見出し画像

虹色の魚と黄金の花の木ー内向性の豊饒

ブログを始めたら絶対に書き残しておきたいと思っていたおとぎ話がある。

それは「虹色の魚と黄金の花をもつ木」という南半球に浮かぶニューヘブリディーズ諸島に伝わるおとぎ話だ。
これはMARIE-CLAIRE DOLGHIN-LOYERというフランスのユング派学者が 「LES CONCEPTS JUNGIENS (ユング派のコンセプト)」(未邦訳)という本の中で心理学的解説とともに紹介している。

このお話には、内向的性格からいかに自己の開眼や内的豊饒へ向かうかに関してとても興味深いイメージが入っている。
それは受け入れがたい現実を受け入れる、という苦痛を伴う過程でもある。
私自身、これまで愛着を持つ対象から離れなければいけない心の苦痛に立ち向かう時、この話を幾度も思い出してきた。

虹色の魚と黄金の花の木
南の海のある島に身寄りのない7人の姉妹たちが小屋を造って住んでいた。
長女がみんなの指揮をとり、ほかの6人の妹たちが仕事を分担していた。
家の掃除をするもの、水汲みをするもの、食事を作るもの、衣類を織るもの、庭を管理するものがおり、一番下の妹の仕事は火にくべる木を調達することであった。それは森に木を探しに行き、重い木を背負って帰ってくるひどく骨の折れる仕事であった。
ある日末っ子の少女は木を探しに森に行ったまま、疲れて川の近くで休み、そのまま泳ぐことにした。
すると近くに美しい光を反射させて虹色の魚が一匹泳いでいるのを見つける。彼女はその魚を友達にしようと捕まえ、洞窟近くの滝つぼで飼うことにした。
彼女はお姉さんたちには内緒で毎日自分の食事の半分を魚に持ってきてはあげていた。
えさをもらって魚はどんどん太り大きくなっていくが、少女は逆に目に見えてやせ衰えていった。
姉たちは少女の変化に気づくと心配し、一人が少女のあとをつけ森へ行くと、少女が魚に食べ物をあげているのを見つける。
姉たちは少女が木を集めている間にその丸々と太ったおいしそうなお魚を捕まえ、おいしいスープにして食べてしまう。
次の日、少女が魚に会いに行くと魚はいない。
少女は魚が死んでいるとは思わず、ただ悲しい気持ちで家に帰るとすぐ火の近くで眠りについた。
このまま少女は何日間も眠り続ける。
ある日、いつもより大きいニワトリの鳴き声で少女は目を覚ます。
その鳴き声が少女にあることを知らせた。
それは魚がお姉さんたちに捕まえられ、スープとして食べられ、その骨が暖炉の灰の中に隠されている、ということであった。
少女が灰の中を探すとたしかに魚の骨が見つかった。
彼女はそれを湖の近くに埋めて、願いを込めて歌を歌った。
「ここに大きな大きな木が生えて、その木の葉っぱが海を越えて飛んでいき、どこかの王様に拾われますように」
こうして少女はもう自分の食事を魚に分け与えることなく元通りの元気な体つきになっていったので、お姉さんたちはもう少女のことを心配することはなくなっていたが、少女がまだ毎日湖の近くに行っていることは知らないでいた。
その頃、湖の近くの魚を埋めたところからは見たこともないようなすばらしい木が生えていた。
それは鉄の幹を持ち、絹の葉っぱ、黄金の花とダイアモンドの実がなる木であった。
ある夜風が一枚の葉を隣の島の海岸に運ぶと、その島の王のお付きがそれを見つけ、王のもとに届けた。感激した王はその葉を持つ木を見つけようと、お付きを連れて木を探しに出かけることにした。
まず最初に王の一行がやってきたのが7人姉妹のいる島であった。
そして最初に出会った島民の男の子に木のことを尋ねると、その男の子は木のことは知らなかったが、代わりに近くに住む7人姉妹が何か知っているかもしれない、と王に伝えた。
王は早速姉妹たちを呼び寄せるが、やってきた6人の姉たちは木について何も知らなかった。
王は一人足りないことに気づき、「あと一人はどこにいるのか」と尋ねると、長女が少し気分を害し、「家にいますが、いつも半分眠っていて木を集めるしか能がありません」と答えた。
王は「もしも眠っているならばきっと夢を見ているのであろう、私はその少女と話してみたい」と言い、一行が少女に会いに行き葉っぱを見せると、少女は滝つぼの近くの木のもとへみんなを案内した。
木が少女にお辞儀をするように揺れると、少女はいくつかの花と実を摘み王に捧げた。王は感激し、「こんなに素晴らしい木を従える女性は、もっとも偉大な王の妻にふさわしい」と言い、少女を自分の島へ連れて行き妻として迎えた。そして少女と王はそこでいつまでも幸せに暮らした。
一方姉たちはいつまでも同じ島の山小屋で暮らした。

画像1

この主人公の少女にはまず愛情を与えてくれる両親の存在が欠如していて、代わりに7人姉妹という小さなコミュニティーで自分の役割をもらい、それをこなすことで生きている。

つまり自己の存在そのものを肯定してくれるような無条件の愛情を受けておらず、タスクをこなす、という有用性においてでしか自身の存在価値を見出せない状況にある。

少女が出会った虹色に輝く魚は可能性の煌めきそのもので、少女はそこに友情を見出すことで、有用性以上の重要なものと繋がろうとする。

しかし、魚に自らの食事の半分を与えていく行為は少女を衰弱させていく。少女は一向に現実を見ようとせず、姉たちにも魚の存在を内緒にしている。
現実を見ずに内側にこもってしまう性質の危険性が少女の衰弱としてここで示唆されているが、これを救うのが現実的思考の姉たちの行為なのである。姉たちは魚を見て、「可能性の煌めき」などとは思わない。
魚も有用性で見ればそれは食べ物であり、姉たちは嬉々としてそれをスープにし、食べてしまうのだ。

少女にとってその魚の存在が大事すぎたために、少女はその魚との関係性の結論が魚との別れか、自らの死でしかない、という現実を見ようとしなかったが、無意識下ではそれに気づいていた。
しかし、その時の少女にとっては、その大事な魚との別れを認めることは生きていけないほどつらいことであった。

少女が魚を失ったときに深い眠りについたのは、自分の意識で抑圧して認識しようとしなかった現実が無意識から上がって来たときのショックによって一種の仮死状態になっていたものと思われる。
しかし、その現実を認識しようと格闘し、ニワトリの言葉で目覚めた時、少女の意識は次の段階を迎えていた。

ニワトリの言葉がわかるようになっていた、という状態において少女は魚との決定的な別れを既に認識している。
少女は魚の骨を探し出し、それを土に埋めて弔う。

この弔う、という行為は、認識を抑圧している状態と大きく異なっている。後者は、精神的な混乱をおこしうる物事を無視し、人工的な精神の平和状態を保とうとするが、無意識下では嘆きが壊滅的状態を引き起こしていることも無視している。

一方少女が行った行為は大事な存在との別れをしっかりと認識し、それをまた新たな生のサイクルに帰す行為であり、その存在への執着からの解放につながる行為でもある。

そしてここで少女は願いを込めた歌を歌う。
それは「ここに大きな木が生えてその葉っぱが別の島の王様に拾われますように」という、少女だけの秘密の愛着の対象であった魚への執着から、外の世界と未来に向けた願いに、つまり内なる世界から外の世界へと矢印の転換が起こっている。

そしてその結果、そこから素晴らしい木が生えてくる。

魚のように虹色のスペクトルを放つダイヤモンドの実をならす木である。
その木は少女をより開かれた世界へと繋げてくれる。

木は地下に根を張ってそこから養分を吸い上げ地上で成長していく。

この木の根っこにあるのは他でもないあの魚なのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?