人類は或は次第に降り坂に近づいているのかも知れない。しかし自分のような考え方からすると丘博士の説は「人類昇り坂説」とも考えることが出来るのである。物はある一定の程度まで進むと逆に戻るのは凡そ自然の一般的法則らしい。

 芸術はすぐれた天才によってのみ表現される。天才とは異常に発達した個性の別名である。芸術は異常な個性によってのみ創造される。芸術はそれ自ら完成されたもので、決して進歩発達するものではない。芸術はそれを創造した天才の亡びると同時に断絶する。
 如何なる時代に於ても大衆的芸術というが如きものは決して存在しない。


 徳行と芸術とは同根から派生した二つの表現である。一つは内に向かって開き、他は外に向かって開く。
 徳は内に向かって進むが故にそれが異常に発達する程、益々人間の視野から没却される。故に最高の徳を袮して玄徳と名付けられるのである。「汝等右の手のすることを左の手にさえ知らすこと勿れ」と基督はいっている。
 徳も亦これを有する個性の亡びると共に断絶する。

 悪を意識することは同時に善を意識することである。悪によってのみ善は発達する。「善悪の彼岸」は「超人」――即ち「神」の世界である。
 ニイチェは旧き「神」を否定することによって新しき「神」に近づこうと努力したのである。彼は求めることにあまりに性急であり過ぎた。彼はあまりにもアンビシャスであり過ぎた。イカラスの翼は遂に焼かれて、エイジアの海に墜落した。彼は近代的基督であった。

 ジェームス・ジョイスはどこかニイチェに酷似したところがあるように思われる。特にかれの体質に於て似ているらしく思われる。彼も亦ひどくアンビシャスである。彼の霊魂は智力によって甚だしく圧倒され、精神が異常に歪められ、やがて第二の近代的イカラスになろうとしている。
 彼は「無意識的混沌界」を「文学」によって生活しようとしたのである。そうして、そのために異常な意識を働かした。
 彼も亦「超人」を志したのである。

 人間の幸福は智恵と反比例する。巧智は常に術策と虚偽とを孕んでいる。文明は虚偽の世界である。人々は無意識的に或は意識的に、その中に溺没して足掻きもがいている。そうして益々その泥沼の中に深く陥没しつつある。偉大なるロシヤの二人の天才は異なる仕方に於て西欧の文明に叛逆した。ドストエフスキイは「白痴」を描き、トルストイは「イワンの馬鹿」を描いた。
 聖者は常に昔から、「文明への叛逆者」であった。所謂猿智恵を振い落すことに努力したのである。

 文学は自分にとって何等生活の手段とはなり得ない。自分は夙にそれを自覚している。自分が「文化人?」(なんと滑楷にもシャラクサイ名前であることよ!)として次第に解体してゆくにつれて自分の文学も亦次第に「解体」してゆくであろう。

 無用の屑を次第に堆積させてゆくのが文明であり、資本主義的ピラミッ卜でもある。人間はそれによって自縄自縛されてゆくばかりである。自分はそれを次第に剥ぎ取ることに努力しようとしている。しかし、実はなにも努力する必要はないのである。自然は人間の猿智恵よりは遙かに賢明である。文明はそれ自体の発達の中に既にその崩壊の芽を孕んでいるのだ。

 西欧の科学的文明はわれわれにとってたしかに物珍らしい限りであったに相違ない。大多数の愚かな猿どもはわれ劣らじとそれを模倣することに努力した。しかもその結果はどうか。だがかれ等は決して単純なマテリヤリストではないのだ。かれ等は同時に如何に精神的苦悩を味わったことか? 浅薄にして愚かな猿どもにそこにどれ程の精神的苦悩があるだろう。いとも朗らかにノホホンとして寧ろ得意気でさえもある! メリケンの場末の如き都市を造作して薄汚ない無数のプロレタリアートの製造に従事しつつある。

 自分は常に反対の方へ発展する「精神」である。自分は益々唯心的? になってゆくであろう。そうして遂には雲の如く、霞の如く更にエーテルの如き「存在」に進化するでもあろう。呵々

迷羊言

 年賀状を出したり、門松を立てたりすることに自分は別段反対しているわけでもないが、この数十年来、唯やらなかったばかりである。しかし、やった方がいいかどうか?――と尋ねられたら、自分はやった方がいいと恐らく答えるに相違ない。
 人間がみんな喰う心配がなくなって、みんな一様に四海波静かに元旦をことほぐことが出来れば一番理想的であり、文句はないのである。
『絶望の書』などという本を出して置きながらわずか一ヵ月も経つかたたんうちに「謹賀新年」も可笑しなもんである。

 暮れの二十日過ぎに東京を離れて数日前自分は帰京した。かえると机上に数百通の年賀状が堆積されていた。自分はひどく嬉しくもあり、内心些さか当惑の気味で恐縮している次第なのである。
 出かける時、自分は小さな風呂敷包を一ツ抱えていた。其の中に武者小路氏(実篤氏の甥御さん?)の訳されたアンドレイ・ジイドの『ドストエフスキイ論』と小さい袋が入っていた。
 汽車の中であらかた『ドストエフスキイ論』を読んだ。読んだら急にドストエフスキイが読みたくなった。実はこれまでもドストエフスキイをよく読んではいなかったのだ。
 アンドレイ・ジイドの『ドストエフスキイ論』は自分に改めて「文芸」の如何なるものであるかを教えてくれた。
 彼は屢々ウリヤム・ブレイクの言葉を引照し「天国と地獄の結婚」に及んでいる。又サンフランチェスコとオーガスティンを比較して宗教家と芸術家のケジメを明らかにしている。
 アンドレイ・ジイドは彼の人生観の必然からロシヤ革命とボルシェビズムとを肯定しようとさえしている。
 人間にとって「神」を認識することは「悪魔」によるほか到底不可能事であるらしい。これこそ人間に課せられた最大のメンタルテストである。
 自分は読了後、偶々罪の最大なるものは「悪魔」を否定することであるという言葉を思い出したのである。
 ジイドの作品は彼の「魂の進展」以外の何物でもない。

 自分にとって文学することは生活することである。自分は芸術至上主義者ではないが、少くとも生活至上主義者である。
 芸術の存在しない生活を自分は考えることは出来ない。
 ある時、あるバアでホットウイスキイを飲みながら番の文学少女らしい女給さんとこんな問答をした。
「あなたはよっぽど音楽が御好きらしいのね?」
「君はきらいなのかね?」
「きらいという程じゃないのですが、私文芸が一番好きよ」
「音楽は文芸の中には入らないのかね?」
「音楽は文芸じゃなくってよ」
「そうかね」
「あなたはおきらい?」
「小説かね」
「小説とは限らないわ、詩だってドラマだって……」
「そうかね、文芸も色々あるんだね、活動とどっちが好きかね?」
「そりゃ、文芸の方が好きだわ、活動なんかみんな俗悪なんですもの」
「だって活動のような小説が沢山あるじゃないか?」
「それはあるわ、だがそんなのは文芸じゃなくってよ、あなたはダメね」
「ダメかね?――とうとう落第したかね――では文芸を一ロにいったらどんなことになるのだね?」
「そうねえ」
 と、しばらく考えていたが、どうもハッキリした返事が出来なかったと見えて、
「わたしそんなむずかしいこと知らないわ」
 といってとうとう彼女は逃げ出してしまった。
 しかし、若し諸君が開きなおって「文芸とはなんぞや?」と、僕に質問されたら、僕も亦彼女と等しく明答を与えることなくして引き下がるであろう。
 長谷川二葉亭が「文学は男子一生の事業とするに足らず」と嘆じ? たのは、勿論、彼の持論ではなく偶々何等かの機会に於てそんな風に感じたまでに過ぎないと思われる。そうして、そんな風に感じた時、彼は恐らく天下国家の経綸――つまり政治というようなことを考えていたのでもあろう。
 しかし、若し彼が常にそんなことばかり考えていたとすれば、あれだけの文学上の仕事を残しても行かなかったろうし、また真に文学を軽蔑していたとすれば、そうして例えば志士的な行為をなにか遙かに男子一生の事業に価すると考えたとしても、結局、それは彼の文芸的情熱の変形に過ぎなかったのではあるまいか?
 しかし、再び二葉亭をして現代に生まれしめ、現代の囗本の文壇に生息せしめたなら、彼は文学を一蹴して熱烈な社会運動家となっていたかも知れない。
 ある日の問答
 A「君はなんのために文学をやっているのか?」
 X「薮から棒のような質問をするね――君は……では、君はなんのために生きているんだい?」
 A「…………」
 X[それが君の質聞に対する僕の即答だよ……それに文学をやるということは、僕がなにか本を読んだり、物を書くことを指していっているのかね?」
 A「勿論さ、君はよく倦きもせず、金にもならん仕事を続けてやっているので、あんまり不思議だから改めて訊ねたわけさ」
 X「つまり本能さ、強いて理由をつければ生きるためさ――人間はなにも帽子やバケツばかり造って生きなければならん義務もないからね――」
 A「ハハア本能か、すると君が酒を飲んだり、女を愛したりすることと同じだというわけかね?」
 X「同じだともいえるさ、しかし、酒を飲むことや、女を愛することは文学を愛すことにはならんからね――」
 A「では文学を受するということは結局どんなことになるんだね」
 X「うるさいね、わからなければきかしてあげてもいいが、つまり霊魂の放蕩たんだよ…」

 政治はせいぜい国家の形態を変革するが、文学は時として人間の霊魂を顛覆する。
 自分はいつでも自分を人生の俎上に載せて考えてみることが好きなのだ。自分と相違している物の数が多ければ多い程それだけ「自分」を明らかにすることが出来る。絵画がそれを描いた芸術家の生み出した自然の再現だというなら、文学はその作品を生んだ芸術家の霊魂に映じた人生の再現である。
 作品は作者の振幅や、深さのバロメニタアである。

 深く生活すればする程、意識の層が次第に殖えて来る。それは恰も大樹のモクメの次第に増してゆ
くにも似ている。
 人はいつでも同一の意識の層にはいないから、時と場合によって同一の人間が対者の上に様々の映像となって投影するのである。英雄が凡人に見えたり、愚人が聖者のように見えたり、天才が狂人のように思われたりするのだ。

 この世でなにが一番楽しいかと訊かれたら――自分は夢を見ることだと答えてもいい。どんな奇想天外なファンタジイも遂に夢には及ばないからだ。学者は潜在意識が活躍するのだ――というような解釈をする。物に命名しさえすれば、なんでも物その物がわかったように思うのが人間の普通の錯覚らしい。
 自分はこれまでに「世界滅亡」の夢を度々見ている。どんな文芸の作品もその夢から受けるショックには到底比較することは出来ない。またその夢をいくら詳細に描写したところでその恐ろしい感じを到底人に伝えることは不可能であろう。

 マルクスの思想や、唯物史観が流行するというのでひどく心配している人達がいるらしい。小学校の時分から科学というものを教えて置きながら、それ等の子供達が成人してマルキストになったからといって騒ぎまわっているのはまことに可笑しな話である。しかし、科学というものはいつまでも同じところに停滞しているものではない、時代の思想というようなものも絶えず変遷してゆくのである。それに人間という動物は思想のみで生きて行くわけではないから、どんな思想でも考えるだけ考えさして見る方がいいと思う。
 身体が食物を分泌するように、脳髄はさまざまな思想を分泌する。どんな思想を分泌したところで決して宇宙の法則から外れはしまい。

自己発見への道

 自分がこれまでやって来た仕事は唯「自分」というものを進展させてゆくことに殆んど全部捧げられたといってもいい。そうして、近頃ではそれが稍々辛うじて一段落ついたというかんじである。
「自分を進展させる――」とはどんなことであるかというと、別な表現の形式をかりていうと、「自分」を発見してゆく仕事なのである。これはなにも特別に自分の発明したものではなく昔も今も自分と同族の人達ならみんな誰でもやっていることなのである。唯、人によってそのやり方が色々にちがうというばかりである。
「完全な自分」(言葉というものはいつも不完全なものだから仕方がないが、私は茲でかりに「完全」という形容詞を用いて置く)を発見するにはやはり人は恐らく死ぬまで(或は死後まで)かかるにちがいあるまい。もっと初めからそんなことを問題にしない人種は初めから問題外である。
 人間が「完全な自己」を発見した時は、「人間」を卒業する時である。だから再び斯る愚かしい「人生」に再生する必要がなくなってしまうのである。(自分は時に仏陀の弟子でもある)

 自分の歩き方はいつでもひどく遅々としている。しかし、それは自分がひどく複雑であり、軽卒でないからである。(単純な女の如何に敏捷に筆を走らせるか、また浅薄なるアメリカ人の如何にスマアトであることか)若い人達は勿論生理的にも常にダイナミックである。

 自分を発見する仕事は勿論そう簡単である筈がない。色々な場合に「自分」を置いて見なければならないからである。自分の場合では多くの人達に接触して来たことはその人達を知るというよりも寧ろ「自分」を知る上に遙かに役立った。

 自分はまだこれまでなにも書いていない。書くことは自分にとって二義的なことである。それに書くということは元来不得手な方なのである。自分が文筆を業? としているのは偶々境遇の影響の方が強く、自分の積極的に欲したことではなかったのだ。
 自分の芸術上のタンペラマンは寧ろ音楽家に近く、性格的にいえば文人であるよりは遥かに宗教家に近い。

 自分はいうまでもなく聴覚型だ(その型の異常な例は近くはジョイス。ニイチェはいわずもがな)だから、自分はいつでもラプソディ風な文章ばかりを書いているのだ。実はリイドを作曲しているつもりなのである。
 自分も知名であるが故に、色々と方々から雑誌を頂戴している。その中に「太原」という雑誌と「直道」という雑誌がある。前者は藤原鉄乗氏の個人雑誌であり、後者は高光大船氏のそれである。両氏はいずれも北国にある真宗の僧侶であり、故清沢満之氏の門下で暁烏氏と合わせて、清沢門下の「三羽烏」といわれ、その道ではいずれも異端として有名である。
 自分は雑誌を通じて、色々と両氏から教えを受け、親鸞上人及びその他の智識を獲得しているのである。三氏の名を知った順序からいうと暁烏、藤原、高光という順序になり、書いたものを読んだ順からいうとA、T、Fという順になる。
 かなり以前のことでハッキリ記憶していないが、最初に暁長氏の物を断片的によんだ時に(自分は実をいうと氏の著書はまだ満足に一冊も通読してはいない)すぐに自分とかなり酷似した思想の持主だということを直覚した。そして氏ならば自分の書いた物をかなりにわかってもらえるに相違ないと考えた。その後、高光、藤原二氏の書かれるものを読んで自分の思想が如何に親鸞に似ているかを発見して驚いているのである。これは稍や僭越ないい方だから、こういいかえてみよう――自分が色々と考えぬいた揚句に到達した考え方が既に遙か昔に親鸞によって道破されていると――自分は知らなかった。そうして因縁の機が熟して親鷲を知り得たと。
 自分は茲で宗教を論じようというものではなく、また親鸞を云々しようというのでもない。聊か自分を説明するための方便としてまわり道をしたまでである。
 自分は性格的にドストエフスキイ型である故に、またアンドレイ・ジイドが彼の弟子をもって任ずるなら、私も亦自ら相弟子として彼と握手をしたいのである。勿論、彼の作品に対して多大な関心を抱いている。そうして彼の最後に到達した境地は実にまたやっと親鸞にまで辿りついたのである。クニ・マツオが先日ジイドに会見した記事の中に、彼の思想に仏教的なところがあるという質問? を提出していたようであるが、一概に仏教といっても俗に法門は八万四千といわれている位に復雑だから、仏教の智識のあまりありそうでもないジイドが、それに対して明確な答えを与え得るわけはないが、私はなんだか急にジイドに親驚の書いた物を読ませたくなった。ジイドは必ずあまりにも自己の心境に酷似しているものを発見して驚くにちがいない。これは自分か花島氏の訳本「アンドレイ・ワルテル」新版の序をよんで即断したに過ぎないし、もとより、ジイドと親鸞とは辻潤とアン・リネエルどころの差ではないが、その根本の人世観に於てはやはり両者が同族であるということだけ認めることが出来る(これに就いてはかなり詳論を必要とする)。

 先日巴里の松尾君から氏が訳された僕の文章「おうこんとれいる」の切り抜きを送ってもらった。その文章はジイドの弟子の編輯している"Lu"という新聞に掲載されたもので多少の注目を惹起したらしい。題名は"Un réquisitoire Japonais centre la civilisation occidentale"となっている。それはいいが "Par le grand écrivain nippon Jun Tsuji" は甚だ光栄であると同時に微苦笑ものである。それに仏訳で読む自分の文章のもっともしらしさにも内心滑稽をかんじざるを得なかった。
 松尾君はアン・リネエルを「パリの辻潤」と呼んだが、勿論ジュルナリストの気転? で、誰も真面目にとるものはないであろうから安心するが、自分の考え方が彼に似ていることは少しも不思議とするに足りないばかりか、かなり共通的なもののあることだけは事実である。

 アン・リネエル(Hans Ryner)の名前を知ったのはかなり昔(六七年前だと思う)で、友人百瀬二郎によって教えられたものだ。恐らく日本でいち早く彼の著書を取りよせて読んでいたのは自分の知っている範囲では彼位なもので、恐らく他に誰がアン・リネエルを読んでいるだろうか? 自分は彼の所持している数種の書物(「ぺエル・ディオジェヌ」「第五福音書」「パラボール・シニイク」等)を見せてもらったが、勿論その中の一冊も読んではいないのである。自分は度々彼にその中のいずれかを翻訳することを奨めたが彼も亦多年の飲酒の習癖を改め得ず、転々として未だにその仕事は放擲されているのである。勿論、現今の如き出版界の情勢の下に於てはリネエルの著書の翻訳出版の如きは到底不可能ではあるが、(嗚呼! なんと劣悪な愚書の洪水よ!)私は若し彼に意志があるなら、再びそれを奨めたいのである。
 (しばらく音信不通のため、今彼が何処にいるかをたしかめ得ない)
 巴里滞在中自分は "Panarchie" という片々たる月刊雑誌を二三度買って見た。それには毎号リネエルが執筆していた。それから彼の著書の広告も載っていた。偶々古本屋で彼の著書をニ冊ばかり発見したので、当時ニースにいた無想庵に送って読むことを奨めたりした。
 彼は勿論、インディビジュアル・アナアキストではあるが系統はストア派で大いにディオゲネスに私淑していることは彼に「ペール・デェオジィイヌ」の著書があるのでもわかる。ストイックの精神を抜きにしては彼の所説を論ずることは出来ない。
 日本の現代に於て特に欠如しているのはストア的精神である、自分は母方の祖父から多量にその精神を遺伝されているので、辻潤がツェノオ若しくはディオゲネスの弟子であるといっても、群盲の到底理解を超えていることだから、今はその点には触れずに置く。
 親鷽の弟子清沢満之が「エピクテタスの教訓」を訳していることは彼を知る程の人なら知っているであろう。
 凡そアナルシストは悉くモラリストである。スチルナアの「唯一者とその所有」すら一個のすぐれたる倫理学書である。高邁なる道義的精神を有する者にして真に始めてかの書を理解することが出来るのである。由来一般の日本人のモラルセンスの低級なることは世界周知の事実である。
 自分はいずれ機を見てゆっくり辻潤の思想の発展を詳細に記述するつもりであるから待っていてもらいたい。自分はこれまでかつて自己弁明に類することをやったことはないが、往々辻潤の弟子と称する徒輩によってひどく歪められて映ずることは近頃甚だ迷惑千万故少しく自己を説明してみたのである。簡単なる頭脳によってダダとかニヒリストなどと決定されることは内心甚だ不愉快である。

 林芙美子君に――
 君の送別会の時には連日の痛飲の結果ひどい下痢を起して某処にねこんでいたため行かれなかった。また君の出発の際も見送りもせず甚だ失敬した。許してくれ給え。君が単身巴里に出かける勇気を勿論僕は感嘆する者ではあるがあながち賛成する者ではない。しかし、由来僕は他人の思想や生活に容嘴することにひどく興味がないから君は大いに君の道を進んだらよろしかろう。とにかく、昔、自分の認めた詩人が所謂大いに「売り出した」ことは自分としても鼻の低かろう筈はない。だが、林芙美子君よ、君はとこかで僕のことを「くさっても鯛」などといったそうだが、それは少し生意気で君も結局「女人か?」と僕をして思わず嘆声を発せしめた。自分はまだ「くさって」はいないつもりだから安心してもらいたい。五年や十年沈黙したからといってそれでくさったなどときめられては困る。自分はほかのことで忙しいのだ。自分のような質の人間はなるべく長命をしないでは碌なことは出来ない。自分は出来るだけなが生きがしたいと思っている。死ぬのはいやだ。
 現代の日本では「文学」がひどく貧困であるかの如くいわれているが、自分にはあながちそうは思えない。若い生命は至る処で炎えている。唯それが社会の表面に強く反映していないだけだ。つまりジャアナリズムから除外されているため、簡単にいうと新聞に広告されていないだけの話である。由来、日本の文学者の巨大になり得ないのは根が浅いせいだ。それに土地がやせて環境がひどくわるい。人種的にも生理的にもそういう宿命を持っている。線香花火式で直ぐに消えてしまう方が多い。あせらずに落ちついていつまでも君の潑刺たる野蛮性を失わないように自重自愛し給え。
 自分は今、近頃ぽつぽつ日本にも紹介されている英国の少壮作家 Aldous Huxley と Windham Léwis (かれ等の深酷なる複雑性を観取せよ!)に多大なる興味を抱いているものであることを告白して擱筆する。

自分はどのくらい宗教的か?

 自分がどのくらいな程度で宗教的な人間だかということは自分にはわからない。同時に、どのくらいな程度で文学的なのかそれもわからない。しかし、自分が政治家でも実業家でも、技師でもないことだけはたしかである。
 四五歳の頃、父母につれられて浅草の観音様へ御参りに行った時、易者がたのみもしないのに私を天眼鏡で覗いて「この御子さんは僧侶になされば必ず出世なさいます」と相したそうである。父母が私を坊主にしなかったためにかれ等も損をしたし、私も出世しそこなった。だが、私はまだこの年になっても坊主にならなかったことを別段悔んでもいないし、これから先き坊主になろうとも今のところ別段考えてもいない。
 私は子供の時から静かなところが好きだった。だから御寺や別して御墓が好きであった。「性『蘭若』を愛す」とでもいえば如何にも坊主臭いが、この性癖はたしかに先天的であった。それから線香のにおいも子供の時分から好きだった。
 私はまた子供の時分ひどく緑茶が好きだった。しかも、所謂玉露のたぐいを喜んで飲んだ。多分六七歳の時は少なからず茶毒にあてられていたためか、顔色が青いばかりでなく沈んだ土気色をさえ呈したらしい。しかし、いくら子供が好きだからといって、やたらに飲ませた方にも充分責任はあると思う。祖父(これは自分とは血縁のない人だった)は茶人でもあり、俳人でもあったから、私が子供の癖に茶が好きなのをひどく興味を持って「この子は茶人だ」とか、「風流人」だとかいってほめそやしたらしい。なにしろ「変人」だったことはたしかで、知らない御客の前へ出ることがひどくきらいで、おじぎをすることもきらいだった。
 まだ公園などというものの発達しない昔の東京の下町では神社や、御寺の境内は子守や、子供や婆さん達の遊び場所だった。私はよく曾祖母につれられて、その頃浅草の新堀端附近にあった西福寺とか自性院とかいう寺の境内へ遊びに行ったことを今でハッキリ記憶している。地獄極楽のすばらしい掛軸を初めて見たのは、自性院の御開帳かなにかの時で、モの後、私はずっと「地獄」にひどく興味を持った。縁日ではその頃よく出ていた「地獄極楽」の見世物を度々見た。日蓮の母親が「血の池地獄」に落ち込んでいるのを日蓮が雲へ乗って助けに来るところなどがあった。説明者が日蓮の母親の科白をつかって、「ああ日蓮よ日蓮よ」などといった文句が未だに耳底に残っている。
 御釈迦様の存在を初めて知ったのも五六歳時分で、草双紙の『釈迦八相記』が私に教えてくれたのであった。「ヤスダラニョ」、「キョウドンミ」、「ハンドク」、「ウダイ」、「シャノク」などという固有名詞もその頃初めて私は口にしたのであった。悉多の稚児姿は石童丸に似ていたし、ハンドクは寺小屋に出てくる「涎れくり」然としていたし、シャノクが塩原多助みたいだったり、ウダイの妻君は政岡と混同され、提婆はなんとか刑部とでもいいそうなツラ構えをしていた。カラと天竺とヤマトがゴッチヤになっていた。
 石童丸の悉多が檀特山かどこかで阿羅々仙人だが迦羅々仙人だかに杖でひっぱたかれている絵を見ながら、私はきっと泣いていたに相違ない。それから車匿と別れを惜しむところもかなしかった。又、提婆が無間地獄に真っ逆さまに落ちてゆく絵はまことに物凄い光景であった。とにかく『釈迦八相記』は私に色々なことを教えてくれた。その後『西遊記』をよむようになってからも、その予備智識があったために興味が一層深かったのだと思う。宗教的というよりも寧ろ自分の浪曼的な精神がこんな風にして養われたといっていい。
 私の両親は二人とも寧ろ宗教的精神には乏しい方であったといってもいい。従って、別段なんの信仰をも持っていなかった。
 私は八歳から伊勢の津に住むようになったが、或晩、女中におぶわれて基督教の講義所の前を通った時、讃美歌の声にひきつけられて女中が「坊ちゃん、ヤソだから、よしなさい」といわれたのもきかずに、女中を促がして無理にその中に入ってしばらく讃美歌をきいていた。それから、日曜のたびごとに、私はその講義所に出かけて日曜学校の生徒になり、聖書の文句を抜萃したカードをもらって暗記したり、馬太伝を教わったりしたが、勿論、子供でなんのことかよくわからなかったが「神様」の話をきいて、讃美歌を覚えるのがひどく楽しみだった。ドレンナンという異人の御婆さんに西洋のコマをもらったりしたことは幼年時代の自分にとって特に珍らしく楽しい記憶として残っている。又、公園の丘の上にある異人さんの家でクリスマスの晩、ピアノを初めてきいて、それがオルガンではなく、ピアノという楽器であるということも、その時初めて知ったのであった。
 その後、間もなく日清戦争が始まって愛国熱が盛んになったために、私の教会行きは中止されてしまった。たぶん、子供心にもヤソだといって迫害されるのが恐ろしかったのでもあろうし、或は自ずから愛国的な精神が炎えて「非常時的」な心持になったのでもあったろう。しかしどうしても耶蘇教に反感を抱く気にはなれなかった。
 伊勢の津で四年程くらして、私は十一歳の時に東京へかえって来た。私が自発的に再び基督教に帰依するようになったのは十六歳の頃で、ある機会から、内村鑑三氏の『求安録』を手にしたのが始まりで、その頃出ていた氏の著述は殆んど片端から読んだ。勿論、それ以上に私は講談本や、江戸時代の牌史小説類をかなり沢山に乱読していたが、自分が耶蘇になってからはまったく、それ等の書物を一時に放擲して、聖書や英語ばかりをひたすら勉強したのであった。その間、境遇の激変などがあり、私の宗教心が猛烈に炎えた原因なども私のその頃の境遇を詳しく話さなければならないが、いずれそれを話す適当な機会が来たら書くつもりであるから此処では省略して置く。
 聖書と同時に私は又『徒然草』や『方丈記』をひどく愛読した。元来、少年の時からペシミストであった私は『徒然草』の無常観に著しく影響されたのは無理もない。今でも、私は時々『徒然草』を出して読むことがある――勿論、今となってはあまり度々よんだせいもあり、たいして面白いとも思わないが、しかし、日本の古典のうちで、特に自分の愛読書ともいうべきものを指摘することになれば、『徒然草』をあげるよりほかに仕方がないと思っている。後に、老荘の思想に深く影響されたのも、やはり「出発点」は『つれづれ草』だといわざるを得ない。
 日本で自然主義運動の始まるまで殆んど小説類を手にしなかった。自然主義作家の中では特に岩野泡鳴の思想に影響された。自分はデカダンであることを誇りとした。ヴェルレイヌは当時、自分の最も憧憬した詩人であった。私にいわせればヴルレイヌ程宗教的な詩人はいないということになるのである。「基督は不完全なヴェルレイヌであり、ヴェルレイヌは不完全な基督である」というわが親愛なるデ・カッサアスの警句はまことに秀抜であると思っている。
 基督教――老荘――社会主義――自然主義――無政府主義――ニヒリズム――ダダイズム――仏教……これ等の要素から「自分」が成立されているのである。そうして、現在ではそれ等の一切を出来るものなら清算したいと考えているのである。
 私は仏教に関して殆んど智識的になんにも知らないといってもいい。しかし、仏教を宗教と見て――といういい方は少し変かも知れないが――それに対する信仰からいえば、私も亦及ばずながら一仏教徒であるかも知れない。自分の場合に於ては自分が基督教徒であることと仏教徒であることとに別段たいして矛盾をかんじないからである。言葉をかえていうと、私は実はその孰れでもなく、孰れにもなり得ないのかもしれない。とにかく、私は文学的であるよりより多く宗教的な人間だと自分を考えているのである。そうして、本来のテンペラメントからいうと、最も「老荘」に近似しているというのが一番正直な告白かも知れない。私は「禅」に就いて多少の書物は読んでいるが、まだ、一回も禅堂に参したこともなく、参禅しようと意志したこともないのである。この点、熱烈な求道的精神を有する宮島蓬州坊などに比べて、到底太刀打は出来ないのである。しかし、この世の「無常火宅」であることを感じている点だけなら、いかなる名僧智識に対してもヒケはとらないだけの自信は持ち合わせているつもりである。
 武林無想庵の紹介状をもって叡山へ出かけたのは今から十年あまり昔のことである。勿論仏道の修業に出かけたわけでもなんでもなく、途方にくれた結果で、私は山上の宿院にざっと小一年厄介になった。そうして、そこで、若干の翻訳仕事をした。私は叡山で初めて「般若心経」を覚えた。私の仏教えの関心は無想庵の影響に多く負うところがある。しかし、私は仏教をシステマチックに研究してみようなどと一度も考えたことはないのである。
 私のところに出入した青年で今、二人ばかり坊主になっているのがある。どの程度に、かれ等が「坊主」であるか私にはわからないが、とにかくなっていることだけはたしかである。勿論、私が坊主になることを薦めたわけでもなんでもないのである。
 知人にも坊さんがいる。高光大船氏などはそのひとりであるが、毎月送ってもらう「直道」という氏の個人雑誌は私の受読するところである。江渡狄嶺氏や、高田集蔵氏などもかなり前からの知人である。それから私は大阪の奇人? 岡旧播陽にも面識がある。死んだ予言者宮崎虎之助氏とは私が十五六歳頃からの知り合いであった。とにかく、私の過去に於てかく宗教的な人物と知り合いの多いことは自分が「宗教的」だということの説明にもなると思う。
 それから新井奥邃先生(といっただけでは通じないかも知れないが)このことなども話してみたいが長くなるからやめて置くことにする。一々の因縁を詳しく話すことになると、それだけでもかなりひまがかかる。
 さて、色々と迷路をたどり歩いてい間に、とうとう私は一昨年の三月に瘋癲病院に入院することになり、出たかと思ったら又、去年の八月に発病して、やっとこの四月の初めに退院することになった。G病院で八ヵ月生活している間、毎日日課として朝晩「法華経」の「自我偈」を読誦していた。私は初めて、「法華経」を覗いたのである。尤も「普門品」だけなら、かなり昔からよんでいたのではあった。
 私は今、石の巻の松巌寺という友人の御寺に厄介になっている。私も御寺にいるので、自然「門前の小僧」並に時々御経を唸っている。仏縁があるといえばかなりある方だと思っている。
「宗教は阿片也」は逆に「阿片は宗教である」ともいえる。勿論酒も宗教である――それは恐らく悪魔の発明したものであるかも知れない。しかし、若し「神」が存在しているなら、当然「悪魔」も存在している筈で、或は一つ穴の貉みたいなものかも知れないのである。
 酒のことを「般若湯」といいだしたのは誰か知らないが、まったくうまい言葉だと思う。酒と宗教とは殆んど切っても切れない縁があるらしい。「お酒あがらぬ神はない」というのは真理である。酒の陶酔境を知らない人間に「宗教」などはわかる筈がないなどといったらいい過ぎかも知れないが、いい加減な程度で「宗教」をいじくりまわしているより酒に酔った方が遙かに宗教的になれると思う。私は過去、二十何年かの間、「酒」に救われて生きて来たといってもいいが、悪魔の宗教に溺れた罰が覿面にあたってとうとう「きちがい」になった。そうして、きちがいになった御陰で「餓鬼」と「亡者」と、「乞食」の心理を泌々と体験したような気がしている。
 人間の機根はそれぞれ人によってちがうから、等しく仏教を信じているといっても随分とその程度がちがうのはあたりまえのことで、今更いうまでもない分りきったことだと思う。だから、自分がどのくらいな程度で仏教的信仰を持っているかということは実際、自分でもハッキリ説明は出来かねるのである。
 宗教は阿片だというが、阿片のような力を持っていればたいしたものだと思う。私は仏教にしろ、耶蘇教にしろ、人間の霊魂の苦悩がそれを信ずることによって救われるなら、「鰯の頭」だって差支えないと信じている。又、神仏などを頭から無視して、なんの苦労もなく至極気楽に生きてゆかれるなら、それでもかまわないと思っている。
 かつて、青年時代に初めてカアライルの「英雄崇拝論」を読んで Religion――とは「所信」であるということを教えられた。そうして、カアライルの Hero という言葉が如何に東洋的な「英雄」という観念と相違しているかに驚いた。又、エマアスンの有名な「コンペンセーション」という論文の内容が如何に「般若心経」に酷似しているかを私は今更ながら感じさせられているのである。自分の貧弱な読書の範囲に就いていえば、凡そ、近代西洋の思想家中で、エマアスンほど、東洋的な又仏教的な思想家はあるまいと思う。彼が「代表的人物」中にスエデンボルグを挙げているのでも大凡それが推察せられると思う。
 「全体、おまえはなにを信じているのか?」と、尋ねられたら、「さあ、先ず諸行の無常なことを信じて居ります」とでも答えるほか、私は今のところ進んで、「神」とか、「仏」とか、いうようなことばを持ち出して、兎や角したくないのである。
 御経に「顛倒の衆生」という言葉があるが、私も亦、それに洩れない衆生のひとりである。偶々気が狂って、正気になったかと思ったら、またどうやら回復して元の「顛倒」へ逆戻りをしてしまった。しかし、逆戻りをしたために、かくの如きわけのわからぬ文章も書けることになったのである。若し、「妄想を除かず、真を求めず」という境地に到達することが出来るとすれば、自分の「狂不狂」は問題ではなくなるにちがいない。

和尚はどうして「明徳」を明らかにしたか?

 「明徳」というのは孔子の遺書と称せられている『大学』という書物の冒頭の何行目かにある言葉である。『大学』という本は人間が「徳」を明らかにするために読むべき入門の書であることは漢文を少し食い嚙じった人間ならたいてい知っている筈である。
 実は、僕はまだ生まれて一度も『大学』という本を通読したことがないばかりか、『論語』も『孟子』も通読したことがないのである。
 これから、諸君に紹介しようというのは盤桂という坊さんが少年の時御母さんから『大学』の素読を教えられているうちに、「大学之道在明明徳」という文句にぶつかって、それがどうしても合点がゆかず――全体「明徳」というのはどんな物かという疑問を発見して、その「明徳」を探しまわるために色々苦心惨憺した結果、それを遂に探しあてたという話をしようと思うのだ。
 昔から支那にも日本にも『大学』という本を何人よんだか、それは恐らく数えきれない程であろう。しかし、この坊さんのように「明徳」に疑問を抱いて、心魂を碎いた人は恐らく彼一人位なものであるかも知れない。わかり昜い例をひいていえば、古来、林檎の実が樹から落ちたのを見た人間は沢山にあったにちがいないが、それによって「引力」の原理を発見したのはニュウトンばかりであったといったら、おわかりになるであろう。そのニュウトンという偉大な天才すら、死ぬ間際に「自分の発見した真理は、宇宙に浜の真砂程数知れず散在する真理のほんの一粒ぐらいにしかあたらない」といっているのである。近頃の若い連中のようにほんの僅かばかりマルクス経済学とやらの智識を頭に詰めこんだからといって早速鬼の首でもとったかのようにイキリ立つ浅薄軽佻な輩に比べて、これはまたなんという大きな相違なのであろう。
 さて、僕は御存知の如く、文筆によって僅かに口を糊しているツマラヌ人間ではあるが――徙らに酒ばかり飲んでフラフラしてばかりいると思われては困るのである。僕がこれらを書くに至ったのは自分の心にひそんでいる一片のヒュウマニティの仕業なのであって、なるべく多くの人達に読んでもらいたいと考えたからである。
 マルクスもジャズもダンスも小唄も金解禁もキネマもキャフェも売勲も緊縮もツエッペリンも――みなそれぞれ時代の実相なので、そういった現象の実在することは毫も疑う余地はない――しかし、同時に諸君が考えてみなければならないことは、かくの如き時代に於て僕のようなひとりの人間が何百年前かに日本にいたことのある一人の坊さんの行蹟にいたく心を牽かれて、折角、遥々と巴里まで出かけて置きながら、「明徳」を明らかにするなどとまるで恐ろしくアナクロニスティックな言葉を持ち出して、時代とまったく没交渉のような旦那寺の説教をわざわざ紹介するというのだから、所謂モデルヌな青年女子諸君にとってはまったく狂気の沙汰であると思われても仕方がないが――しかし、こういう人間がいるということもまた一ツの争うべからざる現象であるということを先ずもって最初に考えてもらいたいのである。
 自分が『玄旨軒眼目』という書を偶々読み出してから五六年になるのだが、僕は巴里の客舎にいて深夜ひそかにこの書をとり出して読んだ時程感銘を受けたことはなかった。自分は色々な書を読んだが、近年、この位自分を激励し、自分を慰藉し、愚かな自分の眼を開けてくれた書物はなかったのである。近頃になって、自分はやっとこれをまた人々にも伝えてみたいという考えが起って来た。そうして自分の感じた喜びを幾分でも分けてあげたいという慾が出て来たのである。
 しかし、僕が如何に自分で感心しても、それは直に他人の喜びとならぬことはいずれの場合にも同じことで、たとえマルクスの真理をなるべく多くの人々に伝えたいと熱心になっていられる河上肇博士の場合でも、目に文字なく、また経済の学に通じていない多くの人達にそれをハッキリとのみこますことの至難であるが如く、また如何にラジオを放送してもレシイバアのないところへは馬の耳に念仏も同然であると同じ理窟で、今、これから僕が受け売りをしようという盤桂禅師の説法も、縁なき衆生には豚に真珠、猫に小判であることは申すまでもないことで、その位な覚悟がなければ初めからやる気にもなれないのである。
 しかし、できることならなるべく多くの人々が僕と同じように和尚の真理を道破して、僕或は僕以上の明を開かれたなら、自分はどれ程、嬉しいか知れないのである。

 どこの御寺だか知れない――それはどこの御寺でもかまわない――しかし、多分どこか片田舎の普通の禅寺で、今日は盤桂禅師という名僧智識が説教をされるというのでそこの村の人々は申すに及ばず、近在の老若男女が沢山にここの寺に集まって来た。
 秋晴れの午後、本堂の縁側からは遙かに遠山が見渡せる――庭の真中に大きな蘇鉄が植えられ、百日紅が咲き、泉水の傍には七草が咲きみだれ、折々かすかに木犀の香りが漂よって来る。僕は聴衆のひとりで、村の御婆さんや、御爺さんの中にいて、ひそかに綺麗な村娘を物色しながら禅師の説教の始まるのを待っているのである。
 やがて本堂の鐘が鳴り始めて、読経の声が聴こえ始めた。今までガヤガヤと話し合っていた聴衆は一斉に鳴りを鎮めて読経に耳を傾け始めた。
 爾時須菩提白仏言世尊善男子善女人
 発阿褥多羅三藐三菩提心 云何応住
 云何降伏其心仏告須菩提 善男子善女女人
 発阿褥多羅三藐三菩提心者 当世如是心
 我応滅度 一切衆生 滅度一切衆生己
 而無有一衆生実滅度者何以故……
 やがて御経がすむと、禅師が本堂の向かって左の方の卓子を前にして立ちあがった。みんなの視線が一様に禅師に集まる。
 打ち見たところいくつ位か知れぬが、眉は半白になって房々と両方に垂れ、頭は山の芋のようにデコボコして、隕は烱々と輝き、鼻も口も中々大きい。耳が顎の辺まで垂れている。七十の坂はたしかに超えているに相違ない。僕は少し遠方なので、禅師の顔をもっとよく見たいと思って、少しばかり本堂の座敷の中に割りこんだ。
 ――みなさんなるべく前の方へ御寄り下さい――御遠慮は要らぬ――さあさあみんななるべく前の方へ御進み下さい――
 みんな段々と前の方へ詰める。僕も縁側に近い方にいたのだが、禅師の御声がかりがあったので、前の方へ進む。
 さて、愈々これから御説教が始まるのだが、なにしろ昔のことではあるし、禅師が四国の人かなにかで、ひどく言葉に訛りがあって「身どもは」だとか、「おもしゃりますには」だとか、「おじゃりました」とかいうのだから、とても可笑しくって、時々吹き出しそうになったが我慢していた。僕さえ可笑しいのだから、現代のモダーン青年子女達がきいたら、吹き出すのはまだいいとして、てんで禅師がなにをいって居られるのだが言葉の意味がわかるまい――言葉がわからなければ折角のありがたい御説教も百日の説法ということになるし、僕の義務も一向に果せないということになるから、少し面倒臭くはあるが若い人達のために通訳をしてきかせることにした。しかし、元気もいいことではあるし、どこかへ遊びにゆきたくなったら、遠慮は要らぬから、どんどんかえっても差支えはない。面白いと思った人だけが残ってきけばそれでいいのだから――タバコが吸いたくばすい給え、御菓子が食べたくなったら食べるがよい、疲れたら横になっても一向にさし支えはない――
 ――只今、この場においでる人は、凡夫は一人もござらぬ。この場では、皆、仏同志の寄り合いでござるわい。したほどに、是をよくきかしゃれい――人々皆親の生みつけたもった不生の仏心一つでござるわい。余のものは一つも生みつけはしませぬわい。モの親の生みつけたもった仏心は、不生にして霊なるものでござるによって、不生で一切の事が調いますわい――
 先ずざっとこんな風だから、この調子だときっと諸君は閉口するだろうから、約束通りもっとわかり易い現代語になおして、おきかせすることにしよう。
 それから、説教の中に何遍も「不生」という言葉が出て来るが、これは何辺となく繰りかえされている間に、自然と頭に泌みこんで来るのだから、そのつもりでいてもらいたい。――なにしろ、御説教の眼目は実はこの「不生」という二字にあるので、これがわからないとなれば、折角の禅師の長説法も、なんの効果もあげないということになるのだ。だから、初めのうちはわからないかも知れないが、なんだって同じ道理で、よくよく自分で嚙みわけなければ駄目である。これはみんな各自の力次第なのだから、そこまではみな一様に納得させることは出来ない――これはどんな場合でも同じで、マルクスの解釈が人によって色々とちかってくるのもやはり同じ理窟――人間にはみな自分に持って生れた仏心を備えてはいるが、それが大体に於て目眩まされているので、要はその雲を払い除くことにあるのだが、同じく眼がかすんでいるといっても人によってその程度がみんな異なっているのはこれまた改めて申し上げるまでもないことである。
 さて――
 その不生にて調うという不生な証拠は、みなさんがこちらを向いて、私のいうことを聴いておいでになるうちに、うしろで鳴く鴉の声、雀の声、風の吹く声――が、別段わざわざそれを聴こうと思わないのに、ひとりでにちゃんと、鴉はからす、雀は雀、松風は松風と――いう風に分かれて聴こえて来る――これがみなさんの不生で御聴きになれる証拠なのであります。これが不生で聴くということの道理で、世の中の一切のことはこの不生で調います。
 その不生で霊明なものが「仏心」と申すもので、これさえみなさんがはっきり御解かりになれば、みなさんは今日只今からでも「活如来」になれるのであります。いつもみなさんが不生の仏心のままでおいでになれば、今日から未来永劫かけて「活如来」様になれるのであります。まことに簡単至極の道理では御座いませんか? それで、私の宗門の名をかりに仏心宗と申します。さて、みなさんがこちらを向いて私のいうことを御聴きになっておいでのうちにうしろで鳴く雀の声を鴉の声とまちがえず、鐘の声を太鼓の声ともまちがえず、男の声を女の声とも、子供の声を大人の声ともまちがえず、それぞれの声を一ツもききたがわず、明らかに通し分かれてききそこなはずにおわかりになるのは、霊明の徳用と申すもので、これが即ち仏心は不生で霊明なものであるというのです。只今、此処においでになる人に、自分がきこうと思う念を生じていた故にきいたという人は一人もおいでになりますまい。若しきいたという方があるなら、その御方は「妄語の人」と申す者で、みなこちらを向いて、私のいう事をきこうとしておいでの方はあるが、うしろで、それぞれの声のするのをきこうと思っている方は一人もありますまい。それなのに不時にその声が耳に入るとちゃんと別々にそれがきこえるのは「不生の仏心」できくと申すものであります。みなさんが、不生で霊明なものが仏心だということを決定されれば、今日から未来永劫の活仏と申すものでござります。仏というのは生まれた後の名で、ほとけと申せば不生からいいますと第二義の事で、不生な人は諸仏の元でいるというものであります。不生が一切の初めで、不生より元というものはないのであります。ですから、不生でおいでになれば諸仏のもとでいるということで、至極尊いことでございます。滅するということがないから、不滅というだけむだごとであります。私は不生とばかり申して、不滅とはいわないのです。不生といえば不滅という必要はなく、わかりきったことなのであります。そうではありませんか? 不生不滅という言葉は昔から御経の中にもあちこちと出ていますが、不生の証拠は何処にもありませんから、唯「不生不滅」という言葉ばかりを覚えている人は沢山にありますが、骨髄に徹して、ハッキリとその意義を知っている人はまことに少ないのであります。私は二十六歳の時から始めて一切のことが不生で調うということを思いつき、それ以来四十何年、親が子に生みつけたもうたのは不生の仏心一ツ、不生が仏心で仏心が霊明なものにきわまったという証拠をみなさんに示し、それを説き出しましたが、恐らく自分が最初の人間であると思うているのです。もし、このことがとくと御解かりになった人は、早速その場から人の心肝を見る眼がひらけます。ですから私の宗旨を一名明眼宗とも申します。こうして人を見る眼が出来ましたら、いつでもその時が法成就の時で、そう御考えになってもまちがいはありますまい。
 実際、自分も今迄あちこちで時々色々な名僧智識の説教をきいたこともありますが、こんな風に簡単に「不生」一点張りでよけいなことをグズグズいわず、ズバリと一番大切な要点を把んだ説教をきいたことはない。まったくひどくオリジナルな説き方なので、一寸唖然としていうところを知らなかった。みんなわかったのか、わからないのか、眼をキョロつかせて、熱心に禅師の方をみているばかりなのである。たいていの坊主達は自分の持っている仏教の智識をやたらにふりまわし、引証該博で、色々と小むずかしい経典の文句などを羅列するが結局、聴衆を煙にまくだけで一向に仏陀の主旨が徹底しない。しかし、禅師は智識や文字は初めから無視して、なんにも広く知らないでも「不生」の道理が呑み込めさえすれば「今日の活き仏」に誰でもなれるというのだ。不生でいる人は四六時中生死を超越し、つまり生死を度外視して生きているので、不生で働き、不生で死ぬことが出来る人間が、ほんとうの「生死自由三昧の人」とも、「入般大涅槃の人」ともいうのだ。不生でいれば煩っても不生で煩い、不生が病気の害にもならず、病気が不生の妨げにもならず、不生が病気の妨げにもならないのだ。
 みなさんが古則や話頭を暗誦され、或は公案を工夫し、看経や仏名を唱えることも勿論わるいことではありませんが、それだけではまだまだ至極のところに到達したとはいえません。それはみんな「造作」と申して、わざわざやることですから、じきに疲れてくるのです。線香を立てたり、御勤めをしたり、南無阿弥陀仏を唱えることが義務になるとまったく大儀になってくるものです。なぜなら、みんなそれは末のことで、本を忘れがちになるからで、当人の煩いになるからです。
 殊に若い人達は平生血気の盛んなのに任せて、やたらにあがきまわり、「造作」の修業をしがちで、そういう人達が煩うことになりますと、一度に弱って折角の修行がすっかり逆戻りをすることになります。そうして、風力の転ずるところ終りには壊敗をまぬかれぬような結末を仕出かすものです。けれども平生不生の仏心で働いている人は、寝る時も仏心、起きている時も仏心、行往坐臥いつでも仏心で、何事によらずその時々の縁々に隨って自然に働くことになりますから、たとえ善事を行っても、その作善に貪着するというようなことがないのです。仏心というものは善にも執着せず、悪いことは初めからしようとしても出来るわけがないのです。そうしていつでも「善悪の彼岸」にいることになるのです。愈々眼が開けて決定した人はたちどころに人天の鑑になることが出来るのです。しかし、生来癖の強い人は決定しましても自力を頼みがちで、六根の縁に対して思わず知らずに癖を出し、欠目のない円満な人間に中々なれぬものですわい。どんなに人の心肝を見ぬくことが出来ても、自分に気癖を持っているうちは本物にはなれません。自分だけの埓は明けても人天の繿となる人は極めて少ないものであります。平生不生な人は水を担い柴を運ぶも仏心で運ぶから、活き仏で田を耕やし、野菜に糞しても仏心で糞をかければ活仏であります。士農工商ともに仏心でよく一切事が調います。無福で乞食をしても仏心ならば今日の活き仏になれます。活き仏なればどこを歩いても其処に仏土が現われて来るものです。
 ある和尚さんが私に申しますには、あなたにも毎日同じことばかりを示さずとも、偶にはちと因縁故事来歴などを御話しなされて、人の心をさわやかに入れ代えるように説法なされたら如何なものですといわれましたが、それは甚だ一理あることに思いますが、如何に生来鈍な私とても、みなさんのためになると思えば、いか程鈍でも故事の一ツやニッ位は覚えこんでみなさんに御話しすることが出来ると思うのですが、人様に知りながら毒を食べさすような物でありますから、そのようなことは自分としては出来かねるのであります。私の流儀は仏や祖師の言葉を引いて人にいいきかせないやり方で、みんな人は各自自分の身の上の批判ですむことですから、なにもわざわざ仏語や祖語をひく必要がないのであります。ですから、私は特別に仏法も禅も説くのではなく、また説く必要がないのであります。みなさんの今日の身の上の批判で埓があくことですから、まったくその必要がないと思うのであります。みんな親が生みつけて下すったのは不生の仏心一つで、他のものはなに一つも生みつけたわけではないのに、人間はみんな身びいきをして、自分の思わくを立て顔へ血をあげて争い、自分は腹が立つわけではないが、あいつら等のいい分か気にくわぬ、実に不届きな事をいう、あまり我慢がならんから腹を立てているのだといって、先方のいい分に貪着し、関心を持つ故に折角大事な仏心を遂に修羅にかえし、詮ないことを思い、ひたすら念に念をかさねて愚癡を積み重ねることになります。愚癡は畜生の原因でそのままで死ねば、死んだ後は畜生に生まれかわるよりいたし方ないので、人間の迷いと申すのはみんな自分の身びいきから出て来るもので、身びいきがなければ決して迷いは出来ません。どなたでもみな生まれ付の凡夫という者はひとりも居ません。只今此処に大勢おいでになるが、凡夫はひとりもいず、みんな仏どうしの寄合いでござるが、みな六根の縁にひきずられて我慾を出し、我慢が出来ず、迷い出して凡夫になるのであります。いつでも仏心でござれば迷いもせず、特別に悟ることも要らぬのであります。仏心の尊いことを知らぬために、それを軽々しく思い、色々とあれこれに変化をさせて、流転して迷うのであります。

惰眠洞妄語


 今のような世の中に生きているというだけで――それだけ考えてみたばかりでも私達は既に値打づけられてしまっているように感じることがある。
 昔、堯舜の時代というようなそんなものがあったか、なかったか、又この先きユウトピヤとか、ミクロの世の中とかいうものが来るか来ないか、そんなことを何遍繰返して考えてみたところで、私は少くとも今日一日の生命を生きてゆかなければならないことだけは事実だ。現実肯定だ。それ以外に名案は浮んでは来ない。
 私にとっては現実を肯定するということは厚顔無恥に生きるということの別名に過ぎない。――厚顔無恥も度々繰返している間には無邪気に思われるようにさえなって来る。
 私は自分が厚顔無恥であるということを時々意識することによって、自分に不愉快を感じさせられる。――従って私は鏡にうつる自分の姿を見ることをあまり好まない。
 自分はまだ修業が足りないのだ――と思う。しかし、やがて自分はこんなことすら意識しなくなる時が来るのではあるまいか、とひそかにその時期の到来を期待しているのだ。
 私は電車に乗る時の自分の姿をアリアリと思い浮べる。私は人が自家用の自動車を持たなければならないと思う方があまりにも当然だと考える。それが果してブルジョア意識というものなのだろうか?
 芸術は玩具だ。少くとも書物は私にとってはなくてはならない玩具の一種だ。私は自分の好きなおもちゃを宛かってさえ置いてもらえば、かなりおとなしく遊んでいる。
 私は自分の生活のために時々自分でおもちゃを拵らえて売る。ゆっくり、楽しんで自分の気の合ったようなおもちゃばかりを拵えてみたいが、そうはゆかぬ。しかし不出来な、気に喰わないものでも買ってくれる人があるので、私はどうやら暮してゆかれるのだが――貧しいおもちゃ製造人。
 時々目先の変った新型のおもちゃを拵えないと、私はどうやら暮しが立だなくなる恐れがある。私のおもちゃをお買い下さい――。


 おもちゃは腹の足しにはならない。そんなものはゼイタク品だ。一切のおもちゃを破壊せよ!――腹の空いた人間の理窟としては無理もない。だが私のような発育未熟の永遠の赤ん坊は少し位腹が減っていても自分の好きなおもちゃがあるとそれでかなりまぎれている。
 おもちゃを持って遊ぶことの出来ない人間は不幸なものだ。
 おもちゃの好きなものは当然おもちゃに対する鑑賞眼が肥えて来る。金さえ出せばいいおもちゃが買えるというわけのものではない。いくら金があってもおもちゃのよしあしのわからない人間もいる。――莫大な金を出してつまらぬおもちゃを買う者もいる。自分で好みもせぬのに、人に見せびらかすためにやたらと買う者もいる。
 おもちゃのほんとうに好きな人間は自分で自分のおもちゃを撰択する。時代と流行と人気とは彼になんの関りもないのである。
 私は自分が拵えて、自分が楽しむことの出来ないような玩具はなるべく拵らえたくないと思っている。
 いつまでいじくっていても少しも見倦きのしないようなものを拵えたいと思っている。
 人のこしらえた物が気に喰わなければ自分で気に喰う物を造るより他に仕方がない。
 私は人のおもちゃの世話を焼くことにあまり興味を感じない。しかしいいおもちゃが眼に付けばそれを手に入れて遊ぶばかりだ。
 人の趣味は千差万別だから、この世には色々なおもちゃの存在理由があるわけだ。

 宮沢賢治という人は何処の人だか、年がいくつなのだか、なにをしている人なのだか私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』という詩集を手にした。
 近頃珍しい詩集だ。――私は勿論詩人でもなければ、批評家でもないが――私の鑑賞眼の程度は、若し諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直ぐにわかる筈だ。
 私は由来気まぐれで、甚だ好奇心に富んでいる――しかし、本物とニセ物の区別位は出来る自信はある。
 私は今この詩集から沢山のコーテエションをやりたい慾望があるが――。
 わたしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)――というのが序の始まりの文句なのだが、この詩人はまったく特異な個性の持主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失なわれていたのでは話にならない。


 真空溶媒(Eine Phantasie im Morgen)凡ゆる場合に詩人の心象はスケッチされる。万物交流の複合体は、すでに早くもその組立や質を変じて、それ相当のちがった地質学が流用され、相当した証拠もまた次々の過去から現出し、みんな二千年ぐらい前には青ぞらいっぱいの無色な孔雀がいたとおもい、あるいは白堊紀砂岩の層面に、透明な人類の巨大な足跡が、まったく発見されるかも知れないのだ。
 楢と撫とのうれいをあつめ
 蛇紋山地に篝をかかげ
 ひのきの髪をうちゆすり
 まるめろの匂のそらに
 あたらしい星雲を燃せ
 dah-dah-sko-dah-dah
 肌膚を腐植土にけずらせ
 筋骨はつめたい炭酸に粗び
 月々に日光と風とを焦慮し
 敬虔に年を累ねた師父だちよ
 こんや銀河と森とのまつり
 准平原の天末線に
 さらにも強く鼓を鳴らし
 うす月の雲をどよませ
 Ho! Ho! Ho!
 原始林の香いがプンプンする、真夜中の火山口から永遠の氷霧にまき込まれて、アビズマルな心象がしきりに諸々の星座を物色している。――ナモサダルマブフンダリカサス――トラのりふれんが時時きこえて来る。それには恐ろしい東北の訛がある。それは詩人の無声慟哭だ。
 屈折率、くらかけの雪、丘の幻惑、カーバイト倉庫、コバルト山地、霧とマッチ、電線工夫、マサニエロ、栗鼠と色鉛筆、オホーツク挽歌、風景とオルゴール、第四梯形、鎔岩流、冬と銀河鉄道――エトセトラ。
 若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は『ツァラトゥストラ』を忘れても『春と修羅』とを携えることを必ず忘れはしないだろう。
 夏になると私は好んで華胥の国に散歩する。南華真経を枕として伯昏夢人や、列禦寇の輩と相往来して四次元の世界に避暑する。汽車賃も電車賃もなんにも要らない。嘘だと思うなら僕と一緒に遊びに行って見給え。


 言葉の感覚――近刊『ですぺら』の広告文に私は『ですぺら』といったってアンペラやウスッペラの親類ではない――と書いた。するとそのたってという奴がたとてになっている。これは僕にとっては恐ろしい致命傷だ。更に、そのいったとてがいうたとてになりいうたかとてになったら、私は自殺するより他に方法はないだろう――いうたかとて――親戚やおまへん――などとやられたら、息を引き取った奴がこんどは逆転して蘇生するにちがいない。まったく言葉という奴は恐ろしい生き物だ。
 ルナアルやモランが最近訳されたことは僕のひそかに喜びとするところだ。堀口君の『夜ひらく』はまだ拝見はしたいが、嘗つて明星所載の「北欧の夜」の一部だけは読んでいる。僕も偶然にもその頃、ルナアルの小品とモランの詩とを訳して「極光」という雑誌に載せたが記憶している人は少ないだろう。それは中西悟堂が松江から出していた同人雑詰なのだから。私はなぜモランを訳したか別段深い意味もない。彼が仏蘭西のすぐれたダダの詩人だからだ。彼は教養ある若き外交官であり立派な一個の紳士である。しかし日曜に彼の処へ電話をかけると、自分で「御主人は只今瑞西へ御旅行中です」というのは如何にもダダの詩人がいいそうなことだ。堀口君は最初に彼をダダの詩人として紹介されていたようだが、こんどは新印象派として紹介されたのは訳者堀口君もどうやら真正のダダイストらしい。巴里の街上で慇懃に挨拶する教養ある紳士はたしかにダダイストなのである。ダダを気狂いや、変態性慾の代名詞だとばかり早呑み込みをする諸君に一応御注意を促して置く。これ以上シャベッていると新潮社から御礼のくる恐れがある。
 鋭い嗅覚と触覚――それはいつの時代でも科学と文芸とに恵まれている。哲学、宗教、政治にはカビが生えて腐れかけている。かれ等の官能は盲ている。是非もない。村山の「マヴオ」がスピツペルゲンなら、エイスケの「バイチ」はバタゴニヤだ。仞論かれ等は初めから芸術などという古い観念を破壊しているのだ。日本のヤンゲスト・ジェネレーションの最も進んだ精神がどんな方向に向かっているか? Only God knows!
                      (大正十三年七月十三日)

癡人の独語

 秋になるときまって虫が啼く。夜静かに虫の啼いているのを聴いていると寂しいけれど気持がいい。なぜ寂しくきこえるのかなどと考えてみるのは恐らく余計なことかも知れぬ。
 生きることになんの疑いも持たず、普通の習慣に従って無心に生きられたらどんなに気楽だろう――と自分はいつでも思うのだ。しかし、それが自分にはいつの間にか出来なくなってしまっているのだ。
 なにかしら漠然と物を考えているのが自分の生活の大部分になってしまっている。実行する能力が次第に減殺されてゆく――これはたしかに健康によくないことだと自分は十分わかっていながらそれが出来ないのだ。どうしてもこれは病的な状態だとしか思わずにはいられない。精神的なパラリシス――恐らく酒精中毒のしからしめるところかも知れない。
 新聞や雑誌を開いても漠然と大小の活字が眼に入ってくる許りで、なんとなく自分とは次第にかけ離れた世界の事象が記載されているとしか思われぬ場合が多い。特に一番自分と縁の深い文芸作品も近頃ではとんと自分を誘いこんで読ませるというような物が少ないのはなにより自分にとってツマラヌことだ。これは自分が「時代」といつの間にか逆行して歩いているせいなのか、或は自分の頭の具合なのか?――恐らくその孰れでもあるのだろう。
 自分は昔から競技というものに余り興味をかんじない質の人間ではあるが、現代の日本に生活していながら、野球や麻雀になんの興味もないというだけでも社会人たる資格はなさそうだ。その他政治にしろ、キネマにしろ、ダンス、レビュウ、ラジオに至るまで実をいうと自分にとってはどっちでもいいような存在なのである。
 人間が地上に現われてから凡そどの位の時間が経過しているものやら知らぬが、勿論かなり長い年月を経ているということだけはたしかだ。そうして現在では人開かかなり進歩したとか、文明だとか文化したとかいわれているが、大多数の人間が現にその日のパンを獲るために馬鹿気た努力をしているのを見ただけでも自分は呆然たらざるを得ない。努力はいいとして、なおかつ飢餓に脅かされている人間が頻々と到る所に群生しているのを見ても、自分は人間の生活を文明だなどといって謳歌することは出来ない。寧ろ他の生物の生活を羨望こそすれ、自分が人間として生まれたことに特別の誇りを感じることは出来ない。人間の生活をこのまま素直に肯定することは出来ない。電車などに乗って多くの人達の顔を見ただけでも、自分は生きているのが耐まらなく不快になることがある。そうして、自分のからだにもかれ等と同じような血が流れているのかと考えると自分が恐ろしく厭しくなる。尤もそんな時はたいてい自分がシラフでいる時なのである。
 この世に生きていることに価値を見出している人間、なにか夢中になっていられる人間――そういう人達の数が大半を占めているというなら、人間もそうまで不幸ではないかも知れぬ。しかしそうでないとすれば全体、人間はいつまでかくの如き愚かしい生活を続けてゆくつもりなのであろう!。
 最近自分は尾形亀之助から『障子のある家』という薄っぺらな自費出版の散文詩集の寄贈を受けた。それをたいてい毎日一回か二回位手にとって、繙読している。恐らく近頃、この位自分に感興を与えた本はない最初によんだ時は久しぶりで腹の底から哄笑したほどに自分は愉快にかんじたのである。
 自分は急に彼に遇いたくなった。一度訪ねるというようなハガキを今年になってから二度程出した覚えがあるが、とうとう訪ねることが出来ずにいた。詩集の序をよんでなんとなく彼がいなくなるような予感がしたので、またいつどこで遇えるかわからないと思ったから近所に彼の居所を知っているKという友人がいるのを幸い、彼を促し恰度来彦わせている二三の人達と一緒にその日の午後上馬に彼を訪ねたのであった。
 案の如く彼は引ッ越していなかった。ガランとした空家にボロボロな紅緒の草履が一足ぬぎすててあるのが眼についた。恐らくそれは彼と同棲していたY女の遺物なのでもあろう。勿論隣家できいたが彼の行方はわからなかった。駒沢辺から大岡山へ通ずる秋晴れの野道は散歩するには至極好適である――さして期待はしていなかったものの、折角彼のために心ばかりの祝盃を挙げるつもりで来たのにと考えるとやはり心残りがしてならなかった。
「何らの自己の、地上の権利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。それからその次ヘ!」――これが自序の冒頭の第一行である。彼が最近二ヵ年の作品をまとめて本にしたのは「作品」として読んでもらうためではなく「私の二人の子がもし君の父はと問われて、それに答えなければならないことしか知らない場合、それは如何にも気の毒なことであるからその時の参考に、同じ意味で父と毋へ、もう一つには、色々と友情を示して呉れた友人へ、しようのない奴だと思ってもらってしまうために」なのだ。
 しかし、自分は彼を「しようがない奴」だと思わないばかりか、彼の数篇の詩を「作品」として愛読したのである。
 なぜか?――偶々彼と自分の生活感情?――があまりに類似しているためにである。しかし、彼は僕に比べて遙かに詩人であるが故に、それを詩として表現している。恐らくこれ以上の「詩」というものは別段ありそうにも思われない。
 「寝床は敷いたまま雨戸も一日中一枚しか開けずにいるような日がまた何時からとなくつづいて、紙屑やパンのかけらの散らばった暗い部屋に、めったなことに私は顔も洗わずにいるのだ。
 なんというわけもなく痛くなってくる頭や、鋏で髯を一本ずつつむことや、火鉢の中を二時間もかかって一つ一つごみを拾い取っているときのみじめな気持に、夏の終りを降りつづいた雨があがると庭も風もよそよそしい姿になっていた。私は、よく晴れて清水のたまりのように證んだ空を厠の窓に見て朝の小便をするのがつらくなった」
 この詩は別段代表的というわけではなく、単に短い上に季節的であるという程の理由から引照したまでに過ぎない。
「形のない国」という附録の「滑楷無声映画の梗概」と題するお伽噺? も甚だわが意を得たものである。かなりユーモアの中に辛辣なイロニイが蔵されている。
 後記には「泉ちゃんと猟坊へ」という彼の愛子に宛てたものと「父と母へ」宛てたものとがある。之は一見「遺書」の形になっているが、「遺書」をかいたからとて別段自殺をする義務が生じるわけのものではないから、僕は彼のために楽観しているが、自分が若し同じようなものを書かなければならぬとすれば、これをそのまま剽窃してもいい位に考えている。「さよなら。なんとなく御気の毒です。親であるあなたも、その子である私にも、生んだり生まれたりしたことに就いてたいして自信がないのです」
「人間に人間の子供が生まれてくるという習慣は、あまり古いのでいますぐといってはどうにもならないことなのでしょう。又、人間の子は人間だという理窟にあてはめられていて、人間になるより外はないのならそれもしかたがないのですが、それならば人間の子とはいったい何なのでしょう。何をしに生まれて来るのか、唯、親達のまねをしにわざわざ出かけて来るのならそんな必要もないではないでしょうか、しかもおどけたことには、その顔形や背丈がよく似るということは、人間には顔形がこれ以上あまりないとでもいう意味なのか、それとも、親の古帽子などがその子供にもかぶれるためにとでもいうことなのでしょうか――」
 この「障子のある家」―― 一名「つまずく石でもあれば私はそこでころびたい」という厄介な書物は僅かに七十部だけ刷られて友人知己の間にのみ恐らく配付されたものであろうから、勿論、本屋の店頭をいくら探しても見つかるまいし、肝腎の著者が、行方不明なのだから、直接彼のところへ申しこむことも出来はしまい。
 自分は勿論、著者に頼まれたわけでもなく出版屋のない本の広告をしたところで始まるわけのものでないことはわかりきっているが、偶々かくの如きひとりの詩人が存在しているということを多くの人に知らせたいと思ったばかりなのである。
 しかし、彼が貧乏しなかったら、かくの如き詩集を生み出すことは恐らく出来なかったろうと考えると「詩」というものが如何に贅沢なものであるかをつくづくかんじさせられるのである。
 生物はそれぞれの様式に従って物質を吸集し分泌する。人間にもさまざまの種類があって「詩人」は詩人風に彼の「詩」を分泌する。そうしてそれを感じるものだけが感じるのだ。
 現代に於いては「金」そのものを直接の目的とする商人階級が一番ハッキリした存在である。その他は色々の仮面をかぶりながら、しかも結局、金儲けをその目的にしているのだから、そこにさまざまな矛盾や滑稽が生じて来る。
 金儲けを直接の目的とする商人すらが生活に困っているのである。況んや、それとはもっとも縁の遠い「詩人」が生きてゆけないのは当然である。「詩人」は先ず「阿呆」の異名であるとでも思っていればまちがいあるまい。

癡人の手帖より

 さみだれている日はいいものだ。ただなんとなくいいものだ。どうしていいのかなどとつまらないことをきいてくれるな。君達の知ったこっちゃないのだ。こちらさまがただ勝手にそんな風に考えているだけの話なのだ。
 青桐の葉は青く、ラブレイの表紙は紅い。雨滴れの音はとこしなえに旧く、電車の警笛は間か抜けている。バッ卜はまだ半ダース程ころげている――それにおれの頭の中のおから……これさえあれば鬼の首だ。
 杉の木立が黒ずんでハッキリとさかさに突っ立っている。河骨が静かに微笑している。時々ケラケラと鳰が馬鹿気た笑い声を出す――おれはいつの間にかあめんぼうになって泳いでいるのだが、いつまでたってもおなじところをいったりきたりしているばかりだ……木の葉舟の上にあがって流れのままに漂っていたらいつの間にかねむくなってねてしまった。どこかで遠雷の音がきこえる。時々妙なにおいがまじってくる……田植をしている早乙女が分泌しているものらしい。いやに黒砂糖のようなところてんのすっぱい様な味が感じられる――
 夢の中で自分はいくたびとなくsimple & pure, simple & pure……とくりかえしていた。なんでもない言葉だが自分のこれがたった一つのアイディアルなのだから驚いてしまう――そうして、きまってそれが「青い世界」なのだ――青いといったって勿論そう簡単じゃない、早くいうと「水色の世界」だ。水色といったってそう簡単じゃない、早くいうと「あさぎ色」の世界なのだ。幼年の自分はいつでも好んであさぎ色の半襟を襦袢にかけていた。
 夕暮れのあさぎ色の空を君達は知っているだろう……静かに證み透ったあさぎ色の空を……あれが pure, simple「 & serene というのだ…… melody of azure, pure, simple & serene―― aftersunset melodies of azure, pure, simple & serene……

 黄昏の鐘の音がきこえてくる 雨がしとしとおやみなく降りつづいている マアケッ卜の売り出しの楽隊が欠伸をしている 豆腐凰のラッパが伴奏をあいのてに入れている きわめて平板な生活の雑音――らんぐうる ものとほん おしめはかわかない はちわれの犬の子がどこかで鳴いている バラバラなアンブレラがごみために棄てられている 女中が二銭のコロッケを食べている……らんぐうるものとほん………
 人世は葱だ――とさもきいた風なことを誰かがいった。ラッキョウだといってもつまりはおなじことだ。皮を剥いでみる趣味はだがあまり感心は出来ない。剥いでしまったらそれでおしまいチャンチキリンではつまらない。玉手箱の蓋は開けないにかざる。いかに生きるべきかの秘訣はそのほかにあり得ない。いつまでも「明日」があるように思っている方がまちがいない。挘られた花はすぐと萎んでしまう……
 毎日土を掘りかえしている 石ころを搬んでいる 帳面をつけている ボール箱をつくっている 電車を動かしている 同じ道を往復している プログラムをアナウンスしている 日曜になると説教している みんななにかしらに縛りつけられている しかし メカユズムは自然の大法則なのだからやむを得ない 海のリズムをきいていてもやっぱりおんなじこった 風が吹き 雨が降り……別段いうこともないから先ず「御天気」のうわさでもする――らんぐうるものとほん……
 たった果敢い唯一の捌け口が「芸術?」――それもなんと黴が生えているではないか? おもちゃの人工楽園 瘋癲病院 れぼりゅしょん カアニバル……骨折り損のくたびれ儲け……やらないよりはましかも知れぬ――

 パッションの泉は涸れてしまった。サンシビリテはすりきれたやげんのようになってしまった。初めからそんなものはなかったかも知れないのだ。探しまわり、尋ねあぐんだ末にやっと見付け出した「自分」はまるで「藁人形」のように揉みくちゃになってしまっている。
 月が大きな暈をかぶっている くらげが磯に打ちあげられている 空中に白帆が浮んでいる 野茨のかおりが微かに漂ってくる 銀色のクロマチックが燈台のあたりを上下している 狂犬の吠えるような声がきこえる 月がだんだん真紅になってくる 灰色の影法師が行列をつくって波頭の上を歩いてゆく 紫色をした牛が碧の眼を光らして真黒な洞窟の中で唸っている――
 みんな天井のしみの仕業なのだ。雨の音が聞こえている。どこかで鳩が啼いている。
Felix Kennastonというのがこの小説の主人公なのだ。フェリックス・ケンナストン――妙な名前じゃないか? まるで屁理窟をいってなにかケナシつけているようだ。この小説といったってわかりゃしない――“The cream of jest”というのがこの小説の題名で、作者は James BranchCabell というのだ。
 自分はこの小説を訳して「古東多万」という雑誌に連載しようかと考えているのだが、第一この小説の題名をなんという日本語にあてはめたらいいかと約一週間程頭をひねったのだが、どうしても適訳がめっからないのだ――かんじは「味の素」のような、若しくは「落語のオチ」のような風に思えるのだが、これではまるでぶちこわしだから、やっぱりそのままそっくりして置くより仕方がないと考えているのだ。
 作者のブランチ・キャペル氏は少なからず気取り屋でもあり、御上品すぎて自分のようなブルガアな人間とは肌が合わないが、いやにひねくれて小むずかしい文章を書いているからこれをこなしつけるには中々骨が折れる――だによって勉強のために先ずなることだけは受け合いだ。頼まれもせぬのに骨を折ってこんな仕事をするのは今時自分のような人間位だと思うから、ひまにあかして勉強のつもりでやるわけだ。「退屈は勉強の母なり」とはまことに千古の金言だ。そもそもこの小説はどんな小説かというと――
 ぜ くりいむ おぶ ぜ じぇすと――という小説の大体の結構は流行作家フェリックス・ケンナストンの霊魂の秘密を暴露せんとする企てに外ならない――その秘密は彼の細君や、隣人達の眼に軽々しく映ずるボバリイ式の似非霊魂ではなく、時間と空間とを超絶する奥義的精神のそれで、この世ならぬ想像の世界に演ぜられる種々なる冒険を含蓄している。打見たところ、ケンナストン氏は至極分別あり、令名ある人物である――確信ある一夫一婦主義者であり、そして、立派な家庭家であり、穏健なプレシビテリアンでもある。しかし、彼の心の中にはひとりの冒険家が住んでいる――彼は眼に見える世界全体を股にかけ、心溢れるばかりの恋愛の発見者ともなる。キャベル氏はこの物語の中に数多の知的戦利品を陳列する――絢爛たるイロニイの破片、思想と信仰に対する深き洞察、全部が不可知哲学の衣で包まれている云々――
 これは評論家メンケンの推辞である。なおこの書は市場を無視して作者自からが愛をもって喜んで書いた作品で、この書に牽引せられる読者こそ最も牽引に値する読者であると付け加えている。通俗小説でも、物語でも、況んや単なる暇潰しの読み物ではなおない――ではなんであるか?――先ず「一片の文学」といってしかるべきだと――
「一片の文学」――なんというなさけない言葉であることかと――だが、
In great art the part always contains the whole-B. C.

 われわれは最早いいかげんに平行線を歩くことを止めるべきだと思う。
 垂直にかまわず落下すること――恐れることはない――唯やればいいのだ。最初は少しばかり眼が眩むかも知れない――しかし、すぐと馴れてくるだろう。
 なんと笑うことを忘れたブロックへッドやニディどもの多いことか! 笑え、笑え、笑え! 人生は畢竟一種のContretemps以外のなにものでもあり得ない。このコントルタン奴!
 科学? 真空管の中でブツブツなにかいっている。ユウトピヤ? アイディヤリスト共の滑稽な玩具。道徳? ステートと称する元祖詐欺漢の発明にかかる巧妙なる機構――なんというコントルタン――これが可笑しくない人間共は女の尻の穴を望遠鏡ででも覗いてみるがいい! ケラケラケラ、ガッガッガッ、ゴッゴッゴッ、ファファファ……
「懶惰」は長期にわたる精神的労作の産物で、たとえば「真珠」の如きものだ。
 筋肉労働――長期にわたる奴隷根性の遺伝の嗚呼なんという美しい発露であることよ!
 俺は近頃毎朝よつんばいになって森の中を這いずることをもって唯一の日課にしている。朝露を吸いながら、草の香を嗅ぎながら、小鳥の歌を聴きながら、樹の間を洩れて来る日影を浴びながら、時々片足をもちゃげて小用をたしながら、短かい舌をムリに長く出して滑らかな石コロなどを舐めながら、時々落ちている紙くずにアテられながら、よつんばいになって歩いている。お蔭でひどく腹がへる――朧にぶらさげている握り飯をニツ程ムシャムシャ食べて、さてそれからひるねをするのだ――シネマのプログラムは毎日がわる――別段料金を払うわけじゃないから――つまらなくっても小言もいえない――
 タ立のトンネルで眼がさめることもある……

「英雄」は過ぎゆく

 英雄というと――すぐジュリアス・シーザアとか、ナポレオンとか、ビスマークとか、豊太閤とか、西郷南洲とかいうような名前が頭に浮んでくる。これは年齢の関係で、少年時代から、学校の教科書や、物の本などから自然に詰めこまれた智識の結果に他ならない。
 真に英雄とはどんな人物か?――ということを論じることになると色々むずかしくなることだと思うが、普通に「英雄」という言葉から連想される人物はどうしても一国を経綸する宰相とか、三軍を叱咤する将軍とかいうキャテゴリイにあてはめて考えるのがこれまでの常識であるらしい。
 近頃、鶴見という先生が『英雄待望論』という書物を著わされて評判だそうであるが、僕は末だ拝見してはいないが、「待望論」というのだから、現代日本にはまず英雄は目下のところ払底であるというのが先生の意見らしい。憂国の士が「未曾有の国難時代」にあたって英雄の出現を待望するのは如何にももっともなことだと肯かれる。しかし、いくら待望しても、池の鯉や金魚のように「出て来い、出て来い」といっても、そうオイソレと出て来るものでもあるまい。しかし、出て来る時は別段催促しなくっても突如としてどこかの片隅から現われて来るかも知れないのである。
 実をいうと、自分のような人間は少年の時分から、まだ一度も所謂「英雄」を懇望したことも憧憬したこともないのである。従って、アレキサンダアや、ジンギスカンに感服したこともないのである。
 しかし「英雄」――を広義に解釈して非凡な人物という意味に取り扱えばさまざまな観点から、さまざまな解釈が生じて来るし、勿論、時代や、国柄や、人種によってその色彩が自ずから異なって来るわけである。新しい常識から考えても大政治家や、軍人ばかりが「英雄」でもあるまい。今時、英雄というとすぐ伊太利のムッソリニが例に挙げられるが、在来の日本的趣味から押しても、たしかにレーニンよりムッソリニの方が英雄の型にはまっているらしい。かりに印度のガンジイを英雄の仲間に入れれば、ムッソリ二こそは全然対蹠的な英雄だということになる。
 かつてある人の英雄論を読んだら、英雄の資格として十三の特色を挙げていた――曰く、天楽、天職、職見、至誠、節義、度量、忍耐、気胆、経綸、神機、権威、濃情、雅懐――そうして、この中の一つが欠けていても真個の英雄たる資格がないのだそうである。こういう英雄理想論になると、中々その資格を具備している英雄を探すのに骨が折れるし、一々その尺度で、古今の英雄を計ることになると、落第する方が多いのではあるまいか。これに比べると、カアライルの英雄観などは至極簡単で英雄の本質を「至誠」に帰して至誠を貫徹した人物を英雄と見倣しているらしい。予言者のマホメッ卜や、詩人のバアンズなどは彼の目には立派な英雄として映じたのである。
 全体歴史上の英雄や、偉人などいう連中も余程、割引きして考えなければならない。それ等の人物を伝える歴史というものが抑も甚だ怪し気なものであるから。そう考えてくると現代の日本にも随分と沢山の英雄がいるのじゃないだろうか。つまり後世になると英雄の資格を備える人物がいるのじゃあるまいか? 伊藤博文、乃木将軍、東郷元帥などもみんな立派な英雄じゃないだろうか?
 人生は猿芝居だ――などと無理に猿の芝居にしないでも、単に舞台にしてみるとわれわれはすべて見物であると同時になにがしかの役をふりつけられているのだ――英雄はつまり舞台の上の立役者なので、大向うからの大喝采を博すために登場する人物なのである。もっとも見物の方にも色々と贔屓があるのだから、必ずしも万人の満足を買うことは出来ないわけである。それは本来アキッポイものだから、役者の人気にも従って盛衰はまぬがれない。
 なにごとによらず、新しいことの好きな所謂モダアン的観点からいうと「英雄」などという言葉そのものからしてなんとなく古臭いかんじがするといわれるにちがいない。現代のモダアン青年子女の理想の英雄はまさか伊藤博文、乃木将軍でもあるまい。もっとも同じモダアン青年の中にも、文学青年もあれば、マルクスボーイもあれば、シネマファンもあればスポーツ青年もいるから、各自の立場から見た理想の偉人はそれぞれ異なってくるわけである。いずれにしても、旧式な政治家や、軍人はこれから次第に人気がなくなるのじゃないだろうか? つまり、政治家の代りに、労働運動の指導者とか、軍人の代りに飛行家とかいう人達が人気の対象になるのであろう。
 現在はまた一方に於て大衆の時代であるといわれている。つまり大衆の輿論が時代を支配することになって来た。こうなると、特別に「英雄」などと称して自分ばかり大衆から毅然として優越したような顔をしている人物はかえって大衆から軽蔑されることになるのじゃあるまいか? 寧ろ大衆の心を心として大衆の意向を代表し、大衆の犠牲となるような人物こそ大衆の待望する理想的英雄であるといわれるのではあるまいか?
 さて、自分のような人間は、たいていの人達を見てすぐに感心してしまうのである。なぜなら、たいていの人達は自分に出来ないような能力の所有者だからである。しかし、それだからといって、英雄が無数に現われて来ても、自分は特別にそれ等の英雄に感服したり期待したりはしないであろう。

 マルクス、レーニン、トルストイ、ムッソリニ、クロポトキン――いずれもみな偉大なる人物に相違ない。みなそれぞれ大きな影響を世の中に与えていることはたしかである。しかし、それ等の偉人が現われないでも、われわれの生活には大差がないかも知れない。単に生きてゆくという上からいえば、われわれは食料の生産に従事する人々なしには一日も生きてゆくことは不可能ではあるが、それ等の英雄偉人なしでも生きる上には一向差支いないようである。
 革命家孫逸仙などは在来の東洋風な英雄の型を破った近代的英雄の風貌を備えていると思う。伊太利のマクテスタなどもまだ死んだという噂はきかないが、たしかに非凡な人物だと思われる。
「英雄」という言葉の範疇にあてはめられないかもしれないが、エジソンとかアインシュタインなどいう人達は単なる発明家とか、学者とかいうよりもっとなにかしら偉大な人物だというかんじがする。これ等の人達は自分などのまったく窺い得ないような世界に棲んでいるせいか、よけいエライような気がする。僕の個人的な考えからいうと、新時代の「英雄」というのはかくの如き人達ではないかと思われるのである。また自分のロマンチック趣味からいえば、エレンブルグの書いているフリオ・フレニトは最も興味ある理想的英雄である。
 最後に自分は敬愛拑く能わざる現代の世界的英雄として、チャアリイ・チャップリンをその王座に安置し、世界に散在する無数のファンと共に改めて彼の前に叩頭しよう。

あまちゃ放言

  ――自分と「政治」――

 自分は色々の意味でいつでも自分を「素人」だと考えている。そうして寧ろその「素人」であることを内心得意にさえかんじているのである。死ぬまで自分は「素人」として終始したいものだと念っている。
 自分は又独学の書生である。故にひどく変則でなにごとによらず、自分流儀にしか出来ない。これは少年の時から「自修」の癖がついてそれが骨の髄まで染み込んでしまったという形だ。だから、今となってはどうにもならぬ。所謂「知天命」年になっても「知らないこと」はまったく知らない。つまり自分の興味を覚えないことはよほど差し迫った必要に促されない限り覚えようとしないのだ。
 さて『自分と「政治」』と題したが、僕がこれから書こうとすることは「政治」に就いて云々するのではなく、自分がどの位「政治」に関して無智であるかを披瀝してみたいと思うのである。
 若し僕に「政治とはなんぞや?」などという質問をする人があったら、僕は自分の左手の人差指を左眼の下にあててもってその答えとしたい。やむを得ずんば『論語』の「為政篇」の冒頭の文句でも引照して御茶を濁すほか自分にはまったく「手」がないのである。それ程僕は政治や法律に対して無智蒙昧を極めている。つまり興味をかんじないのだ。従って選挙などに熱狂している人間共を見るとまったく不思議な感に打たれるのである。
 自分のおやじは明治初年に於ける一法律書生だった。だから、かなり政治には興味をもっていたらしく、なにも知らぬ幼年の僕に「総理大臣」たることを専ら強要したものである。「総理大臣」ならずんば「陸軍大将」をである。さすがにおやじは「陸軍大将」の方はあまり口にしなかったようだ。今迄おやじが生きていて今日此頃の息子の「日ぐらし」を見ていたらどんな「感想」を吐くかと時々おやじのことを思い出しては微苦笑を禁じ得ない。
 明治二十三四年頃、自分は六七歳で浅草の蔵前に住んでいた。会津の磐梯山が破裂したり、憲法が発布されたり、チャリネが秋葉の原にかかったり、スペンサアが上野の竹の台で風船に乗ったり、川上音次郎が鳥越の中村座で「オッペケペ節」を流行させたり、中々多事多端で自分の浅草に於ける幼年期はまったく豊富な生活に恵まれ、色彩と音楽にとりまかれていたようなかんじである。
 自分は幼年の頃から音曲に対して敏感だった。それ故、歴代の流行歌は今でもたいてい記憶に残っている。当時幼年の自分がもっとも好んで唱った歌はなにか?
「ヤッツケロ節」であった。最後に「自由の権利でヤッツケロ! 愉快\/欣舞\/\/」というリフレインのついた勇壮活発な唄なのである。
 この「ヤッツケロ節」は、当時の自由党の壮士(勿論下っ端であったろう)と称する書生連によって街頭を流して歩かれたもので、歌詞はその頃僕にはなんの意味か少しもわからなかったが、今思えばそれは「自由民権」の思想を鼓吹すると同時に、嘲世罵俗の諷刺的文句をも面白可笑しくとり入れたもので、かれ等はそれを売って糊口の資に宛てるというよりは寧ろ、それによって「自由民権」の街頭デモを行なっていたのだ。
 高い薩摩下駄を履き、白金巾の太い兵子帯を締め、犬殺し的の桜の太いステッキなどをついた蓬頭氏等(中には現今の新聞配達や、牛乳配達等によく見受けられる頭をきれいに分けて光らしているのも折々見うけたようだ)が、よく交番の巡査と口論格闘を演じているのを見かけた。自分はどういうものかその時から本能的に巡査がきらいだった。特にその時分の巡査を記憶している諸君ならすぐと聯想されることと思うが、かれ等が如何に威張り散らしたか、いかに横柄であったか――まったくそれを考えると現在の巡査諸君は「街道の若き紳士」というかんじがする。
 勿論「ヤッツケロ節」の好きな、そうして巡査がきらいだった僕はひそかに自由党の壮士諸君に身方して、かれ等が文字通り「ヤッツケ」られることを乞い願っていたものだ。とにかく僕は幼年にして無意識的に「自由党」に参加していたのだ。後年に至るまで、何故か、僕は「改進党」に組し得なかった。これは理窟でなく自分の本能だと考えている。それに自分は省みると常に少数派をもって任じている。白分が初めかんしんしていた主義なり主張なりが次第にひろがって大多数の人間によって附和雷同されるようになるとまったくウンザリしてイヤ気がさして来るのである。つむじ曲りというのかなにか知らんが自分ながら困った性分だと考えている。それが年と共に次第に激しくなり、今ではまったく自分ひとりのアンデパンダンになってしまった形だ。しかし、こうなると結局気楽だと自分では考えている。
 自分は時々新聞や雑誌から往復ハガキで政治や時事問題に関する意見を徴せられるけれどたいていの場合はすッぽらかして置く。なぜなら、自分の碌に知りもしない事に対して意見の述べようがないからだ。せいぜい新聞で見る政治方面の智識も三面記事と同様、どんどんと筒抜けになってゆくのだ。こんな調子だから、まことに申訳のない次第でもなんでもないが、歴代の大臣の名前を満足に覚えていた試しがない。せいぜい総理大臣と内務大臣位なものだ。内務大臣は自分の職業上どうしても覚えざるを得ないことになる。
 自分が物心ついてから刺客の手に斃れた政治家で真に自分が惜しいと考え、今でも忘れることの出来ない人物がひとりいる。それは星亨だ。今から約三十年前、僕が十八歳の時だと記憶している。しかし、これには特別の理由がある。当時、星亨は東京市長で、僕のおやじは一介の市吏員として市の教育課に勤めていた。多分その時の課長は島田氏だったと思う。かねがね僕はおやじから星亨のエライことをきかされていた。自分の、だが一番少年として感心していたのは彼が非常な読書家であったという点である。由来僕の少年としての頭に映じていた政治家の概念は粗奔な非読書階級としてであったからである。なんでもおやじはなにかの機会に(多分公務上の関係から)星亨のライブラリイを一度位覗いたことがあるらしくそれを自分に話してきかせたことがあった。それから、彼が伊庭想太郎に刺された現場に恰かもおやじが居合わせて、伊庭をとめたとかとめぬとか、帰ってその時の模様を委しく興奮して話してきかせたのも、自分にとっては忘れ得ない印象として残っているのだ。人事関係は不思議なもので、当時の星亨崇拝者? 辻潤が刺客想太郎の息子伊庭孝君と浅草オペラ時代から知り合いになり、今なお氏が近所に住んでいるので時々遊びに出かけるのである。会えばたいてい音楽やその他のことを話してしまうので、茲に書いたようなことは伊庭君も末だ御存知ないわけだ。
 馬場辰猪という名前も僕はおやじの口から初めてきいた。おやじの友人でひどく酔漢のTという人がいたが、その人と時々辰猪の噂をして人に推称していたことを幼年の自分は小耳に挟んでいた。それが孤蝶先生の令兄であると知ったのはかなり後のことで、それは斉藤緑雨から最初に僕の得た智識であった。僕は少年の頃から、内心大いにおやじを「小人」として軽蔑していたが、それでも、馬場辰猪や、森有礼や星亨をエライと考えていたり、晩年、万朝報全盛時代に久律見蕨村の論文を愛読し、時々、僕に蕨村の人物であることなどを話したところを見ると、満更、わからず屋でもなく、比較的進歩した思想を抱いていたのかも知れない。今でも迷惑に感じた思い出として、父から気まぐれに『孝経』の素読と、パアレイの万国史を二頁ばかり教わったことだ。いずれも一ニ回で生徒の方から棄権してしまった。
 洋の東西を問わず歴史上有名な政治家や英雄で自分の崇拝の的になった人間はひとりもいない。もっとも「人間」として好きなのはいくらでもいる。大多数の政治家に何故、自分が感心しないかという理由は色々あるが、それは一々個人を例に挙げていわないと面白味がなく、漫然とした罵倒は自分の欲しないところだから他の機会に譲ることにする。
 日本でも、かなり以前からムッソリニは紹介され、彼を担ぎあげている連中も少なくないようだが、彼を色々の意味で、指導したといわれる伊太利の碩学ヴイルフレッド・パレトオ(Vilfredo Pareto)はまだ一向紹介されていぬようだ。自分も彼の大著 Sociologia Generale(社会学汎論)に就いて聞いてはいるが、勿論まだ見たことも読んだこともない。自分はまだ直木三十五のように「フアッシスト」として名乗りを上げる程の勇気はないがそれでも「デモクラシ」という言葉は、その言葉の音から来るかんじだけでも如何にも「デモ」なかんじがして昔からきらいだった。
 自分はアンデパンダンだから、自分中心で、他から見たらひどく不公平だが、自分に対してはいつでも、出来るだけ忠実な態度をとりたいと考えている。ところで「民政」か「政友」かなどときかれても、自分は両党に対してなんの恩怨もないから、どっちともきめかぬるが、浜口か犬養かときかれれば勿論、即座に「犬養」と答える。どうも酒を飲まない政治家なんかは論外だ。その意味で僕は若槻贔屓だ。
 こんな風な無茶な放言を書かせてくれるならこれからも時々書くつもりだ。まだいくらでも辻潤が如何に政治に対して無頓着で無智であるかというネタはいくらでもありそうだからいずれ探して置いてこの次に発表したいと思う。                       (昭和七年二月)

もっと光りを!

 ゲエテが彼の臨終の床上で「もっと光りを――」という言葉を最後に息をひきとったという伝説は? ゲラアの如何なる人物であるかを知っている程の人なら誰でも承知している有名な話である。
 これは勿論、彼が臨終に際して部屋の光線をもっと明かるくしてくれといったのではなく、恐らく光明に充ち縊れていた彼の霊魂の光りを、いやが上にも明かるくしたいという慾望に駆られて、思わず彼の胸中から発せられた言葉であるに相違ない。
 しかし、若し偶々その部屋に居合わせた単純無智な奴僕がその言葉を聴いたなら、或は主人のためにその部屋を明かるくしたかも知れないのである。その時、奴僕は彼の愛する主人の視力の次第に衰えてゆくことをいたく悲しみ歎いたに相違ない。だが偉大なる天才ゲーテも遂にひとりの人間である。恐らく彼は自分の周囲に集まっている知己友人縁者達に最後の告別をするべく、よりハッキリとかれ等の顔を見たかったかも知れないのだ。それはあり得べきことであり、もしそうだとしても決してゲエテに対する冒贖にならないばかりか、寧ろ偉人の人間的心情の流露として懐かしくさえ思われるであろう。
 自分は巴里十四区のオテル・ビュフアロオという場末の安下宿の屋盤裏の一室でべッドに胡坐をかきながら、丸卓子の上の読みさしの書物から眼を離し、天井にぶらさかっている十燭の電気のくらいことを改めて痛感しながら、まったく「もっと光りを――」頂戴したいものだと独語したのである。
 性来薄弱な視力を持っている自分の眼は、多年の翻訳仕事や、不摂生な生活からひどくわるくなって近頃では新聞などはたいてい見出しだけで失敬している位なのである。しかし物を読む惰性は殆んど本能になっているから、死ぬまでは恐らくやまないことだろうと思う。おまけに乱視だから眼鏡をかけても、それが中々ピッタリとはしないらしい。
 始めの半月程は我慢していたが、とうとう我慢しきれなくなって、或日、街へ出た序にコードを買って来て、卓子の上まで電球を下げ、ようやく落ちついて仕事にとりかかるようになった。仕事を始めると自分は夜遅くまで起きている習慣を持っている。
 電力をふんだんに使用している点では日本の東京が世界一だというようなことを折々小耳にはさむが、実際そうかも知れないと思うこともあるが、他の国――少なくともニュウヨークや、南米のリオデジャネイロなどを知らない自分は、にわかにそれを首肯することは出来ないが、少なくとも巴里の街は東京に比べて遙かに夜はくらいのである。おまけに、僕の住んでいた近所の街燈はたいてい瓦斯燈で、夕方になると瓦斯をつけて歩いている。自分は夕暮れに柳の並木のある街燈に瓦斯のともるのを眺めた時には、泌々と幼年時代を過した浅草蔵前の通りを彷彿として思い浮べたのである。
 由来、仏蘭西人は経済観念の発達している国民である。大戦後、かれ等は疲弊した国家の経済力を挽回するために、挙国一致して生活の節約を行なっている。専ら火力を動力としている電気をかれ等が節約していることは毫も不思議とするに足りない。最近世界的不況の渦中にあって、ひとり仏蘭西のみが悠然としているのは、かれ等の努力と如何に生活すべきかを知っている国民の智恵を示すものといって然るべきだ。
 自分が買ってきてぶら下げたコードは約一週間ばかり後、留守の間に取りあげられてしまった。しかし、これには別に理由があった、僕等(自分は子供を連れていた)があまり夜遅くまで起きて、隣りの独身婆さんの御機嫌を損ねたことが、その主なる理由なのである。
 個人意識の発達した文明の世界では、宗族制度は遺憾なく打ち壊わされている。従って独身者が多い。自分のいたホテルにも幾人かの独身者がいた。左隣りには六十歳位な老人の画家がいた。そうして右隣りには恐らく七十に近いと思われる独身の婆さんがいた。彼女がどんな階級に属するか自分にはわからなかったが、とに角、彼女は毎日朝出かけて夕暮れにかえって来るようだった。勿論、どこかへ働きに出かけるに相違ない。
 生活に虐げられている彼女の容貌はいうまでもなく醜く、稍や中気のせいでもあるのか足がわるく身体がふるえ、囗の中ではたえずなにごとをか唸やいているようであった。彼女は夜もおちおち寝られないものと見えて、時々なにか唸やいているのがきこえた。そうして僕等が少し高声で話すと室の壁をドンドンと叩くのであった。少年は彼女に対してあまり同情をもっていなかったので、彼女が叩くと、僕の止めるのをきかず、いつでも叩きかえしていた。下宿の主婦さんは僕の息子のことをアッフアン・テリブルだといい、夜はなるべく静かにしてくれといった。勿論、隣りの婆さんの苦情が原因なのである。
 一度、下宿の主婦さんが彼女の部屋を掃除している時に、チラリと彼女の部屋を覗いたことがあるが、狭い部屋の壁には一杯若い男の写真や、肖像が張りつけられていた。多分、婆さんの青春時代からの記念品に相違ない。誰ひとり殆んど尋ねて来ない孤独の老婆は、それ等の写真によってせめても昔を追憶しながら、慰さめられているのであろう。
 左隣りの老芸術家は独身だが如何にも明かるい温顔をした好々爺であった。男はとにかく独身の多くの老婆が生活のために喘いでいるさまは見るに耐えない。最近日本に続出した所謂モダアンガールの中には、恐らくこの老婆と同じような運命に陥る者がさぞかし多いことであろう。一利一害は常に変らざる万有の法則なのである。
 自分は人間生活の根本義に関しては単純生活を主張するものであり、寧ろ近代化の西洋文明を侮蔑するものではあるが、勿論それは理想論であって、それを社会一般に強ゆるものではない。しかし、少なくとも自分の日常生活に於ては出来るだけ実行しているつもりである。如何なる文明もその究極に到達することによって必ず亡びるものであることは、凡そ古往今来の歴史の明白に証明するところである。敢えて晦渋なるシュペングラアの説明を要するまでもないのである。
 自分の極めて短少な年月の間に於ても幾度か燈火の変遷を見た。母は未だに時々私に向かって「松山行燈」なるものを推薦するのである。それは日本橋の横山町の某店に於て売っているというのであるが、私は行ってまだ買う気は起こらないのである。書物をねながら読むには「松山あんどん」に限るというのである。母の義理の父(即ち僕の祖父)はひどく読書を好んだ。母は彼女の幼年時代から屢々父の「松山あんどん」によって深夜まで読書している姿を見たのである。恐らく現代の電気スタンドに相当するものであろう。
 自分は幼時、蔵の下座敷へ寝ていたが、夜はいつでも行燈がついていた。またボンボリをつけて蔵の二階や、三階に物を探しに行った記憶がある。縁日のカンテラの香りや、商店の店先についていた裸ガスや、瓦斯燈の青白い光りにヤモリの吸いついている図などは、いずれも自分の少年時代を連想させる種である。その頃の夜の街は今と比べたら問題にならん位暗かったに相違ない。が、別段特別にくらいとは思わなかった。勿論、夜はくらいものだと思っていたからである。現代では銀座の夜の町を歩きながら空の星影を仰ぎ見る人などは殆んどないであろう。また吾妻橋に立って傾むく月を眺める人などは恐らくあるまい。街の燈は星や月の光りを完全に駆逐し去ったのである。更に武蔵野の草より出でて草に入る月は遥か昔の夢と消えたのである。
 自分はどう考えて見ても人間の現状をこれでいいなどとは思えない。どうかして世界中の人間共がみんな食う心配をしなくなる日のことを望んでいるのだ。僅か一年ばかり西洋人の生活を見て来たが私はかれ等を少しも羨望しないばかりか、自分が日本に日本人として生まれて来たことをありがたいと思っている。そうして多くの現代の若い人達が自分の生まれた国の美しさや、すぐれている物の沢山にあることを忘れ、ひたすら西洋の文明に心酔して、物質の上ばかりでなく、かれ等の精神を精神としようと焦燥っていることをいたく慨嘆しているのである。そうして、自分にガンジイのような熱情と誠意のいたく欠けていることを残念にかんじているのである。
 単に美という点から見ても五重の塔より丸ビルの方が遥かにすぐれているなどとは断然考えることは出来ない。上野の森の塔の側に瓦斯燈のついているのを昔見た時さえ、私は子供心に腹が立ったのであった。
 自分と親交あるわが敬受するひとりの詩人は、最近の一年を完全に蝋燭をつけて暮らしたのであった。もっとも彼はひどく片意地な人間ではあるが、別段趣味としてローソクをつけていたのではなく原因は勿論金のないために電気を止められたからである。自分も亦屢々電気や水道を止められた経験がある。如何なる文明の恩恵も金がない時にはあれどもなきと同じなのである。
 巴里を少し離れた田舎では、いまだにランプをつけているところがあるとのことである。火事の少ない巴里の町には、伝統ある古い建物が、いくつもそのまま残っている。真に文明なる人種は己れの持つ文化の伝統を尊み愛惜するのである。口に受国を唱えてその実、真に己れの郷土を愛することを知らざる非国民のなんと無数なることよ!!
 日本が日に電化されて明かるくなることは甚だありがたいことである。だがわれ等の霊魂の上にはより以上の「もっと光り!」を熱望して自分はやまない。                     (昭和六年三月六日)

天狗になった頃の話


 すらすらとなにかいいたいんだ。ただスラスラとなにかいいたいんだ。ただそれだけが自分のいまの願望なんだ。つまり如何にそれが自分にとって至難であるかということが眼前になにかのようにドカンと横たわっているのだ。どんな風に? ――どんなあんばいに、畜生! ああ……と、ええ……とその、うむ……と、えとせとら的有象無象をすっかりかなぐり棄てて、ただスラスラと、ペラペラとまくし立てたいんだ。
 「愉快な敗北」を志して、まったくその反対の結果に顚落してしまったというような始末書を出そうとしているかのようなかんじがどこかにしているのだ。それで、と、時にそれでと、そのなんなのだ、ほんとうのことをいうと「白紙」をおつりに、黙って差し出してそのまひッこみたいのだ。
 いってもいわなくっても結局同じことなのだけれど、それがそういかないところが「業」で、まだ人生の片隅に辛うじて息吐いているという証拠なのだ。とにかくまだ死にたくはない。
 自分のような人間はどっちから考えても、「後援」に預る資格のある人物だとは思えない。しかし多くの親切な知己友人達は盛んに僕のために後援の労を惜しまずやってくれているので、僕はまったく感謝の辞を知らない、ひたすら恐れ入っているばかりなのだが省みてそれに対しなんの酬ゆるべきすべを知らないのだ。ひとえに唯々諾々とそれを受納しているだけで、まことにもって言語道断である。
 実際、自分はこれまでも文筆によって自分ひとりをさえ支えてゆく自信の持ち合わせはなかった。いや文章に限らず、凡そこの世の中の仕事の如何なる種類を問わず自分が満足に出来るようなことは見渡す限り一ツだってありそうにも思われなかった。しかし、とにかくなんとかして生きてゆかなければならない。しかもそれが自分だけじゃないのだから愈々もってやりきれなかった。最初からムリなのだ、だから普通の社会人から見たら凡そ変態的な生活態度を持続して今日までなんとかかんとかゴマ化して来たわけだが結局、気が狂って病院へ入るような結果に到達した。僕の気の狂ったのはたいして不思議でもないというのが多くの諸友の観察らしい、中には、「辻潤」は初めから「気狂い」だという人もいる。ただ度合の問題で、今更らしく僕を気狂いにするのも可笑しなものだと考えているような人もいるらしい。


 退院後、凡そ一ヵ月半あまりになるが、僕は未だにひどくぼんやりしている。からだの方はとにかく頭がブランクで、精神が紛失してしまったようで、外界とのバランスがひどくとれず、人と話しをする気持が起こらず、従って、テガミが書けず、この原稿もやっとの思いで書いて見る気になったのだがなんとなく自信が持てず、まずこれを読む諸君から自分の精神状態の鑑別を願うよりほかはないと考えている。自分の尊敬するS博士からは、全快の保證を得ているわけだが、実のところ自分にはたいして自信がないのだ。だから、当分、静養をかね、遠慮謹慎するつもりでいる。
 自分の発狂の原因は勿論そんなに簡単だとは思っていないが、その直接な原因が貧困と過度の飲酒の習癖から来ていることだけは自分にも充分了解出来る。そうして貧困は自分の無能と懶惰とから、また過度の飲酒癖は自分の抱いている志向と放埒な精神から産まれたものであるとすれば、いずれも自業自得でどこへも尻の持ってゆきどころはないわけである。まったく「後援会」は恐縮千万である。しかし、それは寧ろ僕のためというよりは、僕の直接犠牲者たる老母並びに幼児のためなのであろうから、自分などがかれこれそれに対して云々する権利はないわけだと考えている。
 自分は夙に「芸術家」としては勿論、「社会人」としても立派に惨敗した人間だと考えてはいたが、こんど発狂して入院してからは、愈々完全にそれに裏書きされたようなかんじがして、アウトキャストとして完成されてしまったような一種の落も着きをさえ得た。そうして自分のニヒリズムは年とともに愈々其の度合が激しくなってゆくばかりで、決して逆戻りはしそうにもないのである。まったくわれながら「自分」をもて余しているのである。併し、今更どうにもならんのである。「自殺」によって結末をつけることが、自然でもあり、もっともらしくもあるが、僕には中々それが出来そうもない。出来るならとうにやっている筈である。つまり、自殺を決行する勇気も意志もない人間なのである。気狂いになっても一向徹底せず僅か三ヵ月か四ヵ月で病院を出てフラフラしているありさまである。そうしてこれから先きどんなことになるかなどと考えてみたところで一向始まらず、更生して心機一転し、「人間らしい人間」になどは断じてなりそうにも思えぬのである。
 人間というものはつくづくダメなものだ――これが現在の自分のありのままの感想なのであるが、勿論、ダメなのは「人間」ではなくて「自分」なのはわかりきっている。なにしろひどく叩きのめされたような気がして、頭があがらずひたすら降参している姿である。生きている間は所詮どうにもなるものではない。――「地獄一定」にきわまったという信仰を自分でも抱けるような気がしている。
人間の昔からとやかくと繰りかえし、こねまわしている所謂「問題」という奴はとうていこの世では解決の見こみが立たず、それ等をもっともらしく掲げて、大声叱呼している輩は、大方インチキの山師ばかりで、底を割ってみれば実にたわいもないものだということはたいていの眼あきにはすぐに判別のつくことなのでただ御相互に生きてゆく上の止むを得ない「手段」に過ぎぬとはなんと歎げかわしいことではないか!


 自分の書くものは自分という一個の哀れむべき人間の単なる「呻吟」だと考えている。呼吸のある間は毎日の所作と同じくそれを繰りかえして終始するまでで、いずれは次第に枯れ細ってゆく虫の声と同様にきこえなくなってしまうのである。まったく果敢いものだ。いや、この世の中のありとあらゆる存在は悉く仮現で幻の如く夢の如く、すべてはかないものであるというのが何千万年以来の「真理」で、なんといおうがいたし方がないのである。しかし生きているあいだは中々諦めがつかない自分のような人間は死ぬまでは苦しみ悩んで生き続けるにきまっていると思っている。なぜ? だかわからない。しかし苦しみ悩んでいるのは自分ばかりではないのだ。この地上に存在している生物――特に人間の背負わされた「運命」なのだ――まったくつまらん籤をひき当てたものだ。いくら考えてみてもひき合わない!
 僕の文章を愛読してくれる人や僕を知る程の人達の間には、なにか僕が一角の「悟り」をひらいてでもいるように考えてくれる人もいるらしいが、それはまったく贔屓のひき倒しという奴で、当人は一向に「悟り」をひらいているどころか、益々迷いが深くなってゆくようだ。偶には一寸「光明」を覗いて見るような気持のする時がないでもないが、それは瞬時に消え失せてやっぱり元の闇黒をさまよっている時の方が常住なのである。われながら救われがたい人間だと考えている。こんど発病してから自分のやった行為や自分のまのあたり見たヴィジョンはかなり素晴らしいもので(というのは病人のウワゴトだと思っていただきたい)自分が「天狗」になったり「役の行者」になったりしたらしいが、ハタ目には甚だ滑稽に思われるかも知れんが、患者自身にとっては極めて深刻な体経で「死線」を突破したようなかんじがしているのである。これは同じような経験をもった人にだけわかることで、説明のしようもなく、なんともいいようがないからそのままにして置くが、自分では生涯の中でこれ程異常な事柄に接したのは初めてで、この世ならざる「世界」にしばらく彷徨したような気がして、覚めてからは丁度「憑き物」が離れたように「神かくし」に遇った子供のようにウスボンヤリして今でもいるのだが、自分の見た「夢の世界」は決して忘れられそうもないのである。所謂「現実」の世界というものがそれに比べるとまるでみんなウソのような気さえしているのである。それを誇張したり、得意になって饒舌ったりしたら、自分はまた病院へ逆戻りをしなければならないことになりそうだから、やめて置くが、「現実々々」とさも確からしい顔をしてなんの疑いも挟まないような人達を一度、みんな気狂いにしてみたいと考えている。そうしたら、その人達は今迄自分達がひどく気が狂っていたのだという自覚に到達することでもあろう。
 自分が二重人格者だか、精神分離症患者なのだか、アル中患者なのだかなんだか分らないが、恐らく其の他色々の病源を持っている厄介な人間だと自分では考えているが、こんな人間を子に持ったり父に持ったりしている親や子供達はいうまでもなく、因縁で知己友人になっている人々も定めし迷惑至極だと思うのだが、思うばかりでなんともしようがなく生まれ変らない限り自分はどうにもなりそうもないのである。ただ自分はこれからも出来るだけこんな風に生まれ合わせたひとりの人間の苦悩や愚癡を羅列して同病者の道連れになったり、その他の人々の見せしめになったりして生きてゆこうかと考える。しかし、見渡すと現在では世界中の人間が歴史以来初めての苦しみを嘗めてのたうちまわっているように見える。国難は決してわが国ばかりではないようだ。人類の運命の前途には一向光明は見えない。唯それを信ずるほかに道はなさそうである。
 退院後、自分はまだどこにも挨拶をしていないので、後ればせながら甚だ元気のないこの一文を草して、僕のために多大の同情と後援とを惜しまなかった大方の既知未知の人々に、聊さか感謝の微意を表すると同時に、まず自分の精神肉体が常態? に復しているというおしらせをする次第である。多謝々々。

だだをこねる


 こねたところでまるめてみたところできなこはきなこである。かんでみたところでなめてみたところでマメはマメである。時に、ひどく欠伸がでてこまりもしないけれどなんにしてもやりきれない生活感情であることよ! おもしろくないことおびただしいので、私はつねにねそべってバッ卜でも吹かしているのがこの上もない、パライソなのである。その上きれいな水とリンゴと青いものと小鳥の声でもあれば、申し分はない。おれは都会をすかん、ただある因縁によってしばらくがまんしているだけの話だ。私は五十年おふくろとつき合ってみたがまったく女というものはバカでこまるよ。そのバカなおふくろのおなかから生まれた私がどうしてバカでない道理があるものか? ザマア見ろ! てんだ。


 おれには自分ひとりを支えてゆく能力さえないが別段恥かしくもおかしくもなんともない。おふくろやこどもでもいなかったら、とうにどこかで野晒になってしまっていたに相違ない。もっともその方がよほど気楽かもしれないがね。荘子という本の中に荘子とドクロとの問答がある。ドクロが荘子に向かって己れのたのしみは南面王にも真似は出来まいといって大気焰をあげている。どうかと思うがね。
 なんしろ字なんか書くって奴はいとも面倒くさいもんであるよ、みんなよくもまあながながとことや細かくつまんねえ屁理窟やつまらん男と女がどうしたとかこうしたとか、すべったとかひっくりかえったとか凡そベラボーでちんぷでなさけなくはては臍茶なもんやないかないか――だがみんな生きとしいけるものはおまんまというものをいただかなければならないのが、実に厄介センバンだよ。これにはシャッポだ。だから私は凡そおかねのない人達がどんなことをしようとやろうとたいていがまんしてむりもないなと考えながら傍かんしているんだ。
 わたしもなれたらアルセン・ルパンみたいになりたいが――所詮及ばぬ鯉のなんとやらで、指でもくわえてかんしんしているほか手がないのだ。了簡がケチ臭く肝ッ玉が山椒ツブみたいで力もなくしたがって御金もなく女の子にはいたってふられがちに出来あがっている――まったくわれながらアイソのつきる野郎ではある。おまけに気じるしときているので念が入りすぎている。どうかんがえてみても乞食になるよりほかになるものがないからそれでまあやってるわけなんだか乞食も決して楽じゃないね。


 去年病院を出てから二十日ばかり大島のゆ場にいた。もう少しのぼると例の穴のところまでゆかれるのだが、穴なんか覗いたっておもしろくもあるまいと思ってやめた。それに恐ろしくからだがつかれてもいたから歩くのがおっくうでもあった。毎日なんにもせずねころんでばかりいた。ゆ場の主人が「先生ぜひなにか書いて下さい!」というようなことで歌を一首つくった。たぶん今頃かけじにでもなってぶら下っていることだろう。
  島人の疲れいたはる御神火の恵みあふるる湯のけむりかも
てんだ。
 それからイセの津で夏をくらし、八月末に能登へ行った。それから新潟へ行こうかと思っていたが尋ねる人があいにくルスだったのでやめてかえって来た。能登のことをちょいと話したいが長くなるから、またいずれとして―― 一つ「だちゃカン!」という方言を紹介してそれでおしまいにする。ダチャカン――というのは「埓があかない」の転訛で、つまり「ダメだ」という意味だ。たとえば「自由をわれ等に」てなことをいったってとうていダチャカンわい――とまあいったような風にだ。
 かえってから義弟の家にいそってやっぱり毎日ゴロゴロねてばかりいた。それから義弟にていよくにげられたので――(あたりまえの話すぎて少しもムリもないがね)――ちょッといどころがなくなり、仕方がないから「桜花かや散りじりに」若しくは「あのゆめもこのゆめも――」式にのっとり、私だけは深川の富川町か千住の涙橋の少し向こうのFという家にでも当分厄介になろうかと考えた。深川のトミには時々僕に酒をおごってくれるルンペンの大パトロンがいるし、Fという木賃には僕を大先生扱いにしているファンがいるからだ。僕のファンにも音楽の場合と同じくつまり上はスットントンより下はべエトウベンに至るまであるように僕のファンにも中々いろんなのがいるが――どうも新居先生のように文化マダムや、モデルンギャールの御嬢さんのいないのには――くさるであるです。


 辻潤後援会という奴で全体どの位ゼニが集まったものやらどなたとどなたがお金をおめぐみ下すった物やら、僕はとんと存知あげなかったもんだから「よみうり」でたった一度きり御礼を申しあげたっきり、実のところまだどこへも御礼状もさしあげずに失礼しているわけなんだが――まことにおちおちねるところもなかったようなわけだったのでなんとも申しわけがないようなわけでいずれそのうち本でも出した節にはいささか御礼のつもりでさしあげたいと思っているが――かなり気になってはいた。しかし「棄恩入無為真実報恩者」という甚だ虫のいい文句がほとけさまの方にあるので、そいつをちょいと拝借してお茶を濁しておくことにする。
 実際、まだ退院後一年にもなるが無想庵にさえ一度もテガミをやらない始末だ。どうしているかと時々心配はしているもののどうにもしようがない。彼も向こうにいてずいぶん沢山のものを書いて、たぶんこちらの雑誌社にも送っているのだろうとは思うが一向に見あたらない。それに右眼が潰れそうになったとかいう話をきいたがさぞつらかろう。もッともイボンヌという娘がいるから、せめてものなぐさめだが、いればいるでまた別の苦労がふえるもんだから――いやはやとんでもないグチをこぼし始めたが――まったくイヤじゃありませんか!
「羨やましい辻潤」という彼の文章をよんで僕はしみじみと彼の友情をかんじたのだが、ひるかえって、僕は彼に対して果してそれにむくゆる程の友情をもっているかどうかと考えると――まったく自信がなさすぎる。


 自分はむかしッから、物をもつことがきらいな性分だ。どうしてきらいかというとうるさいからだ。これは自分が無慾だということではなく人一倍物に対する執着が強いせいだ。だから物に束縛されやすい。まったく不自由位世にイヤなものはない。だれだって「自由」がきらないものはあるまい。では、どうすれば自分が自由になれるかというと――このコーシャクは少々ながくなりそうだから、この次にするが――結論だけをいうと「絶対の自由」なんかというものは絶対にあり得ないということになる。若しあればそれは極めて消極的なものだ。さて、消極的ということばだが――立場をひッくりかえせば、すぐ積極になる。これは主観と客観ということばの場合と同一でイワユルなんかんてんところてんの相違である。あまりわかり過ぎることをいうようだが――世には言葉そのものにひッかかって、どうしても物の道理のわからんヘチヤモクレが多いので、とかくめんどうになりやすい。だから、この際ちょいとアーフヘエベンしておく。     (昭和八年五月)

変なあたま

   ――最近の心境を語る――

「最近の心境を語る」というのが与えられた題なのだが今のところ別段とりたてて「心境」という程の纒まった気持も抱いてはいないから出まかせに書いてみようと思うのだ。つまり頭がひどく空虚で、ぼんやりしているというのがまちがいない「心境」なのだけれど、それではあまりアッケないからどんな程度に空虚でぼんやりしているかという説明のつもりでなにか書いてみようというのだ。今年の六月の初めにI病院を退院してから、僕はまだ文章らしいものといったら、「よみうり」に寄せた十枚の原稿以外にはなにも書いていないのだ。なにか書いて見ようという気持が時々起らないでもないが、どうも変なことを書いてしまいそうな不安が伴っていつでも中止してしまうのだ。それほど自分というものに対してひどく自信がなくなってしまっているのである。
 いまのところ自分は完全な「廃人」なのである。もし、引きとり手がなかったら自分は瘋癲病院に今なお一患者として止まるか、養育院にでも鞍替えしているかも知れないのだ。幸いそんなことにもならずに暮らしていられるのはありかたいことだと思っている。なにしろ気狂いというものは異常に神経を昂奮緊張させるものでその状態から回復した後は反動としてこんどはまたひどく神経が弛緩してしまうものらしい。自分がながい間まことにぼんやりしているのはそのためだと思う。それに長年の習慣だった飲酒を著しく節しているので生理的にもかなり変化が生じてどうも甚だ具合がよろしくないのだ。めったにカゼなどひいたこにはなかったのに、この頃ではすぐとカゼをひいてねたりするのはまったく酒を飲まないからだと考えている。しかし、自分がまたもとのように酒を飲めば人にも心配をさせ、自分も亦再び瘋癲病院の住人になる恐れがあるから謹しんでいる次第ではあるが――まったく厄介なことになってしまったとツクヅクいやになってしまうのである。
 さて、世の中は愈々益々紛糾錯綜をきわめてゆくばかりのように見えるが、どうせ人間という生物の存在している限りはいつでも大差なく数の比例によってウルサイ程度に多少の加減があるのみでどツちへころんだところで御互に所詮楽にはなりそうもないと思われる。自分も貧弱な頭を絞って若い時から少なからず自他に就いて及ばすながらやきもきしてみたが近頃ではとんと根気まけがしてなにも考えないようになってしまった。つまり考えてみてもどうにもならんと諦めてしまったのだ。まことに意気地ない話だが、すっかり兜をぬいでしまったのである。但し、困ったことにそんな風になると一切万事が自分にとってまるで無意味に無価値になると同時に、自分という渺たる一存在もこの世の中からまったく無用なものとして取り扱かわれても更に文句の申し立てようもなく、いずれの組合仲間からも無関係な人間で、まったくひとりぼっちになってしまった形で、どうして生きていいかわかならくなってしまったのである。その上、ブラブラしていられる財産でもあればとも角、無一物に等しい身分だから忽ち周囲に迷惑をかけることになるのである。せめて、今迄のようにいくらかでも文章を書くことによって若干の金を得られるならいいと思うが、その文章が一向書けなくなってしまったのである。つまり、頭が空虚になってしまった上、文字を書く興味が著しく減じてしまったのである。精神がもぬけのからになって、残骸が徒らに呼吸しているというような状態なのである。自分でもなるべく早くこのような状態から脱却したいと考えているのだが、あせッてみたところで仕方がないと思っている。これは自分の精神病がまだ充分に回復していない証拠だともいえる。健康でエネルギイがありあまっていればまさかこんなことはあるまいと思われる。さて、いつまでこんな愚痴を並べても読む人もつまらんし、自分も一向に面白くないのだが、「心境」を正直にさらけ出せばこんなことになるので、初めから気乗りがないのだが、強いて書かせられているのだからいたしかたがない。たまに元気が出たかと思うと、気が狂っていたりしたのでは、実際助からない。
 話はちがうが、人間というものはいつでも真理とか真実とかいうものを求めているようなことを昔から度々口にしているようだが、どうも一向あてにはならん。実際、真理とか真実というものはあまりに平凡で日常目の前に腐る程ころがっているので、人は最早それには見向きもせず、あり得ないなにか珍らしく新しいものを探しまわっているらしいが、そんなもののないこともあまりに当然で、よしそれが新しく珍らしく僅かの開見えるにしても元々種は同じ外見だけが一寸そんな風に見えるだけなのであるから、すぐと飽きてしまうのはわかりきった話である。わかっていながら、なにかそんな風のものがあるようにしきりと鐘太鼓で囃し立てているチンドン屋のような商売に従事している人達は、生きるためには義理にもそれを繰り返さなければならないし、またみんな人間はだれでもそれを一方で喜んでいるのだ。イリュウジョンのまったくなくなってしまった世界は最早人間の生きていられない世の中で恐らく「月世界」の如きものになってしまうのであろう。
 自分のこれまでに筆や囗にして来たことはすべてこの人生にケチをつけるようなことばかりで、いわば「亡びゆく道」を唱えているようなものだから初めから歓迎されようなどとは毫も考えてはいない。しかし自分はなにもわざとつむじ曲りに異説を唱えているわけではなく、昔から度々先人のくりかえしている極めて陳腐な説を自分流儀にくりかえしているだけの話で一向奇抜でも珍奇でもないのだ。この世は「火宅無常」で、人間のいったりしたりしていることは一ツとして的にはならず、みんなデタラメである。そうして、自分も勿論「煩悩具足」の一凡夫にしか過ぎない。だが自分はひたすらに阿弥陀如来の救済の本願にすがるばかりで、その他には所詮自分の生きる道はないというのが有名な親鸞上人の信仰の告白で、これも亦今迄に多くの人々によって幾度かくりかえされている。自分も幾度か「歎異抄」という書をくりかえして読んで、親鸞の説に傾倒しているのだが、いかんせん未だに親鸞のような絶大な信仰を獲得することが出来ないから、自分ではなさけないことだと考えているばかりで、どうかしてそのような「安心立命」を得たいものだとひそかに念じてはいるのである。しかし、たとえ阿弥陀如来の光明に接しないでも、自分の「運命」を忍受するだけの修業は出来ていると自分では考えている。敢えて「甘受」しているとはいわない。「甘受」ではなく、不平だらだらでイヤイヤながらかもしれないが、僕はそれを自分以外の人間のセイにはしない。若しくは人間の造っている社会組織といったようなもののセイにもしない。若し尻を持ってゆくなら、寧ろ僕はそれを阿弥陀如来のセイにでもしてやろうと考えている。自分のようなくだらん生物をこしらえている「生命」のバカサかげんを笑ってやりたいと思うのである。全体、なんだって自分のようなくだらんものをこしらえてナンセンスなことばかりさせているのだろう――しかし、それがイヤなら早くくたばってしまえ! といわれればグウの音も出さずに引きさがるより仕方がないのだ。なにしろサキは正体もなにもわからんバケ物のような「生命」の親玉で、活殺自在でまるで歯も立たなければ、いくらもがいてみたところでなんのてごたえもなく、唯、もうわれわれはその飜弄されるままに動いてるより他に道はないのだ。仕方がないから降参するのでそれを称して自分の運命を忍受するといっているのであるが、なにか別に名案があれば教えてもらいたいものである。
 まるまる生きてみたところでたいして長くもない人生なのだから、どうかして、平凡無事に無邪気にくらしたいものだと思う。が、今迄の経験によると中々そう簡単にはゆかない。こっちではそう思っていても向こうからやってくるのだから耐らない。戦争でも始まったらどんなことになるのか、自分だけすましているわけにはいかないだろう。だれもすき好んで気狂い病院などに入りたいと思う者はあるまい。しかし、ふとしたぱずみで自分のように気が狂ったなら、それは当然の結果で、ドロボーをすれば刑務所に入れられると同じことである。ボオドレエル流にこの人生を一大瘋癲病院だとすれば、死ぬまではその患者として生きていなければならないわけである。そうして、生きている間はなにかしら絶えず酔ッ払っていなければ忽ちアンニュイのとりこになってしまうのである。凡そこの世の中でなにか羨ましいといって、自分の仕事に夢中になって没頭している人間ほど羨ましい者はない。自分には今それがまったくなくなっているからである。単に生存を持続するために惰性でその囗を暮らしている程みじめな存在はあるまい。自分のような人間が上海にでもいるとすれば必ず阿片窟の住人になってしまっているに相違ない。嗚呼! なんとかして自分を蠱惑するに足る対象がほしいものだ!「廃人」のくせに贅沢をいうな――と叱られるかもしれないが、人間は出来ればどんなにぜいたくをしても一向差支えないものだと私は思っている。しかし、ぜいたくは決して無限ではなくすぐと種切れになってしまうのが人生なのである。人間のぜいたくの極は結局「茶の湯」に還元されてしまうらしい。自分には今のところ場末の酒場でスベタ女給を相手に悪酒に泥酔する能力さえなくなってしまっているのである。ひるがえって飢餓に瀕している農村の人々を見よ!――と正義人道に燃えたつ幾多の志士仁人が叫んでいる。叫んでいる人達も同じく飢餓に瀕している――まじめな勤労の人々が無数に飢えているのだ。自分のような役にも立たん人間が生きているのはまことに申しわけのない次第だと思っている。そうして、生きている間はこんな愚痴を並べたてるより他になんの芸も持ち合わせてはいないのである。

瘋癲病院の一隅より

 人生五十の坂を越して今更門付をするようになるのは世間的常識からいったら落魄の極みかも知れない。僕が最近N市の東山寮という病院に入れられた時、A新聞とかは辻潤のなれの果てだとかハテのなれだとか書いたそうだがまったくそんな風に書かれても別に自分としては腹の中で一寸「なにをいってやがんだ―」と思う位で別に腹も立たず、さりとて可笑しくもなんともかんじなかった。日本の文士で門付を兼業したのはあまりきかず、文士というとなにか特別に学問があったり、博識だったり、金持だっりたするものだと考えるのが近頃の常識らしいが、昔は文人と貧乏とはつきもので、学者や文人は貧乏を寧ろ自慢みたいにしていた。貧乏を自慢にするのは少し可笑しいが、もともと職業柄金を目的として働くのではないから貧乏していたところで不思議はない。況んや、現代の如き大量生産の時代に於て、一本のペンを持ってコツコツ字を並べて貧弱な脳漿を絞ってくらす文士が貧乏しているのはあたり前の話だ。僕は世にときめいている大衆文芸家や、その他の流行作家の生活に就いては殆んど無智識であるから、なんともいえないが、いずれも精力絶倫で、よくもまああんな風に活動が出来るものだと舌を巻いていつでも感服している。その上カフェーにも行くだろうし、マアジャンや競馬にも出かけるだろうし、どうしてそんな風に時間をうまく利用することが出来るのかと不思議にかんじられる。いくら自動車を乗りまわすにしても大変だろうと思うのだ。
 僕は少年の時分から「文学」が好きでとにかく五十まで生きて来たが、ついに「文学」では喰えず、他に生活の手段を講じなければならぬようになったのだ。自分で書きたいと思っていることもないではないが、それを悠々と書く暇がない、そんなことをしていると飯が喰えなくなってしまう。無想庵はいつからだかなにしろ五百枚あまりも原稿を日本に送っているらしいが、それが殆んど金になっていないようなのには驚いた。どこへ送ったのか知らないが無想庵の書く物はそんなにも面白くないのかしら? そんなにもマアケット・プライスに欠けているのだろうか? 愚にもつかんような原稿がずいぶん金になっているようだが、なにか特別に売れない理由でもあるのだろうか?
 僕の場合でいえば、売りにゆくべき原稿がないのだ。まったく書く暇がないといっては可笑しいが尻を落ちつけて、自分の書きたいと思う物を書き出すことになると忽ち一家がヒボシになる危険がある。だからいわば体裁のいい「乞食」業を始めたのだ。単に飯を喰う手段としての職業なら僕はとうに「文学」なぞはやめて他になにかやっている筈だ。やった者でなけりゃわがらんが、少くとも文章を綴るということは決して楽な仕事じゃない。僕は其の意味で日々の新聞記事を書くジャアナリストに対してひそかに敬意を表している。自分などには到底及びもつかん業である。馴れれば左程でもないかも知れんが、その馴れるということが劫々大変なことだと思われる。しかも相当苦心して書いた文章が没になったり、全然読まれなかったりする場合がどの位多いことであろう。それに比べると単行本でも出して置けばとにかくいつか読まれる機会が多いということになる。
 自分は七月の初め名古屋放浪中に東山寮という病院へ入れられ、東京へ帰って来てからまた間もなく今の病院へ入れられた。期間は短いがとにかくこれで三度目だ。愈々札付の患者だが、しかし原因が原因なのでアルコオルを少し控えていると、この通り一ヵ月半位で、原稿を書けるようになるのだ。この病院は今迄の中で一番気持がいい。もっとも場所が武蔵野のまん中で四方は森や田畑で、微かに電車の音が偶々きこえて来る位で至極閑静でいい。運動場には芝生がいっぱい生えているから素足で歩くと気持がいい。隋れた日には秩父の連山が見える。夜は虫の声がする。これで夕方一杯にありつければ甚だ理想的だが、そこが病院のありがたいところで一杯の代りに南無妙法蓮華経を一時間、朝夕読誦することになっている。男女合わせて数百名の患者が一堂に会して法蓮華経を読誦するところは劫々珍観でもあり、妙観でもある。僕も初めは一向気乗りがしなかったがやはり信仰の力というものは恐ろしいもので近頃では、至極それが壮快で、合唱のつもりでどなっているが、後で頗る気持がいい。時々患者が奇声を発するのも劫々愛嬌があっていい。我田引水的ではないが、狂人は常識人より概して第六感? が発達しているから、宗教の奥義? ともいうべきものを直覚する力が遙かに常人よりすぐれているから、素質のいい者は直ちにそれをかんじて精神が「法蓮華経」によって統一され、無我の境に入ることを得て、自然病気が癒えるのに別段不思議はない。心理学者やなにかは特別にむずかしい理窟をつけるかも知れないが、理窟はとにかく、病気さえ早く平癒すれば問題はないわけだ。この点にゆくとインテリのマテリヤストの気狂いは中々なおりにくいらしい。人間は単純素朴にかぎる、よけいなわけもわかりもしない智識や屁理窟をわるい頭に一杯詰め込もうとすると、碌な結果にはならない。それは胃袋の場合でも同じことだ。僕は昔から「生や限りあり、限りある生をもッて限りなき智識を追う、それ危いかな」という文句を服膺しているから、智識の方は専らエンサイクロペデイヤに一任して置く方針をとっている。だから、いい年をして実に物を知らないが、一向困りもしない。必要に応じて百科全書にたずね、その道の先輩にきいてもことはすむ。しかし、僕のいわんと欲することは無智であることを奨励する意味ではない。人間、各自己れの頭と分とをわきまえ、適当にやってもらいたいというのだ。特に青年諸君にいうが、読書は大いに選択を要すべきだ。くだらん雑誌などを読み過ぎ、古来からの第一流の書物を読む機会を逸する勿れだ。いずれ、僕は死ぬまでには、自分の眼を通した書籍に就いて云々し、また、自分が大いに影響を受けた書物について書き残して置くつもりである。
 人生朝露の如しとは毎日反省しても一向に差支えない真理である。だから、読書も選択が必要だ。特に洪水の如き大量生産的出版時代に於ては。
 自分のことを赤裸々に描く(などということは実は出来る話ではなく、まずこれも比較的の話だが)ことは文学上の外道だとその道の先輩も夙にいっているそうだが、外道だか入道だかなにか知らんが、無想庵や僕のような囗を開けば「腸を見せるアケビ」の如く臆面もなく自分の生活をさらけ出す人間もひとりや二人位存在してもいいではないか? 無想庵だって僕だってなにもイヤ味や皮肉ばかり並べて喜んでいる訳じゃない。五百枚も一文にもならん原稿を書いている阿呆が一体どこにいるんだ。それ以上にまだまだ凡そバカ気だ目にあっている僕のような存在も少くはないが。併し、僕はこの世は火宅無常だと仰言った御釈迦さんの弟子をもって苟も任じているからには、その位は覚悟をしているのだ。それから、僕が小説を書かんといってしきりに、書け書けといって勧めてくれる親切な人達がいるが、自分で読んで面白くもなんとも思わないようなものを、わざわざ苦心して書く了簡の持ち合わせはないのだ。それに第一、才能もないからでもある。よく、「一体君は文学者として如何なる種類に属しているのかね?」ときかれるが、自分でも一向その点はハッキリしてはいないが、まあ強いていえば一種の「人生批評家」であり、かねて、「独言者」であり、また一種の「きまぐれ詩人」でもあると答えて置こう。
 僕はたとえ『雑草洞』という骨董店を開こうが天蓋をかぶって虚無僧になろうが、気狂いになって病院生活をしようが、物を書いたり読んだりする習慣は死ぬまで自分に付き纒うであろう。だから、時機に応じてこれからも大いに怪気焔を吐くつもりでいる。自分はサミュエル・バトラウじゃないが文学上の enfant terrible(怪童)をもって任じてやろうと思っているのだ。
 しばらく新聞も雑誌も見ないから世間のことは一向わがらん。この文章は多少なり僕に関心を持っている人々のために、最近の自分をつたえるよすがともなるかと考えて書いてみたのである。健康をほんとうに取り戻したら大いに奮発してなにか書きたいと思っている。
                 (昭和八年十月西郊慈雲堂病院にて)

木ッ葉天狗酔家言


 先ず新年は明けまして玉手箱の如くまことに御目出度いんである。かんかんというのはホカでもない、三月桜の咲く時分に改めて御愛読者諸君並に御存知の方々に御挨拶をしているつもりなんである。実はまだ小生の方じゃ御暮れの真最中で御盆なら十四日て日なんだ。どうりで麗々と晴れ渡ってはいるが、ベンを持つ指先がちとかじかみがちであるぞよ。
 ええ……題しまして「木ッ葉天狗酔家言」という短かい御笑い草を一席伺いやしてアト連と交代というようなことに……
 なんですってヨイ家言なことをいうなですッて?……どど……それは御戯談でげしょう……ヨイなどと仰せられては手前まことに恐縮でエッへッへッのへ……
 河童の龍ちゃんのひそみにならい――酔――Ei とハチオンして頂戴なてなこと……


 どうも「である」の校正係りのゾロッペイには恐れるよ。たぶん真人あたりと睨んだはひが目かね?「言霊」がサエワイ過ぎるなんぞは困るね。エとキじゃスズとナマリ以上のゴビウが生じんとも限らんからね。ちとスッカリおたのみ申しやすぜ。その他続々とかぞえ立てたいが創業の際でなにかと御多忙のことと御推もじ仕てやらア!
 さて、「天狗」と見せかけてるのはイカイコケ嚇かし、まことに真赤な(ドンドン)御申さんでござーる。(山王屋やー)
 一寸二三日前、羽黒山へ遊山の折り、杉の樹立の枝ぶりのいいところでひるねを貪ってやがったコッパ天狗の御面を失敬したというようなわけさ。Comprenez vous?


 おいらに至極気の合った相棒がひとりいるんだ。しかもそれが毛唐だからいっそ嬉しいじゃないか? 名前はBENというのさ。己れがJUN向こうがBEN――ジュンベンベンジュンとまあいったような次第でジュンジュンとベンジ上がるともなる。Where there is Jack, there is Jill てのは先刻みなさんが御存知でしょう。弥次のいるところには喜太がいる。チルチルミチルははらからで、はらんだはらんだ水かげろとまあザッ卜こんな調子の相棒であるんです。
 そのBENの奴の年賀状を一寸御披露に及びたい。つまりこれからコッパの天チャンが御登場になろうてんだ。どうでい、アルホンゾ。
 先ず Hello とおいでなすったね。それから馬鹿にしていやがるじゃないか Nothing new under any sun or any moon だとさ。こんなチンプなねごとはソロモン以来相場がきまって今じゃ下落のどん底で鼻をひっかける奴さえあるめい。もっとも Moon といったところがヤツの身上だろうが、こちらじゃ Foon といってやらあ。それから Love god! I have nothing to say ときやがった。まるで自分の無精を「神様」でゴマケようとしていやがる。おいベン公! ズルイゾ’ズルイゾ


 Patience is the time consumed waiting for another illusion to disrobe. Also Genius is
the insomnia of humanity. Both Bio and I hope you are singing and well. Amen!
 「忍耐とはそれ“時”の黒焼の如し」かね――「巻くりあげてもう一度覗いて見るまでの御辛抱」とすべて反訳というものはかくありたいねエヘン! 彼女の名前ですかね? 「イリュウジョン」というんですよ。夢声の好きな「嗚呼! 世は夢か幻か―」の「幻」で訳して幻子(ゲンコ)はどうも可笑しいね。わがいとおしの幻の君、なんざあいただけるでしょう。


 これから僕の1932年の年頭に於ける一大傑作を御紹介に及んでひっ込むことにする。つまり、ヤツの返事で、宛名はいつも山の神のBioにしてやると、ヤツやに下がりやがるんでね――
 To Bio
O my dear, my dear!
Pachance, Pechance, patience……
Consome, consume, disrobe――
Genius, Geninashi (no-money-fellow), Genkamono (sinner)
O my dear, my dear!
Where is is my dear ?
moral:――Seek and you shall be found.
 一寸見本に唄ってきかせてあげます。節はラッパ節で(これより放送局の下座伴奏)
  オーマイ ディヤア マイ ディヤア
  ホエヤア イズ イズ マイ ディヤア
  パシヤンス ペシヤンス ペーシェンス
  ジュヤス ゼユナシ ゼンカモノ……
            トコトットットー
 これは嬶アのビオがベンに逃げられて泣きっツラをしながら探しまわっているというかんじで唄っていただきたい。
 ジニヤス ゼニナシ ゼンカモノとはつまりBENの野郎のことであるんである。
 P・S――
 (1) no-money-fellow とはゼニがなくって酒がノメナイ野郎。
 (2) 三行目のペーシェンスは仏蘭西流にパーシャンスと発音せられても差支えなし。
 (3) 尻尾の「教訓」は「求めよ、さらばめッけられん」と訳す。
                                以上

ひぐりでいや・ぴぐりでいや

 また同気相求める連中を狩り集めて雑誌を出すことにした。勿論、「ニヒル」といってもそれは単なる符牒であって、内容や筆者の個性は千差万別神社仏閣である。
 人間には誰でも各自の慾望に従って、やりたいことをやり、いいたいことをいう権刊がある。それは出来るか出来ないかはその人間の力次第である。
 僕等はどの点までそれを実行することか出来るか予め考えてみる必要かある。漫然とやると時々飛んでもない馬鹿な目に会うことがある。
 自分は出来るだけ明かるい気持をもって、なるべく他人の邪魔にならないように、自分の好きな事をして、出来るだけこの世を楽しみ、セイゼイ長生きをした上で死にたいと思っている。その他に別段たいした理想もない。但し、どんな風にしたらそんな風にうまくゆくかと考えてみてもよくはわからぬ。だから、大体、そんな方針で、毎日の風の吹きまわしに従って色々とやってみるより特別な手段も今のところはない。
 僕は由来人の事はあまり考えない性分だ。考えてみたところでどうにもならぬ。金でもあったら困った人にやる位なものだ。若しくは子供が路傍に倒れたら、それを起こしてやる位なことしきゃ出来ぬ。しかし、金をやるにしても、起こしてやるにしても、劫々そのやり方や、起こし方がむずかしい。夫婦ゲンカの仲裁がロクな結果にならず、食客を置けばたいてい手を焼くものであることは経験のある人間ならみなよく御存知の筈である。
 自分ひとりの始末もロクに出来ぬクセに人の世話をしたりすると、ずいぶん馬鹿な目に会うものだ。しかし、いつでも人の世話が出来るような身分はまことに羨望に値する。
 神を信じたり、人類を信じたり、銀行を信用したり、革命を信仰したり、たんとかのイデオロギイを担ぎ上げたり、色々簡単に出来る人達はまことに幸福だ。
 僕には最早そんなことは出来ぬ。考えると僕には第一 「自分」があまり信用出来ない。況んや他人をや!
 僕は御存知の通り、約一年程、巴里でくらしてみた。僕は巴里でたいていひる寝ばかりしていた。しかし、別段初めからひる寝をするつもりで行ったわけでもなかった。
 かえったらひどく疲れて今年の半分以上は毎日ねてばかりくらしていた。しかし、徒らにねてばかりもいなかった。ねながら色々と考えてみた。
 友人諸君にもひどく御無沙汰してしまった。持前の無精からテガミもロクに差し上げずいたく失礼ばかりしていた。何卒あしからず。
 巴里で色々と御世話になった人達にも、略儀ながらこの雑誌の上で御無沙汰を御詫びして置く。
 ねてばかりいて、一向仕事もせず、十一月になってやっと百枚程のものを書いたが、それが、発表出来るやら、出来ぬやら未だに見当がつかない。それを読んでもらったら、大凡そ僕の最近の気持がわかってもらえる事と思う。
 来年(昭和五年)からは少しは仕事が出来るような気がしている。この雑誌が続く限り毎月なにかしら、書くことが出来ると思う。
 外国を見物して来たので、僕が急に日本主義者? になったと思っている人があるらしい。しかし、そう簡単に片付けられるのは迷惑千万だ。僕はだか昔から日本主義者なのだ。等しく日本主義者といってもピソからキリまである。僕がどんな風な日本主義者であるかはいずれゆっくり説明することにする。
 わかり易くいうと、僕は自分が日本人として日本に生まれたからなので、これが第一の根本理由なのだ。これだけいえばわかる人には直ぐとわかってもらえると思う。
 最近、Y紙で、僕が某地の某富豪にパトロナイズされて、永住の地を定めて其処へ出発するというようなことが伝えられた。ゴシップとしても甚だありかたいゴシップである。しかし、僕はまだ東京にいて、弟の家に厄介になってゴロゴロしているのだ。
 僕は過去十数年の間、恰も新聞や、雑誌のゴシップ種を製造するために存在したかの観がある。しかし、未だ曾って如何なるゴシップに対しても一回たりと抗議を申し込んだこともなく、弁解じみたことをしたこともない。それがため、色々と世間からあらぬ誤解を受けてメイワクをしたこともあるが、御蔭でひどく都合のいいこともあった。結局、差引きしたら得をしているのかもわからぬ。故に、この度の甚だ友人諸君の羨望? の種である如きゴシップに対しても、また等しく沈黙を守るであろう。事実は、賢明なる諸君の御推察に任すのみである。
 僕は来年、数え年四十七歳になるのだが、どう考えてもそんな風には思えない。しかし、三十位な時に五十位に思われたこともある。
 僕は五十位になったら、やっと普通の社会人の有する三十歳位な常識を備えることが出来はしまいかと考えている。だから、五十歳以上になって、なにも書けないようだったら、僕の仕事は先づダメだと考えている。
 まだ、僕はこれまで自分ではなに一つこれはと思うような仕事をしてはいないと思っている。但し、酒と旅だけはどうやら一人前以上にやっている。その他は考えるに足りぬ。
 自分は時々百姓や漁師のような生活をして暮らしたいと考える時があるが、それは単なる空想で、勿論、やれないこともわかっているし、実際に於てやろうとも思わない。僕はやはり死ぬまで、自分の思うことを無遠慮に書き散らして死にたいと考えている。
 僕には政治や経済や実業のことはとんとわがらぬ。新聞をよんでも、まったくなにがなんだかわからない。金解禁ということをすると日本の経済状態がよくなるものやら、わるくなるものやら一向にわがらぬのだ。
 それから、時間の観念もあまりない。これはつまり「数」に対するアイデイヤがないからだと思っている。月日や人の名前などをよく忘れる事はまったく自分でも呆れている。
 野球、麻雀、競馬、碁将棋、その他一切のギャンプリングに対して全然僕は興味がない。それだけでも、僕は現在の社会に如何に順応性がないかということを自から認容してはいるか、恥辱と思うどころか、寧ろ誇りとさえしている位である。
 最近、伊予の八幡浜に帰省して上京した高橋新吉の親友S君の報告によると、新吉は今年の春以来ずっと座敷牢の生活を営んでいたが、彼の噪狂性は愈々猛烈になり、絶えず咆哮して、家人や友人のみさかいなく、糞尿を投げつけたりなぞしていたが、とうとう彼のかくの如き病症は新吉の父君をいたく悩まし、哀れむべし、父君はそのため縊れて自殺してしまったとのことだ。そうして、父の死をさえ知らざる狂える新吉は、父方の親戚にあたる人の家に引きとられたとのことで、まことに聴くだに慘ましいかぎりである。
 僕は、帰来一度彼宛にハガキを出したが、勿論なんの返事にも接しなかった。友人S氏から彼の第二詩集を借りて読んだが、いうまでもなく新たなる感銘を受けた。彼は恐らく狂的天才であるに相違ない。僕は彼か認めることに於て決して人後に落ちるものではない。
 自分は彼の遺稿を集めてこの雑誌で発表したいと考えている。
 彼は多分にメガラマニヤックなところがあったから、辻潤にはダダがわからぬといったり自分がダダの元祖であり、辻潤はおれから教えられたのだなどとしきりとリキンでいた。僕は自分で元祖などとは夢にも思ったことはない。だから、僕の送別会の席上でも、改めて、新吉がその提唱者であることを友人諸君の前で承認した次第だ。ダダの本家争いなどはまことに滑稽至極である。
 最近、久しぶりに西谷勢之介君に会って、四方山の話をしているうちに、僕はまた福岡にかえっていた古賀光二という男の死を知った。彼はその昔、最初に福岡で「駄々」という雑誌を発行した男で、僕の川崎にいた時代にしばらく僕のところにいたこともあった。たにしろ、ながらく肺患に侵されて、一度ならず自殺を企てたことがある位で、ひどくデスペラな人間であったが、一方また中々捨鉢的なノンキサの持主でもあった。福岡へかえって古本屋をしていたのだそうだが、最近は比較的健康であったに拘らず、遂に自から毒薬を飲んで死んだそうだ。
 勿論、所詮ながく生きる希望のないところから、死を決したのでもあろうが、これまた気の毒な次第である。彼も亦文学を志していたのではあるが、不幸にして「天才」を持たなかったかわりに、 「疾患」を持っていた。彼は「疾患」と戦って遂に倒れたのである。
 Über mensch(超人)という言葉の反対にUnter mensch(低人)という言葉がある。僕などは自分では一種の「低人」だと思っている。つまり、一人前になれない人間なのだ。
 しかし、一人前に生まれて来なかったのは僕自身のセイではない。生まれたからには半人前だろうと四半人前だろうと生存すべき権利がある。僕はウンタアメンシュの権利を主張しようと思う。老幼や弱者がいつでも虐げられなければならないというようなそんな不法な社会は是認する必要はない。
 勲章などを欲しがる阿呆共よりは、いくら低人でも、僕等の方が遙かに優秀だと信じている。

 Nihilistが Inverted Idealist であることは、今更説明の要もない倥明らかなことだ――かつてアイディアリストでなかったニヒリストでないというのがいたら、まったく御目にかからない。
 なぜニヒリストになったのか? 特別にこれがニヒリストで御座いというような人間に僕はまだ遇ったことがない。性格と環境と径路とがその人間を造りあげる。コンビネーションはまったく復雑多様なのだ。
 僕は新居格君がアナアキストと自称しているように僕自身をダダイストであり、ニヒリストであるといっているに過ぎない。
 話はちがうが、巴里でシュウルーリアリストと称して居る連中はたいていかつてダダと名乗った人達である。かれ等は単に看板を塗りかえたに過ぎないのだ。中味は勿論たいして変ってはいない。
 シュウル・リアリズムと仏蘭西語でいえば、その音の響からまだしも感じられる美しさかあるが、訳して「超現実主義」と命名するに至っては問題にならん。訳してみたところで始まるわけのものじゃない。
 朔太郎は僕に「デカダン」の折り紙を付けてくれた。僕はありかたく受納して置く。辻潤もって冥すべきだ。ニイチェや、ブレイクなども見方によれば立派なデカダンだ。ホイットマンも恐らく一種のデカダンだ。
 所変われば品かわる――という例えの通り、僕はフランス人でも、アメリカ人でもないから、かれ等とはそのデカダン振りがちがうのは申すまでもない。
 しかし、「デカダン」を所謂、世間の「道楽者」と混同している輩にあっては降参してひき下がる他はない。そんな連中に一々説明して歩くヒマがあったら、選挙運動のフンドシ担ぎにでもなった方が遙かに有意義だ。
 ある程度までの理解は出来るが――それ以上の理解は不可能だという理解が双方にありさえすれば――人間の接渉はたいてい円満に解決されてゆく。
 自分が彼を完全に理解していると考えたり、自分が彼から完全に理解されているなどと盲信したりすると時々飛んでもないまちがいが生じて来る。
 理解し合うところだけ理解し合えばそれだけで充分だ。しかし、それが全部だと思ってはならない。「僕はあなたを理解しています」ということ程、失敬で僭越極まる言葉はない。
 世に過失を犯すのは単純な人間に多い。他人の煽動に乗りやすく、自己の明確な判断を缺く人々――これ等がたいてい新聞の三面記事をにぎやかす連中である。
 人間以外の動物が笑うか笑わないか、僕はよく知らない。ある動物学者の説によると、猿と犬は笑うというようなことをいっている――つまり、笑うかも知れぬが、われわれにはよくはわからないのだ。しかし、かれ等も怒ることがあるのだから、必ず笑う時があるに相違ない。
 笑い方にも色々あるから、いちがいに笑うことがいいというわけではないが、大体に於て近頃の人間はみんな笑いを失っている。ことに青年の連中にそれが多い。
 笑うことはそれが心の底からの笑いならば、笑う当人にとっては、先ず卑近な衛生的見地からいってもいいことだ。それに、どんな人間でも、人の怒るのや、泣くのを見るよりも笑うのを見た方が気持がいい。
 女や子供は泣くことも多いが、笑うことも激しい。単純に感情が動き易いせいなのだろう。笑うことが浅薄だといえばいえる場合はいくらもある。
 しかし、成年の男子の場合に於て、笑いは彼の理智の程度を示す場合が屡々ある。
 都会の人間と田舎の人間とはその好適例である。軽快と真面目――わるくいえばウスッペラと鈍重。
 対等に話の出来る女は少ない。つまり話がないことになる。すぐ飽きる――だから、××でもしてやる他にしようがないじゃないか?
 相手の見さかえもなく、自分の知っていることは猫も杓子も知っていると頭からきめて話しをする人間にかかってはやりきれない。
 ブルジョア意識というのはどういうのかよく僕にはわからんが、その意識のオリジンをブルジョアに帰するのぱどうも一向僕などには解せん。
 本来、人間にそういう下劣な了簡をもっている人間があればこそ、かかる生活様式が生まれたのだ。ブルジョア意識というと馬鹿の一つ覚えみたいだが、つまり町人根性とでもいうことなのだろう。商人根性、マネイ・メイカア根性、成り上がり根性、今日は三越、明日は帝劇――とかなんとか、まったくそんなことを羨望してギャアギャアいう野良犬共の了簡からして糞面白くもない。
 内部生活の空虚な人間は外物の所有品によって自分の「心の貧困」を誤魔化すよりいたしかたがないものだ。それが「女」という存在なのだ。女性こモブルジョア意識の本家本元だ。
 それ等の劣等なる「女性」に駆使されて、かの女等の歓心を買わんがために営々として働き、低能児をやたら生産して、有為な男性を苦しめているのが、世にいうブルジョア階級とかプロレタ階級とかいうのでもあろう。階級というのはゼニがあるとか、ないとかいうちがいらしいが、まったく笑わせやがる!
 しかし、それにしても無想庵のいい草じゃないが、まったく銭! 銭!という奴だ。銭がとれない腹イセに「ニヒル」だとか、なんだとかいって騒ぎまわっていると思われてもいたしかたはない。銭は銭、ニヒルはニヒルだ、平行線上の二つの存在という奴かね?
 酒の飲めない人間に酒の味のわかりようわけはなく、タバコののめぬ人間にタバコの味のわかりようわけはない。つまり何事によらず、物その物に対する智が働かないでは、それを愛する気持は起こっては来ない。つまり中毒しないと、その物に対する真の味わいは出て来ない。仏蘭西語を知らないで、仏蘭西文学を真に味わうことが不可能である如く、日本語を知らないで、日本の文章の書ける道理がない。
 御多分に洩れず、僕なんかは実をいうと選挙という奴に一向興味が持てんが、しかし、やっている連中の熱心さにはまったく敬意を表する――いや、それ以上羨望にさえ価する――あんなに夢中になってやれたら勝敗は「時の運」だとしても、さぞ面白かろうと――つまり僕が政治に興味がないのは、政治に対する智識が不足しているからだろう。野球の智識がなければ如何に早稲田でも、慶応でも到底ファンにはなれはしまい。
 近頃は、文士も政治に首や手や足を突っ込まないと一人前ではないのだそうだ。もっとも異国では大政治家と大文学者とを兼業したのがいくらもいたようだ。しかし、僕はかつてそんな連中の著作を愛読した覚えはない。
 西洋文明の御蔭で、交通機関がひどく発達して、テンポが早くなった。その代り、その発達した交通機関の御蔭で、毎日のように、色々な交通事故が起って、人が死んだり、怪我したりする。あんまり頻繁だから、人は新聞記事を見ても「またか?」と思うだけで神経がいたく麻痺している。そんなことを一々心配していたら、東京や大阪のような大都会には到底生きちゃいられない。つまり、「決死」の覚悟を要するわけだ。
 最近、年少の友渡辺温君の死に遇って、僕は色々なことを考えさせられた。自分の見ず知らずの人間がいくら死んでも実感は起こらないが、自分に親しい人間の死は直接だ。特に渡辺君の場合に於けるが如き不慮の災厄は「運命」の悪戯を深く感じさせられる。
 幸い長谷川修二君の方は軽微な怪我ですんで、まずよかったと思うが、二人とも死んでしまったとしても、全体、どこへ尻のもってゆきようはない。それ等の「災禍」を構成している皮相な直接原因は尋ねたら色々あるに相違ないが、それは浅薄な婆さんの繰り言と同じで問題にならん。
 昔、メーテルリンクのなんとかいう本を読んでいる時に、なにかの例として、泳ぎの出来る悪人と、泳ぎを知らない善人とが河に陥まったら、勿論、泳ぎを知らない善人の死ぬのに不思議はない、しかし、その場合、必ず泳ぎを知らない善人が死ぬとはきまっていない――というようなことが書かれていたと記憶する。
 渡辺君と長谷川君と、どっちかが右側か左側に乗っていたのだろうが、その位置が恐らく二人の運命を決定していた最後のものかも知れない。しかし、そう考えるのさえまだまだ浅薄である――人智の如何ともすべがらざる微妙な働きが無限に交流しているのである。
 そんな風な意味から、僕は一種の宿命論者でもあり、神秘主義者でさえある。自分が仏蘭西に生まれないで、日本に生まれたということはファタールな事実である。僕が若し巴里で生まれていたら、勿論、巴里を讃美し、祖国仏蘭西を熱愛しているであろう。
 同様に、金持の家に生まれて来るのも、貧乏な家に生まれて来るのも、一種の宿命で、理窟ではわからぬ。しかし、金持の家に生まれて来る方が必ず幸福であるというような浅薄な議論には與し得ない。僕は寧ろその反対の方に加担しよう。
 人生の味を深く味わうには艱苦の試練を必要とする。しかし、それは必ずしも貧乏というような簡単な経験ではない。釈迦はなに故に山へ入らなければならなかったか? トルストイやショウペンハウエルは何故にあのような苦悩を体験したか。
 ベイトウベンの芸術は彼の生活から生まれたものだ。チャップリンが何故にクヌート・ハムウズンの芸術に惑溺するか? ――それは彼が自からの経て来た生活苦を再びハムウズンの芸術によって味い得るからに過ぎない。
 林芙美子の芸術の味わいと、朗らかさと、温かさは彼女の体験の生んだものだ。彼女はたしかに彼女の貧乏を征服して、生きて来たのだ。反対に貧乏のために、心ねじけ、意地悪しく下劣になる人間もいるのだ。それは各自の性格のしらしめるところだ。
 幼年時代に父母や兄妹の愛を知らずして過ごして来た人達程、不幸な人々はいないであろう。たとえ、彼が良家に生まれ、なに不自由なく生活して来たとしても、肉親の愛を知らないとしたら、どれ程不幸なことであろう。
 人生はまことに、残酷限りもない。人生というよりも、「生命」そのものこそ真に呪阻わるべきである。資本家なとどいうゴミのような存在に反逆するより、先ずわれわれの「生命」そのものに反逆せよ!
 われ等微塵の如き、はたボーフラの如き存在は日毎に「大生命」の傀儡として飜弄されているに過ぎない。無始無終の初めより終りに至るまで――
 アルツイバアセフの「最後の一線」に出て来る自殺の煽動家は生命への立派な叛逆家である。彼は自から人道主義者をもって任じているのだ。
 「一青年の告白」の主人公は彼の独身主義者たることを如何に誇っているか? 彼は如何なる犯罪をおかしたとしても、汝等俗物の如く子供を生むような愚劣なる最大罪悪を犯してはいないぞと――生田春月もって冥すべきだ。芸術家の場合に於て特にしかりとなす。
 産めよ殖えよ地に満てよ――という耶蘇教では避妊を罪悪としているようだが――少なくとも現在の日本に於けるが如く人口過剰な国に於ては、××は寧ろ「道徳」ではあるが決して、罪悪ではない。
 政府は大いに××を奨励し、また貧乏階級に対して、適当な措置を講ずべきである。
 で、なければ最後の手段として××と××でもするのだねえ、やるなら今のうちだよ。
 但し、ずいぷんと沢山の犠牲者が出ることだろう。が、個人の生活を頭から無視して? いるような、××とか社会はそんなことは屁とも思やあしまい。たにしろ個人は社会のためや××のためや、人類のために存在しているのだからI――まったく個人はあれどもなきが如しさ。
 しかし、その個人という奴がたいていどんな生活をしているかと思うと、みんな我利我利亡者で、私腹を肥やすことしきゃ考えてはいないのだ。手前の家の餓鬼はなめる程可愛がるが、隣りの餓鬼が溝に陥ちても見向きもしないというようなのが多いのだからやりきれない。
 人間の大多数が大凡そ今のような(昔からの話だが)了簡をもっている間は、いくら、モリスや、ベラミイや、クロポトキンが夢のようなユウトピヤを考案したところでムダな話で、骨折り損のクタビレ儲けだ。テロリストが偶々一人や二人の案山子を打ち倒したとしても、それがどれだけの功能があるというのだ。
 金蜂という朝鮮の人が自分の悲惨な境遇を訴えて、僕になんとかよき智恵を貸せというのだ。貸すような智恵の持ち合わせはないが、まったくフンダンに銭でもあれば小遣位なんとかして差しあげたいと思うが――そういう人達が一人や二人ならいいが、なにしろ無数にいるのだから困ってしまう。特に朝鮮の人の場合に於て――同情はするが今のところなんとかしてもあげようがない。降参する。
 上州渋川の南小路君は自分の息子に「潤一」と名付けた程、辻潤ファンでまことに恐縮している次第だが、例のゴシップを信じて、僕に立派なパトロンでもついているかの如く信じているらしい。これまた降参もんだ。
 黒瀬春吉が辻潤が金を溜めているという噂を信じるのも無理はない。そうかと思やあ、辻潤が巴里でエレンブルグに蹴飛ばされたなどという珍妙な風説を立てた人間もいるらしい。これは僕のためというより、あの温好なエレンブルグのために黙っていられないから断然とり消して置く。僕は彼からのスウヴニールに「トラストD・E」をもらって来ている。
 なにしろ乞食を食客に置く余裕はあるが、銭などは鐚一文たりと溜めた覚えなし、パトロンとやらも一向に「青柳の蔭に」いるような次第で、甚だ心もとない。

 「ニヒル」は一種の文学雑誌だ。それ以外のなにものでもない。同じく僕は一個の文人だ。自分流儀の文章を書く一個の文人だ。「文士」という言葉はきらいだ。「文学者」というのもなにかしら、しかつめらしくって、あまり感心しない。「学者」―なら「学者」でいいが、僕なんかなんにも知らないのだから、ただの文人だ。
 昔は「文人墨客」という言葉があった。花でも咲くと、墨堤をブラブラして、詩や俳諧をつくって打興じ、貧乏を自慢にして、至極呑気にくらして得意になっていた連中だ。昔だったら、僕もかれ等の末席を汚していたに相違ない。
 「時代」の変遷というものはまったく恐ろしいものだ。僕のような人間までも、なにかしら理窟っぽいことをいったり、ブルジョアにケチをつけたり、コンミニストに悪口をついたりしなくっては生きてゆけないのだから。本来からいうと、実はなんとも思っちゃいないのだ。人間はみんな勝手放題だから、なにをやろうと、ハタからグズグズいうことはないのだ。
 しかし、生きている以上、人間という奴はなにかしら饒舌らないではいられないように出来ている。物を書くのはつまり「文字」を使用してオシャペリをすることなのだ。口でシャベルのが下手な人間は、たいてい「文字」を使っておしゃべりをしたがるものらしい。
 他人の書いた物を読むことが好きだというのは、いいかえれば他人のオシャペリを聴くことが好きだということである。
 文章の上手とはおしゃべりが上手だということに過ぎない。
 面白可笑しく物をいう人間の話はみんな喜んで聴きたがる。もっとも聴き手にも色々あるから、誰にも面白いように話すことは出来るわけはあるまい。
  「ニヒリズム」という言葉に囚われている人達がかなり沢山にあるようだ。なにごとによらず一事に拘泥することはよろしくない。水はいつでも流れていないと、腐敗しやすいものだ。万物はたえず流れていなくってはいけない。
 清水を湛えたコップと汚水を湛えたコップを二つ並べられた場合、ニヒリストはいずれのコップの水を飲むであろうか?
 さきに僕は「女性」を罵倒した。しかし、それは抽象された「女性」を罵倒したので、現実のA・B・C・ETCの個々の「女性」をいい為したのではない。誤解のないようにしてもらいたい。
 つまり、プロレタリアがブルジョアを攻撃する場合と同じ手を用いたのだ。
 僕は夙に「人生」には降参して生きているのだ。共産党には勿論降参しているし、その他日本主義にも、アナアキズムにも、なんにもかんにも降参しているのだ。みんな御無理御尤もな説だと思って降参しているのだ。しかし、どれ程、理窟を並べられても、自分はどんな理窟によっても生きてゆくことは出来はしないのだ。生きてゆくには生きてゆくようにしなければならない。
 ニヒリズムというのはかりにこうした生活態度に与えられた一つの符号にしか過ぎない。小野田君の「生活素描」はよくそれを説明してあまりがあり、近頃甚だ会心の文章である。
 僕はニヒリストたることが、人間としての最上の生き方であるともいわなければ、諸君のすべてにニヒリストたれとも命じはしない。唯僕は自分の考え方を極めて率直に語っているに過ぎない。共鳴するとしないとは諸君の御勝手である。
 一切は「生きている」上の話である。死んでしまえばニヒリズムもアナアキズムもアブの頭も、蜂の尻尾もヘチャモクレもあったものじゃない。
 僕は人間が「万物の霊長」だなんてことは信用することが出来ない。同時に、若しこんな愚劣な人間などという物をこしらえた「神」などというものがあれば、それこそ人間以上に愚劣だといってもいいだろう。
 凡そ人間ほど不愉快な動物はありはしまい。しかし、いくら愉快だろうが、不愉快だろうが人間に生まれてきたのだから、コイツは尻の持って行きどころがない。その上、人間に生まれたら人間同志がなんのかのといいながら毎日ウソの百万だらを並べて藻掻き苦しんで死ぬまで生きていなければならないのだ。まったくもって降参もんだ。
 これから何百万年、何千万年――同じようなことを繰り返して行くのだろうが、まったくこれ以上阿呆らしいことはあるまい。いい加減止めたらよさそうなものだと思うのだが――
 この世が「物のまちがい」だという説は、ショウペンハウエルにきかないまでも、少し落ちついて自分のことでも考えてみればたいていわかることだと思う。どうしてまちがったのだかは、だが、どう考えてみてもわかりはしない。まちがいでない、これが正しいのだと考えていられる人は、僕等とは人種がちがうのだから、そういう人達とは到底、御付き合いは出来ない。若し、正しいのなら、不平もなく、改良も、革命も、なんにも要りはしないのだろうが、色々とこの世のアラを探しているのは、つまり、如何に人間にとって世の中が、不自由極まるものであるかということを感じるからなのであろう。
 僕等は与えられた、あるがままの条件と事態の中から、なるべく、自分だけ都合よく生きてゆきたいと思うのだ。みんな各自が自分ひとりだけ満足に生きられたら、同時に世界中の人間がみんな満足に幸福になれるというものだ。いくら、他人が幸福になったところで、自分が不幸なら、世の中は永久に不幸なのだ。
 中には、他人の幸福なのを見て、自分が幸福になり得る人達もいるようだ。たいていの親は自分より子供の幸福を喜んでいるようだ。同時に、たいていの子供が親の幸福を喜ぶというようなことになるといいが、どうもそれは反対の場食が多いようだ。
 しかし、子供は当然親を愛するのが自然の本能だ。もし、子供に愛されない親かあるとすれば、よっぽどトンマな親だといわなければならない。
 すべて、道徳というものが「義務」である間はダメの皮だ。命令されたり、押しつけられたりしてやることにロクなことはない。男女や、親子の愛が「義務」で遂行されたのではやりきれたものじゃない。
 異人は「公徳心」がひどく発達している――それぱわれわれ日本人が是非見ならわなければならないというようなことは、随分昔からいわれたことだ。こんどの復興祭を期として、また、それが著しく宣伝されたようだ。日本人はよくよく公徳心に欠けた人種であるということが、こんどもひどく眼に立った。一体、人にいわれたり、宣伝されたり、教えられたりしてまで、そんなことをやるというのが甚だ可笑しな話である。やるべきことはいわれないでもやるべきがあたりまえなのだ。それが出来ないというのは、もしくはやらないというならそのやらないということが、かれ等のあたりまえなのだ。そういう人間の方が多いのだ。多数決ということになると、やらない方が自然なのかも知れない。
 「文明」の内容は勿論、複雑だから、簡単にはいえないが、最も皮相的な見方からいうと――ウワッツラを飾り立てることだ。つまり、アダムが裸体を意識して、それを恥じるようにだったのが「文明」の始まりなのだ。
 人間はだれでも普通ミエボーなものだ。表面さえ飾り立てていればそれで安心していられるらしい。日本人と西洋人とを比べると異人の方が遙かに、それが強いらしい。
 ひどく礼儀作法がやかましかったり、レディの前では喫煙を遠慮したり、芝居を見にゆくにも、服装をとやかくいったり、なんしろ表面だけはいやにひちむずかしくしなければならない。洋行をすると、とかくそんなことばかり覚えて来る人間が昔からいるには参ってしまう。「公徳心」という奴も、つまりはミエボー根性の延長なのだろうが、しかし、これは真似をした方が御相互に便利だからやった方がいいと思う。
 辻潤の影響を受けるものもいいが、酒を飲むことだけはなるべく真似をしないでもらいたい。特に若い人達には断然それだけは申し上げて置きたい。飲むなら、四十歳以上になってからが理想的だ。もっともひどく好きなら仕方がないが、酒はどう考えてもよろしくない。
 意志が弱くなり、記憶力が衰ろえ、人生に対する興味が稀薄になり、仕事が出来なくなる。これは僕の体験だから決してまちがいない。それでもいいというなら、勝手に酒でも飲むがよろしい。
 「ニヒル」の内容はみんな「ネゴト」だといって罵倒して来た人がいる、少なくとも僕の書いていることは恐らく「ネゴト」みたいなものかも知れん。しかし、人間は「ネゴト」をいう動物なんだからいたしかたがない。まったく、「ネゴト」でわるかったねえ、とでも御挨拶して置こう。
 悲憤慷慨の禅僧鉄心は「娯楽」をひどく軽蔑しているらしい。「国事に奔走する」ことがなにか甚だ有意義らしい口吻りだが、まったくニエキラン生臭さ坊主だ。オイソレとと千円出す奴もなかろうが、川す奴があるなら遠慮なくいただいて置いたって別段恥辱でもなかろう。
 隣りの御庭の桜が、目下ランマンソと咲いている。御花見はこれだけで充分だ。あとは、附属物だけ
の話だが、実は肝腎なその方が一向欠乏していちゃ話にならん。
 花だけであとはニヒルかニヒリスト
                     (「ニヒル」昭和五年六月)

のっどる・ぬうどる

 生きていることの面倒くさいことは今に始まったことではない。それがイヤなら死ぬよりほかに名案はない。自分のようなひとから見たら几そひまだらけのように見える人間でも落ちついて本など読んでいる時間の如何に寥々たるものであるかを嘆ぜざるを得ない。しかし生きているのだから、死にたくはないにきまっている。飯はたいてい二度は食べているが、時に一度も朧わないこともある。顔を洗うことも洗わないことも、床をあげることも、あげないこともある。新聞を見ることも見ないこともある。毎日朝から酒でも飲んでいるように思われることもある。朝から飲んでいることも偶にはある。三日位続けて飲んでいる時もあれば、まるで飲まない時もある。手紙を書いたり、便所へ行ったり、客の対手をしたり、これで英蘭銀行に何千万磅とかいう金でもあずけてあるのならさぞ気楽だろうなどと時々思っても見るのだ。なにしろ金はやっぱりなんとかして取らなければならんから、原稿というものを書くが、それが必ず金になるとはきまっていないんだから甚だ困るのである。しかし他に能がないからやっぱり物を書くより仕方がない。なにしろ人開か喰うに困るなどということは滑稽でもあり、甚だよろしくないことだ。人間の一切の労苦が単に生きんがためばかりだと考えるとまことに情なくなってくる。何千万年生きていたのか知れないが、今のようなザマでは猿にも劣っているとしきや思えない。どう考えても人間は軽蔑に価する。その癖万物の霊長だなどとホザイている奴がいる。霊長ならもっとレイチョウらしくやってもらいたいものだ。昨年「ニヒル」という雑誌を出したが三号で潰れた。まことにたわいもない話だ。この「きゃめれおん」という屑のような代物も気紛れに出してみることになったのだが一号でオジャンになるかも知れない。とに角出してみることにした。
 自分だけにしてみれば、最早たいした問題もなくなってしまっているのだ。なるべく静かな生活をしながら、死ぬまで生きていたいという位なことに過ぎぬ。自分に出来ることはせめて数冊の書物を残してゆくこと位である。モれを読む人が多少なりと同感を表してくれ聊かの慰めを覚えてくれるなら自分は至極満足なのである。
 自分はひどく常識的で平凡な人間だと自分では考えているのだが、社会的の色眼鏡に映じた「辻潤」はひどく奇矯に思われている。これは飲酒の性癖がしからしめているのであろう。誰でも酔っている時は非常識で気狂い染みている。なにも自分ひとりに限ったことではない。それに僕は常識的であることを別段すぐれていることだと考えていないのだ。会社や、銀行員や、市会議員や、教師やその他多数のフィリスチンの考えていることや、囗にしているようなことをなにもわざわざ尻馬へ乗って饒舌る位なら、僕は夙に「文学」などは放擲してしまって、撒水夫か、郵便配達にでもなっている。
 自分がなぜアナアキストや、マルキストにならないかというと、自分はかれ等のように立派な「理想」を持つことが出来ないからだ。持つことが出来ないというより、持ち得ないからだ。僕にだって昔は「ユウトピヤ」の夢位はあったが、それはとっくに消え失せてしまったのだ。寧ろ、人間が役にも立たんユウトピヤを夢みることによって、醸し出す行為がよけい人生を不幸に陥れているとさえ信じている。若し自分に「理想」というようなものがあればそれは「無理想」であり、人間が「動物」の自覚を持って、もっと無邪気に、屁理窟をいわず、相互に自由に跳ねまわる世界を望む位なことだ。しかし、それが出来るかどうかは自分の与かり知らぬところである。
 自分は詩人ではないが、ひどく空想癖が強く、世間的なことにあまり興味を持たない人間である。社会人としては先ず零である。しかし、こんな風に生まれた自分をどうしょうもない。自分で今迄生きて来られたということは考えると奇瞶に近い。
 自分は時代遅れの個人主義者だ。しかし、主義者などとなにも四角ばった言葉を使わないでもいい。つまり「僕は君ではないのだ」という位な程度だ。「君の顔と僕の顔と似ているかも知れないが、同一ではない」という程の意味に過ぎない。その「自分」と名付けている「存在」も考えようでは実は複雑極まる「代物」で決して簡単な「個」ではない。掘り出せばなにが出てくるか知れたものではない。同じ「日本人」といったって、随分種類がちがっていると思う。各自の血統をそれからそれと遡って洗い立てたら、どんなことになるかわからないと同じた。だから「民族性」などといって、大把みに定めてかかるわけにはいかない。自分は関西の方へ旅をする度に感じることだが、どうしても自分がかれ等と同じ人種だとは考えられない(勿論一般的にいっての話だ)第一言葉のアクセントから受けるかんじだけでも随分ちがうと思う。昔、フェニキヤあたりの商業人種があの辺に移住したのではないかなどと自分は時々そんな風に考えてみる。
 近頃流行の社会的色分からいったら自分などはまずルンペン・インテリゲンチャとでもいうのだろう。なんでもかまわない。ルンペン・ンテリならルンペン・インテリとしてのいい分かあり、階級意識? もある筈である。全体、社会学とか経済学などというものはまことにヨケイな学問だと自分などは考えているのだ。これは少し無茶ないい方だが、そんな風な学問をしないでも人間が昔、立派に生きていられた時代のことを少しばかり連想してみたからの話だ。尤も時代の要求に応じて生まれた学問だといえばそれまでの話だ。
 自分は世間的の名声とか、金とか女とか、普通の世間一般人の慾望の対象となっているものを特に軽蔑しているわけでもなく、別に嫌っている次第でもない。唯それ等の物以外になん等の考えもなく、それ等をこの世の最高の価値標準ででもあるかの如く思いこんでいる人間を、軽蔑するだけのことである。従ってブルジョアジイの生活が一向羨望の的とならないばかりか、かれ等の存在が若しその他の多数の人々に不便を与えているとすれば寧ろなきに如かずと考えているのである。しかし、僕はコンミニスト達のように暴力によってかれ等の存在を脅やかすことには不賛成である。如何なる場合に於ても、人間が暴力を使用している間は到底不幸は免かれ得ない。世に正義人道の名の下に暴力を行使している人間程厭しいものはない。
 フロイド・デルの『智的漂泊』(インテレクチュアルバカボンテージ)という書物の冒頭の文句に「文学とはある意味で人生に対する一つの論議である」という言葉がある。これは確かに肯かれる説である。自分はこれまでニヒリズムの立場から、若干の論議を提出して来た。現に今でもやっている。しかしニヒリズムというのに、特別の形態があるわけでもなく、一定不変の主義かおるわけでもない。唯昔から、さまざまな人達が自分と同一の立場にいて、それぞれの思想を表現して来た。時代と国と各人によって、それが異なった形になって表現されている。同じニヒリストでもだからかなり色彩がちかっているのである。
 人間は本来、誰でもみんなニヒリストなのだと思う。唯それを自覚しないか、或は余りにもわかりきった話なので今更、改めて囗にしないかどっちかだと思っている。でない人間が若しいるのなら、それは阿呆か、詐欺漢かどっちかだ。
 自分もかなり長い間、ニヒリズムを説いて来たが、実は近来では飽きあさしてしまっているのだ。だから、こんども「ニヒル」という名称を「きゃめれおん」に換えようかと考えたのだが「ニヒル」の方が流布されているから人に読んでもらう上に都合がいいという意見が出たので、それに従ったわけだ。人間は物に倦きる動物だから、自分がアキたからといって別に不思議でもない。
 自分はこの世に生まれて来たことを別段ありかたいことだと思ってはいないが、仏陀や老荘やショウペンハウエルなどという偉人の教説を知ることの出来たことを、せめてもの一大慰安だと考えている。僕はかれ等の弟子のひとりとして自分流儀にかれ等の教えをフエンしているに過ぎない。僕に厭き足りない人達は直ちにかれ等の許に走るがいい。自分は寧ろそれを乞い願っている。
 自分が「文学」を愛した最初の動膽はそれによって人生をより深く味得したいためであった。勿論それによって衣食の資を得たり、名声を馳せたいなどという了簡は持ち合わせてはいなかったのだ。だから、自分は未だに自分が「文学」によって生活し得ないことを一向に不思議ではないかと考えている。しかし、最早自分の職業を求めるにはあまりに年をとり過ぎたし、またこれと思うような仕事も見当らない。やはり、文筆によって生きる他いたしかたがないのであろう。唯時代の風潮に従って自分の考え方や、感じかたを変化することが出来ないばかりである。
 こないだ、武者小路氏の「星雲」五月号所載の渡辺一夫氏の訳していられるアンドレイ・ジイドの 「モンテーニュに就いて」という論文を読んでいたら次のような意味の言葉を発見した。
 モンテーニュが自分に興味を持ち過ぎるという非難を受け、その非難に対して抗弁するためにソクラテスの「汝自からを知れ!」という彼の自己探求の最大勝利が「自己を軽視する」術を学ぶにあることを明らかにしようと努めていること、それから「古代が人間に関して持っていた総ての思想中で、予が進んで採り、且つ最も愛着を感ずるものは人間を最も軽蔑し、賤しめ、無視する思想であると、予は概して感じている」という言葉をひき、ジイドはこれは期せずしてパスカルのために弁じているわけであると付け加えている。
 偏見――公平であるということぱなんの意見でもあり得ない。自分も亦常に自分らしい偏見を持つ
であろう。マルクス思想の如きぱ偏見の雄なるものである。
                     (「ニヒル」昭和六年六月)

天狗だより

   ――又は奇仙洞通信――


 そもそも私が初めてのひとり旅は東北だった。今から凡そ三十年あまり昔のことで、多分私が十九歳の時分だと記憶する。当時、白石在から二里半あまり山奥の烏峠の一軒家に友達のIが帰省しているのをたよって出かけたのだった。私はその頃から漠然として「旅」というものに対してなにかしら一種の「あこがれ」をかんじさせられていた。いずれはその頃受誦していた藤村の『若菜集』や、その他の文学書類の影響によるものであることは明らかではあるが。やはり性来自然の風物を愛する念はひと一倍強い方であったに相違ない。
 私はその頃国民英学会の英文科を出て、日本橋の呉服町にあった一私塾で英語を教えながら、傍ら「自由英学」に通っていた。その「自由英学」というのは、神田一ッ橋の教育会館の講堂を教室にあて、当時「女学雑誌」によって独自な思想教育を鼓吹していた巌本善治氏や青柳有美氏などによって始められたもので、講師としては桜井鴎村とか河合などという人がいた――その他、科外の講師として新渡戸稲造とかドクトル小此木などという毛色の変った人物がいた。私は英語を習うというよりも寧ろそれ等の諸先生の声咳に接したい目的から「自由英学」の生徒になっていたのであった。青柳有美先生から「ヴェルデルの悲しみ」と「ロミオとジュリエット」の講義を聴き、新渡戸氏からはカアライルの「サルタル・リサルタス」に関する話などをきいて、私は実に有頂天になって喜んでいたものである。「自由英学」の運命はまことに短かいものであったが、それは私が席を置いた最後の学校であり、又私の上に及ぼした影響の著しかった点て永久に記憶せられるべき存在であった。
 私かひとり旅に出た年には例の華厳に投じて今なお厭世自殺のかみさま? のように思われているパイオニヤ藤村操の現われた年である。私の旅立は、たしかに彼の死から受けた強い衝動がその原因の一ツになっていたことを私は認めないわけにはゆかないのである。(現在三原山が自殺者のメッカになっているのはまことに不思議でもなんでもない――華厳が浅間山に、浅開か三原山に席を譲ったというまでで、時代の不安が青春男女に与える影響は益々深化していくばかりである。自分も当時、たしかに華厳の滝の患者になっていたに相違ない。しかし、幸い私は基督教を信じていたので、あやうくそれを免がれていたのかも知れなかった)


 烏峠という山の半腹にあるI家は郵便局でもあった。なにしろ山の中の一軒家で、大きな古びたその家には四五家族の人達が共棲していてどれが兄弟やら、嫁さんやら、どれがどの人のこどもであるやら、まったく区別がつかないありさまで私は生まれて初めてそんな大家族を見たので唯々不思議なかんじに打たれたのであった。
 Iはたしかに末子で家にいてもひどくわがままにふるまっていた。小学校時代に後頭部を石で打って気絶してから、頭をわるくしたといっていたが、それが原因であるかなにか、たしかに彼は変屈な人間であり、早熟でもあった。数学が得意だったらしいが、数学を軽蔑して音楽を愛し、在京当時は二コライの傍にいた金須という人のところヘヴァイオリソを習いに行っていた。「ラルゴオ」という曲を一番鏝初にきいたのはIのヴァイオリンが教えてくれたのであった。彼は別になにを目的として勉強するでもなく、音楽と酒を愛してそれに溺れていた。又彼はひどくスケプチックでなに物も信じていないと常に豪語していた。
 Iの家で一週間程くらして私はひとりで阿武隈の岸辺に出て、角田という村?(今では町になっている)に向かった。烏峠から阿武隈の河畔へ出るまでには私は一人の人間にも会わず、途中耳の立った山犬に吠えられてひどくびっくりしたことを今でも覚えている。幸い咬みつかれもしなかったが、まったくみしらぬ山の中のことなので甚だ薄気味がわるかった。真夏の頃で岸辺に出てしばらく歩くと河原の反射でひどく暑かった。なにしろ地図も持たず、いいかげんに見当をつけて途中道をききながら歩いてゆくので、それがなんとなく自分には好奇的でもあり、冒険的な面白さが伴って遥々とひとり旅に出たという泌々としたかんじを抱かせられたのであった。
 やがて、私は河岸から遠ざかって一面の桑畑の中をとぼとぼと歩いていた。私は小柄でせいぜい十五六の少年の柄しかなかったから、丈の高い桑が一面に生々している畑の中で先の見当は一向につかず、行けども行けども桑畑はつきるところを知らないやうに連続していた。モのうち突如として雷鳴が起り黒雲と同時に夕立がやって来た。瞬くひまに激しい大雷雨になって私は忽ちずぶ濡れになってしまった。幸いそれが桑畑の中なので、落雷しても大丈夫だとは考えていたが、それでもなにしろひとりなのだから、実に心細く夢中になって雨中を駈け出した。ようやく村はずれのようなところにある一軒の寺を見出したので、私はホット安心し、その寺の中にかけこんで雨宿りをさせてもらった。


 角田に着いたのは多分その日の夕暮れ頃だったと思う。そこに住んでいるHの家をたずねて彼の家族に初体面の挨拶をした。元来Iを知っだのはHを通じての話で、Hは国民英学会の同窓で特に自分の親しく交わった友達だった。彼もIも今は二人ながら故人になってしまった。やはり、その時初めて会ったSという人はまだ多分存命だと思うが、しばらく音信を絶っているので消息不明である。私は当時、その初対面のSの文学的才能にひどく推服して帰京してからもかなり長い間、書信の往復を重ねて、大いに人生や文芸に就いて論じたものであった。私はこんどの旅鞄の中にその頃Sの書いてよこした「最上詣りの記」と題する毛筆でかかれた地図入りの紀行文を携えて来たのである。それは文語体で書かれているのであるが奥州の三山(羽黒、月山、湯殿)の叙景が実によく描かれて今見ても到底十九や二十の青年の筆とは思われないかんじがするのである。
 私は角田でIの来るのを待ち合わせ、彼と共に徒歩で塩釜に出て、船で松島にわたった。その時船で不忘山に沈む夕日と海一面に真赤にうつる夕映の雲のうつくしさを見て私はどんなに感激したか、今の自分の心境と比べてまったく隔世のかんに打たれたのである。(自分はその時分の気持を幾分なりと生かしたいと考えながら書いているつもりなのである)
 塩釜への途中、小さな池のようなところに滝が落ちていたがそこでしばらく休んで、私は肌着の洗濯をしたが、その時、初めて自分が汗虱を一ぱいからだにわかしているのを発見して虱の存在を知り、又塩釜の神社の両側に遊廓の並列しているのに一驚を喫したりしたことはとくに自分に深い印象となって残っているのである。
 この最初のひとり旅は家人や友達に幾分自殺の危惧を抱かせたが、私には別段そんな意志もなく無事にかえって来たのであった。


 私はこれまで関西や、九州方面へは度々旅行しているが、東方の方は一向縁が薄く、震災後に一度勿来関から二里ばかり入った「湯の網」という磺泉場で一夏くらしたことがあるきりで、それ以後こんどが初めてなのである。
 四月の初めにG病院を退院すると、すぐ私は久しぶりに上野駅から常磐線でこちらへやって来た。夕方小牛田駅へ着くと石の巻の松厳寺の和尚が迎いに出てくれた。それから鳴子へ行った。鳴子の姥の湯で和尚と一週間程、滞在して石の巻の松厳寺にしばらく落ちつくことになったのである。
 川原を距てた鳴子の山々にはまだ雪が沢山に残っていた。こうした温泉場の情調を味わうのも自分にはかなり珍らしかった。久しぶりで湯につかり、川瀬の音をききながら静かなわかりを貪ることが今迄の病院生活に比べてどんなに激しい生活の変化だということは、精神病院の経験を持だない人達には到底説明のしようはないのである。
 川原をへだてた残雪の山々を見ながら
  重なるや雪のある山ただの山
という凡兆の句を思い出して、幾度かそれを口吟んでみた。川原には猫柳が芽をふき、雲雀が時折さえずっていた。
  残雪や川原になごむ猫柳
  残雪や川原遙かに揚げ雲雀
柄にもなく私は俳句のような文句を紙えかき散らした。


 川原へ下りたところに「遊園地ホテル」という大きな旅館がある。和尚が前から知り合いなので、たいてい毎日一回位散歩がてらそこの湯に入りにでかけた。そこの湯は炭酸泉なので少しぬるいがながく入って悠々とつかっているには至極好適で、時々湯口に口をあてて湯を飲むと胸がすいて気持がいい――和尚はブクブク泡のたつ湯をのぞいて「ラムネ温泉だねえ」などといった。それからなんとかして湯口――に口をあてて飲むひとり遊びの春のいでゆは――とかなんとかいう得意の短歌を口吟んで至極いい気持になり、他に浴客もないので長々とのびているのだった。
 主人は最近このホテルを引受けたとかで、夫妻ともいかに素人そのままで一向に旅屋の主人らしいところがなく、甚だ怪し気な商売人というかんじがした。自分でも客扱いに慣れないので困ると自白していたが、多分以前からそこにいるらしい五十がらみの実直そうな番頭がいるから、一切は彼が計らってやっているのでもあろう。マダムも女学校出身でかつては音楽学校志願で東京へ出かけたこともあったなどと話していた。
 私はここでも乞われるままにいい気になって「玉肌麗泉」などという字をのたくって、塩釜の「偉人正宗」という頗ぶる上等な「正宗」にありついたりした。字をみればなる程と思うが「いじん」というのはどうも酒の名としてはまったく「どうかと思う」といわざるを得ない。なにしろ酒もタバコもやらない和尚が監督しているので「偉人正宗」の切れ味も私にとっては一向利き目はみえなかった。


 これより先き気仙沼の「つじ・まにや」と自称する青顔がしきりに私の来仙を待ってくれているので、六月の下旬に私は気仙沼へ来たのである。青顔とは五六年以前から書信の往復をしているので、大凡の見当はついていたが、気仙に対してはそれが小さい港の町だという位な概念しか私にはなかったのである。燈台下くらしの例に洩れず、松厳寺にきいても一向要領を得ず、なんでも汽車の便がわるく自動車で四五時間走らなければならないひどく不便なところだというので、私もそうかと思っていた。かつて旅行案内などというものを一度も買ってみたことのない私は一寸調べさえすればすぐにもわかることを平気で放擲してすましているのである。
 思えば石の巻と気仙沼という二つの港の名前は久しいこと私の頭の中に刻印されていてとうに来ていなければならない筈なのだが、やはり時節が到来しなければ駄目なのである。一昨年I病院を出て大島、伊勢、能登と流寓している開、私は能登の田鶴ケ浜から、新潟に出て、それから石の巻へ行こうとひそかに考えていたのであった。あいにく新潟に頼るべき人が不在だったため、私は秋の初めに帰京したのであった。またそれ以前、まだ死んだ鴇田(彼は石の巻出身の新進劇作家だったが暴飲の結果数年前に逝去した)が生きていた頃、一夏彼に誘われたのだが、私は関西に行くべき前約があったため、彼と行を共にすることが出来なかった。又、同じく石の巻出身の有名な映画俳優Kの兄キのSという男とも私は深い因縁をつくっていたので、彼は帰郷していた時分、一度行ってみようかなどと考えたこともあったのだ。鴇田が死んだ年、歌道に精進していた松厳寺は「歌と歌」という雑誌を東京で創刊し、その創刊号を彼の追悼号に当てたが、その時、私も彼について短文を寄せたのである。松厳寺を知ったのもいわば鴇田の因縁で、私は石の巻へ来てもなんとなく傍に亡者のトキタがいて、「――どうだ、潤さん、今夜はぜひ一杯やりに出かけよう!」と、私をうながしているような気がしてならなかった。私は亡者トキタの誘惑を退けて、頗ぶるドライで日和山や五松山の花をバットを吹かしながら泌々とひとりで眺めくらした。
  ひとつひとつ見ればうつむき咲ける花 花らんまんと咲ける花かな
 これは松巌寺の歌だが、私は花をみながらこの歇をくちずさんで、なる程こんな歌は酔っ払っていたのでは到底作られるものではないと大いにドライの功徳を感歎したのであった。


 由来、私の愛読者やフアンをもって自任している連中はたいてい貧乏人や、病人や、低人(中には例外もたまにはあるようだが――)にきまっていることまでも度々吹聴に及んだが、青顔も勿論、御多分に洩れず、その方の随一をもって任じているらしく、気仙へ御出になっても私のところへは到底おとめするわけにはいかないが、御出になったら天台の御寺へ案内するから宿の方は御心配なくというような通知を私は前もって受取っていたが、私のこれまでの経験によると本山の延暦寺は別として、地方の天台の御寺というと檀家の少ないせいか、たいてい廃寺同様になっていることが多いことを予てから私は知っているのでケセンの御寺もどうせ化物の出そうな古寺に相違なかろう――結局、その方が自分のような人間には適わしく、かえって居心地がいいだろうなどと高をくくっていたのだった。そういえば石の巻の松厳寺も寺の格式は立派だということだが、なんしろ八十余年前とかに焼げたまま今なおバラックの破れ寺で、中庭にある老松が僅かに往時の伽藍を彷彿させているのみで、見るからにみそぼらしい寺である。私のいた和尚の書斎などは裹からみるとまるで物置小屋か乞食小屋としか思われない有様で、如何にも私のような人間の寝起きしているのにふさわしい部屋で、従って、なんの気苦労もなく晏如として二ヵ月あまりも自適することが出来たわけだ。伽藍の大小などは仏や信仰とたいして関係がないといえばいえるし、問題にもならんことではあるが、しかし、御寺は御寺らしいことにこしたことはない。かかるが故に、和尚も目下しきりと再建を計っているらしく将来の「松厳寺」を時々夢みているらしい。「――潤さん、御寺がすっかりできあがったら御庭に遊ぶ丹頂のつがいなりと寄進してもらうのだね――」などというのである。「松に縁の深い御寺だから、なる程丹頂には是非とも散歩してもらわなければならないだろう……丹頂の方は一寸受合いかねるが、亀の子のつがい位は今から心懸けて置くとしよう――-」と、私は真面目くさって答えるのである…………。
 気仙へ着いたら青顔初め元気のいい若い連中が迎いに出ていてくれた。停車場の近くで一寸休憩して、私は自動車へ乗せられた。私はいささかめんくらって、寺はきっと山の奥かなにかにあるのだろうときめていると、ものの五分もかがらぬうちに寺の前に下された。海岸山観音寺の座敷に落ちついて私は自分の想像とあまりにも相反していたので、思わず心の中で苦笑したのであった。
 それから滞在一週間、T新聞社の連中その他の人達から望外の歓待を受けて私は夢中で数日を過ごしてしまった。私は気仙で青顔同様不景気な四五人の文学青年と地酒でも酌んでせいぜい四五日位で引き揚げるつもりでいたのだった。
 とにかく、私はいったん石の巻へひきかえし、四五日たって石の巻から北上をのぼり志津川へ着き、それから自動車を松岩村で下り、尾崎の海光館へ投じたのである。松厳寺は志津川までわざわざ同行し、そこ再会を約して別れた。石の巻から志津川への途中のすばらしき風光、又、気仙沼については、いずれゆっくり書く機会があることだと思う。 (気仙沼在尾崎にて)

かばれやみ

 たいくつまぎれに物を書くなどといったら――この世智辛い世の中に、いやせちがらいなどというふるめかしい言葉では到底まに合いそうもない深刻無類な世の中に、自分ひとりがさもかほう者ででもありそうないい草でまことに申し訳ないような次第で――などと別段改まって考えてみる元気も良心もまず失なってしまっているような「私」という人間は実際のところそうでも考えてみるよりほかに考えようがないのだ。
 さて、しかし、たいくつまぎれにしろなんにしろなにか書いてみようというようなアテがあればまだしも有望なのだが、てんで初めからそれがないのだからまったく当惑してしまうのである。
 ここ――此処の説明はいずれあとからするつもりだ――ヘ来てから、だから私は毎日机に向かってあれやこれやと書くことに腐心して幾枚となく原稿紙をムダにしてしまった。それからタバコを何本となく吹かした。まったく、自分では久しぶりの贅沢な「心もち」を享楽しているわけだ。いや、久しぶりではなく恐らく生まれて初めてだといってもウソではあるまい。
 とにかく私には最近まで「家」となのつくようなものがあった。二畳と四畳半と六畳という所謂マッチ箱みたいな家だったが――それでもそこで母や子供達と一緒にくらしていたのである。しかし、その「家」も今では解消されて、私ひとりだけは友達の御寺にいて毎日所在なくブラブラと日を送っているのである。当分、まず明日の生活を心配せずにくらせる身分になったわけだ。こんなことになった直接の原因は私が「きちがい」になったからなのである。
 なぜ「きちがい」になったのか?――などときかれても困るのである。なにしろ人間という動物は気が狂うように出来ているのだから仕方がない。遺伝もあるだろうし、神経系統に生まれつき異常があることもあろうし、その他バイ毒とかアルコオルとか色々な原因もあるだろう。しかし、どんな場合でも簡単に「病気」などというものだって片づけられるわけのものではないと思う。一切の原因はいつでも複雑でこんがらかっているに相違ない。
 なにしろ、私は一昨年の三月の末頃発病して以来、病院に三回投り込まれてやっと先月の三日にG病院を出て1ヵ月半ばかりになるのだが、なにしろ八ヵ月も病院に閉じこめられていたので、別な意味で頭がまた可笑しくなってしまったようである。医者に別段きいたわけでもなく、又きいてみたいとも思わないが、末だに私には自分の病名さえハッキリわかってはいないのである。とにかく、その主たる原因が酒を飲み過ぎたことにあるのだということだけはまちがいないらしい。だから、酒を禁じられているのである。
 酒――きちがい水だということは昔からいいふるされている。酔っ払いのきちがい染みているのは誰でも知っている。きちがい水を沢山飲み過ぎてきちがいになったって別段不思議でなんでもない。ただ病気になって周囲の人間にめいわくをかけるまで酒を飲んだ奴がけしがらんだけの話である。
 だから、自分でも人から同情などされる余地など毛頭ないと考えているし、自分でも己れのだらしなさと、不甲斐なさにつくづく愛憎をつかしているのではあるが、やはり「酒」は今でも飲みたいと思うのである。
 タバコや酒などはなくっても生きていられるのはきまりきった話である。そういえば菓子をくわなくっても、小説を読まなくっても、カツドウを見なくっても、生きている分には一向差支いない話である。
 自分は「文学」が好きでなんとなくそれにうき身をやつしている間に五十になって頭が禿げたり、白髪になったりしてしまった。勿論、酒や女にもかなり時間を浪費したためでもあるが、やはりわけのわからない「文学」に喰われたというかんじが強くしている。なんのために――ときかれると「自分」を発見したり、探求するためだなどと如何にも尤もらしい答えをするのではあるが――そうしてそれは満更でたらめの口実でもないのだが――全体、どの程度に「自分」を発見したのかときかれると、さッぱり自分ながら不得要領なのである。しかも、一向自分の所謂「文学」がものになっていないのだから、まず一生棒にふったも同然で今更後悔しても始まらんが――ものになるならんは別として、自分がとにかく好きでその道を歩いてきたのだから、それ程悔んでもいないが、ただ自分の才能のないのをつくづくかんじさせられているばかりである。自分が如何に才能がないかということ――それがたしかに一大発見だといえばいえる。いいかえれば自分の「ぐち」をいつでもなにかさも自慢そうに並べ立てることが私の「文学」だとでもいうより仕方がない。
 自分のことを「癡人」などと自称するのはなんとなくイヤ味でもあるし、卑怯でもあるが見方によると「趣味」だともいえる。これは自分ばかりではなく、吉井勇氏なども好んで「癡人」をふりまわしていられるようだ。まだ探したらいくらでも限りなく仲間はいるに相違ない。しかし、「狂人」といわないだけがまだしもとり柄なのかもしれない。
 どうもきちがい病院ヘ一度ならず入れられた人間はやはり刑務所へ入ったことのある人間と同様に立派な「前科者」で、世間へ出てからもやはり「きちがい」扱いにされても文句がいえないと思うのだが、癒ったらやはりなおったようにとり扱ってもらわないとまったくやりきれない。しかし、なに分わけのわがらん病気でいつ「発作」を起こすかしれないといわれればそれまでだが、それでは実際、浮ぶ瀬がないわけである。
 きちがい――それが畢竟パアセンテージの問題にしか過ぎないものだということは専門の医者が一番よくわかっているに相違ない。まったく、常人と狂人の境界線は生物の境界線同様に区別することが困難であるに相違ない――しかし、程度のひどいのだけはどうしてもきちがい扱いにしないわけにはいかないだろう。また事実、厄介極まる存在にちがいない。自分などは気が狂わなくっても夙に自分ながら厄介な人間だということは大にいわれるまでもなく知りぬいているつもりでいるが、持ち前なのだから如何ともしようがないと諦めているのである。
 入院中、私は色々なきちがいを見聞したが、どう考えてもあまり愉快な存在ではない。しかし、みんな各自の性格が露骨に表現されているから、ウソを吐く人間ならそのウソ吐きであることをまざまざと表わしているから、結局、虚偽な人間はいないということになる。そうして、みんな「自分だけ」の世界に生きているのだから、放って置けば積極的にかかわりがないことにもなる。もっとも干渉癖の強いきちがいは例外である。
 瘋癲病院のことや、きちがいの種々相について書けばいくらも書けることだと思うが、今のところ、そんなことを書く興味がないしなんとなく不愉快だから、やめて置くことにする。
 まったく現在の「自分」という人間はどうにも取り扱いにくい存在で、捉まえどころがない骨抜き人形か、海月のバケ物みたいで、凡そ始末に困るのである。これは病後でまだ精神も肉体も両方ともバネが弛んでしまって元へ戻らないとでもいったらいいのか、なんにせよ永年のアルコオルを注射しないために殆んど「虚脱」に近い状態に置かれているのだとも思うのである。そのくせ飯だけは三度三度腹一杯食べて自若としているのである。
 考えると――万事休すとでもいうような結論にしか到達しない。まったく、宇宙を裏返しにしてでも覗いてみたら、なにか不思議なものでも見えるかも知れないが、そんなことを空想するというのが既に変なのかも知れない。あたし近頃変なのよ――という唄かあるが、だんだん世の進歩につれてみんな気がおかしくなるのではあるまいか?
 一昨年、I病院に四ヵ月ばかり入っていて退院記念に「丘を越えて……」という唄の節を覚えた。こんど、G病院を退院した記念としては「ほんとうにそうなら嬉しいね……」という唄を覚えた。病院にいる時、暇潰しに少しばかり習字の稽古をした。虎の門の晩翠軒で金拾銭を投じて買った『王右軍百韻歌』とかなんとかいうのを御手本にしていた。その時一緒に買った『唐詩三百首』という絵入りの上海本も時々あけて写してみたりした。患者や、看護人に頼まれて、毎日のように画仙へ字を書かされた。註文に応じて片ッ端からなんでも書いた。「忠君愛国」のようなのや、「豊川稲荷大明神」というような文字に至るまで書いた。啄木の「東海の小島の磯……」も書かされた。私はすべて習字の稽古のつもりで書いた。私の字はまったく自己流で、本式に習字などやったこともなし、別段趣味を持っているわけでもないのだ。しかし、頼まれれば恥知らずに馬鹿の一ツ覚えみたいな文句や月並のうたみたいなものなど臆面もなく書き散らすのである。ずいぶん拙劣な字もかいたが、しかし、酒の元気でたまには自分ながら面白いと思うような字も書いた。とにかく、出来不出来がかなりひどい。大森の「松あさ」かどこかで佐藤朝山に「イナカ廻りの書家みたいな真似はよせ」といって叱られたことを覚えている。しかし、現在では、「イナカ廻わりの書家」のマネ事でもせめて出来ればいいと思っている。書をかいて一飯のメシ若しくは一本の酒にありつけばこれ程楽なことはない――なにを苦しんでか駄原稿などをかかんやだ。
 此処へ来てから約一ヵ月あまりになる。ここは昔から「三十五反」で名高い奥州の石の巻という港で北上川の河口である。
 湊に近い松巌寺という御寺――その寺の和尚の書斎を私は占領して毎日本を読んだり、手紙を書いたり、タバコをふかしたり、ゴロゴロねだりしているのである。
 和尚は巌王という名前で、年は三十代だということだけはたしかだが、いくつになるのか私は知らない。眼鏡をかけて小まめによく働く和尚で、歌(短歌)がひどく好きな和尚だ。時々ひとりごとのかわりに短歌を口誦んでいる。数年前に東京で「歌と歌」という雑誌を出した。その雑誌はたった一号きりしか出なかった。
 その初号は石の巻出身の鴇田英太郎という若い戯曲家の追悼号にあてられたもので、いわば夭逝した無名な彼を哀惜し供養するために生まれたようなもので、勿論、続けるつもりであったのだろうが、たとえ雑誌が一号で潰れたにしても、その目的だけは充分に果されたのであるから、決して無意味には終らなかったわけだ。
 その鴇田と私が生前私か飲み仲間だった関係から、その雑誌に私も彼に就いてほんの申し訳に一文をよせたのであるが、それが因縁になって時々和尚と文通をしていたのであった。そればかりでなく、和尚はかねがね私の書く物を愛読してくれた関係上、とうとう彼の好意によってこんど計らずも松巌寺に厄介なることになったのである。
 今迄、かなりあちこち歩きまわっているようだが、そのくせ東京の附近は一向しらず、だれも知っている日光や、銚子などえもまだ一度も行ったことがないのである。東北の方はずっと縁がなく、上野から汽車へ乗ったのも随分珍らしいことだった。しかし、そもそも私の最初のひとり旅ともいうべき東北旅行で、まだ十八歳の青年の頃、白石在の山の中にいるともだちを尋ねて出かけたのか初めてである。その時、そのともだちと一緒に松島や、仙台を見物したのであった。その後一度、勿来関から二里許り入った「湯の網」という礦泉場で一夏くらしたことがあったが、それ以来こんどで三度目ということになるが、『若菜集』を愛読していた自分が広瀬川の川畔にぼんやりと彳立んでいたことを考えると、実際そんなことがほんとうにあったのかしらと思われる位である。
 五松山という山へ花を見に出かけた。ぼんやりと「湯殿山」と書かれた石碑の傍に腰かけてバッ卜を一本吹かした。北上川がうねうねと流れている――遙かに見えるのが大方蔵王という山ででもあろう。あの辺は多分松島だろう――前の日和山にも花が一杯咲いている。川には船が沢山とまっているが、帆掛船なんか一艘だって見えはしない。みんなキカイでガタガタまわるのに相違ない。カツオはまだ一度しきゃたべない――毎晩小便に眼がさめてホトトギスをきく。松の間から星がきらきら光っているのが見え、川面に靄がたなびいている。げにげにたいくつな風景であるぞよ。
 勿論、こちらが退窟なので別段「風景」のせいではない。鋭敏な感覚を備えた詩人だったら、いくらでもうつくしい詩をつくるにちがいない。
 裏庭の梅の木に毎日たくさん鳥がとまって朝早くから鳴いている――和尚になんという鳥だね――ときいたら椋鳥だと教えてくれた。
  椋鳥の声きいている日水かな
  椋鳥の糞の音する日永かな
  椋鳥や少しおまえ達ウルサイゾ
 ある時、ばあやさんに椋鳥は中々うるさいねえといったら、「椋鳥ではないでごわすぞ――むら雀でごわす」といって訂正された。たぶんこの辺では椋鳥の異名を一名ムラスズメとでもいうのだろう――どちらでもかまわない――しかし、ムラスズメというと中々味が出て来る――ムクドリとは随分かんじがちがうと思う。
  ムラスズメ汝元来ムク鳥か?
  ペチャクチャと梅にさえずる村雀
 裏の畑へ出て満山青葉の山を眺めながら時々小使をする――放牧の牛が山の半腹に草を食べてノソノソ歩いたり、ねころんだりしているのが見える。
  斑牛くさ食んでいる日永かな
 とにかくやたらに日が永い――なんにもせずにゴロゴロしている罰である。この辺ではかまけ者のことを「かばねやみ」といっている。かつて、柳田国男氏の御弟子さんの著『聴耳草紙』という本をよんだ時、私は初めて「かばねやみ」という言葉を覚えて、中々いいことばだと思った。そうして、占い日本の話に「かばねやみ」が出世する話がたくさん残っているのを愉快にかんじた。たしかに米を喰う人種の一種の風土病なのかも知れない。自分も当然「かばねやみ」の仲間入りをする資格は充分あるが、唯断然出世しないだけはたしかである。
   かばねやみひねもすゴロリゴロリかな
   放牧の牛羨やんでいるかばねやみ
   ぼんやりとタバコをふかすかばねやみ
   さみだれやニラルドミラリ屍ね病む
   少林でカバネやんだか菩提多羅

   かばねやみ 港はふける ルンペンの
   のぼせあがった たくらみは
   わらで束ねた干し鰈
   犬にくわせて酒を飲む
   むこう遙かに沖見れば ばかに大きなお月様
   丸い顔して薄化粧 商売なれば是非もなや
   やくにも立たぬこのからだ
   抱いてねたとてなんとしょう
   うそで固めた章魚の骨
   ねッから御役に立てばこそ
   そこはかとかく吐く息は
   われにもあらぬ蜃気楼
   労して功なく立ち消えて
   手も足も出ず白波の
   かなたにこそは失せにける――

 これは古代象徴派の詩篇の一節だなどといっても恐らく諸君は承知しはすまいが、単なるノンセンスだといえば多分わかってくれるであろう。ガアトリュウド・スタイン夫人? の真似のような見本をもう一ツおめにかけようか?
  sense oh! nonsense senseless of nonsense
  slow style is rapidity oh ! tearful remorseless
  cut it shut it openly melodious of harmonica
  georg branden's smelling milk of shutteres
  strange purple moon on the horizontal arch
  whale where bubbles of your whale trumpet voice
  oh! sweet strong delicious marine malmedon.

                          (昭和九年五月)

鏡花礼讃

 自分のような人開か出る幕じゃない――と考えても見だのだが――
 実は昨日も机にもたれて考えこんでいるとフラリと善公がやって来て
 ――えらく殊勝な顔つきをしているじゃないか――というから
 ――ウム少々閉口しているところさ
 ――どうしたい
 ――なにさ、少々手剛い問題を頂戴したのでね、泉鏡花先生に対する感想という奴さ
 ――そりゃあ君にゃうってつけというものだ。サッサと片付けてしまえ――
と、彼善公なる者は頻りと煽てあげるのだ。それから色々と無駄話をしていると、彼は頓興な声を張りあげて――
 ――オイ、覚えているか?―というのだ――それいつか深川の二階でさ――
 ――そんな藪から棒のようなことをいったってわかるものか
 ――アッハッハッハ――おれは覚えているぞアッハッハッハ――
 善公が深川蛤町の安下宿にゴロついていた頃、時々訪ねて薄汚ない部屋で浅利鍋を突つきながらとりとめもない文学論をやっていた時の頃――偶々彼の質問に対して
 ――先ず荷風か鏡花だな――と僕がいったことがあるのだそうだ。
 恐らく現代の作家に就いて云々していたものであろう。その時善公は
 ――おれは鏡花不幸か読んでいない――といったから、君がほら――思い出したろう――アッハッハッハ――きょうから読めっていったじゃないか――
 といったのだそうだ。
 しかし、実をいうと僕はもうその頃先生の書いた物はあまり読んではいなかったのだ。
 自分は愛読者でないとはいわない――しかし、水上瀧太郎氏並に竹森一則の如き人間に比べては、お話にならない程不熱心な愛読者といわなければならない。
 自分のような人間の出しゃばる幕ではなと考えたのも一つはそれだ。
 竹森は文壇人ではないから知っている人は極めて小数だと思うが、安成貞雄の親友であって彼を通して又僕の酒友の一人となった極めて篤学な人物で、今はT――経済雑誌の記者をしてはいるが、彼の専門の農村問題や統計以外に頗ぶる深い趣味性を持っている。この男こそ無二の鏡花讃美者なのである。
 僕などとちがって蒐集癖の強い彼は所謂彼がオリジナルと袮する――雑誌に掲載された作品を年代順に綴じこんでかなり所持しているらしい。
 ある時、その竹森の家で――その当時僕等はよく巣まっては飲んだものだ。今から七八年昔の話――彼と安成と宮島と僕と四人で徹宵して飲み続けた折、なにかのキッカケから談偶々鏡花に及ぶや、四人とも負けず劣らず、われこそ東台の鏡花通だといわぬばかりに饒舌りたてた揚句、とうとうよせ書きまでして先生にハガキを飛ばしたことがあるが、その時なにを書いたかは記憶に残っていないが、安成の発起で、近日この連中で番町を襲うことにしようと相談を一決したが、みんな酔っての上の興奮で、発起人がなにしろ貞雄先生ときているから、その実行はいつの間にか有や無やに終ってしまった。
 ハッキリ覚えてはいないが、その時の口吻りでは安成君はなんでも二三度位番町を訪問したことがあるらしい。
 先生の作品を初めて読んだのはもうかなり昔の話で、その当時評判だった「湯島詣」が恐らく最初だったと記憶するが、どうもハッキリしない。それとも「高野聖」の方だったか――
 元来、ロマンチックで少年の頃から化け物の好きだった僕が鏡花を愛読しないという方が寧ろ不合理な話で、その上ローカルカラアの上からいっても資格はあり過ぎる程持ってはいたが、僕が外国語を始めるようになってからは暇がなかったのと精神上の転機から一時日本の文芸的作物から全然没交渉となった結果、しばらく先生の作品とも遠ざかっていたが、「風流線」が新聞に掲載された頃から又しきりと読み始めたのである。あれは恰度藤村操が華厳に投じて間もなく発表されたもので、最初に出て来る村岡という哲学青年はたしかに藤村操からサジェストされた人物だということは誰の頭にもすぐと想像されたのであった。
 自分は恰度その頃、キリスト教から社会主義の思想に影響され始めた時分なので「風流線」からはかなり強い刺激を与えられたのであった。勿論、社会主義といっても今のように経済学上から科学的に論じ立てられるマルキシズムではなく、寧ろトルストイ流な人道主義から来ている所謂キリスト教的社会主義で、今から見れば甚だ幼稚なロマンチックなものだが、私にいわせればその方が遙かに純真であり、本質的で、そこを出発点としない徒らに小むずかしい理窟ばかり並べる今の所謂正統派は寧ろ外道のような感じがするのである。
 いつでもそうだが真の革命家は理窟家ではなく、熱情ある詩人なのである。わが維新の志士達を改めて引き合いに出すまでもない。
 私は「風流線」を幾度か愛読した。若し「水滸伝」が叛骨養成の書であるとすれば、「風流線」も亦立派にその範疇に入れられるべきである。しかも、後者の方が遙かに人情の機微に徹した深さを有している。
 喜多村が本郷座でその芝居をやった時、私は待ち構えて飛んで行ったが、芝居は今考えても立派に失敗であったらしい。殊に「綾の鼓」の情景は原文を知らない者ならいざ知らず、知っている者にとってはまったくなさけない程滑稽な感じがしたのであった。それはあながち役者が下手だという意味ではない。あれを芝居でやるというのが抑抑も無鉄砲で無茶な話だったのである。自分は見なかったがその後やはり同じ新派の連中によって演ぜられた「婦系図」の方がまだまだ成功に近かったことだと思う。
 その「婦系図」、「黒百合」、「照葉狂言」などは自分が随分と好きな作品である。
 今、自分の手許に持っているのは仔細あるある人のかたみなので、随分新陳代謝の激しい僕のライブラリイではあるが、それだけは手放さずに持っている。僅かに二冊ではあるがかなりに圧縮された傑作集なのである。一ツは大正四年に植竹書院から発行された『菖蒲貝』で、もう一冊は春陽堂から大正五年に出た『鏡花双紙』である。
 その二冊から自分の好きな作品を一ツづつ抜き出して少しばかり感想を述べてみたいと思う。
 前者からは「耿行燈」を、後者からは「草迷宮」を撰択することにする。
 この「歌行燈」は竹森一則もかなりに好きなようである。
 宮重大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたし浪ゆたかにして云々――というのが書き出しでこの膝栗毛五編の上の読み始めを囗誦んでいるのは「時代なれば、道中笠も載せられずとあきらめた風に見える、年配六十二三の気ばかり若い弥次郎兵衛」なのである。
 さて、この弥次郎兵衛が相棒の喜多八ならぬ捻平さんという年上の老人と桑名の旅館に着いて、相互にたわいもない会話をとりかわすのだが、それがまだ作者一流のかなり極端なイディオシックラシイに充ちた文体で書かれているので、読者は三分の一位までは作者がなにを書こうとしているのかさっぱりと見当がつかない。
 まして次のシーンに出て来る白地の手拭、頬かむりすらりと痩せぎすな博多節の兄イがこの弥次郎兵衛や、捻平さんと如何なる関係に置かれているかは容易に想像がつかない。
 熱燗をひッかけながら博多節の兄哥がうどんやのおかみさんとの会話の受け渡しだけを切り離しても立派な詩だ――ところでこの兄哥なる者が通り一遍の門付でないことは勿論の話だ。
 一方弥次さんと捻平とが湊屋の二階で、これも名物の焼蛤ならぬ塩蒸かなにかで一杯やりながら旅のつれづれを慰さめるために芸者を呼ぶと、そこえ売れ残りの三重という妓がやって来る。それが頗ぶるおぼこな娘で、三味線は調子が合わずペンともツンとも鳴らせないという代物で、二人の不良老年は大いに興ざめてしまう。
 此処で自分はながながと梗概を話している訳にはゆかないから、読んでいない人には名人の作品その物を直接に味わってもらいたいことを懇願するだけだ。
 これからこのペンともツンとも調子のとれぬ三重という少女がこの爺さんの連れの前で、舞をひとさし舞うのだが……この女の身上話と入り乱れて芸術の堂奥に参するところは涙なしには読了は出来ない。
 なにしろその芸というのが鼓ヶ嶽の麓の雑木林の中で天狗に教わったというのだから――その天狗というのがつまり霜夜に凛々として冴え渡る「博多節」の名人なのだ。
 ――それなにも芸がないとゆうて肩腰さすらうと卑下をする。どんな真似でも一つやれば立派な芸者の面目が立つ。祝儀とるにも心持がよかろうから、是非見たい。が、しかし、心のままにしなよ。決して勤を強いるじゃないぞ。
 ――あんなに仰有って下さるもの。さあ、どんなことをするのや知らんが、もうても大事ない、大事ない、それ仕度は要らぬかい。
 ――あい。
 と僅かに身を起すと紫の襟を噛むように……胸やや白き衣紋を透かして、濃い紫の細い包、服紗の縮緬がはらりとかえると、燭台に照って、颯と輝やく、銀の地のああ白魚の指に重そうな一本の舞扇……
 唯見れば皎然たる銀の地に、黄金の雲を散らして、紺青の月唯一輪を描いたる扇の影に声澄みて、……
 仰天した捻平が「待てッ」と押し止めたのはその時で、それから三重の物語の始終をきいて、又改めて女に舞を所望するのだが――
 この捻平を誰とかする。七十八歳の翁、辺見秀之進。近頃孫に代を譲って雪叟とて隠居した、小鼓取って本朝無双乃名人である。
 それから相棒の弥次さんは能役者、当流第一の老手、恩地源三郎、即是。
 そうして、博多節の兄哥はこの弥次さんの養子の喜多八氏で、若気の至りから謳自慢の宗山という盲坊主をやっつけて、勘当された達人。
 辱しめられて憤死した宗山の死毒が例によってどこともなしに漂っている。
 最後は三重の舞う玉取姫の謡曲のクワルテッ卜で終っているのだ――
 この作品ばかりではないが、作者は恐ろしい程のヴジョナリイである。
 そうして作品はいつでも彼の霊魂に反映する現実相なのである。

  「草迷路」は妖怪を取り扱った作品の中でかなり傑作だと自分は信じている。
 そうして、勿論、それは単に妖怪を取り扱ったばかりでなく、作者の人生観や思想の最高の表現がこの作中に盛られている。
 亡き母の手毬唄を慕う青年の恋愛と、霊魂の故郷を思慕する崇高な感情と、不可思議な「永遠回帰」の姿とが全編を通じて流れている。
 物凄くも気高い秋谷悪左衛門と、凄腕極りない美女の怪異……
 就中、悪左衛門と旅僧との問答――
 ――真昼中に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会えば傍へ外れ、遣り過ごして背後を参るが、屡々見返る者あれば煩わしさに隠れ終せぬ、見て駑くは其の奴の罪じゃ、如何に客僧未だ拙者を疑わるるか――
 …………………
 かくても尚、我等が此の宇宙の間に罷在るを怪しまるるか。うむ、疑いに睜られたな。睜らいた其の瞳も、直ちに瞬く。
 凡そ天下に夜を一目も寝ぬはあっても、瞬をせぬ人間は決してあるまい。悪左衛門をはじめ珍聞一統、即ち其の人間の瞬く間を世界とする――瞬くという一秒時には、日輪の光によって御身等が顔容、衣服の一切、睫毛までも写し取らせて、御身等共の生命の終る後、幾百年にも活けるが如く伝えらるる長き時間のあるを知るか、石と樹とを相打って火をほとばしらすも瞬く間、銃丸の人を貫くも瞬く間だ。
 総て一度唯一人の瞬きする間に、水も流れ風も吹く、木の葉も青く、日も赤い。天下に何一つ消え失するものは無うして唯其の瞬間其の瞬く者にのみ消え失すると知らば、我等が世にあることを怪しむまい。
 引照は限りがないからやめる。
 恐らく浅薄な西洋崇拝に溺れている人間にはこの作家を理解する能力は欠けていることであろう。
 それにあいにくと異人は日本語学の素養に乏しいから、この作者を気の毒ながら読むことは出来ない。読めたら如何にかれ等は驚嘆することであろう。
 そうして、恐らく鏡花は世界的作家として広重、歌麿、写楽以上に称讃されることであろう。
 作者は単なるロマンチケルではない。彼は一面すぐれた文明批評家であり、立派な叛逆者でもある。そうして、如何に彼の作品の随所に下劣にして唾棄すべきブルジョア根性が痛烈に罵倒され、悔蔑されているかは改めて、「三枚続」の愛吉に聴くまでもないことである。
 作者は小説家というより寧ろ詩人である。徹頭徹尾己れが主観に生きる詩人である。
 真に郷土的文化の精髄を一身に蒐め、独自の心境を開拓させる高貴な一つの霊魂である。
 軽佻浮薄なる現代に於て、氏の如き不屈の作家のなお厳として存在することは我等の真に喜びとし、又まことの意味に於てわが国民性の誇りとすべきである。                     (大正十四年三月)

無想庵に与う

 なにかいうことが沢山ありそうでなんにもない。どうしているかと時々考えてはみるが考えたところでどうにもならん。サヴビヤンならば他に文句はない。
 如何に生きるべきかを夙に止めてしまった僕にはとり立てて囗にすべき問題はないのだ。いやに静かで自由だ。流れをせきとめるものがない。塵芥の中にまみれても更に気にならん。ただ長生きがしたいばかりだ。
 自分はこの世に生まれたことを近頃やっと悔やまなくなった。さまざまな心の苦しみは遂に無駄ではなかった。自分は恥じるところを知らなくなった。あらゆる悔蔑や罵詈はそのまま楽しく受けることが出来るようになった。ポーズの必要をまったくかんじなくなってしまったのだ。
 しかし、振子は不断に動いているから、客観的に自分が色々な姿をとることは止むを得ない、というよりも「自分」が全然没却されてしまったといった方がいいかも知れない。
 世に理想や論理ほど人を誤まるものはない。人間がそれを脱却しない限り、この世は絶望である。智識は徒らに人を迷妄に陥らせる。科学は走馬燈のようなものだ。しかし、人はいずれにせよ走らなければならない。唯彼がそれを自覚しているか否かが問題なのである。
 やがてまた花が咲く。麗らかなのは無心の子供ばかりである。まことに赤子の如くならずんば人は天国に住むことは出来ない。夢幻という実感を味わうにはかなりの修行を必要とする。言葉のみを繰り返してもそれは畢竟言葉であるに過ぎぬ。
 時節が来たらかえって来給え。己れはこないだから油を売っているんだ。なにを売るかと尋ねることは不必要だ。
 赤い提灯に「よ太」という字が書いてあり、娘がダラリの帯をしめて背中を向けている。中には爆薬がひそんでいるのだ。金の蝙蝠が二匹飛んでいる。自分とかれ等とは三角形の関係に立っているのだ。
 別にいうことがないから今迄いったことはすべて取り消すことにする。安らかに床に就き給え。
 …………………………
 これを無想庵に宛てる消息の代用とします。しかし、必ずしも彼にのみ宛てたものではないのです。どうせ誰か読むにきまっているから。
 蝶々蝶々菜の葉にとまれ、菜の葉が倦いたら桜にとまれ……幼稚園で昔覚えた唱歌です。
 風がないので嬉しい。僕は風がきらいなのですよ。
 これを科学者と称するドクトルに診断させると僕は明日からベドラムの住人にまちがいなくなれるでしょう。

交友観 +×……

 自分はたいてい1十×……の意識で生きている――というより例えばこんどのような課題に対してなにか答えなければならないという場合に先ず感じるのが「自分」の正体そのものなのである。
 どんな人間でも実はみんなコンプレッキスなのだと思う――唯それを強く意識しているか否かということ、またその人間の智識や、教養や、環境、遺伝等によってその複雑さの程度が異なって来る。だから、Aというひとりの人間がB、C、Detcの友人を持っている場合にでも、その相手によってAの意識の層が種々と変って来るし、同じBに対する場合でも、Aのその時々の気持によってBに対するかんじが相違して来る。だから、一概にAの親友がBであるか、Cであるか、Dであるかなどという明確な断定を下すことは不可能だと思う。
 純粋の理想からいえば男女間の恋愛はプラトニックに限るし、友誼は断金に限る。しかし、現実の世の中では先ずそれは不可能事と見倣していい。慾をいえばプラトニックであると同時にラシヴァスでもあり、敬愛と無遠慮とを兼ね備えていれば至極誂え向きである。
 友人といったところで、どうせ人間同志の間柄だから、その関係が利害を離れて決して成立するものでないことは今更説明の要もない。寧ろ初めからハッキリそれを意識し合ってザックバランに交際するにこしたことはない。なまじ変な義理人情を絡ませた奴はいとも面倒でややこしいものではある。
 かりに、「辻潤」と称するひとりの人間を、社会的に見て一個の文人(作文によって僅かに糊口の資を得たり、得なかったりしている人間)だと仮定する。彼に詩人として萩原朔太郎、小説家として佐藤春夫、谷崎潤一郎という友達があるとする。しかし、辻潤はかれ等と同一の意識で交際しているわけでは決してないのである。文学に対する趣好の上からいってもかなり相違したものを持っている。唯時間の惰性や、年齢や、郷土的関係を同じくしているというようなことが友情のエレメントの大部分を形成している。しかし、境遇や、生活態度の上からいって、かれ等の間にはかなりな距離があるから、比較的相往来する度数が少ない。
 自分の1が絶対に孤独だなどといわないでも誰でもたいていその位な意識は持ち合わせているだろう。だから、人を恋しがりもするのである。若し真の友情が成立するといえば寧ろその自覚の上に成り立つべきで、後は附録である。更に慾をいえば御相互の最後の1は到底如何に親しい間柄でも絶対に理解は不可能だという理解を持つべきである。親友の間にも度々誤解を生ずるのはその自覚が不足しているからであると、自分は考える。これは自分の過去数十年の経験から来たもので、自分が自分の友達からあらぬ誤解を度々受けたからである。そのような場合に自分は勿論残念にも思い、淋しいことだと考えた。だから、自分は逆に人を真に理解しようなどという贅沢極まる考えを棄ててしまったのだ。これなら絶対に友人から裏切られるというようなことは先ずないといっていい。
 さて、「あなたの御友達は誰々?」という質問に対して第一義的に「自分」と答えたり、「神」と答えたりしたのでは一向答えにもなんにもならないからやめることにして 一番近頃よく顔を合わして、酒でも飲んでムダ話しをする人達をあげることにする。しかも、それ等の連中を悉く挙げることはこれまた厄介至極故、略してその中の二三名をあげて置くことにする。
 恰かも昨日この原稿を書き始めたところへ次のようなハガキが来た――
 能登帰着以来一ヵ月有余、その間トモダチに二三の禅僧と新進の宮司さんと、大本信者達と雀と蛙と河鹿と青大将とあるのみ。近日洗湯にて虱観音の徂廻向に預り、バック氏これが退治に専心す。カシコシトモカシコシ。鉄心木魚神様明石伊庭孝オバコ等々々皆々健在なりや。酒阿片の御序によろしく御風声あれかしと畏み畏み申す。パンパンパン――
 表記の宛名が「辻潤和尚」であり、差出人が「桃源洞人」である。このハガキの返事に対して、自分は早速
  桃原の夢を貪るサラマンダアちょいと刺戟を虱カンノン
というような駄洒落を書いてやるのである。
 桃源洞人ことサラマンダア――俗名イモリ氏は非職海軍中佐でこないだまで東海道N市のかたほとりにいたが、最近、能登に引き移ったのである。因縁浅からず拾年の法友である。会すれば共に酌み、道を談じ、諧謔を肆にし、時に山川の行楽を共にする。離れている時には見本の如き書信の往復をするのである。
 明石―― 一名飲み明かし、三郎と称す。実は昨日久しぶりでもなくやって来た。五尺六七寸の大兵で、昔支那満鮮を流浪し、上海でゴロついている時分、誤まって殺人? の刑にふれたとかで、獄裡の経験もある男、しかし、ミッションスクール出身で英文学が好きで、僕の愛読者兼酒友である。最近、過度のアル中で精神に異常を呈し、某精神療養所に収容され、出院以来さすがに懲りたものと見え、禁酒しているのである。George Borrowの選集などを、読むんだかなにか知らんが懐にしていた。その日二人で珍らしく邦楽座の封切り写真「巴里の屋根の下」なるものを見物し、珈琲を飲んで無事に別れた。
 伊庭孝という名前が出て来るが、これは正に本物の伊庭孝氏で、僕の浅草時代からの知己だが最近また地理的関係で時々訪問する。偶々サラマンダア氏が出京の節、四五名で饗宴を張ったがその揚句、近辺(自分は今目蒲線洗足の一角に卜居している)を練り歩き、伊庭邸をも襲ったので、その印象を憶い起して列記したのである。
 鉄心事卜部哲次郎は自称高弟で、食客、悪友で、実に厄介千万な野郎だが、今年になってからも二度程絶交したり、格闘を演じたり、色々とウルサイ交友を持続している。木魚、神様に就いても紹介したいが長くなるから略す。
 とにかく、僕の縁辺は宛然ルンペン王国で、その他植木屋、坊主、鍛冶屋、古本屋、鉄道屋、製本屋等々で一口にはいえない。文壇知名の氏を時々訪問したいと考えてみる時もないではないが、たいてい毎日入れ替り立ちかはり諸々の人種が来訪するので出かけることが出来ん。こんな調子で辻潤が偶々本の一冊も読み、原稿の四五枚も書けるというのは寧ろ奇蹟に類する。
 「作品」の同人? 今井俊三氏、在巴里の無想庵、宮島資夫などあれど、くだくだしければ略す。

ものろぎや・そりてえる

 ………パッと、われ知らず眼を覚ますと、「飄蕩」という二字がぼんやりと中空に浮んでいたが、しばらく凝視しているうちに消えてしまった……耳にきこえてくるのは、「海潮音」だとひとりで勝手にきめていたが………再び暝目すると、梵鐘の余何が微かに漂っている……
 不知火丸の三等甲板のベンチに腰をかけて夜露に濡れながら月光を浴びて印度洋らしい辺を航行していると思いこんでいたのに、次第に意識がハッキリして来ると、自分はひどく御粗末な四畳半の部屋にひとりで臥ているのに気づいた。枕許の煙草盆を探ぐるとバットがまだ二三本残っていた――マッチを擦った途端に「いかるがの奈良の乙女……」という秋草道人の書いた掛軸の文句が眼に入って来た……なる程、此処はたしかに奈良のH館という宿屋の一室であることだけはたしかだ――と、自分はまだ朧ろ気な夢の記憶にひたりながら考えた。
 その部屋にねたのはその時が二度目だった。佐藤朝山がしばらくこの家に宿をとっていた。僕は彼を尋ねるためにこの家を訪れてこの部屋で彼と初対面の挨拶をかわしたのだった。彼はその時、この部屋で、彼の「乳牛」の写真を見せてくれた。それから、鹿の彫り物をするために来ているのだと話した。僕はそれまでに度々奈良へ来ていながら一度も博物館へ入ったこともなく、大仏も三月堂も見物したことのない程、それ程心持が荒んでいたのだ――東京を出発する前に安藤更生が彼の処女出版の『三月堂』をくれたので、僕の頭には多少の予備智識が出来ていた。今では「月光」として知られている梵天は、だが昔から僕の心を牽きつけていたのだ。僕はその仏の姿を初めて村岡典嗣の――彼がまだ学生で根津の牛舎の家にいた頃――書斎で見た。樗牛全集第一巻の中に発見したのだった。翌日の午前中、僕はRの案内で一緒に「三月堂」を見物して、夕方頃までには大阪に行っていなければならなかった。それから三日もすると榛名丸という船へ乗って瀬戸内海でも走っていることになるのだろう。それから四十日あまりも船に乗っているのは一寸やりきれないと考えた。なんだって仏蘭西なんかえ行かなければならないのか?――と考えてみても一向ハッキリした理由は自分にも発見出来なかった。多少のアバンチュールに対する好奇心の仕業としか自分には考えられなかった。
 ――なんだ!――金魚の糞みたいにゾロゾロゾロゾロと出かける巴里なんぞえ行く気になったのか――いっそ出かけるなら支那の四川の山奥とか、阿弗利加のコンゴーとかなんとかもう少し気の利いたところへ出かけろよ――と、Nという少年時代からの友達は僕に餞別の辞を与えてくれたが、まったくそれに相違ないとその時自分は泌々と考えさせられたのだ。そのNという友達は二十年も前から、幾度かビルマと東京の間を往復していながら、未だかつて京都へ下車したことがないという変物なのだ。彼は僕の少年時代に、陽明の『伝習録』を愛読していながら、しきりに僕に英語の勉強をすることを勧めてくれた。僕が英語を習う気になったのはまったく彼の煽動の賜物であるのだ。
 いつの間にか僕はねてしまった。
 ……緑の芝生の上に自分はねていた。丘らしい、――前には小さやかな森があった。芝生に横たわりながら「楕円の月」と題する散文詩を読んでいた。突然、恐ろしい爆音がきこえた。びっくりして思わず跳ね起きた。森の真中から、銀色をした雷管のような形をした物体が物凄い勢で中空に昇ってゆくのだ。やがて、その物体は雲雀のような声を出して鳴き始めたかと思ったら――またも猛烈な爆音と共に中空で紛微塵に砕け散った。
 空はいつのまにか一面に薔薇色に輝やいて金色の日が丘のかなたに沈んでゆくのだ。砕け散った破片は見るみるうちに無数の孔雀に化して中空を静かに円形を形造りながら舞い始めた。荘麗な孔雀の行進曲が中空からきこえて来る。自分は唯呆然とかれ等に見とれているばかりだ。
 やがて孔雀の群は銀色の大きな塊になって降ってきた――みると、またもとのような雷管の形に変じて、まっしぐらに森の中央を目差して、落下して来た。
 森の中に、その姿が没したと思う間もなく――森はサッと両方に分かれた、水泡から生まれたヴィナスのような女が僕の前に現われた。いわずと知れた彼女は「白蛇」なのだ。……自分は夢中になって彼女に飛びつき、彼女の……に自分の首をねじこんだ。甘露のような味覚が全身をつたわったかと思ったら――自分は相変らず四畳半の座敷にねていた。
 冬の日があかあかと障子に照っていた。―女中が――「お目ざめになりましたか?」と、襖越しに声をかけた。自分はまるで堕地獄の天使のような気になって、ぼんやりしながら「ウム……」と返事をした。
 ――御隣りのRさんがお見えになりましたのですが――僕は約束を思い出した。
 ――どうかあがってくださいといってくれ給え――
 Rがあがって来た。
 ――まだねているのですか――もう昼近くですぜ――
 ――いや、実はゆうべ夜中にッ眼を覚したのでうっかりねぼうをしてしまったのさ――
 ――そうですか?――もっとも、夕方までに大阪へゆけばいいのなら――まだ充分時間があるから、急がなくってもいいでしょう――
 奈良へついた前の日、僕は伊勢の津にいたのだ。「白蛇」に最後の別れを告げるつもりでかねて彼女のいることを知っていた――Y市の姉さんの家へ往復の電報を打った。――「××リヨコウルス」という返事が来た。僕の来ることを予期した彼女はすでにどこかへ姿を消してしまっていたのだ。自分は別段、失望はしなかった。どうせ、会えるにはきまっているのだから――案の如く、自分は現実以上のランデブーを、昨夜してしまったのだ。ひどく晴々とした気持で、自分は床を離れた。
 Rは餞別だといって沢山の千代紙や紙風船をくれた。
 ――フランスヘ行ったら可受いい少女にやって下さい――
 ――よろしい――たしかに届けてあげます。
 ホテル・ビュフアロオのシモンヌや、無想庵のイボンヌなどはもう、とうに千代紙や風船を消費してしまっていることだろう。
 三月堂の梵天や、くずれた吉祥天や、那曾利や、脹れおもてなどが漫然として、僕の頭にこびりついて――その日の夕方、僕を大軌鉄道の終点に運んだ。僕は奈良の刀屋で打紛を買って、Rから――そんな物をなんにするののですか?――と尋ねられた。いや、一寸要ることがあるのでと簡単に答えて置いた。
 尺八の袋の中には備前長船の短刀がひそかに忍ばせてあった。僕はこれの錆びることを恐れたのだ。錆びたら恐らく彼女が泣くことであろう――
 実はもっと打粉を買ってくればよかったと――僕は巴里を出発する前に戸田海笛のアトリエで一寸残念な気持がした。
 彼のアトリエには「蚤の市」で掘り出された無数の日本の銘刀がかざられていた。僕の打粉は勿論、海笛のアトリエに残された。
 ――この中には、君、正宗や、村正かおるのだよ――と、海笛は得意そうに打粉をたたきながら、いった。仕事のあいまに彼は横綴りの名鑑をひっくりかえしたり、刀を抜いたりして嬉しがっていた。
 一張羅の羊黄色の紋付と袴をはいて、ポアソンの戸田は、巴里のキャフエや踊り場に彼の姿を現わし、彼一流の名詞ばかりを羅列したような短刀直入のフランセイをダミ声に張りあげ、異人を驚ろかしながら、横行濶歩するその姿は巴里の芸術家の間ではかなり評判で、その昔藤田嗣治が、生きた魚を頭にまきつけて踊り場に現われたのとまことに好一対であるなどといわれながらメキメキと売り出しているのである。
 これをまた売名の手段だなどと蔭囗をきく人間かあるが――そんなのに限ってどうせ碌な仕事はしていないようだ。
  売名――甚だ結構じゃないか――名実相伴なっていさえすれば売名も時にいいではないか? どうせ売らなくては食えないのなら、どしどし売名でもなんでもして売って喰うがいいのだ。それが出来ないのは要するに無能な輩だ。もっとも初めから、懐手をしてブラブラと遊びながら道楽に巴里で絵を描いているお坊ちゃんの場合なら、売る必要もなかろうから、大いにひとりで芸術家がって脂下がっていればことはすむのだが、貧乏な芸術家はそんな太平楽をきめてはいられないのだ。
 孔雀の夢で思い出したが、いつそや上野の池の端になんとか博覧会のあった時、Y社の催しで、博覧会の屋根の上から孔雀を飛ばせたことがあった。誰の思いつきかは知らないが、僕はそれを読んだ時にその考案者は多分なロマンチストに相違ないと、ひどく興味を持って当日上野に出かけてみようかとさえ考えた。
 ところで――人よせの景気づけに孔雀を単に屋根から飛ばせるというのならよかったのかも知れないが、孔雀には懸賞という――孔雀にとってはまったく致命的な――プレミアムがつけられていた。
 孔雀は飛ばなかったばかりではなく、会場の群集の中へ――脆くもころげ落ちた。慾に目の眩んでいる群集は忽ち孔雀の争奪戦を始めた。瞬くひまに孔雀は首をもがれ、羽をひき抜かれ、脚をもぎとられ、――殆んど形体のなくなるまで寸断々々に虐殺された。さて、――懸賞は誰の手に渡ったか、渡らなかったか知らないが、僕はその記事を読んだ時程、腹のたったことはなかった――世に大衆と称する手合いが多分孔雀をねらって群がり集まっていたのであろう。――行かなくっていいことをした。恐らく発案者もこの有様をみて孔雀のために歎き悲しんだにちがいない。
 巴里の客舎で、つれづれなるままに孔雀の夢を懐かしんだり、残酷無智な大衆と称するやからを憎悪したり、奈良の仏や伎楽の面を思い出したり、隣室にいるヒステリイの独身の婆さんのひとりごとに悩まされたり、無想庵の手紙を待ちわびたり、ノルに手紙を書いたりした。

 ある日のノルからの手紙。
 わが親愛なる友よ――
 ベネデット・クローチェによるヘーゲル哲学中に生きかつ死せるものども、アルフォンゾラップの、『ペシミストのアルボンム』ブレークの『千言の書』ユイスマンの『アン・ムナージュ』、デュカッスの詩、レモン・ルルの『芸術は短かし』、『悪の華』、ボオドレエルの生涯に就いての一小冊子、
 くたばるか!

 その日、僕はエルネスト・クレッソン街十八番のアトリエに画家のHを尋ねたが留守をくったので、すごすごと六階の階段を降りて、おもてに出た。何処に行こうというアテもなかった。まったく階段を昇ったり降りたりするのはうんざりする。このままホテルヘひきかえすにしては天気が少し上等過ぎる――リュクサンブールの公園――僕は二三度歩いたばかりであきあきした――を散歩しようか、ケイ・ヴォルテルの古本屋を渉猟りまわろうか、それともモンパルナスまで歩こうか――などと色々思案をしながら、オルレヤンの通りの方へ歩みを搬ばせていた。
 すると向こうから見なれない日本人が二人やってきた――ひとりは毛髪を逆箒木のように縮らしているのがすぐに眼についた。もう一人は無髯の一見不景気な顔をした男だった。すれちがいざまに相互の視線が交流したが、無髯の男は、
 ――ヤ、君はツジクンじゃないか?――と、如何にも馴れなれしげに呼びかけるのだ。しかし、僕には彼が誰だかをサッソクに思い出すことは出来なかった。
 ――忘れたのか――君の来ているということはきいていたので一度尋ねたいと思っていたのだ――大阪のYだよ、
 ――ああ、そうだったのか?――と、やっと朦ろ気な記憶をたどって、彼が巴里で客死した画家の住田の友達ということがようやくわかった。しかし、彼が巴里へ来ているということはまったく知らなかったのだ。
 ――今日は少し忙しいから、いずれゆッくり遇うことにしよう――これは雑誌をやっているM君だ――そういって、逆箒木氏を彼は紹介した。
 ――ああM君ですか――実はN社のIからあなた宛の紹介状をもらって来ているのですが、つい無精をして今迄御たずね出来なかったのです――
 ――I君からも手紙をもらっています――では、いずれゆっくり――かれ等は忙しそうに反対の方へ歩み去った。
 日本を出発する時、色々と紹介状をもらってきたのだが――別段、まだ特別に必要をかんじなかったのと、持前の物臭さから――そのままにして置いたのだ。
 かれこれ十五六年も前になるか――まだ、大阪の道頓堀に「旗の酒場」という今でいえばひどくモデルヌな酒場があった。なにしろ経営をしている人が仏蘭西がえりの売り出しの画家だったから、従ってそこへ集まる連中も文士とか画家とか脚本家とかいうような顔ぶれが多く、そこを根城として毎日集まって色々と気焰をあげていたものだ。
 僕はその頃叡山にいて――大阪へ初めて出かけ――布施延雄の紹介で、その仲間のひとりのIという男に紹介されたが、――これが大阪に於ける僕の最初の友人だった――そのIとはそれからずっと交遊を続けて今でもいるのだ。
 Yはその仲間のひとりで――そのころはK学院の中学部の先生をしていたのだった。なにしろ、僕には殆んど酒気が絶えたことのない時分で、集まる連中がどんな人間やら一向見さかいがつかず――だれとでも同じようにしゃべりちらかしていた。いわば僕はかれ等のひとりびとりとつき合ったのではなく、グループとしてつき合っていたわけだ。――紅燈緑酒の巷、――恋の? 道頓堀が自分の持ってゆきどころのない気持をまぎらし慰さめてくれていたに過ぎない。
 巴里十三区、伊太利街に近い場末のひどく入りこんだゴミゴミした狭い通りの角の貧弱 Velaine Bar――恐らくヴェルレイヌが昔、此処のバアに屢々来たからではなく、思いつきから如何にもヴェルレイヌのような人間が来ているにふさわしい、至極みそぼらしい安直な腰掛けどころという位な意味でパトロンが考えついた屋号に相違ない。そこの隅の方の卓子に相対しているのがYと僕――隣室ではくだらぬ流行唄の蓄音器が騒々しく吠えている。ギャルソンもここにはひとりもいず、六十恰好の汚たらしい婆さんと、十四五の小娘がいるきり――僕等のほかに御客はひとりもいない。
 ――ずいぶん歩いたねえ――今日は
 ――少なからず疲びれた
 ――巴里に九年もいる君でも――ついこんなところにヴェルレイヌ・バアなどという名前のあるキャフエがあるのにきづかないというのだから、やはりいくら東京よりせまいといっても広いねえ。
 ――巴里は底なしさ――なにがあるかわかったものじゃない――なにしろ花の都にはちがいないだろうが――いわば世界のハキ溜めなのだから――
 ―― 一年や二年いたってこれじゃほんのウワツラしきゃわかりっこない――でも、君のようなアルゴオまでつかいわけの出来るくらい饒舌れればまったく〆たものだ―― 一寸かえれないのも無理がないねえ。
 ――しかし、やはり時々日本が恋しくなるのはどうもしかたがない――だが、こんな風に身を持ちくずしてしまって、九年も異郷にいると――なんだかまるで別な一種の人間になってしまったような気持がして、――今更日本にかえったところで――昔の友達ともあまりにかけ隔ってしまっているだろうし――日本の状態も一向にわからず――時々は誰にも知れないようにコッソリ日本へかえって、どこか辺鄙な山奥の小学校の先生かなにかになって、そのまま埋もれてしまいたいという気が起こることもあるのだが――
 ――しかし、それも出来ない――だが、もう一奮発してなにか実のある仕事をやってみる気は起こらないかね。
 ――いつかも一寸話した通り、度々やりかけてみることもあるのだが――なにしろ今のような生活をしていると、落ちついてそんな仕事をする余裕もなし、第一する気にはなれない――
 ――それはもっともだが――君のようにここまで漕ぎつけて、まるでうっちゃるのももったいないと思う――さしあたり君がこないだ話したメイヌ・ドヴランにでもとりかかったらどうかね?
 ――出来ればいいが――
 ――やり給え、やり給え。――出来あがったら僕も及ばずながら売り囗の方は心配するよ。
 ――や、ありがとう――そんな風にいってくれるのは君ばかりだ――僕はまだ九年いるが一度も君のような人間に遇ったことがない――みんなおれをバカにして、やれ性格破産者だのなんだのと――それに知っての通りMとはまるで僕は正反対なタンペラマンの持主だからね――彼もずいぶん努力して今までやって来たのだが――なにしろ僕の気持はまだ彼にはわがらぬらしい――
 ――M君はM君さ――あの人の仕事と、君のとでは全然性質がちがうのだから、―しかし、今やっている仕事はいわばM君と君とがこしらえあげたようなものだから――その方はそれで我慢してどこまでもコーラボレイトしてゆくことにして、なんとかして暇をつくって君自身の仕事にとりかかるのだね――
 ――そうすることにしよう
 ――そろそろ腹もすいて来たから、もう一杯アベルチィフをひっかけてトーマヘ飯を喰いにゆかう
 ――そうしよう
 デウ・ペルノオ・アンコール・シルブウプレイ
 二人はアブサントの杯を静かに飲み乾して、そこを出た。
 夕霧がたちこめている。モンスリイ公園の傍の街路樹の葉がカサコソと音をたてている――若い労働者が三々五々いずれも馴染みのキャフエやレストーランにいそいでゆく――ロ笛を吹いているのもある。ソウの停車場に近い陸橋の下では破れた傘を持ち、汚ない包を一つかかえてゆきくれた老婆が悄然として、パンのカケラを嚙じっている。いずれ彼女には今夜とまるべきホテル代の持ち合わせはないにきまっている。馬車の鞭の音――黄昏の雑音――場末の静けさ――エトランゼェの胸に喰いこむ寂しさ――Yの場合。       ゝ
 若し自分が小説家ならYの一日の生活をかいてもたちどころに百枚位は書き得ると思う――彼の巴里に於ける数奇な一生――彼のミリュウ――異国にいてその日の糧のために精根を疲らしている惨めなジャボネエの生活。
 窓ガラスにうつるおのれの顔の黄色く萎びている不快さ――もうそれだけでも巴里は沢山だ。日本料理屋でまずい天どんを喰い――昨夜買った淫売の話を恐ろしくきたない東北訛りで得意そうに話している奴――さもおれはパリジャンくさくなっているだろうと、桃色のハンケチをポケッ卜からハミ出させ、ダンスの足ブミをさせながら――やたらにフランス語をふりまわし――ヘタ糞な画を描きちらしている方はまだ上の口だが――親の仕送りを淫売に入れてあげてノラクラしているブルジョアの馬鹿息子ども――こんな手合いをみると虫ずが走る程――不愉快だ――しかも、それが巴里なのだから一層耐らないのだ。
 おれはだからかかる鼻持ちのならぬ人間共の巣まるリゾオトには殆んど顏を出さず――Yのような人間と、名も知れぬ陋巷をさまよい歩いて屢々夜をあかしたのだ。おれは巴里に来て初めて日本のブルジョアジイの臭いを少しばかり嗅いでみた。おれは毎月M社のH氏のところへ、金をもらいに出かけなければならなかった。銀行へ度々足ぶみをしなければならなかった。勿論コンサルに時々手紙を見にゆかなければならなかった。それから二三度日本人倶楽部というところへも出かけてみた。みんなおれのこれまでの生活とは縁もゆかりもない存在だった――おれは巴里ヘブルジョアの見学にきたわけではなかったのだ――それに――どことなく幽霊のようなエスピョンの影――恐らくそれはおれのハルシナシオンだったに相違ない。まことに嗤うべきことだ――それ故にこそ――おれは日本の可憐なる少女にエハガキを書き、遙かにかの「白蛇」の幻影に思いをよせなければならなかったのだ。
 月は静かにヴアンサヌの森から現われ、セエヌは金鱗を漂わせ、赤緑の広告燈はグランブールバアルを照らし、ブウロンニュの池には相愛の男女が小船を浮べ、リユ・モンマルトルの街上には酒池肉林の大オーケストラが奏せられている――かかる時、おれはひとり静かにビユフアロオの一室に仰臥して、その昔、サンボリスト等の群をなしたと伝えられるプラ―ス・ピガルの「ヌーヴル・アテネ」に思いを走らせ、ドウバアのかなたに転居して今はなおあくことなき文学無駄話に耽けるわが親愛なる George Moore のプロフィルを思い浮べていたのだ。――いささかカツベンに堕したか?

 ノック――
 ――アントン
 キャスケッ卜をかぶったボエーム――いわずと知れた無想庵。
 握手。しばらく沈黙。
 ――昨夜やって来た
 ――君のくることはVからきいてわかっていた――
 ――どうだね?
 ――どうもこうもあるものか――おれはもうサッサと引きあげようと思う
 ――来る早々ノスタルジヤか?――いやに弱虫になったものだな――
 ――君のヤセ我慢にも呆れたものだ――よくこんなくだらぬところに辛抱がしていられるな――
 ――おれは巴里にいたのじゃない
 ――なる程――それはそうだ
 ――ヴラ・サン・ミシェルを君にお目にかけたいものさ、バラディオだよ――今、庭は薔薇の花盛りだ。空は碧瑠璃で、海は紺青さ
 ――そうして腹は北山時雨と――
 ――時にコドモはどうしているね?
 ――どこかへ遊びに出かけたのだろう――オヤジよりも遙かにアット・ホームらしい
 ――さすがは君の伜だ
 ――いやおれのような人間に似られては真平だ
 ――とにかく出よう
 ――僕はもう朝飯をすませて来た
 ――どこかで、では飲むことにしよう――といっても君は酒をやめているのだし――第一おれには巴里では飲む酒がカイモク・オマヘンときている
 ――でも、こないだの手紙ではいやに神妙だったじゃないか――禁酒をしているというのはほんとうかね
 ――それはほんとうだった――しかし、もうかれこれ半年近くなるからね――ソロソロ飲み始めているのだが――酒をやめたのでスッカリ元気がなくなってしまった
 ――酒のノスタルジイかね
 ――いや、実のところ、おれは異人に少しアテられたのさ
 ――そう何処にだってボオドレエルやヴェルレイヌのような人間がザラにころかっているわけじゃあるまいからな
 ――異人という奴は実に無神経でズウズウシイ人種だね
 ――来る早々僕にそう文句をいってもしょうがない――僕は異人じゃないからね
 ――でも他の奴はみんな異人にあやかりたがっている奴ばかりで問題にならん
 ――ハッハッハッ――とんだところへ飛びこんできたものだ――とにかく、では外へ出ようか?
 ――だが、君もなんとなく異人くさくなってきたね――もっともかなりながくなるからね
 ――君はYという男を知っているのかね? この前、僕が巴里にいる時、彼と時々君の噂をしたことがあるのだが――いい男さ――
 ――実は、ついこないだ初めて会ったのだが、僕はYが巴里へ来ていることは少しも知らなかったのだ
 ――そうかね――奴さんもコッチでかなり修業をしたものさ
 ――だがあれだけ言葉が堂に入ったらスバラシイものだ
 ――時に、君はどうだいチッ卜は話せるかね――
 ――カイモク・ワカラズときているのさ――それでヨケイに異人が癪にさわるのだろうて
 ――買物はどうしているのだ
 ――炊事その他万端はコドモの受持さ――それに日本からひとり一緒に来たO君という人がいるのだ――その人が色々とやってくれるので助かる
 ――相変らずのアリストクラシィか
 ――なにしろ銭勘定の小メンドクサイには閉口だ――元来、日本のゼニのカンジョウもおれには二ガテなのだから
 ――そうでもあるまい――しかし、こっちのやり方はすべて五進法で、ツリ銭の出し方だって、ありゃ、まるで日本とはランヴルセだからな――
 ――それにプール・ボアールという奴さ――なんだってあんなことを一々しなけりゃならないというのかね――小めんどくさいことをするのがシビリゼの看板というわけか?
 ――大気焔だね――そいつを一つこんだグランマガザンかなんかでやって異人をアッといわせてやっちゃどうだ
 ――やっちゃどうだって――コンプランパアのパアときちゃ御話にならん
 ――ジャポネエでやっちゃどうだ
 ――ジャポネエでは、実は時々やっているのだが――どうも一向風馬牛で眼をクリクリさせているだけの話だからどうも張合いがなさすぎるて
 ――では、セイゼイ勉強をされることですな――君はどこか学校に行っているかね
 ――イヤ、行かん、コドモはこないだからベルリッツヘ通わせてある
 ――では、どこかへ行ったらどうか?――どうせいるからにゃ――饒舌れる方が便利だよ――
 ――ながく腰をすえているつもりならやる気もあるが――なにしろ生まれて初めて天下晴れての閑散さだから――こんな時、本でも読んで置かなきゃ読める時はありゃしない
 ――ちっとは読んだかね
 ――ごらんの通りさ――
 ――なんだ『白香山詩集』などというのがあるね――上海からでも買って来たのか
 ――気まぐれに買ってきたのさ――かえる時は置いてゆくよ
 ――まあ、もう少し辛抱して見給え――だんだん異人のいいところがわかってくるから
 ――フアンムの味かね
 ――まだ色気があるのか
 ――ギャルソン・イテルネルだからね
 ――困ったものさ
 虫が啼いている――静かに啼いている――虫の啼くのをきくのは気持のいいものだ。なぜか?――自分が気持がいいからだ。武蔵野の秋の夜ふけに虫の啼くのをきいて、遙かに異国を思うと、さすがにモンパルナスの夜が偲ばれる。僕は巴里に出かけてやはりいいことをしたと思った。自分はかなりこれまで色々と世のうき苦労をつぶさに味わって来たと思ったが、――しかし、まだまだ峠はいくつもあるようだ。世の中の底知れぬ艱苦を嚙みしめればしめる程、生きる味は益々深くなる――この世を深く味わうには幾度か苦い杯を飲み干さなければならない――それがわれわれの生きて行く上の掟なのだ。生きる力はだが苦しみからのみ湧き出てくる。
 少年には少年の、青年には青年の、壮年には壮年の――それぞれの生活がある――僕が今二十代の青年だったら、こんなに静かな気持で虫の声をきいてはいられないであろう。今頃は恐らくどこか秘密の集会に立ちまじって、××の画策にうき身をやつしているかも知れないのだ。時代と年齢と、教養と、肉体の相違は如何んともしがたいものだ。
 アメリカにゆきたいものはゆくがいい。ロシヤにゆきたいものはゆくがいい。フランスにゆきたいものはゆくがいい――みんな諸君の自由である。だが、僕は如何せん日本人だ。日本に生まれたことは僕の宿命だ。自分はオリヤンタルであることを特に誇りともしないが、決して恥だとは思っていない。しかし、日本という国はこんなにも昔からプラグマチックだったろうか?――こんなにもユーテリテリアンだったろうか?

あさくさ・ふらぐまんたる

 唵阿呂藜迦娑婆可――ONARORIKYASOWAKA――観世音御真言。
 これを三遍唱え奉ってさて浅草について書き始める。自分の郷土、スイートホーム――「天国と地獄の結婚」とイリヤム・ブレイクはいったが――それは自分の「あさくさ」のことなんである。
 僕の机の上にはいつでも『観音経』が載っている。今載っているのは『大字観音経般若経平かな付』というので、去年の――つまり一九三〇年の十一月お酉様の晩オリエントの楼上で石角君の出版記念会のあった晩、その会へ出席したかえりに小野好業と二人で観音様へ御詣りした時、金二十何銭かを投じて買ったものなんである。
「あしたの晩、石角氏の会があるんですが行ってみませんか」
「行ってもいいが金がないよ」
「なくってもいいでしょう」
「初めて行って初対面をする人の会に行くんだからそれは困るよ」
「でも、石角君の会だからいいでしょう」
 小野好業がひとりで承知してサッサと自分だけで決めこんで、そのあくる日僕を引っぱって浅草へ出かけたのだ。僕はなんとなくすまない気持がしているが石角氏に会って初対面の挨拶をしたらすっかり安心してしまった。
 それから例のテーブルスピーチという一番自分の苦手とする奴で色々と勝手なことを饒舌り散らした。石角君は「浅草変窟男」という異名があるのだそうだが、ヘンクツというかんじは少しもしなかった。しかし、一見非凡な風貌に接してひどく嬉しい気持がした。
 僕は子供の時分からなんべんとなく浅草へ連れてゆかれた。歩いて行ったり、人力で行ったり、鉄道馬車へ乗って行ったりした。ある時、私は父母につれられて観音様へ出かけた。ちょうど三四歳の頃だった。今でも境内には沢山売卜考が網を張って迷える羊達を待ち構えているが、その時分にもやはり今と同じように沢山のウラナイがいた。多分、かれ等のひとりであったに相違ない美しい白髯の天眼鏡を持っている老人が父母を呼び留めて、
「もしもし一寸その御子さんの御顔を拝見したいのです」といいながら私達の傍に近づいて来て、天眼鏡で僕の顔をしげしげと覗いたのだそうだ。恐らくその時僕はビックリして、観音様の鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしたに相違ない。
 老人はしばらく僕の顔を見ていたが、ひどく感心したように、
「この御子さんは普通のお子さんではない、甚だ差出がましいようで失礼だが、僧侶になさい、そうすれば御両親も安心出来るし、立派な名僧智識になられる」といったのだそうだ。そういって老人は別段見料を請求もせずにスタスタと行ってしまったのだそうだ。
 大政治家になるとか、大金満家になるとかいうならとに角、坊さんになられてはいくらエライ坊主になられても当時の父母にとっては別段ありかたいことではなかったであろう。寧ろ父はそれを不愉快に思ったに相違ない。
 今でも、母は時々思い出したように、まったくあの売卜者のいったようにおまえを早くからどこかいい御寺へ預けたら、今頃はキッ卜金襴の袈裟でもかけた立派な坊さんになっていたかも知れないねなどと、金ランのケサさえかければ天晴れ名僧智識ででもあるかのようにいうのである。
 僕は御蔭で名僧智識になりそこね、貧乏文士になってしまった。まったく、観音様の罰が当っているのかも知れない。
 僕はダダイストで、クリスチャンで、ヘドニストで、観音様の信者なんである。だから、西洋へ出かけた時も、僕の外套のポケッ卜にはいつでも観音経が入っていた。気が向くとそいつを出して時々誦えるのである。西洋へ出かける前に親友のI中佐と一緒に観音様へ御詣りした時に買ったものだ。その御経は欧羅巴を一周してかえって来たらボロボロになっていた。
 僕のところへ時々やって来る植木屋さんがある。天成の詩人で学校は尋常二年しか行かなかったのだそうだが、ベラボーな詩人で彼の文学談には僕のところへ来る程の人間はみんなアテられてしまう。僕も凡そ交友天下に普いが、こんな詩人は見たことがない。彼はいつでも腹掛にオカリナを忍ばせて感興が湧くと処きらわず吹くのである。
 その植木屋さんが去年の十月頃失業してひどく困っている時に相談に来たことがあった。恰度その時、ウラ哲の置いて行った雲水の衣裳があったから、
「君これがあるから明日から少しやって見たらどうだい」
「でも御経が読めませんから」
「ではこれを君にあげるから、これで練習してやって見給え、仮名付だからすぐとわかる。なにもみんな初めから終りまでやらなくたっていい、途中でつかえたら口の中でムニャムニャやりゃいいさ」
 洋行までしたその御経は今植木屋さんが持っている。ウラ哲も雲水をやめて文士修業を始めたので乞食の衣裳もそのまま植木屋さんのところにある。仕事がなくなると彼は早速衣裳をつけて托鉢に出かけるのだ。この正月もそれでなにがしか稼いだとのことだ。

 自分は自分の「故郷」というものをとっくの昔に紛失してしまっている人間だということはこれまでも幾度か慨嘆したことがある。だから、どこに住んだとて一向差支いない人間なのではあるが、東京を離れると一寸喰えそうもないので仕方なしにくっついているのだがあまりありがたいことだとは思ってはいない。
 それに七十歳になる老母はイナカが恐ろしくきらいなのだ。その癖、ずっと郊外にばかり暮らしているのだが、今でも時々、浅草にひっ越しをしたがったりしている。現在の東京や、浅草がどんなに変化しているものだかということは勿論わかってはいるのだが、どうしてもやはり頭の中では昔の東京や浅草を生活しているのだから諦めようがないと見える。
 囗の悪い僕の友達などが、「ねえおばあさん――浅草へ越したって露地がないから、第一おばあさんの死ぬとこがありゃしない」などとひどいことをいうのだ。「まったくねえ、露地がないなんてほんとにバカにしているねえ」と真面目になって答えている。
 僕のおふくろは浅草の代地あたりへ中二階の隠居所を建てて、そこで死ぬことを理想にしているのだが、勿論、実現されそうもないばかりか、代地をグルグル歩いても恐らく――こんなところは代地じゃない――というにちがいない。
 子供の時分、本郷や、牛込などというところはまるで外国のようなかんじがしたものだ。四ツ谷の天王様の御祭りへ呼ばれて人力で寺町にいるおばあさんのところへとまりがけで出かけるのはまるで遠足以上の気持がしたものだ。
 世の中に喰うに困る人間がいなくなるという意味での「平等」には賛成するが、それ以外の「平等」には賛成出来かねる。
 みんなおんなじような帽子をかぶり、おんなじような服装をしてトンカツやライスカレイばかり食べなければならないというようになったらやりきれたもんじゃない。
 道路や、家の造りだってそうだ。どこへ行ってもおんなじような道や、家ばかり並んでいたりしたのではつまらないと思う。
 殊に女の髪形なんか、断髪ばかりかなんかになったらどうだろう――つまんないじゃないか?
 こないだも、話したことだが、浅草の六区の見世物だって、昔は実に色んなものがあった。なる程キネマの内容にはかなりバラエティがあるが、あれだけじゃ、やっぱり物足りない。あの赤い腰巻き一つで水へ飛びこんだり、肩ぐるまをしたりしてレビウをやった海女の見世物のことを考えたって、今よりどんなにエロだかわかったもんじゃない。(こんなことについて僕は震災後、浅草の伝法院から出た「聖潮」という雑誌に少し詳しく書いたことがあった)エロエロといって騷ぎたてるなら両国のヤレツケソレツケでも復活させたらいいじゃないか?
 僕がビリオユヤアなら、先ず早速、浅草ヘ一大混堂(風呂屋)を建設するね。式は羅馬でも飛鳥朝でもなんでもかまわない。勿論、男女混浴だ。もっとも多少入俗の資格をつける。しかし、色々差別をつけた浴場をこしらえるのだから汚ない婆さん爺さんをあながちボイコッ卜するというわけじゃない。四角な箱みたいなクダラン建物を徒らにポカポカ建てるよりいくら面白くって気が利いてるかわかったもんじゃない。
 日本人位昔からマネばかりしたがる人種もあんまり見たことがない。もっとも、異人とつき合わなかった時分にはそれでも独特の物がかなり出来たようだが、それはほんの僅かの間ですぐとまた異人かぶれをしてしまった。
 簡単にいえば、自分は日本という国に生まれたから日本人だというに過ぎない。日本人だから「日本」が好きだというに過ぎない。何故、「日本」が好きなのか?――などとむずかしい理窟は御免蒙りたい。僕は法律や、他人の煽動や、命令によって自分の国を受しているわけじゃないのだ。僕は本能的に自分の生まれた国が好きなのだ。恰度、本能的に自分の母親を愛しているのと少しも変りはないのだ。もう少し極端にいえば自分は自分の生まれた日本のうちでも特別に「東京」が好きなのだ。「東京」の中でも「浅草」が好きなのだ。いや、好きだった。今では、僕の単なる観念になっているばかりで、現実の東京はまるでその形態を異にしているから、自分は自分の生まれた郷土の都会を歩いている時に、恰かもエトランジェのようなかんじしか起らないのである。これは別段どうということもなく、自分の年齢の問題なので、震災後に生まれた児童等にとってはなん等の意味をもなさない老人のよまい言になるのである。
 僕は単に僕自身の実感を述べるだけである。東京に生まれた四十有余歳の一日本人としての実感なのである。だから、僕と同年配のそうして僕と同じような環境に育って来た人々にとって、自分のいわんと欲することは一番よく理解されるにちがいない。
 口先きや、表面や、外貌だけでかれこれ猿真似をするだけなら、僕も昔一寸役者の真似事位はしたことがあるから、所謂、時代のトップを切る――実もって臍茶的な文句ではある!――モダンボーイの真似事位は出来ないこともあるまいが、要するにそれは単なる真似であって、必ずイタにつかないばかりか、甚だもってやりきれない滑稽事に終ることは必定である。
 青年はいつでも新しい。そうして常に新しい刺戟を欲する。生気溌刺たる官能はあらゆる新奇な事物を吸収しようとする。元気な青年程、進歩的である。がれ等が新しい異国のスポーツを愛し、キネマを愛し、世界的行進曲であるプロレタ運動に血を沸かすのは如何にももっとも千万である。僕も若し諸君と同一年齢の青年であったら、必ず諸君の御仲間にくわわって、同じように跳躍することであろう。しかし、残念ながら、僕にはもうそれが出来ないのだ。僕は唯微笑して諸君の前途を祝福するばかりである。しかし、忘れてはならぬことは諸君はいつまでも青年ではないということだ。やがて、諸君も亦、僕と同じ年齢に――しかも瞬くひまに――到達することであろう。その時、諸君はどんな風に変るか――僕はそれを見ることは恐らく出来ないであろう。
 僕は最早、諸君と共にアメリカやロシヤにかぶれることは出来なくなっている。僕の仕事は恐らく終りを告げたのかも知れない。まことにいたしかたがない。不幸にして、僕は現代の日本の潮流に逆行して、若しくは外ずれて生きなければならなくなった。諸君は諸君の信ずる道を進むがよい。それが正しいか、正しくないか、僕にはそれをハッキリ断言することは出来ない。僕は如何に孤独でも、如何に寂しくあるとも、与えられた自分の領土を静かに掘って自分の欲する種を蒔き、自分の欲する花を咲かすことに努力するより他に生きる道を知らないのである。
 自分が日本に生まれたことは宿命的である。日本の過去の文化と伝統が知らず知らず自分の血肉になっていることも争うことの出来ない実感である。
 自分は日本に生まれたことを特別に名誉とも光栄ともかんじているわけではない。同時に、西洋人として生まれなかったことを残念に思ったことなどはまだ一度もない。寧ろ、東洋人として生まれたことを喜んでいる。自分が業としている文学の上からいっても、東洋の典籍の宝庫はまったく驚嘆に価する――自分の如きはまだその口もとさえ覗いてはいないのである。浅薄にして愚劣な現代の文学にあきあきしたら、いつでもわれわれはそれ等の文学をひもとくことが出来るのである。

不協和音で arrange されたMOZAIK

   ――或は麻痺狂患者の悪夢燭――

蝋燭が三寸程 燃えつきている
戸外には寒風が四十哩の速力を出して吹き荒れている
銀のタガをはめた白い歯をむき出した男が パレッ卜の脳漿を時々嘗めながら微笑している いる いる いる る る
真赤な幻の塔が 青黄色な舌をダラリと垂れて 凍った地上をしきりと模索している ヒュッ ヒュッ ヒュウ ウ ウ ウ
すこるぴょんが鋭い眼付でアンドロメダの秘密を嗅ぎつけようとする
エレクトロン蜘蛛手のコーラスは全市街の真夜中から 不気味な叫びを発し 愉快そうに笑っては
瘠犬を驚かしている
白い歯を二枚むき出した銀のタガの唄――

イミわれた……………
赤黒い感触の………
爛れた赤 赤 赤
白い液体のメロデイあす………
甘酸ぱいモノクロオム
ヒュッ ヒュッ ヒュッ ウ ウ

だが 彼女はほんとうに彼女のザクロを私に与えてくれるであろうか?
蝋燭の火がメラメラと破れた壁に接吻しては呟やいている
刹那は永遠に過ぎてゆく が 風は止みそうもない 乾からびたパンの屑が長屋の中にこぼれ落ちてふるえている
影法師のひとりが やがて逍遥の真夜中から帰えって来る――
―― 一切は終りを告げて 真理は死んだ 唯おまえのみが生きている――影法師は独語し始めた
――彼女は彼女のザクロを私に与えてくれるであろうか?
――彼女に……を奪われた
――真理は死んだ! ザクロは真理だ
――相対性原理はだが何時まで生きているだろうか?
――三千年程前に亡びているのをおまえは知らないか?
――とうとう DADA の世界が来た
――MIROK が出現したのだよAh HA HA ハ ハ ッ……
――黙示録をひそかに読んだ者ばかりがそれを知っているのだ――
――影法師が黄金の馬に乗って氷河の上を歩む姿を私は昨夜見だのだが――
――ヴイナスがしかしあのようにザクロひろげたのをおれは今迄に見たことはなかった
銀のタガははるしなちおんの花園を歩るき始めた 禁断のザクロは豊満な微笑を湛えてみのっているのを 彼女は楽し気に眺めまわした
戸外には北風の狼が しきりに飢えて叫んでいる
現実の孤児 不朽のアミーバ 盲目の意志のプロムナアド 蟇口のような飢餓……

タバコの吸殻が凍った地上を跳り歩るきながら 無目的にドブの中へ落ちこんだ
星が名も知れずに空中を飛ぶよ!
分裂した意識はさめざめと泣き崩れて この世の虚しいことをかこちながら 生命の種子を抱いて
十字街をさまよっている

不協和音のアランジュマンは幾度か寸断されても無限条虫の意識で個々の細胞を生きてゆくのだ
コルド――ディスコルド――コルド
XYZ おめがのあるはべた のん
スピロフラーゼがアジャンタの洞窟を覗いてもガンダラ芸術は腐れ果てているのみだ
悪夢の実在を信仰出来ない奴は馬鹿だ とある時 またピヤノロ氏は力説したが それはまったく
潜在意識の遊戯場を意味していることは白日であるのだ
銀のタガの友達はそれから人肉市場に曝されているゲニイネの兇暴な毛髪の乱舞と
桃色の腋の下をひそかに味識しながら陰惨なキャヴレリヤ・ボルテヤナの土間に足を冷やして 彼の即興詩を独唱し始めた
寒風の狼は 蜘蛛手のエレクトロと手をつなぎ すこるぴょんはアンドロメダと……
その合唱に加わるべく 虚空から昇って来た
タバコの吸殻 パンの屑 破れた空瓶 すべての楽器は赤裸なハルモニックを抱いて独唱の始まるのを期待していないようであった――
DADA は一切を燃焼する
オウロラ・ボレヤリスの末梢神経が
凍水の裂傷に五色の注射を試みている 白蛇はのたうちまわる
アルバトロスの嘆き
黒い地平のモノトーン
女のと――ん あら ファン――
あら ファン デキストリミテ
アラ fin NNnnn………

ダダは帆柱のコントラバスを抱いて唄い続けた あらふわんのるふれんはいつまでも断続して氷原の上を辷ってゆく
真赤な塔は青ざめて 濃霧の抱擁を感じながら けだるい吐息をついている

銀のタガはようやく暖炉のほとぼりから彼の休息を微かに眠ってザクロの一粒を口にした
瘠犬の遠吠か遙かに聴えて来る――
虐待されている緋Zi りめんの香りが 寸断ずたにもつれながら どこともなしに 漂って来る
――ムセル むせる せる苦しい圧迫の悶えから むき出された乳房――細い眼元のフリュウト
心臓のオーボイ 呼吸のファゴッ卜 腹這いのヴオラ ラ ラ ラ F―S―K―U

あぶさるど

転覆 逆上 生命の紐ずれ
度外れた哄笑 娼婦の白血球
駱駝の鈍感……豹の電流を注射しろ

バッ卜の吸殻を拾う……ボロボロボ
赤煉ガを焼いて□□□□におつつけろ
呼吸器械の喘えぎ……開かれた口

三百代言の首を□□□□!!
狂人の真蒼に爛れた舌
麻痺した神経を硫酸で焼き尽せ
□□した犬の苦笑

接点は接点だ………
無限に楕円を描け 無限に転廻しろ
生命の浪費は涎を垂らしている

ボロ ボロ ボロ ボロ
凸凹 凸凹 凸ボコ ボコ
ピストンの欠伸に触れるな
ブリキ板の方がお前の胸より柔らかい
血が青白く流れて滴っている
ポタリ ポタリ…タリ タリ………
月が赤く笑っている
狂犬の死体を咬じるスタカト
梟の眼は黒耀石よりも素睛らしい
逆さにつるされた胴体
風の残酷なフリュウトがきこえてきた
闇………大きなうつろな穴

「享楽座」のぷろろぐ

ダダはスピノザを夢見て
いつでも「鴨緑江節」を口吟んでいる
だから 白蛇姫に恋して
宿場女郎を抱くのである

浅草の塔が火の柱になって
その灰燼から生まれたのが
青臭い“La Variete d'Epicure”なのだ
万物流転の悲哀を背負って
タンバリンとカスタネッ卜を鳴らす
紅と白粉の子等よ!
君達の靴下の穴を気にするな!!
ひたすら「パンタライ」の呪文を唱えて
若き男達の唇と股とを祝福せよ
怪しくもいぶかしいボドビルが
そこから生まれ落ちるだろう

民衆芸術のワンタンを喰うな
月経に汚れたブルジョア娘の下着を羨むな
それはバビロニアの王者
サルダナパロスの唾棄するところだ
帝劇と有楽座を外濠に埋めて
新しい“Folly Variete”を建設しろ
かくて常に Pimp の如き
“Striking”の憧憬者 黒瀬春吉は
一夜立花家歌子の尿を飲む夢みて
「ヴリエテ」の妄想を創造した
この時 痴呆の如き色情狂者は
賢くも「○○」のカツレツを吐き出して
阿片の紫衣をまとい 王者の姿に扮して
享楽座の舞台に登場するのである
畢竟 彼の「市場価値」は
正に見物の好奇心と角逐するであろう
ボオルとブリキの「平和博」が
腐れ弁天の池に吸い込まれ
山師の懐中に雨もりがして
尻に帆を揚げる滑稽を演じても
遂にその芸術的価値に於て
わが「享楽座」の茶番には及ばないのだ

虚無の大象に跨がり 毒々しい紅百合を嗅ぐ
サルダナパロスよ!
しばらく月光の下に汝の従順なピエロオと戯れろ その時 汝の尺八は幼稚なトロイメライを奏でて 汝の胸の冷蔵庫に秘められたドス黒い心の臓に 真赤な旋律を
点火するであろう

絶望と倦怠との餌食――
酷薄な「生命」に虐なまれる傀儡は
僅かに刹那の火花から
トマトの飢触りを感じるのだ
ヒステリイの山犬よ 石油の空缶を早く乱打しろ!
そして幕をあげろ!!
ハッシュ!! ハッショ!!

楕円の月

 泡を吹いているのだ――それは泡を吹いているのだ。雲の中で眼も鼻もない蒼白い楕円の月が兇暴な不協和音を吼えながら凝結したミルクの泡を吹いているのだ。
 おおだむうる! とうにこの世の物ではない。残るものは空しい形容詞ばかりだ。それで絶望の盃を捧げて落胆の残滓を舐めている。
 激しい、刺すような幻夢の囁やき――荒ッぽい。真赤なひどくオデコの幽鬼があらゆる真夜中の不調な蔭の中に出没している。蟾蜍がバスで鳴きながら夢を踝に搬んでいる。絶望の笹縁りはおれの苦悶の咽喉笛に絡みついているのだ。あらゆる星辰は狂い出し……月は、嗚呼! どろどろに蒼白い血の泡を吹いている月は――芝生の上の猿の腰掛にも似て、生々しくも灰色な紫色の襞をみせびらかしている。
 おお天上の幸福な唱歌者よ! おおわが法悦を助くる畏怖するもうる人等よ! 孰れもいずれだが――みんな結局なんの役にも立ちはしないのだ!
 この黙りこくった、湿々した地帯では、腐れた霧の悪臭が青い燐光を発散している。そうして毒蛇が宇宙的整数の円のとぐろを巻いてはいないだろうか? 今、世界は真赤裸に剥がれて、不真面目になろうと夢中になって努力している。
 だが、ゴッジュ! なんという苦悶だ!!
 純金のプリズムの円盤が泣きながら地獄の変相を描いて速度を無視して転廻している。
「時」は過ぎ去り、また来たり、再び紛失する。傲慢なおれはこのおれのサンチマンを練習することに浮身をやつし、ボロボロになりながら、いつまで畏怖にひきずられているのだ。喘ぐ悔恨の熱い床の上で、重い希望を真二つに裂きながら女も亦虚偽の啜り泣きを吠えている。
 なんにもない――あるものは唯鋭い臭いを発散する「時代」の妖精のみだ! 化鳥の叫び、風っぽい深淵が頭の上に口を開いた極北のパラドックス……
 地平の上には思想の蛆が群がり棲んでいる――過去の平べったい入道の死体が巨大なオルガンをさらけ出している。
 真赤な円錐をだれが知るか? どうして女どもにそれが理解し得られようぞ?
 なにを?
 泡を吹いている――それは泡を吹いているのだ。窓の中で、眼も鼻もない蒼白いオカメが泡を吹いでいるのだ!

陀仙辻潤君

斎藤昌三

 いつ、どうした機会から知り合ったか判らぬ友人で、親しく往復したり文通する仲になった友はかなりある。それらの数多い友人の中で、超人的な一種の聖人にもちかい、自然に悟道に徼していると思われる者が二人ある。一人は秋田雨雀老であり、一人は陀仙辻潤君で、二人共物慾に超然として居り、名誉慾など淡として薬にしたくもない。
 雨雀老とは頻繁な往来はないが、震災直後自分は目白にちかく寓居していたので、散歩の戻りなど寄って呉れて、夜更まで駄話ったことがあった。ちっとも気の置けない、そして遠慮のない人で、時々は電車賃がコーヒー代に代って、とぼとぼ歩いて戻ったというような折もあった。
 辻君は秋田老に比較すると、ぐっと遅い知己であるが、古手拭を首に捲いて盃を手にする無遠慮さが、自然無作法な自分とも共鳴するようになったが、用のない時は一年でも二年でも音信を断ち、来初めると三日目位に重ねてやって来る。従って彼氏が正気を失ったとか、天狗に変ったとかいう折は見舞状も出したことはなかったが、逢えば無我無慾なこの世界的放浪者に親しみを感ぜずには居れない。
 彼氏の一幹の竹はコスモポリタンとして、巴里ジャンを陶酔せしめたのは有名な話で、ダダの余技としては天下一品である。号を陀仙といい、又驢鳴ともいう。
 本年の四月頃か、辻君は風の如くやって来て、天狗になった前後から最近までの文稿を一括したから、何処かで出版して呉れるように奔走してくれというのだった。出版界の近況から見て、こんな風変りなものをオイソレと引請ける者もあるまいし、持廻るのも面倒だからいっそ書物展望社で小部数を出そうということにしたのが『癡人の独語』である。
 見る人に依っては余りに超常識の内容だけに、狂気の沙汰とも怪文とも感ずるであろうが一方にはこの著者ならでは表現出来ない快文でもある。ここらが正に聖人か凡俗か、見る人々の心ごころである。
 先年、九州の帝大図書館の田中鉄三氏から、欧米各国から出版された図書の包装紙を、何かの役に立つだろうからと、ビール箱一杯の寄贈を受けていた。
 今度辻君の近著を上梓するに当って、表装用の布は特に織出させて見たが、見返しに就いては何か辻式のダダ気分を発揮できないものかと考えていたら、ふとこの九大からのラッパアを思出して、これこそこのコスモポリタンには相応しいものと、早速利用して見ることにした。そこで又、これも一冊も同一のものなしという展望社版振りを久々で発揮することに成ったが、特装の方には更にこの意匠を活かす意味で、平を独逸製のキルクで背を手もみ革で外装して見た。辻君には「生ける遺書」だろうといった。「ひでえことをいうナ、然しまアそうかも知れない」と、笑っていた。どっちの意味でも辻君の一墓標として印象付いた書として置きたい念願である。
 そんな次第で、辻君はこの三伏の暑さを、毎日校正に出張して来て、その合間には超特装のために、画仙紙へ大筆を揮毫して呉れる熱心さであった。特異な著として、辻ファンでないまでも、この書がもつ特性を愛読してやってほしいと希う。                (昭和十年八月十日)

解説・村松正俊

解説

 「辻潤」とは一体何ものであろうか。(辻自身はそんな風に規定されることは大嫌いであったが)
彼を哲学者という人は、まず、無いだろう。哲学の学者でないことは勿論だからだ。それでは哲人か。哲人といえば、あるいは少しは当るところも無いではない。しかしそれを全的に彼に当てはまるとは言えないだろう。要するに、落ちつくところは、「陀仙」であろう。ダダの仙人ということだ。
 陀仙となると、辻潤のイメージはよく出て来る。それと同時に彼の持っている「哲人」らしいところ、その書いたものの中にある「思想」が消えてしまい、彼の全貌をフかむことが出来なくなる。
 近ごろ、無頼の文学ということが言われている。太宰治、坂口安吾、織田作之助、田中英光のような文学を指している。こういう人たちがどういう意味で無頼といわれるのかは、ちょっとむずかしい。その人物、行動、生活などが無頼なのか、その文学自身が無頼なのか、そこに問題がある。ここに挙げられた人たちの中には、その生活が不規奔放であり、常識を逸したものもあることはたしかであるが、文学としては案外に常識的なものもある。また、生活は常識的だが作品は無頼的なものもある。
 これらの人たちは、戦後派であり、また太宰や坂口のように、戦前派であっても、世に問題となったのが戦後のものもある。ところで辻潤のことを考えると、その生活態度からして、無頼派の中に入れられるであろう。彼を「陀仙」と名づけると、どうしてもその無頼派の中に入れられてしまう危険がある。
 と言うのは、辻はその生活面がこれら無頼派と同じようであったからである。それが何処から来たかは分らない。世間では伊藤野枝女史が大杉栄のところに走ったせいだとしているが、われわれ古い友人たちから見ると、それもあるだろうが、そのほかにも原因があるように思われる。その原因論は別として、その行動はたしかに無頼であった。この書にもちょいちょい出ているが酒に溺れ過ぎた傾きもあった。いわゆる梯子酒で、彼一流の言い草による「アナザケン」つまり一軒で飲んでいて、すぐに次の飲みやに行こうと言い出したりするところにも、その一端が出ている。この書中にも出てくる長谷川修二なども、ずいぶん、これに悩まされたものだ。
 飲みやばかりではない。道ばたのおでんやでも支那ソバやでも、どんどん立ち飲みをするのだ。彼のうちで、蕎麦ものでも取ると、種ものか何を注文して、いい気になっている。その言うことがいい。金持ちは可哀そうだな。金があるから、惜しくてこんなものが食べられんのだ。こちとらは金がないから、平気で種ものでも取って食べるのだと。もちろん払いは月末で、その月末でも払ったかどうか分らないのだ。そうして外へ出ると飄々と、尺八を持って、吹いて見たり、屋台店で飲んだりするのだ。
 こういう生活は、無頼派という言葉がその当時あったとすると、辻を早速その派のなかに入れるだろう。坂本紅蓮洞などもその最たるものだった。だから実生活の上で、辻は他人に迷惑をかけるという伝説まで出来てしまった。事実は多少あったにしても、それほどもないのに、伝説の方が先ばしってしまったのだ。
 今から十年ほど前に、松尾邦之助氏の肝入りで一度辻潤全集を出すことになって、その準備の会を開いたことがある。その時、世話人から谷崎潤一郎にも出席を依頼したが、谷崎は断わって来た。生前、あれほど人に迷惑をかけた辻に死んだあとまで迷惑をまた受けるのはいやだと、強く言って来たのには驚いた覚えがある。その谷崎は辻と親しくしていたし、辻をモデルとした小説「鮫人」を大正九年に中央公論に連載したりしたくらいなのだ。それがそういうのだから、大分迷惑をかけたのは間違いなかろう。しかしそれは大きく取り上げるべき問題ではない。
 そういう実生活の「無頼派」が辻の文学生活に及ぶとなると気の毒だ。彼の文学にはたしかにそういう無頼的なところがある。現にこの集でも、「木ツ葉天狗酔家言」だの、「不協和音で arrange された MOZAIK 」だの、「あぶさるど」など、たしかに無頼なのだ。だがそれは彼の文学の主流ではない。彼は哲学者でもないし、哲人でもないと、はじめに書いたが、しかもそういう哲学も思想も、人生を見貫く見識も彼の文学のなかにあるのだ。ただその表現の仕方がマゾヒストの学者や評論家の諸先生とちがって、直截に、思う通りに書くから、そういう真面目な面が無頼的な面で隠されることになる。おまけに、文の標題がふざけ切っている。「えふえめらる」だの「だだをこねる」だのといわゆる真面目な文章の標題とは思われない。そこで文学の方でも、無頼派と見倣されるのだ。しかし、例えば、この集の序に当る「いずこに憩わんや」を読んで見給え。これほど真面目な論が展開されているのに、その文中に、ざっくばらんな書き方がある。それが誤解されるもとにもなるのだ。「私は『科学文明』そのものが別段わるいとかいいとか言うのではなく、現在のような人間の道徳意識の水準から推して、どう考えても機械文明はよろしくないと考えている」というのでも、立派な文明批評であり、今日、昭和四十五年の時点においてそれが最も端的に時弊を射ていることが分る。それでいてやはり誤解されるというのは、実生活上のダダ的行動から類推されるわけであろう。
 しかし虚心に辻の文章を読んで見給え。「錯覚した小宇宙」のようなものは、真面目過ぎていると言ってもいいではないか。ここでは古谷栄一の「人間の自我は錯覚」という説を彼が取り上げて、自分が元来持っていた説と結び合わせ、それを展開し、拡張したものである。古谷のこの説はなかなか面白いもので、それを紹介するといいのだが、少し岐路に走るのでやめておく。それを辻が辻流に解釈したのだ。だから「自分は夙に人生を然程有意義に考えてはいず、人間の生活を寧ろ悲惨で、滑稽なものと考えている」と言う。また、「自我とはなんぞや? 自我とは人間の錯覚から起った一つの迷妄である。一切は相対的である。宇宙は歪んでいる。エーテルは果して存在しているか否か? マルクス的価値とアインシュタイン的価格とはいずれが高価なるや? 神聖にして犯すべからざるものは世界に果して幾個存在するか否か? ――凡そこれ等の問題は極めて高遠にして形而上的なる問題である」。「凡そ形而上的思索とは現実的な価値から遙かに距離した物品である」などから分るように、辻自身だけでなく、一般思想家も真正面からぶつかって行く問題に体当りをしているのだ。その意味から言って、彼は思想家だ。しかも平板な思想家だ。自己自身の見識を持っている一流の思想家なのだ。だのに――
 だのに、と言わなければならないのが残念だが、そういう重大な発言をしている間に、彼一流の駄洒落やふざけが飛び出して来るのだ。そこで彼が一流の独自な思想家であるにも係らず、無頼派のなかに入れられてしまうのだ。この前にも松尾氏の個の会で、辻のことを書いたパンフレットが出たが、当代のある一流(と称せられる)批評家が、「辻の如きはただのごろつきに過ぎない」という意味の発言をしていた。
 こういう批評家の認識のたどたどしきは論外だ。それでいて批評家でございと威張っていられる日本の文壇の内容は推して知るべきだろう。
 尤もニィチェが在世当時まるで認められないで、そのザラツストラの第四巻目など、ブランデスやテーヌなどに寄贈した七冊ぐらいしか出なかったという話と比べると、この批評家の認識など、当然のことかも知れない。
 話がニィチェに及ぶと、辻とニィチェとの比較に入らなければならない。いくら僕でも辻がニィチェと同列だとは思わない。しかしその警句の一部の比較においては、辻はニィチェに比べてそれほど劣るとも思われないのだ。もとより、ニィチェはその警句を数多く列ねて、ついには一つの「権力意志」に纏めようとしたくらいなのに、辻にはそれだけの体系的な意志がないから、比較するのが土台無理だということは僕も知っている。しかしかの一流の批評家のように、頭から無視することはとうてい出来ない。この書の中の「ふらぐめんたる」、「ダダの吐息」、「ダダの言葉」、「サンふらぐめんた」などを読めば、そのことが分るだろう。「牛よ、馬よ、犬よ、――魚達よ、もうしばらく辛棒しておくれ」など、それだけでは全く無意味で、その無意味なことは、近ごろの若い詩人たちの分らない句と大差のないくらいだ。しかしこれが前後へ後でもっともっと沢山出て来れば、十分な意味をなすだろうとは考えられる。そこに、生活上の無頼が出ているのだろう。しかし「子供を生むことは人間の最大な罪悪だ――しかし、子供のためにこそ鬼子母神も遂に神になり得たのだ」という句などは辻がヤソ教徒時代に得た原罪の思想が取り得られる。
 こう見て来ると、辻は思想家として一家を立て得る立派な文学者なのだ。無頼派という、文学上の一派の人ではない。ダダというのは、いかにも無頼派に近いものと思わせる。だが坂口や太宰と違った一つの派なのだ。この書中にもあるが高橋新吉がダダはおれの方が先祖で、辻はおれの後輩だといったのに対し、辻はそんなことは、おれの知るところでないと一蹴しているなどは辻の人格の、あるいは思想の高いことを示すのに十分だ。辻がダダと言っているのは文学上の立場をそれで表わそうとしたに過ぎない。しかも、なお、僕がダダイストであり、ニヒリストであると言っているのは、新居格君がアナアキストと自称しているようなものだと書いていて、ダダイストという名それ自身にさえ、固執していないのだ。しかし実質的には十分辻の文学的立場を明らかにしているだろう。
 文学的にデタラメなと思われているダダイズムを掲げていて、実生活では無頼派のように振る舞っているから、文学的にも思想的にも無視され、軽蔑され、あるいは誤解されたのは、彼の運命であって、仕方のないことなのだ。彼自身、この書中で、ニィチェの amor fati を引っぱり出しているところから、その自覚もあったのだ。
 だがそれらは表面的なことに過ぎない。一皮むけば本質が出て来る。辻潤の本質とは何だ。哲学者ではない。哲人でもない。一個の陀仙だ。ここに彼の本髄がある。それは、彼自身が「自己」というものを追求して行く努力なのだ。従って本書は、その自己追求の過程を表現したものと言っていい。序に代わる「いずこに憩わんや」は、その本髄を表示したものだ。ここに本書のエッセンスがある。「この書は自分の矛盾した支離滅裂な意識の表現だ」と言っているが、それが自己追求の過程を表わしているのだ。同時にそれが文明批評となり、著者身辺の報告ともなっているのだ。
 こういう種類の文学は世に数が少ないと思う。小説でもない。詩でもない。強いて言えば随筆文学だろうが、今の世でいう、いわゆる随筆ともまた違う。告白文学のようでもある。批評でもある。また哲学でもある。それらを一体にまとめた新種の文学と言っていい。辻が批評家からそれほど受けなかったのも、批評家の方で、新しいジャンルを受け容れる頭を持っていないからだ。
 辻は元来「文学」に憑かれた人だ。本書中にも「僕は少年の時分から「文学」が好きでとにかく五十まで生きて来たが、ついに「文学」では喰えず、他に生活の手段を講じなければならぬようになったのだ」(「瘋癲病院の一隅より」)と書いている。喰えないのは、辻が在来の小説などを書かないで、こういう新しいジャンルのものを書いていたからだ。しかもこの新しい形式で自己を追求していた。本書中の「自己発見への道」、「自分はどのくらい宗教的か」などは、その例とするに足りる。こういう文章から、辻の人物、性格、文学を識ることが出来る。
 本書中に集められた文章は大体パリから帰って以来、いわゆる狂気時を中心にした時代、昭和四、五年頃から八、九年頃までに書かれたものだ。そこでその時代の背景も伺える。満州事件も金解禁もその時期に含まれている。辻は自己追求に忙しかったから、そういう外部の出来事はあまり本書中には反映されていないが、ところどころ、××や口口があるのは、現在の読者には何のことか分らないだろうが、当時の政府の言論抑圧の跡を示しているので、辻の文章などは数少ないものだ。
 辻の狂気の問題が残っているが、これも辻自身で語らせた方がいいだろう。「かばねやみ」がそれだ。それと共に、この狂気前後の文章には意味の取れない部分も多い。無頼の文学がいよいよその本相を現わしたと言うかも知れない。「ひぐりでや・ぴぐりでや」、「のっどる・ぬうどる」などという標題も分らない。この時分の文章が、批評家として辻を軽蔑させたわけだろう。

 以上で大体本書の紹介をしたわけで、詳しく書けばきりがない。本書を読まれればすぐに分ることがらだから、これでやめにする。
 本書は昭和十年八月に、斎藤昌三の手で、その経営する書物展望社から発行された。六百部の限定版だった。斎藤は明治二十年に生まれ、昭和三十六年に亡くなっている。書誌学者として有名で、「書物往来」、「書物展望」などの雑誌を主宰していた。本書を出版するようになったいきさつは、この附録に書いてある。
 最後に辻が文章につけた標題のことだが、日本語で書いた普通の題はいいが、洋語あるいは洋語風の語を、平仮名で書いたものは、よく分らない。その説明をしてみよう。尤も僕にも分らないのもある。辻はこの洋語風の語を勝手に自分流に書き改めているから、こちらとしても、推測するよりほかないから、そこは御許しを乞う。
 「錯覚した小宇宙」のなかでは、「あるばとろすの言葉」、これは言うまでもなく、albatros 風信鳥、あほうどりで、内容とは直接の関係はない。多分、あほうという言葉の連想で、自虐的にこうした題をつけたのだろう。
 「えふえめらる」ehemeral という英語そのまま、「一日限りの」という意で、短かい命のという意になる。
 「ぺるめるDROPS」、pall mall ペルメルはむかしヨーロッパではやった一種の球戯だが、乱雑なものの意だろう。ドロップスは菓子の名。
 「ふらぐめんたる」fragmental 断片的な、パラパラな。
 「サンふらぐめんた」、サンは多分フランス語のsaint(聖なる)のつもりだろう。ふらぐめんたは前項から来たわけだが fragmenta として、ラテン語にひっかけた語。聖なる断片だろう。
 「おうこんとれいる」au contraire そのあべこべに、之に反してというフランス語。
 「妄想」中の「あまちや放言」はamateur 素人と甘茶とを掛けたのだ。
 「ひぐりでいや・ぴぐりでいや」これはどうも分らない。語呂合わせのようだ。「のっどる・ぬうどる」、これも語呂合わせだが、nodde(あたま)とnoodle(バカ,お人よし、あたま)を掛け合わせたものか。
 「れみにせんちゃ」reminiscence 思い出という英語を、語尾をラテン語風にしたもの。
 「ものろぎや・そりてえる」monologia solitaire ラテン語風のモノロギア(独白)とフランス語のソリテール(孤独な)とを結びつけたもの。
 「あさくさ・ふらぐまんたる」断片的な浅草という。浅草の思い出だから、こう書いたのだろう。ふらぐまんたる、はフランス読み。
 「あぶさるど」英語 absurd(不合理な、ばかげた)をデタラメ読みしたもの。
 「MOZAIK」はもちろん mosaic だ。
 辻にはこういう連想から来る奇妙な語をつくるのが趣味の一つであったようだ。しかしその連想が奇抜で、なかなか面白い。普通の人の思いもよらない連想がある。丁度、夏目漱石の連想にも似ているところがある。

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