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ロゴスと感覚

ヘルマン・ヘッセの本を最近何年かぶりに何冊か読む機会があった。

「デミアン」「クヌルプ」「知と愛」「荒野のおおかみ」と読んだ後に、ふと頭に浮かんできたのが「ロゴス(言葉、論理)」と「感覚」という二つのテーマだった。

ロゴスで凝り固まった人物が若く美しい感性で満たされた人物に出会うことにより、その凝り固まった世界の殻を破ることができ絶望から救われるような構図があれば、感覚、感性に長けた人物とロゴスに長けた人物が相互に助け合い存在することもある。
ヘッセ自身の中に両方の性質が強く存在していたのだと思う。

個人的に私もロゴス的生き方の限界を感じた時に「感覚」に救われた経験がある。

高校生の頃、テストの順位や偏差値などで良し悪しが決まる価値観の中で、大学受験やその先の就職などの未来を思い浮かべた時、ある時一気に先が読めてしまうような感覚になり、「人生なんてこんなものか」とか「こんなつまらない人生を生きなきゃいけないのか」みたいに静かにひっそりと絶望したことがある。

学問や言葉の羅列によってロジックを組み立て、頭で認識した「良いとされる物事」に沿って生きていると、こうして突然何とも言えない絶望の淵に立たされるのだ。

当時、その「先が読める人生」から何とか脱したいという思いで決めたことが、美大受験であった。そして実技試験用にデッサンを学ぶことになり、その行為自体が思いがけず、世界の見え方を180度変えるような、まさに私にとってのパラダイムシフトになった。

デッサンの答えはテキストの後ろに載っていない。
それは、自分が描いているものが自分が見ているものに近づいているかどうか、印象が似ているかどうか自分の感覚に何度も聞きながら進めていく作業であり、この感覚的構築作業によって何かを成し遂げた時に感じる達成感は、学問やマニュアル的な技術の習得の際に得られるそれとは全く違うものであった。
当時、見えていたように感じた人生の青写真的かたちは可能性の光で一気に拡張し、見えなくなり、その代わりに白く輝く無限のキャンバスになったように感じた。

その後も、考えが凝り固まって、また人生がつまらなくなり、思考ではそこから脱することができない時には、理屈ではない「すごい!」とか「かっこいい!」とか子供のように正直に感動し、それを軸に行動をする人を見て、私はまた自分の素直な感覚に戻る重要性を思い出し、それによって道が開け、救われることがあった。

しかし、感覚は諸刃の剣でもある。
それに特化しすぎて快楽に溺れ、破滅してしまうこともあるし、感覚は苦しみや痛みにも同様に開かれているため、それらを感じすぎてしまうこともある。
そして感覚だけだと苦痛は苦痛でしかないし、主観的で刹那的であるため、感覚で行き詰った場合、そこから抜け出すには客観的で構築的なロゴスの助けが必要になる。
その苦痛を客観的に観察し、その意味を整理し、それを認識することによってそれらの克服に近づいていける。

もともと感性が発達し、過敏すぎるがゆえに苦痛も受信しすぎてしまい、それを克服するためにロゴスがまた発達し、ロゴスの鎧を纏って孤立してしまう人もいると思う。徹底的なロゴス的人物は孤独であることが多いようだ。

ロゴスと感覚は相互に補い合い、助け合う性質であるが、ヘッセの作品を読んでいると最終的に感覚的人物はロゴス的人物より人生における「真理」のようなものにより近づけているように思う。しかしそれは「感覚的」であるがゆえにやはり「ロゴス」で伝達し理解できるものではないようで、ロゴス的人物を置き去りにする。

「知と愛」で感覚的人生を生ききったゴルトムントがロゴス的人生を生きている友人のナルチスに「君はどうやって死ぬつもりか」と尋ねるところは強烈に印象に残っている。


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