見出し画像

【お店雑記】うつわに詳しくなくたって。

お店に立っていると日々いろんなことを思う。あとで初心へ返って読み返すためにも「お店雑記」としてこれからnoteで思いついたことをポツポツと書いていくことにしたので、よろしくお願いします。

***

お店をはじめて2ヶ月。日々感じるのは、「私、うつわに全然詳しくないんですけど..」と遠慮がちに言って話し出すお客さんが多いなということ。それを聞くたびに、「いやいや、私もですから」と言ってしまう。

うつわ屋の店主をやりながら詳しくないって..。このスタンスは正直、どうなのだろうと思う。ほんとうのことを言えば、色々な陶芸家さんと会うなかでそれなりに知識はついてきた。焼き方のこと、釉薬のこと、かたちのこと。陶芸の歴史もまじえて色んな話を聞いてきたし、工房でうつわができあがる過程を実際に見てきた。

しかし、しかしだ。

難しい話をされると全然頭に入ってこないことが往々にしてある。
陶芸家さんが「還元が..」と話し出すとすかさず、「還元ってなんでしたか?」と返すことが多いし、「灰釉は..」と言われると「それって灰が混じった釉薬のことでしたか?」と聞きまくる。幸いみんなやさしいから、こんな私にもいやな顔せず丁寧に教えてくれる。

陶芸家さんから専門的な話を色々と聞くたびに私のメモ帳はぎっしりになるのに、なぜか読み返さないと思い出せないことが多いなと思う。

いったいなぜ..なぜなんだ。

最近気づいた。これはきっと、「覚えようとしていない」わけではないということを。

思い返してみれば、幼い頃からそうだった。なにかを新しくはじめるとき、まず「勉強しなさい」と言われた。特徴、歴史、関係性..。教科書のようなものを手がかりに、座学から入ることが当たり前の流れだった。
でも、結果的にいつも全然身につかなかった。そのたびに、私はふつうに頭が悪いんだろうかと思った。

でも、そのなかでだんだんと分かってきたのは、どんな入り方でも大事なのは「心が動くかどうか」なのではないかということだった。ひとたび自分の中にあるおもしろスイッチが押されたら飲み込みは早い。逆にそうじゃなかったら右から左へ流れてしまって全然身につかない。「理解する」ということの深度は、心が動くかどうかでこんなにも違うものなのかって、最近歳を重ねてようやくわかってきたように思う。

おぼろげながらもうひとつわかってきたことが、知識がないということが逆に「知識の幅を広げるのではないか」ということだった。うつわをみて真っ直ぐな気持ちで感動して、そこからはじまる「もっと知りたい」が出てきたときに、思わぬ方向へ進むことがある。それは、知らないからこそ出てくる疑問や好奇心でもあるかもしれない。そこから自分にとって本当の「知る」をはじめてもいいだろうし、少し大げさに言えば、その小さく湧き出た泉のような意欲を拾い上げるかどうかで人生が変わってしまうことだってあると思うのだ。

ゆるやかに助走して、途中気になるものや人に出会って寄り道して、最初にいた場所とは全然違うところにたどりつく。「知らない」からはじまる「知る」は、予想していたよりもずっと遠くの場所へ行けるかもしれない。

だからさ、うつわに詳しくなくたって全然いいし、むしろ下手に知識がついていない方がいいよなぁと思う。自分のなかで「いいな」と思うものに出会ったとき、それだけでなんだかうれしさが込み上げてくるし、さらに手が届くお値段でお家に迎え入れることになったらもっとうれしい。知識うんぬんは置いといて、そんな純粋な気持ちさえあれば、どんなことでも楽しめるだろうなと思う。

とまぁ、つらつら言い訳ばかりしていないで。私はうつわ屋店主として、最低限のことは覚えていかなくちゃいけないよなぁ。やります、ちゃんとやりますから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?