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今君に伝えたいこと #5

 「おつかれさん、コーヒーでいいか?」
 「ありがとうございます」
 らるごの店主、太慈(たいじ)は、毎日日替わりのブレンドコーヒーをメニューに用意している。コーヒーにこだわりのない慧人が最初にその日替わりコーヒーの味の違いを知ったときは、本当に驚いたものだった。
 慧人は自分がものすごく狭い世界に生きているという自覚があった。ピアノのこと以外、何も知らない。ピアノのことですら、そのほんの入り口しか知らないと思っている。知れば知るほどその世界は広く、深く、果てしないと感じさせられる。もっとこの音の世界を追求したい、より良い音、心を打つ音を探求したい。ピアノに関してはそう思えるが、それ以外のことについては本当にこだわりがなく、執着することができないでいた。しかしらるごに通うようになり、何の気なしに頼んだ日替わりコーヒーが、昨日と今日じゃ全然違う。同じ色、同じ香りに感じるのに、口にすると昨日飲んだものとは違うとはっきりとわかる。「違う」とはわかっても、その「違い」は分からないけれど。
 きっと、慧人にとってのピアノは、太慈にとってのコーヒーなのだ。そして、太慈や他の人にとってのピアノは、慧人にとっての日替わりコーヒーのようなものなのだろう。そう慧人は思う。
 自分一人だけが、ピアノの世界と向き合って、迷い込んで、見つけられなくて、だけどときどき光をつかめそうで、やはり届かなくて。こういう世界が、太慈にとってのコーヒーであり、他の人にとってはまた別の何かなのだと。自分一人でピアノの世界に揺蕩うこと、それが、慧人にとっての全てだ。ここしか知らない。そして、ここしか要らない。そういう世界を、きっと他の人も持っている。そのことが慧人を勇気づけることがある。だから慧人は、いつも日替わりコーヒーを頼む。


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