見出し画像

小さな雫が煌めいて

黒い雪が世界を覆っている。

黒い雪は大地を覆い、海を埋め、空を隠した。

かつて、黒い雪はとある地域の片田舎で起こった僅かな異常現象だったらしい。初めはなんてことない少し不思議な現象だったものがいつの間にか拡大し、気づいたときには世界を覆ってしまっていた。

黒い雪は今でも積雪を続けている。止むことを知らず、緩やかに世界を埋め尽くしていく。

暗い空から一定に降り続ける雪によって青と緑に彩られていた世界はすっかり黒に染め上げられてしまった。

黒い雪を取り除く方法は未だ発見されておらず、世界は静かな終わりを受け入れようとしていた。

 ①

黒い雪の上を一人の人間が歩いている。

白い外套に身を包んだ人間は身の丈ほどもありそうな荷袋を背負い、雪の上を一歩一歩踏みしめるように進んでいく。辺りは黒一色で、つけてきた目印以外に何一つ信用できない。

足元の目印を一つ見つけるたびに安心する。今自分は正しい道を進んでいるのだと。黒い雪で覆われた大地は油断を許さない。一歩先には空洞がぽっかりと空いているかもしれないのだから。

行きにつけた目印は電柱「だったもの」に括り付けられていた。地域によって多少の差異はあるだろうが、膝下くらいに位置する目印が黒い雪がどれだけ積もっているのかを嫌でも想像させる。

黒い雪はしんしんと降り積もるのみで人体にはほとんど影響を及ぼさないといわれている。だがその人間は荷袋と周囲を確認するためのライト、雪を踏みしめるためのアイゼンのほかに酸素ボンベのような筒とガスマスクを装備していた。

「───────!!」

強い風が吹き、人間は身構えると同時に装備に脱落がないか丁寧に確認する。

風とともに黒い雪が吹き荒れる現象、通称”黒吹雪くろふぶき”が人間を襲う。

人間の生命はこの現象に脅かされている。黒い雪を風に乗せる、それだけの現象。だが、黒い雪が人体に入り込むだけで内蔵の機能は簡単に停止し、無くなることのない雪は景色をえぐりとってしまう。

雪を吸い込まないために、装備の脱落はまさに命取りといえる。”黒吹雪”の中は息を吸うことも視界の確保もままならないため、人間が居住スペースから出る際に酸素とガスマスクの装備は必須になってしまった。

”黒吹雪”がおさまり、じっと耐えていた人間は再び歩き始める。

降り続ける黒い雪と時折起こる”黒吹雪”。それに対して世界は決定打を打ち出せないでいた。そして終わりを受け入れて、すべてが間もなく雪に覆われようとしていた。

だがこの人間はそれに抗おうとしていた。そのための行軍であり、そのための武器を持ち帰ろうとしていた─────。

 ②

「ダメだな。失敗だろう」

「また失敗!?あんなに自信ありげに出てったのに!?」

歩いていた人間───ハクマはエアシャワー室から出ているなりそう言った。

ハクマはすらりとした手足と、端正な顔立ちをしている。一昔前なら言い寄ってくる者も大勢いただろうが、今となっては一緒に住む同居人しかその美貌を拝むことはできない。

その同居人───シズクは未だ幼さの残る顔立ちだ。ハクマの言葉に頬を膨らませているが、その表情すら愛らしい年ごろである。

「出る時にもいったはずだが?もしかしたら何の成果も得られないかもしれないと」

対してハクマは眉一つ動かさずにシズクの言葉を受け流す。

ハクマが持ち帰ってきた荷袋には黒い雪に対抗するための武器が入っていた。雪を溶かすための塩化カルシウムを始めとしたさまざまな溶解剤。バーナーに掃除機までもを担いで運んできたのだが、何一つとして対抗打とはならなかった。

無用の長物むようのちょうぶつと化したそれらを他の部屋へと置いてきて、ハクマは一つ息をつく。

「ハクマ、疲れてる」

「そりゃ疲れるさ。あれだけたくさんの荷物を運んできて、それでいて成果なしなんだから」

心配そうにハクマの顔を下から覗き込むシズク。それを見下ろしながらハクマは表情を変えずにいる。

「確かに疲れたし、残念だったが、この失敗は次に繋げるさ。もしかしたらそのうち他の人間に会えるかもしれないしな」

そう言うとハクマはシズクの頭を無造作に撫でる。わしゃわしゃと撫でられるシズクも嬉しそうに、優しい手のなすがままになっていた。

「失敗したのは残念だけど、ボクはハクマがちゃんと帰って来てくれればそれでいいかな」

「どうだろうな」

「いいんだよ!本当にそれで」

笑顔を見せてくれるシズクとの生活は悪くない。ハクマはそう思っているし、シズクの屈託のない笑顔を見るとより一層そう思える。成果を上げられなかったことすら良しとしてくれることこそ、ハクマがシズクに求めているものなのかもしれない。

「そういえば、モモの缶詰を見つけたはずだ。荷袋の中だから後で食べようか」

「ホント!?今食べようよ!」

ハクマの言葉に目を輝かせて荷袋をひっくり返そうとするシズク。それを止めようとしながらハクマは表に出さないながらもやはり、この世界での温かさを実感していた。

表情を一切変えずに淡々と過ごすハクマと、表情豊かに天真爛漫な小さなシズク。

いつのまにか始まっていた、接点など無かったはずのふたりの生活は、皮肉にも黒い雪が降り続いたからこそ交わったのだ。

 ③

ハクマはかつて、空を見上げることが好きなだけの学生だった。

幼いころに見た小さく、それでいて強く煌めく星が忘れられずに気が付くといつも空を見上げていた。

高校生までを無難に過ごし、空を見上げていたいという理由でとある大学の天文学科へと進学した。

美しい美貌と優れた知性を兼ね備えるハクマのもとに初めは多くの人が集まる。だがハクマの興味は空を見上げることにしかないと分かると、人々はそのうち離れていった。

大学での研究室ではいつか来ると予測されている巨大地震も火山噴火も隕石の対策が熱心に行われていた。だがそれもハクマにとってはどうでも良かった。

ハクマは、ただもう一度星を目にしたくて、それだけを考えて空を見上げていた。

黒い雪はなんてことなく過ぎていく日常の中で発生していた。

それはハクマがいつも通りに空を見上げているうちに、いつのまにかやって来ていた。

地震でも火山でも隕石でもない、全く未知の現象。

空はもう、見えなくなっていた。

そこから世界は瞬く間に変化していった。黒い雪によって交通はマヒし、”黒吹雪”が人間を建物を、自然すらも削りとっていく。

周囲の環境が著しく変化していく中、ハクマはただ空を見上げることが出来なくなったことだけを嘆いていた。同時に自分がこれからどのように生きていくのかを見失っていた。

世界の危機的状況に周りはハクマの知性を求め、それに応えようとした。人々が安心を求め、それを助けるためにできる限り世界を駆け回った。

黒い雪を溶かし、世界を救うための研究や実験を何度行ったかわからない。独りで実験を行うことも、誰かと協力することもあった。

それでもハクマに世界を救うことなどできなかった。ハクマ自身にも半ば分かっていたことだった。いままで周りに興味を持っていなかった自分が何かを救うことなどできないと。

緩やかに滅んでいく世界の中、黒く染まった空の下でいつの間にか付けることに慣れていたガスマスクを外す。

────もういいか。

ハクマは独りで終わろうとしていた。

 *

シズクとの出会いは偶然だった。

”黒吹雪”に追われて逃げ込んだ先のショッピングモールでハクマは呼吸を整える。外套に付いた雪を払いながらモールの中へ入っていくと、そこは本来3階だったようだ。案内図を見るに屋外駐車場から入ってくる所が現在地なのだろう。

まず必要なのは食料、次いで防寒装備だ。空も黒く覆われて太陽の光が届かずに寒冷化が進む世界では、防寒対策も重要になってくる。

独りなのに命を諦めることなく生きるための手段を考えている自分に気付き、ハクマは自嘲するように笑う。結局ハクマは何故生きているのか分からないまま、成り行きのままでこれまで生きていた。

ひとまず1階の食料品売り場を目指そうとしたその時、ハクマの耳に僅かな物音が聞こえた。ページをめくった音と小さなしわぶき。

普段のハクマなら物音など気にせずに目的の為に行動するはずだ。この時勢でショッピングモールに身を寄せる人間などいくらでもいる。頭ではそう考えていたが、この時のハクマは何故かそれを気に留めてしまった。

普段とは違う、言い知れぬ何かを感じていた。

階段へと向けていた足を戻す。ページをめくる音は一定に、断続的に続いていた。

ここだろうとハクマが足を向けたのは書店だ。3階フロアの3分の1ほどを占める大型書店。

そこに居た。この世界で、独りで楽しそうに笑っていた。備え付けの椅子に座り、明かりもないのに一心不乱に本を読もうとする小さい姿。

それは煌めく星に見えた。

「────────」

見間違いかもしれないとハクマは目を背ける。そんなはずはないと思い、引き返そうとするその背中に、幼い声が声をかける。

「ねえ!一緒に読もうよ」

ハクマに声をかけたのは小さな子供だった。この緩やかに滅びゆく世界で真っ先に無くしてしまいそうな儚い存在。

そんな幼子は外の厳しさを感じさせない笑顔をハクマに向けてくる。その眩しい姿に目を奪われたのか、衝撃のまま幼子に近づく。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう」

長く付き合った友達との会話の様な気軽さで、持っていた本をハクマに渡す。ハクマもその仕草があまりに自然で、警戒しないまま受け取った。

手渡された本は読んだことのあるものだった。墜落した飛行士が小さな王子さまに出会う素敵な物語。

その物語を2人で一緒に読んだ。幼子が目配せをしてハクマがページをめくる穏やかな時間。貴重なランタンの光が消えかけてジラつくまで、静かに暖かい時間は続く。

シズクと名乗るその幼い存在との出会いがハクマのそれからを大きく変えた。

 ④

「……まただめか」

ハクマが手に持つ透明な液体と黒い雪が入った試験管を見るが、黒い雪が溶けている様子はない。

その試験管にラベルを貼り、試験管入れに差すとハクマはパイプ椅子に深く沈み込む。

ハクマは黒い雪を無くすための実験を続けていた。シズクと出会ったショッピングモールから少しだけ離れた大学跡が今の拠点だ。

放棄された拠点だったが幸いにも設備の殆どは正常に作動する。持ち込んだ食料も潤沢で、しばらく過ごすには十分すぎるほどだ。

居住スペースとしての機能はもちろんのこと、特筆すべきは研究施設としての機能だ。多種多彩な研究や実験が行われたであろう施設の機能が、丸ごと残っている。ショッピングモールから大学跡へ移動した一番の理由がそれだった。

そこで黒い雪を溶かすための実験を行うことに、ハクマは始めのうちは消極的だった。多くの時間を費やして一向にめどが立たない実験を繰り返すことに意味があるのかと。

そんなハクマの気持ちを動かしたのはシズクの言葉だった。

此処に着くまでにシズクとは多くの言葉を交わした。シズクが話すことが多かったが、ハクマが今まで黒い雪に対抗するための研究を行っていたことをシズクに聞かせてやると目を輝かせて言った。

「じゃあもしハクマが空を晴らしたらヒーローだね!」

ハクマは、何を馬鹿なことを、と苦笑したがこの整った環境にはそれが出来る可能性があった。もう一度挑戦してみようと考えてしまった。ここには可能性があって、それを後押しする言葉があったから。

可能性があってしまったからこその今なのだが。

なるほど、ここは素晴らしい設備だ。活動拠点としても居住地としても申し分ない。

だからこそ、ここが放棄された理由が分かる。理解してしまう。ここを放棄した連中はプレッシャーに押し潰されたのだと。まるで人類最後の拠点の様な充実さが、すべての希望を背負っているようで。

人類の希望になり損ねた彼らは、細々と死んでいくことを選んだのだ。

ハクマの目線の先には多くの試験管があった。これなら黒い雪を溶かせるかもしれないと、様々なものが持ち込まれていた体育館は既に埋まっていた。ハクマがここで実験を始める以前からあった、彼らの努力の跡。

どうせここを放棄するのなら、施設の機能も全て破壊してくれてよかったのに。そうしてくれたのなら、彼らも、ハクマもわずかな希望を考えずに済んだのに。

もしかしたら、自分なら成功できるかもしれない。初めは自信満々に進めていた研究がどんどん手詰まりになっていく。この設備を見て自分こそはできると思って始めた実験は、先人の跡を追おうとしていた。

 *

「ハクマ、疲れてるの?」

居住スペースはサークル棟を使用している。プライベートを配慮した居住部屋として改良したものが幾つも用意してあったことから、ここに居た集団の規模がかなりのものだろうことが想像できる。

ハクマはそのうちの一つの部屋の中、シズクのいるすぐ横のベッドに倒れ込む。シズクの言葉に返す気も起きない。

実際疲れていた。

成果の出ない実験を繰り返し、その間にも黒い雪は降り積もっている。タイムリミットは近づいているのに解決の術はいっこうに見つからない。精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていた。

「……シズクよりは」

対してシズクに疲労は全くみられない。幼子ゆえの有り余ったパワーなのか、出会ったころから疲れた様子を見たことがない。

シズクはよく大学内を探検と称して歩き回っていた。今日は図書館に行っていたのだろうか、座るベッドの上には本が数冊置かれている。もしかしたら、実験棟とサークル棟を行き来しているだけのハクマよりこの大学跡のことは詳しくなっているかもしれない。

しぶしぶと、ハクマはシズクに近づき出会った時のように一緒に本を読む。それは確かに心地の良い時間だ。

だが、ハクマはつい考えてしまう。

────このまま現状を享受してしまっていいのか。それは、ここから逃げた者たちと変わらない行為なのではないか。

「ハクマ、どうかした?」

「……いや、何でもないよ」

いつのまにかページをめくる手が止まっていた。それを怪訝そうに見つめるシズクに、ハクマは笑顔を作って返す。

考えすぎなのかもしれない。だが、考えるべきなのだと思う。

シズクに打ち明けるべきだろうかとも考えたが、すぐにそれを振り払う。そんな時間は無い。

黒い雪は降り積もり続けているのだから。

 ⑤

今日も実験を続ける。何も変わらない、失敗するだろう実験をルーティンのように続けている。

成果が出る様なきっかけもアテもなくひたすら同じことを繰り返して、シズクと穏やかな時間を過ごして1日を終える。

変えようとしても、大きな進歩は起こりそうにない。

その間にも黒い雪は降り積もる。15階建の立派な実験棟は、訪れた時には2階までしか埋まっていなかったのに、今では4階までが雪に隠れている。

じわじわと迫るタイムリミットに真綿で締め付けられるような日々が続いている。

それに"黒吹雪"がいつ襲って来るかも分からない。特にこの大学跡周辺はしばらく"黒吹雪"が起こってないのだろう。雪に埋まっただけの健在な建物群がハクマの心をすり減らす。

そんな日々を日常として享受しかけていた時、事件は起きた。

いつものように実験棟へ向かおうとするハクマをシズクが呼び止める。

「ボクにも実験を手伝わせてよ」

「……は?」

突然の発言に虚をつかれたハクマだったが、それほど意外なことではなかった。ここ最近のシズクは科学系の本を読むことが多かったから、そのうちこういうこともあるのだろうと考えていた。

「遊びでやってるんじゃないんだぞ」

「遊びだなんて思ったことないよ!ハクマを手伝いたいんだ」

シズクの目は真剣だった。本気でハクマの力になりたいという想いの強さを感じる。真っ直ぐに見つめる瞳が眩しくて、ハクマはつい目を逸らしてしまった。

「……分かったよ」

ハクマの根負けだった。シズクの頭をくしゃくしゃに撫で、一緒に実験棟に向かう。時折ある気まぐれだろうと思っていた。

 *

シズクは案外筋が良かった。ハクマの教えたことをすぐに実践に移すことが出来、難しい専門用語も一度で覚えた。

おかげでいつもより効率よく実験が進む。だからといって成果があがるわけではなかったが。

ただ気晴らしとしては十分だった。停滞する実験の中でもこういった変化があれば継続できるかもしれない。

「シズク、そろそろ───」

終わりにしよう、と言いかけたハクマの言葉が止まる。

パーティションを隔てて違う実験を行なっていたシズク。覚えが良かったからつい目を離してしまった。余計なことはしないと高をくくってしまっていた。

シズクが、自身の腕を硫酸に晒そうとしている。

「あ、ハクマ、」

なぜ、と思うより先に体が動いた。

試験管を持ったシズクの手を払う。幸いにも二人に硫酸がかかることはなかった。手から離れた試験管は遠くの床に落ちて中の硫酸と黒い雪をこぼす。

「───ごめん、ハクマ。でもボク、」

「何でこんなことしたんだ」

「……」

シズクの言葉を遮り、糾弾する言葉を投げつける。その目線は鋭く刺してしまいそうだ。

言葉に窮するシズクだったが、少しの時間がかかった後に口を開く。

「ハクマが、困ってそうだったから」

「……何?」

「いつも実験して、つらそうに帰ってきて……それで僕が何も思わないと思ってたの?」

絞り出すようにシズクは言葉を告げる。実験を繰り返すたびに問題に直面し、疲弊していくハクマを一番近くで見ていたシズク。そばにいたから何か力になれることは無いかと模索し続けていた。

「ハクマのつらそうな顔を見て、だからハクマの力になりたいと思って……」

────ただ純粋なわけではないんだ。

そう分かってもハクマはまだ素直に自分の気持ちを吐露できない。シズクからまた目線をそらし、ぽつりと言う。

「別に……今は何も出来なくてもそのうち……」

「何で諦めちゃってるの!?そんなのハクマらしくない!」

「諦めてなんかいない!」

シズクの叫びに、ハクマも叫んで返す。自分は決して諦めていない。ちゃんとやっているのだと。シズクの言っていることは間違っているのだと強く否定する。

そして、

「シズクに、私の何が分かるんだ────」

今、何を言った。言い放ってからハクマは自分の発言に気づいた。

「違う、シズク、今のは、」

「───ハクマの、分からず屋」

ハッと気づき、あわてて取り繕おうとしても遅い。逸らしていた目をシズクに向けなおす。

シズクはハクマを睨みつけると、実験室から飛び出した。手にはいつ持っていたのか、別の試験管を持っている。

その背中にハクマは声をかけることができなかった。

「何で、分かってくれないんだ……!」

ハクマは椅子に沈み込み、拳を握りしめる。

事件というにはあまりにも下らない、小さな諍い。

────それで良いのか。

だからハクマはすぐに元通りになれると思った。

────自分の気持ちは。

後で謝ってまたなんてことない実験を続けようと思った。

────シズクが伝えたいことは。

どれだけ時間が経っただろうか。ハクマは自分の考えを整えて椅子から腰を上げる。その時、

「────!」

轟音が鳴り響いた。

地震かと思ったが、揺れの感覚が違う。だがこれまで何度も体感したことのあるもの。ハクマの直感が他の自然現象では無いと叫ぶ。そしていち早くその答えを当てていた。

"黒吹雪"が遂にこの地にやってきたのだと。

 ⑥

あの頃、空を見続けていたのは何故だったのだろうか。

ハクマがまだ小さかった、それこそシズクくらいの年頃に見た小さな星。その星を見たのはまだ太陽が出ている日中だったが、ハクマの目には太陽より輝いて見えた。

小さくても煌めくことを諦めなかった、その姿にあこがれていた。

いつしかそれを追い求めるようにハクマは空を見上げていた。だが再び見ることは出来ず、空は黒く染まってしまった。

だから絶望した。もうあの星に出会うことはないのだと。それでも諦めきれずに、わずかな可能性を捨てきれなくて歩み続けていた。

何度も死のうと思った。早く楽になりたかった。だがそれをせずに黒い世界で生き延びて来た。

シズクとの出会いはそれこそ奇跡だった。絶望に身を苛まれながら歩んだ先に出会った小さな煌めきがハクマに生きる理由を再び与えてくれた。

だからハクマは"黒吹雪"の中を突き進む。再び見つけた自分の生きる理由、小さく輝く星をもう二度と失いたくないから。

もう、気づいている。

そして"黒吹雪"の晴れたその先に─────。

 *

「シズクー!」

"黒吹雪"の轟音が止み、ハクマはシズクの名前を叫んだ。返事が返ってくることは無く、周囲にむなしく響き渡る。

今回の"黒吹雪"はかなりの規模だった。これまで経験したことのない威力で大学跡周辺を襲った巨大な”黒吹雪”は、古い作りのサークル棟や校舎はもちろん比較的新しく建てられた実験棟を半壊せしめた。

幸いにも実験を行っていた部屋は地下だった為ハクマは無事でいられた。だが、そうなってくると居場所の分からないシズクのことが心配になる。

自身の安全を確認すると、手早く装備を整えてハクマは外に飛び出す。

一刻も早くシズクと合流したかった。シズクと合流してなんと言葉をかけていいのか、どのように仲直りしようかなどとハクマは考えていなかった。

無事にシズクと会いたい。それだけを考えてハクマはシズクの名前を叫び続ける。

外に出て惨状を目の当たりにすると、今無事でいられているのが偶然でしかなかったことが分かってしまう。

「シズクー!」

それでも無事を信じて何度も名前を呼ぶが、返事は一向に返ってこない。

足跡を辿ることはできない。"黒吹雪"が通った後は何も残らないから。そうだと頭ではわかっていても、やみくもにシズクの痕跡を探す。

実験棟の中には居らず、崩壊してしまったサークル棟や校舎の近くで呼びかけても返事はない。

がれきの中を捜索するしかないのか。ついには最悪の事態を想定し始めたハクマの目に、信じられないものが飛び込んできた。

黒い雪が溶けている。

あれほど苦労して実験を重ねても一度も溶けることのなかった黒い雪が溶けている。昔見た白い雪のようにあっけなく。

「まさか……」

そしてその溶けた後は点々と、左右にぶれながら、ぽつりぽつりと続いている。大学の敷地内を抜けて、何もない外の世界へと。

持ち出された試験管が頭に浮かぶ。実験は成功した。黒い雪は溶かすことができる。実験の成功は喜ばしいことだが、そんなことよりもハクマはシズクの身を案じていた。

だが、とハクマは考えてしまう。自分の体が無事でシズクの体までもが無事という都合のいい話があるのだろうか、と嫌な予感が頭をよぎる。

それを振り払い、点々と溶けている雪を辿ってハクマは歩みを進める。頭に浮かぶのはあの暖かい笑顔。

その先にシズクがいると信じて。

 *

「シズク……!」

溶けている跡を辿って数分ほど。予想通り、ハクマはシズクを見つけることができた。

そして嫌な予感は当たってしまった。

「ハクマ……ごめん」

シズクは溶ける黒い雪の上でぐったりとその身を投げ出していた。持ち出した試験管は砕けており、中の液体は傷だらけのシズクの周りにこぼれ落ちている。

シズクの体からも、赤い血が鮮やかに流れ出していた。

「これ、壊しちゃった……」

「いいんだ……!それより────」

申し訳なさそうに困り顔を見せながら、弱々しく試験管を差し出すシズク。抱きかかえて安心させる声をかけようとしたハクマだったが、あまりの惨状に言葉が見つからないでいた。

シズクがどれだけ”黒吹雪”にさらされていたのか、どれだけの血を流してしまったのかは分からない。だが、近づくと理解してしまう。赤く染まった外套と小さな体の周りの雪がほとんど溶けているという事がハクマに知らせる。

シズクはもう長くない。

「……ねえ、ハクマ」

言葉を継げないハクマの異変に気付いたのか、先に口を開いたのはシズクだった。

「……どうした?」

「ボク……ずっと前に、すっごいきれいなお星さまを見たことがあるんだ」

「……いきなり、だな」

これまで、ハクマと会うまでのことを語ってこなかったシズク。それは幼子ゆえのものだとハクマは想像していたがそうではなかったらしい。

ハクマは静かに耳を傾ける。

「うん……今まで言ってこなかったけど───」

シズクは息を吸おうとしたが、まだ肺に雪が入っているのか大きく咳き込む。吐き出した血が薬品と混ざり合って、また黒い雪を溶かす。

ハクマがシズクの体を起こして背中をさすってやるとシズクは弱々しく笑顔を見せた。

「すごく、小さな星だったけど……本当にきれいだったんだ」

「……そうか」

「でもさ……」

もう一度シズクは息を吸う。息をしっかりと整えて、ぽつりぽつりと自身の思い出を語りかける。

「その星を見たのは……、すごく晴れたお昼だったんだ。おひさまよりも、きれいだった」

その言葉にハクマは大きく目を見開く。日中に見た小さな、太陽よりも煌めく星。あれをシズクも見ていたのだ。

「あれは、夢、だったのかな……」

「夢な、ものか……」

シズクは知らない。昼にも星は見えることを。だがその知識をつける前に空は星を隠してしまった。だからシズクにとって星は夜に見るものだった。

本を読んでいた時も、星は夜に輝くものだと思い込んでいた。昼に見た星は自分の心で描き見た夢だったと思ったから。夢だと思いながら、その思い出をずっと胸にしまっていた。

────そんなシズクの一番の思い出が夢だと思ったままでいるのは悲しいことだ。

「なあ、シズク」

だから、今度はハクマが言葉をかける。

今必要な言葉は、仲直りの謝罪の言葉じゃない。

「……なに?」

「この雪が晴れたら、一緒に星を見よう」

「ハクマが……見せて、くれるんでしょ……?」

その言葉もまっすぐだった。出会ったころから変わらないまっすぐさを、ハクマはこれまで何度も逸らしてきた。

だが今は違う。いつまでも純粋な、シズクの瞳をまっすぐ見つめ返す。ハクマのことを信じる目。夢も現実も、すべてを信じてしまえる煌めく雫。

「だったらさ、」

白く小さな手が伸びる。黒い世界では眩しいくらいに白い指が、ハクマの目元をそっとなぞる。

「もっと……自分を信じてよ、ハクマ」

ハクマの答えは─────────。

 ⑦

いつまでもここにいるわけにはいかない。ハクマはシズクにしっかりと外套とガスマスクをつけてやり、その小さな体を抱えた。

「多分、私は怖かったんだよ」

ひとりになったハクマは、目を閉じたシズクにぽつりと語りかける。

「純粋にいることが出来なかった。君のように、何かを信じ切ることが出来なかったんだ」

ハクマはいつもシズクを羨ましく見ていた。黒い雪が降り続ける世界を悲観することなく、ひたすら自分の気持ちに誠実だったシズク。

ハクマはそんなシズクと暮らすうちに少しずつほだされていたのだ。

この世界に似つかわしくないほど純粋なシズクの言葉。その一つ一つがハクマの諦めの心を溶かしていった。

ハクマが「かもしれない」と言えば、シズクは「絶対に」と言う。ハクマが「出来ない」と言えば、シズクは「出来る」という。

あのとき煩わしく感じていたシズクの言葉の全てが今のハクマを立たせている。この小さな体が信じているのなら。

だからハクマはシズクの為に、できることをする。

「この黒い空を晴らしてみせるよ」

ガスマスク越しにシズクの閉じた眼を見る。奇跡を起こしたその眼が開く気配はない。それでもハクマは確信していた。

「絶対に」

シズクの行いがいつか報われることを。

ハクマの思いがいつか伝わることを。


いつかきっと、青空の下で煌めく星を見るために。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?