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【連載小説】ヤクルトレディーは濡れた衣を着る②

好藤花衣 著

「で、事件当日あなたはどこで何を?」

 暗鬱な取調室に刑事の声が響く。この空間と相まって刑事の声もより一層冷たく感じる。ヨンシルの取り調べを担当しているのはソウル北警察署のチャ刑事だ。元々なのか、彼は誰が見ても怖く感じる風貌だ。私はチャ刑事の冷たく鋭い声に思わずうつむく。手首に掛かった手錠が冷たい。

 「わ、わたしは事件当日、回基(フェギ)でヤクルトの販売をしてました。今日は高麗大学のほうで大きなイベントがあると聞いていたのでそこで販売をしたら退勤する予定でした」

 取り調べ室が寒いうえにチャ刑事の鋭い視線が刺さり、声が震える。チャ刑事は私の話を聞きながら隣に立っているキム刑事を見た。キム刑事はチャ刑事の部下なのだろう。すぐにスマホを取り出して検索し始める。

 「今、調べてみましたが確かに今日は高麗大学のほうで大きなイベントが予定されているようです。なんでも有名なスターが来るのだとか」

 キム刑事が私の証言に補足したが、私は有名人が来るほどの大きなイベントだということは今ここで初めて知った。チャ刑事は私の証言に偽りがないことが面白くないのか怖い顔をさらにしかめている。

「では、事件当日あなたが出勤したことを確かに証明できるものはありますか。人でも構いませんが」

 私は必死に思い出した。そうだ。出勤カードをかざしたから出勤履歴は残っているはず!あと近所に住むクムジャにも会ったじゃないか!

 「しゅ、出勤の証明は出勤カードに残っていると思います。私の会社ではいつも出勤したときに出勤カードをかざすのが決まりなので。会社に電話してもらえれば履歴を照会してもらえるはずです」

 チャ刑事がキム刑事に確認しろと言わんばかりに目くばせした。キム刑事はこくっとうなずき取調室を後にしようとした。

 「あ、あとっ!」

 私の声で続きがあると思ったのかキム刑事はドアの前で立ち止まる。

「証明できる人もいます。オク・クムジャという私の近所に住む人です。事件当日、ヤクルトの配達をしていたら声をかけてくれて。少し立ち話をしました。彼女の住所は確か回基2丁目4-6だった気がします。確かではないですが」

 「証明できる人はその人だけでよろしいですか。他に証明できる人は?」

 「いません」

 声が枯れ、語尾までチャ刑事に聞こえたかどうかは不明だが、チャ刑事は2つ確認しろとキム刑事に目くばせした。キム刑事は駆け足で取調室を出る。

 「今、調査してもらっている間に今後のお話をしましょう。今回の事件はひき逃げ事件ということで調査しています。被害者が意識を取り戻したことが幸いでした。ですが被害者側はヨンシルさんが轢いたのを確かに見たとおっしゃっています。もし、加害者が事実を認めないようであれば裁判するつもりだそうです。事実を認めれば示談金で解決してくださるようですが。キム・ヨンシルさん。あなたはそれでも無実を主張されますか」

 私は愕然とした。倒れているおばあさんを救助しただけなのに罪に問われるなんて。私が轢いた証拠なんてどこにあるのだろうか。でも一方でこうも考えた。示談金で早く解決してしまったほうが後々楽なんじゃないだろうか。たとえ私が無実であっても。

 「ち、ちなみに被害者は示談金はいくら望んでいらっしゃるのでしょうか」

 待ってましたとばかりにチャ刑事はにやっとする。

 「仮に今回はひき逃げですので示談金となると1500万はくだらないでしょう。なにせ傷を負わせたのですからね。ちなみに被害者もそれ相当の額を望んでいらっしゃいます」

 「そ、そんな!罪もない人に勝手に罪を被せておいて1500万払えだなんて!図々しいにもほどがあります!それにそんな大金は出せません!働きながら暮らしていくだけでもいっぱいいっぱいなのに!裁判なんてもってのほかです!」

 私は怒りに満ちていたあまり、語気を強めた。自分でもこんなに大きな声を出せるということが驚きだった。怒りに満ちた私とは裏腹にチャ刑事はいたって冷静だ。

 「裁判のことなら心配に及びません。失礼ながらあなたの身元調査しているときに年収も拝見させて頂きました。年収がこのくらい少ないとなると弁護士を雇い裁判を起こすことも難しいでしょう。そのため、こちらで国選弁護人を紹介することも出来ますが、いかがでしょう?」

 チャ刑事の声は私に対する嘲笑そのものだった。何よりも「年収がこのくらい少ないとなると」という言葉にカチンときた。年収が少ないですって?就職難のせいで就業人口が少ないこの韓国で仕事についているだけでも立派よ!こっちは汗水垂らしながら働くのがどれだけ大変なことか!!国民の税金をもらいながら優雅に暮らしている無能な国家公務員とは違うわよ!でも年収が少ないせいで弁護士さえ雇うお金がないのは事実。私は何としてでも無実を証明したい!そして無実を証明してもらえるためには国選弁護人が必要だ。

 「お、お願いします」

 屈辱と悔しさと情けなさ。いろいろな感情が混ざり、声が震えた。

 「わかりました。こういう類の事件に詳しい弁護士がいますのでその方を紹介しましょう」

 間もなくして私の事件当日の動向を調査していたキム刑事が入ってきた。

 「調査の結果ですが、ヨンシルさんの証言に偽りはないかと思われます。ヨンシルさんのご近所のオク・クムジャさんに連絡をとったところ確かに事件当日、キム・ヨンシルさんと会ったそうです。そしてヨンシルさんには怪しい動きは一切見られなかったと言っていました。また、ヨンシルさんの勤務先にも確認してもらったところ確かに当日は出勤していました」

 キム刑事の報告にチャ刑事は顔をしかめた。でも、クムジャさんが私と話していたことを証明してくれて助かった。勤務先にも感謝しなければならない。

「では、キム・ヨンシルさん側では国選弁護人を紹介することにしましょう。明日にでもここに来てもらえるように手配します。裁判の手続きや詳しいことは国選弁護士に聞いてください」

 チャ刑事はそう言って取調室を後にした。続いてキム刑事もチャ刑事の後を追う。

 長い取り調べが終わり自分の独房に戻った。自分の足音と手錠の金属音が刑務所の中を虚しく響き渡った。



翌日、独房から入る一筋の光が私の顔を照らし私は目が覚めた。あっという間に朝だ。昨日の取り調べでチャ刑事に侮辱されたこと、でもチャ刑事を頼るしかなかったことにプライドが傷つき、悔しさで寝床を涙で濡らした。取り調べで精神が疲弊していたのか、どうやら泣きながら眠ってしまったようだ。瞼がいつもよりも重い。多分、今、鏡でみたら私の眼は相当腫れているのだろう。今、何時だろう。近くにいる見張りの警察官に尋ねる。すると6時だと教えてくれた。2時間しか寝ていなかったようだ。私はさっさと身支度を整え朝の号令に出た。他の受刑者たちも眠い目をこすりながらぞろぞろと出てくる。朝の冷えて澄み渡った空気が目の腫れを冷やしてくれる。朝の全体掃除と朝食が終わり、独房の中を簡単に掃除していると警官がやってきた。

 「キム・ヨンシル。今日の9時に国選弁護人と面会だ。それまで身支度を整えておくように」

 冷たくそう言い放つと警官はさっさと出て行ってしまった。ついに来るんだ。国選弁護人が。

 推理ドラマで見たり聞いたりしたことがあったが、まさか自分が世話になるとは。私の心中は早く弁護士に無実を証明してもらって早くこの事件を終えてしまいたい気持ちと自分が国選弁護人に頼るという情けなさが複雑に渦巻いていた。でも、国選弁護人に無実を主張して、国選弁護人が裁判でそれを証言してくれればこの騒動は終わるんだ。そう思うと1時間、いや1分でも早く来てほしかった。


 あっという間に9時になったのか、迎えに来た見張りの警察官が「面会だ」と冷たく言い放ち私を面会室に連れて行った。緊張しているせいかドアノブを握る手も震えている。ドアをそっと開けて中に入ると反対側には黒いスーツに四角の眼鏡を掛け、丁寧に整髪された若い弁護士が立っていた。私は弁護人の顔を見ると同時に息を呑んだ。私が動揺しているのに気づいていないのか、弁護人が自己紹介し始める。

 

 「初めまして。今回、キム・ヨンシルさんの国選弁護人を務めます、キム・ヨンホと申します。よろしくお願いいたします」


違う。「初めまして」じゃない。


 キム・ヨンホ


私が30年前に捨てた実の子供が今、目の前にいる。


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