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消えゆく相互了解としての「洒落(シャレ)」

7月21日、人気テレビ番組『水曜日のダウンタウン』のコーナー「リアル鬼越ドッキリFINAL」で俺の先輩のつまみ枝豆(タレント/株式会社TAP代表取締役)さんがドッキリ企画のターゲットになった。

仔細は割愛するが、ともかくネット上では枝豆さんに関する、過去に殿から発信されたもの、枝葉がついたものまで、武勇伝的なエピソードが掘り起こされ飛び交った。特に『フライデー襲撃事件』に関する部分では

・襲撃前に「あいつは危険だから連れて行くな」と殿が止めた。
・事件を知って単独で殴り込む危険性から殿が電話で「そこを動くな」と言った

などだが、眼前で始終観ていた俺からすると、全部ウソだし、冗談としても成立していない。それ以前に常識的に考えればすぐ気付くような、口にした時点でオツムの程度が知れるレベルの与太話だ。

——また、ここで抑えておきたい肝心な点として、あくまで『フライデー襲撃事件』は殿と講談社の事件であり、同行した者はあくまで脇役。ゆえに殿が本件をあれこれ冗談めいて語ったとしても軍団らはそれに便乗し個々人メディアで冗談化するには僭越でご法度。「弟子の分際で弁えろ」という話でそれがスジだ(それを犯すメンバーは、基本的な礼節を踏みにじっている)

ましてや俺は現在一般人だから、尚の事、それらを冗談にする立場ではない。ウソはウソ。本当なら本当と答えるのみだ。

まず一般人が理解できていない事として『武勇伝』めいたエピソードを、言われたタレント側が喜んでいると思い違いしている。実際は外で色々厄介事が増えるだけでメリットなどなく、むしろ迷惑だ。そもそも腕に自信がある者は自ら必要以上に誇張はしない。これも当然の理屈で実際、俺のいた時代枝豆さんは自ら誇示した事などは一度もなかった。

——ここから本題に入る。今般の件で俺は「それはウソ」と答えている最中でふと「どうでもいいな?」と思った。なぜか。それ以降ネット上では「キドカラーがあれはウソだと言っている」というやり取り(多分に「俺は新たな情報を持っている」という程度の低い優越感からか)が加わりはじめたのを見かけ、背筋がゾッとした『そうか。こいつら根本的に“シャレ”がわかっていない』——と。

『シャレ(洒落)』我見に陥らぬようまず事典を確認したい。

洒落
しゃれ
一般的には、気のきいたようすや服装、身なりをいうが、文学上では、広義に、「笑いの文学」に一貫する頓知 (とんち) 、滑稽 (こっけい) 、風刺などの文学精神、とくに江戸中期以降の江戸で栄えた粋 (すい) や通 (つう) という生活美学と密着したそれをいう。狭義には、言語表現の技術において、一語が音通などによって二義を表す懸詞 (かけことば) 、秀句、地口 (じぐち) などと同性質のもの、および思考上の洒落ともいうべき詭弁 (きべん) 、曲解、皮肉などをいうが、これらが通意識の実践と密接に関係していたことは注目すべきであろう。
 洒落の特徴は人工的なものである点にあり、知性や洗練さを要求されるとともに、そのよき理解者たる相手を必要とする。ひとりよがりの洒落では、洒落にならないのである。こうした洒落がもっとも盛行したのはいわゆる天明 (てんめい) 期(18世紀後半)で、この時代には、その名を冠した洒落本を初め、滑稽本、黄表紙 (きびょうし) 、噺本 (はなしぼん) 、狂歌、狂詩、狂文、雑俳 (ざっぱい) 、川柳 (せんりゅう) などの笑いを生命とする文学、すなわち戯作 (げさく) が栄えた。しかし洒落が、修辞的に縁語や畳語、枕詞 (まくらことば) などと類縁関係にあることを考えると、これらの要素を多分にもつ『竹取物語』などの古小説や連歌 (れんが) 、俳諧 (はいかい) などにも、洒落の精神は内在していたものといってよいだろう。「世界大百科事典」

肝心なのはここだ。これだけで総てを説明している感がある。

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またこうもある。

洒落
しゃれ
〈しゃれ〉のもつ意味内容については,時代によって若干の違いが生じていることもあって定説がないが,滑稽性,物事にこだわらぬ自由な精神,極度に洗練された感性のそれぞれを重視する三つの立場にほぼ分けられよう。近世初期においては,滑稽性よりも精神性に重点がおかれ,遊興理念を表現する言葉として用いられるのが一般であったが,中期以降はしだいに滑稽性および感性の洗練度を示すものにその中心が移り,文芸面においては特に言語遊戯に関する機知,滑稽を表す言葉となった。洒落本の本質もこの滑稽性に求められるべきで,〈滑稽本〉と書いて〈しゃれ本〉と読ませる用例の存在は,その一つの証左と考えられる。「日本大百科全書」

大道流にこれらを開くと、全く創作の可能性のある冗談やギャグに対し、実話をベースに『滑稽性』をもたせたものが『シャレ』だと思っている。

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例えば殿がTVで語る冗談は実話に“もっともらしい”『滑稽性』を与えたものが多いが、具体的な例として、オールナイトニッポンでの『村田英雄コーナー』がそれに当たる。発端になった事柄は実際にあったにしても、そこから話はバリエーション化し「ああ、村田さんならやりそうだ」と思わせて笑わせる。しかし笑う側も『信憑性』を敢えて問うこともなくひたすら楽しむ。『ガッツ石松コーナー』も同様だ。

聞き手は「まあ、シャレでしょう」と承知している案配で、そこには『シャレを言う者』とそれを充分理解し楽しむ理解がある『受け手』があって成立している。

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俺はそれを「手品」におけるマジシャンと客の関係性に似ていると思っている。手品はネタがあることは予め誰でも知っている。その上で目の前で起こる「不思議」を楽しむものだ(それをネタ暴きまで行くと「下衆(ゲス)」であり、これは「無粋(ぶすい)」に繋がってゆく)

——殿は事実のエピソードに「滑稽性」をもたせる「シャレ」のプロフェッショナルであり名人だ。

俺が今回「ウソかホントか」を語るのがどうでも良くなったのは、芸人等が語る「シャレ」は本来虚実を問う性格のものではないから。つまりそれが理解できずに「ウソかホントか」を問う一部の者たちはそもそも感覚として「シャレ」がわかっていない。

この類は説明したところで、「わかるわからない」の俎上に載せられ「試されている」と身構え「わかっているフリ」をしたがる。つまり『半可通』だが、その時代で人気の芸人を「わかっている」事は一種ステータスでもあるのだろう。

ところで『お笑い』はありがたいことに様々なスタイルがあって、レベルが高いか低いかではなく、誰かしら好みの芸人はいるものだ。そういった自分に感性が合う芸人をみつけ無理なく楽しむのが本来好ましい。

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ところが名が売れた芸人であればあるほど、よくわからないまま「ファン」を自称する者は増える。それ自体は不思議な事ではないし別段悪いことでもないが、自分の経験上、自分自身の感覚で「面白い」と判断出来る人間はごくわずかで、殆どは無意識に「TVに多く出ているから」「皆が“面白い”と言っているから」など「結果論」の、自律的ではない理由で「面白い」という「判断」を下している。

主にこういった層が「わかっているフリ」をしたがるのだが「シャレ」は完全に「感性」の問題で後天的にどうかなる話ではないのでその代わりに「ウソかホントか」の話にズレていく。

特に俺の肌感覚で、最近ネット上では「シャレ」がわからず「ウソかホントか」しか語れない者が増えたと感じる。とはいえ彼らはそもそも「ウソかホントか」の見極めも出来ない。そのくせ無根拠な憶測や思い込みに走りやすく、例えば「ビートたけしの“ビート”は天才と甜菜(英語: ビート=beet))をかけたものだ」などと滑稽かつ奇っ怪なデマを振りまき、それを真に受ける者さえ現れる。

冷静に考えるなら殿は『天才・たけしの元気が出るテレビ!!(1985年)』で初めて番組タイトルに『天才』を冠したに過ぎず、それまで10年以上ツービートをやって「ビートたけし」を名乗り続けた事も考慮せず、そもそも番組のタイトルも殿が考えたワケではないオチもあって、検証するまでもないまことに「バカバカしい」デマだが、視野が狭く思い込みに走る事象は枚挙に暇がない。

一説によると「笑いの感覚」は幼少時からの家族や友人の会話で自然に育まれる環境由来らしい。だとすると最近増えだした「シャレわからずクラスタ」は幼少時からまるでつまらぬ会話の中で育ってきたのかと考えると、結局は当事者ではなく社会の問題なのかもしれないが「シャレがわかる受け手」が減っているとしたらお笑いという商売自体が成り立たなくなるように危惧してしまうのだ。




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