近年のビートたけしの大きな変化
ここ10年ほど殿(ビートたけし)には大きな変化が起こっている。——といっても一般の方々には全く気にならないことだと思う。
しかし俺からすると「起こるはずのないことが起こっている」印象なのだ。
——まず2015年のTBS年末ドラマスペシャル『赤めだか』での立川談志役、そして2019年の『いだてん〜東京オリムピック噺〜』での古今亭志ん生役だ。もし10年も若かったら絶対に引き受けない。
「いくらなんでもできるかよ」といって断る姿が目に浮かぶ。しかし殿は同時に「やれるとしたら俺しかいねえな」とも思っている。「思い」と「生理」が相反して一つの体に収まっている人間がビートたけしなのだ。
以前こんな事があった。1985年にコッポラが総指揮をとった映画『Mishima: A Life In Four Chapters(日本では“mishima”)』が話題になっていた頃だ。
俺はボーヤを務めており、主演が緒形拳だと知るや移動の車中で殿は「三島由紀夫が緒形拳だぁ?」とすっとんきょうな声を出した。
そして「おい。大道よぉ。三島由紀夫は緒形拳じゃねえよなあ」とこちらに水を向ける。俺は少々とまどい
「はあそうでしょうか」
「違うよ絶対に。誰かいるか。合いそうな役者は」
「萩原健一とかどうでしょう」
「ばかやろう!あんなバンド上がりの俳優がいいわけねえだろ!」
(殿は堺正章らのようにバンド上がりで芸能界にいる人間が嫌いで認めていない)
「はあ」
「いるだろう、適役がよぉ」
——俺は実は答えを知っていた。この頃殿は三島由紀夫の文学にハマっていたのだから「俺以外に三島を演やれる役者はいない」と考え、それなのに自分からではなく俺に言わせようという魂胆なのだ。
「やっぱり日本ではビートたけししかいないと思います」
と俺がいえば
「そうか、お前もそう思うか」と悦に入るに違いないのだ。
だが、俺はそれを知りつつも本心では客観的に「さすがにビートたけしが三島由紀夫を演るのは外見的にも無理があるだろう」と思っていたのでそれを言わなかった。まあともかく、そんなおもしろいところがあるのだ。
——そして上島竜兵逝去後それに触れる中、TVタックルで(ダチョウ倶楽部がブレイクしたリアクション芸をして)「あれは俺が全部作ったものなんだけど」と、珍しくあざとい印象の言い回しをしていた。
殿は「無粋」を嫌う。意識ではなく生理的に。前出の2役も本来「敬意や礼儀として辞する」事になったろうし、「俺が作ったものだ」も「誰が作ろうがアイツラがそれで世に出て成功してくれたならいいじぇねえか」が昔の江戸っ子ビートたけしの所作ではなかったのか。
——ただし俺にはこの変化がわかる気がする。76才になった自身の人生の残された時間を充分に自覚できている故に「これはもうやっておこう」「これはもう言っておいた方がいいな」と「機」を「今しかない」と大切にしているのだと思う。
そしてさらに俺には大田光や劇団ひとりらの「“自称”も含む弟子たち」へもこれを示しているようにも感じている。「お前ら。俺の姿から感じろ」と
「俺もいつまでも居るわけじゃないんだ。だから俺は人生をやりたいように生ききるからな」と。
だからもっと言えば「変わった」のではなく「そうすることに決めた」のだと思う。自身で状況判断をした上でのことなのだ。
自分の感じた事に間違いがないのなら、「無粋を承知で…」との行動が明らかになっていくのだろう。
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