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9.マシューとマンハッタン


 その夜、トシは手持ちの服たちの中でもいくらかマシそうなのを選んだ。
とはいえ、たとえばシャレ感のまったく無いウォーキングシューズなんかは替えようもなかったし、結局のところどう見ても見栄えのする格好ではなかった。
こんな身を捨てたような旅先でそういう勝負はできないと、その点に関してはあきらめるしかなかった。

 ハナが借りた部屋は、ハドソンリヴァーから数ブロック内側の、ミドルウェストにあった。
こんなところは地価がすさまじく高いだろうに、よく掘り出したものだとトシは感心した。
アパートのすぐ先は公園なのか施設の一部なのか、高い木がまばらに生えた空き地になっていて、その脇の街灯がひときわ明るく光っていた。
マンホールの蓋でも眺めながらアパートの前の柵にもたれかかって、こんな裏路地の一角で誰かを待っていると、まさにこのコーナーにずっと住んでいたかのように、見慣れて馴染んだ風景に見えてくる。
ずっと近所で一緒に遊んできた幼馴染の女の子と出かけるために、いつもみたいに迎えに来ただけさ、なんていう気分になってくるのだった。

 やがて現れたハナは黒いワンピース姿だった。
体のラインが出る服を着て、長い髪をふくらませて胸の前にたらすと、なるほど服飾の学校に行きたいというだけあって、スタイルがよくて華やかに見える。
トシがふざけて肘を差し出すとハナは手を入れてきたから、二人は腕を組んで大通りに向かった。
そんな二人を傍から見ればたしかに、ただの東アジア系のキッズとして、この街にありふれた存在に見えたことだろう。
そこでハナのほうから、今夜の段取りが発表になった。
この先の大通りでキャブを拾って、イーストサイドのほうに向かう。
そこでは前からハナとの話題に出ていたゲイの友人が待っていて、あるクラブのイベントに案内してくれるはずだ。
そのイベントを楽しんで、疲れたところで適当に切り上げてまたキャブでここに戻ってくる。
そのような段取りになっていた。

 キャブに乗ってみると、後部座席にナビの画面が付いていたり、外見よりずっと清潔で機能的に出来ていて、トシにとってはいろいろと目新しいものが多かった。
一方、ハナはすっかり慣れたもので、「何通りの何丁目」とさっさとコーナーを指定すると、シートに深くもたれかかってくつろいでいた。
なんとなく少し黙りながら、トシとハナは重厚な建築物の間を無数の人々が動き回る街の光が次々と通りすぎる窓の外を眺めていた。
ミッドタウンを横切って、イーストサイドへ向かっているはずだ。


 ハナの友人はマシューと名乗った。
いわゆるイングリッシュネームというものだ。
おそらく、マシューの本名はマサとかマキタとかその辺りだろう。
マシューは実際には二十三歳の日本人で、予想していたよりも少し頼りないヤツであることがすぐになんとなく察せられた。
なぜかといえば、彼の背が低くて迫力が足りないだけではなく、案内してくれたクラブに着いてみると、目当てのイベントというのはすでに終わっていたからだ。
イベントは終わってしまっているにしろ、クラブはクラブだから、それはそれで楽しむことにして入ってみた。

 そこはなかなか広いクラブではあったが、人はまばらでどこか冴えない印象があった。
3人がフロアに踏み込んだ時、かかっていた曲はなんと「スウィート・キャロライン」だった。
もちろん、それなりにアレンジしたビートに乗って、気分転換としての洒落で流してはいるのだろうけれど、タイミングというものがある。
トシはコーラスの「パーッパーッパー」を口で言いながら手をかざしてみたけれど、やはり広い競技場なんかでこの曲が流れる時のようには、開放的に盛り上がる気持ちは感じなかった。

 三人はひとまずテーブルについて酒を飲む事にした。
踊っている人はまばらにしか見られなかった。
平日とはいえ、二十三時過ぎのマンハッタンのクラブがこんなものでいいのだろうか。
ちょっと気が抜けたような気持ちでぼそぼそと会話していると、例によって巨体の黒人のガードマンが近づいてきて話しかけてきた。
ハナにIDを見せろと言っているのだ。
ハナは「なによー」とか言いながら、IDをガードマンの鼻先にかざしてから、さっさとしまった。
ガードマンはふざけるのはよせというように、もう一度見せろと指で合図した。
ハナがしぶしぶとカードをわたすと、ガードマンはペンライトでIDを確認した後、ハナにカードを返したかわりにグラスを回収してしまった。
飲酒は二十歳からなのだ。

 なんだかしゅんとしてしまったので、フロアを見て回る事にした。
地下一階と二階の2フロアになっていて、それぞれの別の曲がかかっていたが、盛り上がりはどちらも同じようなものだった。
下のフロアを見てから戻ってくると、ハナがいつの間にかグラスを手にしていた。
バーカウンターに誰も並んでいなかったから、あっという間に買ってきたらしい。
盛り上がっていないなりに音楽に乗りながら体を揺らしていると、先ほどのガードマンが現れてハナの肩をたたいた。
「これが最後だ」と言いながらグラスを奪い、次に見つけたら必ず追い出す、と険しい態度で伝えた。

書く力になります、ありがとうございますmm