盗まれた名前『浅草キッド』
前口上
昨年末にNetflixの『浅草キッド』が大ヒットしたが、ご存知の通り、この作品と同じ名の漫才師がいる。だが実は当のビートたけしは彼らにその名を与えてない。今回はこの機会に「なぜそんな事態になったのか」を記す。恐らく当の本人達も知らなかったであろう場面と経緯も織り交ぜ、ほぼすべての場に立ち会い、そこで見た事実を書く。
フランス座修行の復活と「ミスター“浅草キッド”」
——1986年、俺はビートたけしの専任付き人“ボーヤ” 2年目に入っていた。かたやたけし軍団の二軍『たけし軍団セピア』は水島新司の子息新太郎とサード長嶋のユニット『おぼっちゃま』こそ独自にアイドル活動をしていたが、残りのメンバーは相変わらず軍団と共に殿のレギュラー番組に書き割りよろしく「TVに映っているだけ」の状態に行く末を案じ、焦っていた。
現状の「タレントまがい」の状況に浮ついている誰なんだ吉武は何も考えていない様子だが、俺と同期の大阪百万円は、故郷の大阪に「芸人になる」と大見得を切って出てきた手前、ビートたけしの許にこそいるものの、惰性に流され暮らす日々に強い焦りを感じていた。やがて俺に「殿と会える時間を作って欲しい」と打診が来た。
——彼とは1984年年末の弟子入り志願以来、談かん宅→東宅→四谷サンハイツと住まいが替わりながら常に寝食を共にしてきた、いわば気のおけない間柄であったから、殿と会う理由も「フランス座修行志願」である事はそれとなく察していた。
——『フランス座修行』は、もともと、そのまんま東、松尾伴内と弟子志願者が増える中で、弟子を持て余し気味にした殿の模索の中で始まったものらしく、古巣のフランス座に預け進行の手伝いと幕間のコントで出番をもらい「修行の足しに」という殿の親心でもあった。だが人数が増える中で『たけし軍団』というくくりが出来、TV出演の場が与えられるようになり、「自分の目の届く所で活動させたほうが良い」との判断があったのか、全員帰還。そこを機にフランス座修行も途絶えたままになっていた。
——そもそも「弟子志願者」とはいうもののその実態は、特にセピア以降例外なく、ただ殿の側にいたいだけの「弟子志願者を装ったビートたけしファン」なので、ビートたけしのバックグラウンドでもある『浅草フランス座』は切っても切れない存在と皆は考えている。だから当時フランス座に所属している者達も「ビートたけしの故郷」と、その憧れから集まっていた。要するに当時はビートたけしに憧れる者は本人に直訴するか、フランス座に行くかの二択の中で思案していたのだろう。
その『フランス座』は既に1964年から都合3度閉館を繰り返している。
それは時代的な変化の現実であり、一方、芸人になる手段も1980年代からTV番組や芸能事務所主催のタレント育成スクールと、徒弟制度以外の手段が増え始めていたから、元々銀幕を目指した「芝居の稽古の場」として状況演劇を幕間に求めた形式も実質その役割を終えていた。
それなのに再開にあたり幕間のコントを残したのは「ビートたけしの故郷」という看板を掲げ少しでも売上げに寄与させたい経営的な狙いに他ならない。身も蓋もなく言えば「現在のニーズと実情」は無視し、商売のために「復刻」したのが『フランス座』だった。しかし結局は2000年でストリップ興行から撤退し幕間のコントもなくなり『浅草フランス座演芸場東洋館』と名乗り、色物専門の演芸場として再スタート、現在に至っている。「フランス座」の名を辛うじて残しているのはやはり前述の経営的な狙いであろう。それしか「売り文句」がない。つまり“ビートたけし利用”。今でも浅草はほぼ無断で“ビートたけし”の名を「育ててやった恩ぐらい返せ」とばかりに使い倒している。
わずかに残る、現在のストリップが置かれた状況を眺めると内容はアート志向となり、昔の違法性を伴う形式ではなくなっている。かつては兄弟子松尾伴内も在籍しコント山口君と竹田君を輩出した新宿OS劇場も2001年に閉館。また『笑っていいとも!』のレギュラーでもあった1916年浅草生まれ、こちらも生粋の江戸っ子杉兵助師匠の許、コント赤信号、ダチョウ倶楽部等を輩出した渋谷道頓堀劇場も1996年に杉師匠が80才で鬼籍に入ったのを機にコントは廃止。いまや「芸人の修行の場としてのストリップ劇場」は事実上過去の産物となり今や見る影もない。
——日本テレビの控室に入った大阪百万円は殿と差し向かいに座る。
「おう。なんだい。どうした?話ってのは?」とやや身構える殿に「フランス座へ修行に行きたい」旨を告げ低頭する。俺は話の行方を見守った。殿はタバコを一服し、やや思案し上方に煙を吐いてから口を開いた。「そうか。フランス座か…。でも今のフランス座はやめたほうがいい。あまり良い評判を聞かない。そもそも修行になるかどうかもわからんぞ」とまず殿は反対し、諦めるように諭した。
——昔と今では事情が違う。この頃、弟子の修行は一定のメソッドが確立されつつあった。まず番組に一緒に出演させながら教えることと、事務所と連携しTV局内の空きスペースを借りそこへ講師を招きタップ、ジャグラー、日舞など芸事を教わる時間も作ってくれており。今思えば実に手厚くありがたい状況があった。
ここで肝心な事は初期メンバーが経験したフランス座修行も結局「誰に教わるか」が肝要で、当然現在は深見師匠がいるわけではない。閉館と再開を繰り返したフランス座には、その都度募集した素人同然の芸人志望者が、演目こそ昔からあるコントを演るが、殿と昔一緒に演じていたという支配人に見様見真似で教わり再現しただけで“辛うじて引き継がれている”のが実情。前出の「浅草キッド」のように師匠が指導するいわゆる「深見イズム」なぞそこには存在しない。その頃にいたというコントに執心する「うるさ型の客」などとうにいない。
ただし当時の小道具類はまだ残っており一定のノスタルジーはある。殿はこの時点で「ただ舞台に無闇に立てば上達するというものではない」と「質」と「意義」をよくよく考えての反対だったと思う。それにしても殿は忙中であっても、例え最下層のメンバーであっても真摯かつ誠実に時間を割いて答えてくれるのだった。
——しかし大阪百万円はなおも「はい。それでもやはり自分は修行に行きたいです」と食い下がる。「今の、ヒマを持て余している状況よりはマシ」と考えていたのだろう。決意が固いとみるや殿は「そうか。わかった。じゃあ行って来い。俺からあっちには話はつけておくからよ」とその日のうちにポルシェでフランス座に乗り付け、掛け合ってくれた。1986年は夏も終り頃になっていた。そんな彼は軍団の一部からは“ミスター浅草キッド”と呼ばれていた。
修行の現場
木曜の夜、オールナイトニッポン終了後の北の屋集合にはフランス座修行中のメンバーも来て良い事になっていたし、週1程度で大阪百万円とは連絡をとっていたが、ビートたけしに憧れフランス座に身を寄せている進行の先輩連中は、たけし軍団からの新規参入者には内心穏やかではなかったようで、うまく行かない度に「何がたけし軍団だぁ⁉」と罵られている事を打ち明けた。彼らの鬱屈とした内面がわかる。「どうせお前はまた“たけし軍団”とやらに戻れるんだろう。気楽な腰掛けのつもりで来やがって」という嫉妬・やっかみを感じなくもない。果たして殿はそんな状況を察しての反対だったのか。ただ大阪百万円なりにやりがいはあったようで「だからもう辞めたい」という泣き言が彼から出ることは一度もなかった。
追加人員
それから1ヶ月程経ったある日『たけし城』の控室に入った殿はいつになく上機嫌だった。こういう時は大抵ろくな事がない。挨拶を交わすや「おい。大道。お前フランス座に行って箔つけて来ねえか」と俺に水を向けた。
正直、うんざりした。俺はビートたけしの小型になりたいわけじゃない。この時の俺は、偉そうに聞こえるかもしれないが、ビートたけしの生き方をなぞって、威を借り飯を食うようなケチな了見など持ってはいなかった。
——そんな事は殿とも何度も会話をし「ボーヤを上がったら自分で漫才をやります」と伝えて承知してくれていた筈ではないか。
自身の将来についてはビートたけしの「名前」や「箔」に興味がないからそうしたいのだ。失敗しようが、自身が納得出来るように全部自分でやりたいのだ。弟子は師匠のやった通りの事をやるべきで、殿は誰かの名を利用して世に出てきたわけではない。
それは「たけし軍団」を眺める中で、反面教師にした俺なりの結論だったし、全身に満ちた若さゆえの無根拠な自信がそれを後押しさせていたのだった。
特に殿の口から「浅草に行けば箔がつく」なんて言葉は聞きたくなかった。勝手に周囲がそう考えることと、殿本人が口にするのは意味が違う。殿にそんな感覚がある事自体が俺は嫌だった。
げんに、大阪百万円が申し出た際にはフランス座行きを一旦は引き止めていたではないか。
——しかしそれらはぐっと呑み込み「今のボーヤが自分にとって一番勉強になります。よろしければ引き続き勤めさせてください」と本心を返答した。戸惑うように少し間があり「そうか…わかった。じゃあよ大道、バイクのあんちゃん達を呼んで来い」——「バイクのあんちゃん」とは水道橋、玉袋、佐竹、ドラゴン中尾(一文字隼人)、かに道楽落ち太等セピア以降パラパラ集まってきたメンバーで、ニッポン放送や羅生門へ移動の足にスクーターを常用していたことから殿はそう呼んでいた。正メンバーではなく「気の毒だから出入り自由にしている奴ら」だった。現在はダンカンの計らいでたけし城に一般人として参加する機会を得ていた。それでも彼らは殿の周囲にいられる事で充分満足している様子に見えた。
——呼び出され集まった彼らは表情からすると良い知らせと思っていたのだろう。しかし整列をする彼らに、
「おい。お前ら明日から全員フランス座に行ってこい!」と殿の地声が響く。全員顔色が変わり下を向いて押し黙っている。「まさか」といった案配なのだろう
——彼らは結局ただの「ビートたけしファン」であって、殿の周囲にいながら時折かまってもらえば嬉しい程度の意識だった。殿とたけし軍団の関係をTVで傍から眺めているとそれが楽しそうに見えるのだろう。そういう手合は多い。それが急にフランス座行きとなると、殿から離れる事を意味する。本音を言えば別に「芸人」を目指しているワケではない。それに対しての動揺が彼らの表情にはありありと出ている。
返答がない事に業を似やしたのか殿は次に怒気を孕み「おいっ!行くんだよっ!」と選択の余地なき事を念押しするように更に大声でダメ押しした。俺は「うわ、俺と違って問答無用かよ」とまるで彼らを切って捨てるような殿の怒声に驚いた。
さらにそこへ「お前らはな…そうだ“浅草キッドブラザース”だ!ハッハッハ!」と乾いた笑いでトドメを打った。
——後から聞いたが、フランス座に大阪百万円の様子を見に行き「ウチの若いのはどうだい?」と支配人に様子を聞いたところ「いや、真面目で助かってるよ!もっと若いヤツいないの?預かるよ」と請われたらしい。江戸っ子で頼まれると断れない性分の殿は「考えてみるよ」と答え、追加人員として俺を想定しての本日だったらしい。しかし現実的にボーヤとして便利でもあったのか、ともかく本人にその気がないと知るや「もはや誰でもいい」となって今回の事態になったようだ。実際はこんな経緯だったのだが、後にキッドの当人二人は「自分たちから志願して浅草に行った」とウソを語っている。そんなウソに何の意味があるのか。
ちなみに昨年水道橋に直接Twitterで問うと「いや、ちょうどその時俺たちはフランス座に行きたかったんですよ」と「その時期に書いたと称する日記」を根拠に弁明しようとしていたが、もしそれが事実なら、殿にフランス座行きを告げられた時に青い顔で下を向くのではなく「やったー!ありがとうございます!行ってまいります!」ぐらいの返事をしても良かっただろう。まあともかく無意味な嘘はやめたほうがいい。その場にいた10人以上がまるごと証人なのだから。むしろその嘘自体が「不本意だったから自ら行った事にした」と思わせてしまうのだ。
浅草キッドブラザース
一挙に約10名近くがフランス座修行に加わった。実際はたけし城に控室で並んだ者とそれ以降のメンバー全員が対象だったが、中にはそこでフランス座行きを断り独自の活動に進んだ者もいた。
彼らはフランス座に入ったが、支配人の計算違いは既存メンバーの人数を新規預かりメンバーが逆転した事でパワーバランスが崩れた事だ。
尚、俺はフランス座の現場を直接観ていないので、当時そこにいた大阪百万円、佐竹、吉武、一文字から聞いた話を総合する。まず行きたくもないフランス座に行かされた事で頭に来ているのは水道橋。ひと月も経たず大阪百万円から電話が入った。憔悴した様子で「ダメだあいつら」と第一声。聞くと来たときから水道橋は見るからにふてくされ態度が悪い。コントの段取りに関して意見が合わず挙げ句「お前に言われたくないんだよ!」と殴りかかって来たという。また「お前がフランス座に行ったから俺たちも行く羽目になった」といった旨の逆恨みの本音もぶつけられた。そしてフランス座で気に食わない先輩がおり、水道橋が何かとその先輩に反抗し、勢力をかさにいびり倒し辞めさせようとしているなど。まあ、悪態の限りを尽くしているが、要するに幼稚なのだ。
だが、いやしくも殿が間に入り紹介したフランス座だから他人事ではない。殿の名にかけても迷惑行為やトラブルは看過出来ないと判断し、電話をかけ直し水道橋を呼び出し先輩である大阪百万円への態度などを強く叱責・注意をした。
彼がもし俺に対し私怨を抱いたとするとこの頃からだろう。
——翌日殿へも報告を入れた。殿は「そうかそうか、あいつらには礼儀作法を教えてなかったからな」と俺的にはピンとこない鷹揚に感じる返答だった。水道橋は1962年生まれで俺より2 才上の24才。親の躾もあるだろうしアルバイト経験ぐらいはあるだろうから、教わる教わらないではなく社会性も一般常識も礼儀も相応にある筈じゃないのかと思った。そして芸人の世界は年齢ではなくキャリア(入門順)で序列が決まる世界だが、観察していると水道橋はそれを承服しておらず、先輩でかつ目上の人物でなければ対先輩の態度を取らない。目下の俺など先輩とはみなしていない態度だ。「相手を観て態度を変える」要するに権威的ということだ。
そもそもこの世界の人間として基本姿勢が出来ていないとしか言いようがない。
——殿は続けて「あれだな、大阪もこれからやりにくいだろ。ほとぼりが冷めるまで一旦戻ってくるように言っておけ」
この言葉をその日のうちに本人に伝え、彼は帰還した事で、後に起こる「フライデー襲撃事件」へ参加する事にもなる。
この頃のフランス座の内情は、業界から足を洗い現在家業を継いで空調設備業者となった一文字隼人(大栗)から今でも普通に聞ける話だ。
『フライデー襲撃事件』
12月になり『フライデー襲撃事件』が発生。一旦状況が落ちつき殿が四谷サンハイツに遊びに来た。メシを食おうとセピアとラッシャーを引き連れ焼肉屋の羅生門へ向かう道すがら、俺は不意にフランス座のメンバーを思い出した。事件後一ヶ月程度連絡をしてない。そこで殿へ「フランス座のメンバーはどうしましょう?」と尋ねた。俺が言い出さなければ殿は、彼らの事を思い出すこともなかっただろう。ハッキリ言えば深い考えがあって彼らをフランス座に送ったわけでもない。支配人から請われ、一方フリーの若手がいたから体よく充てただけなのだ。
「フランス座の…そうか、そうだったな。うーん。もうやめていいぞって」
「そう言っていいんですか」
「うん。もうやめていいぞって、言ってやれ」
——察するに殿自身、この時点では自分自身の先行きがどうなるかわからなかった。TV局から引き合いがなければそのまま引退なのか、タレント活動継続できるのかどうかさえもわからない状況だった。そんな自分に拘ることなく開放してやった方がいい。と考えたのかもしれない。襲撃に加わったメンバーへは「何をやっても面倒見る」と約束しているので、話は別なのだろう。
大阪百万円はフランス座を離れてもセピアで活動に戻る事ができるが、彼らは本来正のメンバーではない。戻る場所もない。単に解散となるだろう。
あくまで俺はボーヤとして「殿から“もうやめていいぞ”」との言葉を授かりそのまま伝えた。フランス座は辞め、軍団と関係なく自由にしてもいいと伝えた。
ただし彼らがそれをどう受け取ったのかは定かではない。脇で聞いた話では
俺が彼らを辞めさせようと画策し勝手にそんな事を言ったと著書にデタラメを書いたらしい。さしずめ「殿は俺たちにそんな冷たい仕打ちをするはずがない」とでも信じ込んでいたのだろうか。それこそ客観視もないサイコパスだ。
——例えば殿に今確認したとしてもそのやり取りすら忘れているはずだ。つくづく身の程を知るべきだが、当時の彼らは殿にとってそんな、即健忘される程度の存在だったのだ。現在でもキッド二人の本名も知らないのだから。
その後のフランス座
フランス座に入ったメンバーからは次第に離脱が相次いだ。初期には亀頭白之助が渋谷道頓堀劇場へ入るため離脱。玉袋の同級生、かに道楽落ち太も辞めた。
相変わらずフランス座から脱したい思いが強い水道橋と玉袋がその口実としてコンビを組み漫才をはじめた事も耳に入ってきた。
——ようやく殿が番組復帰となり1ヶ月ほど経ったろうか『ひょうきん族』の収録中の合間、スタジオで赤信号の渡辺さんが笑いながら殿に声を掛けてきた。「たけしさん。“浅草キッド”ってたけしさんのとこの子でしょ?」
——これはマズイと思った。俺は知っていたが、彼らは漫才を組んだ事を殿に事前に挨拶も報告もしていない。殿はそういった折り目・礼儀には極めて厳しい。以前も末席ながら抜けて 1年以上経つ、独楽回し芸人に転じたクロマニヨン吉川でさえも「相棒の紹介もされてねえし、あんな野郎知らねえ!」と激怒していた。末席の弟子は「俺の事などどうせ気にしていないだろう」と考え、必要な殿への報告を怠りがちだが、殿はそこを注視している。しかも彼らはもらったグループ名“浅草キッドブラザース”から切り出してこれも無断であろうことか“浅草キッド”というコンビ名にしていた。
——このフレーズは殿が自己の半生に、尊敬してやまない美空ひばりさんの『東京キッド』に感化されて考えた、思いがこもった大切なものだ。同名の曲もアルバムも作って、後には同名の自叙伝も出したくらいで、その心を知るなら弟子風情が無断で使っていいはずがない。軍団なら良識的に誰でもそんな事はわかる。セピアでさえさすがにわかる。俺はよく水道橋の事を「天然でアホ」呼ばわりするが、こういうところがまさに殿の思いや心中を知らぬアホで無神経と評されるところなのだ。
本来正規の入門者なら軍団からあれこれ折りに触れ礼儀作法を教わる。これは軍団が過去殿から薫陶されて来たもので、無自覚ながらも一門の文化伝承なのだが、彼らは早々とフランス座に送り込まれた事でその礼儀作法の伝承もなされておらず、軍団からみても果てしなく「他人」に近い存在であった。
——渡辺さんは渋谷のライブハウス『ラママ』で『新人コント大会』を主催している。そこへキッドが応募して来た。渡辺さんは後に「浅草キッドです。ビートたけしの弟子です」と挨拶してきた。だから「ああ、特別扱いしろってことなんだなと思った」と述懐している。
——殿は渡辺さんから“浅草キッド”というコンビ名を耳にしたとたんに顔色がさっと変わり、それからは正面にいる渡辺さんを見ることなくその横にいる俺の顔しか視なくなった。殿は完全に怒っている。恐らくろくに渡辺さんの話も耳に入っていないだろう。
収録が終わり帰路につく。車に乗り込むと殿は押し黙っている。控室に戻り帰り支度をしている時からずっとだった。走り出した車の助手席に座る俺も背後から猛烈な殺気を感じた。恐ろしい。完全に怒っている。走り出して10分も経過した頃だろうか。やっと殿が口を開く
「お前。。。知ってたのか?」
それが何を言わんとしているかは明白だ。
「はい。報告せず申し訳ございませんでした」
そこからたっぷり1分ほど経ってから殿は
「そうか」とだけため息まじりに言った。
——2人が報告に来たのはそれからゆうに1ヶ月も経った頃だった。しかも礼儀を知らぬ彼らは、予め連絡を入れた上で改まって控室でではなく、突然スタジオへ不躾に入ってきた。俺に一度連絡を入れる事に面白くない感情があるのだろう。
撮りの合間に立ち話で水道橋は、現在漫才をやっている事を報告した。そして殿は「コンビ名はどうした?」と知っていながらも敢えて尋ねた。水道橋は臆面もなく「浅草キッドという名前でやってます」といい殿は「そうか」とだけ返した。やりとりを横で観ていた俺は冷や汗だった。
——殿は江戸っ子の気風の良さで頼まれればなんでも気前よくホイホイ人にあげてしまうところがある。一点もので高額なFICCEのニットをファンにせがまれるままあげてしまった事もあるし、今回も自分の強い思い入れはあるにしても既に名乗って活動を始めている手前、彼らに慮り「だめだ。返せ」とは言えないのだろう。そういった殿の心情はよく分かる。しかし問題はあくまでもキッド側で「ダメと言われなかった」事で「許可を得た」つもりいるのだとしたら、外国で荷物が盗まれ「置いてあるからもらっただけだ」と言い訳するガキとそう変わらない。これは要するに師匠との関係、対する誠意・誠実、信義の問題なのだ。
フランス座から自ら帰還志願
浅草キッドブラザースがフランス座に行ってから半年頃のタイミングで水道橋を先頭にまたしてもフランス座のメンバーを引き連れ事前連絡もなく日本テレビの控室に押しかけてきた。「今いいですか?」と尋ねた上で控室に入ろうとするので、先にドアを開け殿にひと言繋いで控室に招き入れた。
——要件を要約すると支配人が劇場の「フランス座」の他に「スナックフランス座」を経営しており「フランス座」の仕事を終えた後、半強制的にスナックの方でも働かせられ、しかも本来上乗せされるはずの賃金も支払われておらず、都合よくこき使われている惨状を報告し「これ以上続けられません。なんとかなりませんか」と告げた。
その報告を聞き唖然とした殿は済まなそうに「そんな事になってるとは知らなかった。なんか、お前ら悪かったな」「話はわかった。俺から言っておくからもう明日から行かなくていいぞ」この時水道橋の目が光った。
——殿からの命令で「行け」と言われたフランス座の修行は彼らの側から「もうアガりたい」とは筋目からして言えない。しかし今回「話が違う」という言い分でアガらせてもらえると踏んだのだろう。
——実際気の毒な事態であったことは確かだ。に、してもフランス座を自分達から辞めたいと申し出たのが厳然とした事実だ。
この時、吉武も含めフランス座から全員が引き上げた。延べでわずか半年ほどの、修行とも言えない短い期間だった。そしてこの殿の「申し訳ない」という気持ちが「お前ら漫才やってんだろ。高田文夫に頼んでおくからよ」と高田文夫に託す事になり自らが構成に関わる「テレビ演芸」など、これまで積み上がった殿への恩返し時とばかりに持てるコネクションをフルに使い彼らを後押しした(春一番談)
こういった経緯の中で「売ってやれ」と殿から指示が出たオフィス北野側が彼らに対し「ビートたけしが名付けたコンビ」というフレーズがどこからか出てきて、殿も公にそれを否定しないという奇妙な状況が出来上がっていた。しかしそんな事実はないし、殿が芸を指導した事実もボーヤ経験すらないにも関わらず「初めての漫才弟子」というフレーズも出て来た。この辺りでまるで「ツービートの後継者」であるかのような雰囲気も醸成された——しかし現実の界隈では同時期、太田プロにスカウトされた爆笑問題こそが「第二のツービート」の名を欲しいままにしていたのだった。
浅草キッドは質を求める厳しい一部のファン達からは「なぜこんなのをまるで後継者扱いで、いい名前まで付けて売ろうとしているのか」と「意図がわからない」とばかりに反感を生み出してもいた。界隈では事務所の押し出しを額面通り受け取り、彼らを扱った。だからテリー伊藤(伊藤輝夫)など以前殿と仕事で関わりのあった人物のみが彼らを使う事が多かった。
ご挨拶訪問
1988年の夏に軍団を離れ別活動をはじめた俺は菊池さんの「定期的に顔を出して忘れられないようにしたほうがいいぞ」との言葉通り約1年後に「スーパージョッキー」へ録りの合間に顔を出した。
殿に挨拶をし控室で近況を話しながら流れで「浅草キッドはどうですか?」と尋ねた。殿は「あいつら?バイクで自動車にぶつかっただけで、あとはなーんにもねえよ」と取り付く島もない。
「浅草キッドのままでやってるんですか?」と意図を込め問うと。「ったくどいつもこいつもよ」とやれやれといった風のどこか投げやりで、どこの誰に向けたかわからないような嘆きの返事だった。やはり1年経っても快く許可を出したものではないんだなと感じた。
ひとつの時代の終焉
今回このエントリを記したのは森厳な師弟の関係に「やったもん勝ち」の考えは馴染まないと思ったからだ。なぜなら多くの者が「ビートたけしから名付けられたコンビ名」と誤解している。今回軍団にも確認したが彼らもその事実を知らなかった。「まさか」の思いがあるのだろう、当然だ。傍から観ると「大切なフレーズをコンビ名に授ける」ならば師匠は相当に期待をし思いを託したと印象を持つだろう。
それが「勝手に名前を使ったが、怒られないのでそのまま使ってる」のが実情となると、その弟子側は居直り強盗さながら。師に対する違背行為の香りすらある。ハッキリ『不誠実』と言える。今や水道橋の姿勢はそれにとどまらず。殿の名前を自らの商売に平気で活用し続けT.Nゴンサイドから差止め通告を受けている。これらの態度を俺は殿の部屋に無断で侵入し好き勝手にモノを盗み出す盗賊のように感じている。
本来俺のように末席の人間ではなく、それまで苦楽をともにした時間の長さも違う軍団の兄さん連中から発信があってもいいようなものだが、殿が自分から言わない事は自分たちも余計な口を挟まない姿勢を守っているのだろうか。ただし現在たけし軍団と浅草キッドは事実上殿と関係を絶たれている。双方のHPトップページにそれぞれわざわざ「無関係」を表明する断りを入れている。TAP側は「書かされた」のだろう。ここまでするのならば『たけし軍団』という名乗りもじきに返上させられかねない気もするし、ライセンス管理の視点からみるならまさに『浅草キッド』なぞ、早晩取り上げられかねない予感もする。
ただし現在TAPには『浅草キッド』という漫才コンビの所属はない。玉袋筋太郎がオフィス北野からTAP移行時に拒否し飛び出し、個人事務所でフリーとして活動している。尚、玉袋はこれ以降プロフに「浅草キッド」の記述は一切しておらず「ピン芸人」を標榜している。彼らが公式な解散表明をしようがしまいが業界的には事務所は別であって「存在しないコンビ」になっている。これについては今年の7月に沈黙を破りTwitterで玉袋本人から思わせぶりな言及がなされ、それに続いて、水道橋には容赦もない発言も出てきている。改めてこの辺の追加発信がまたあるのかもしれない。
——以上、これらの顛末をここに記した。
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