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ゆかたはきものであるか否か?

この文章は2023年7月20日に書いているが、まさに今日、近畿、東海地方は梅雨明けとなり、本来の暦とは別に本格的な夏を迎えた。
私の住む京都では祇園祭の真っ最中で、来週の月曜日は後祭の山鉾巡行である。また全国でも様々な祭事が行われ、街にはゆかた姿が多く見られる季節である。

さて、そんな季節の風物詩でもあるゆかたはきものとして捉えて良いのか?ということをよく言われる。以前から我々の業界の大先輩たちは、「ゆかたはきものではない!」「湯上がりの衣装と一緒にするな!」「寝間着で街を歩いているようななものだ!」などと言っていた。

しかし、果たしてそうなのだろうか?ならばそれらを論理的に考えてみたい。

ゆかたは漢字で書くと「浴衣」。文字通り浴用の衣服という意味から当て字とされている。日本人の入浴は湯治を除き、江戸時代前期まで沐浴であり、いわゆる蒸気に身体を晒して汚れを浮かせて落とすスタイルであった。これは6世紀に伝来した仏教による「施浴」といわれる考え方の影響からといわれている。

その蒸気に身体を当てる際、裸ではなく、薄い麻の衣服である「帷子(かたびら)」といわれるものを着ていた。そして沐浴した後、乾いた帷子に着替えるという流れであった。この衣服は「湯帷子(ゆかたびら)」と称され、のちの浴衣の語源となったといわれている。

江戸時代中期になると湯に入る入浴スタイルである「湯浴み」が広まり、また湯帷子の素材も幕府の木綿栽培の奨励によって国産木綿が最盛期を迎え、また繊維技術の進化によって木綿が台頭してきた。それに加え、裃(かみしも)などを染める型染の技術が長板中型染としてゆかたに応用されたり、絞り染めや板締めなどの染色技法によって様々な柄のゆかたが出現し、江戸中期後半から男女の間で湯上がり以外でも着用できるおしゃれとして流行した。

蛍狩当風俗 歌川豊国作 (国立国会図書館デジタルアーカイブより引用)

ゆかたは入浴着→湯上がり着→寝間着(部屋着)→簡単な普段着と着用が変化してきたのである。これは衣服における「形式昇格の原則」とも言えるのではないか。

かつて私が経済産業省の和装振興研究会の委員時にお世話になった、武蔵大学の丸山伸彦教授から、衣服の変遷には3つの原則があり、「衣服漸変の原則(いふくぜんぺんのげんそく)」という衣服は急激に変化せずゆっくり時間をかけて変化するという原則と「形式昇格の原則」という下位だったものが上位へ昇格するという原則、そして「表衣脱皮の原則」という下着だったものが表着になるという原則が存在すると教えていただいたことがある。

それに照らし合わせればゆかたの変遷は、正に「形式昇格の原則」に則っており、現代では長襦袢をきて、名古屋帯を締め、帯締め帯揚げもするというきものの基本的な着方をして楽しんでおり、完全に外出着として成り立っている。これはゆかたという衣服がきものという衣服のジャンルに形式昇格したことになるとは言えないだろうか。

歴史的にみれば、このような例は数多く存在する。
平安時代後期の都の庶民が着ていた水干(すいかん)は、鎌倉時代に入ってからは元服前の童形といわれる子供の礼装に昇格し、後鳥羽上皇が蹴鞠の際に着用することを形式化させた鞠水干なども登場する。また上皇などの皇族が行幸する際に帯同する貴族も水干を着ていたとされる。
これも庶民の衣服から上級貴族が着用するようになるという形式昇格ではないだろうか。

また、現代のきものの原型である小袖においては、装束の下着の役割であったが、室町時代中期ごろから表着へと変化していく、いわゆる「表衣脱皮の原則」が生じている。

以上の観点から、現代におけるゆかたは、長い時間をかけて変化し、形式昇格した「きもの」という衣服の1つであるといっても良いのではないかと考える。

夏を彩るゆかたではあるが、進化したデジタル捺染によるファッション性の高い「ゆかたというきもの」が今後も数多く生まれてくると思うが、その一方で長板中型や注染、絞りや板締めといった手工芸による味わい深いゆかたも、これから先も継続して作り続けて欲しいと願うばかりである。


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