見出し画像

投げられやすい石

ハイバイ「投げられやすい石」
配信にて鑑賞。

見終わってすぐにメモ的に、感想を。

楽しかった思い出、好きだった人、憧れてた人、それが失われて、今との落差に苦しくなって、もはや忘れてしまいたくなる気持ち、わかる。

2年前に失踪して、突然連絡をよこしてきた佐藤。その姿はあからさまに落ちぶれていて、髪もはげまくっていて、見た目も言動も、どう見ても健康じゃない。

それでもあの頃みたいに「絵を描け」と言い続ける。

でも昔のキラキラしてた姿とあまりにも違くて、お前がいなくなってからの2年間で俺たちは変わったんだよ、大人になったんだよ、キツイよ、そう思っちゃう自分が後ろめたくて、見なかったことにしたくなる感じ。
幸せだった思い出に上書きしたくなくて、
救いの手を差し伸べるでもなく、今日はやりすごしてなかったことにしてしまいたい感じ。

そんな風に、完全に山田に感情移入して見てたことに気づく。

山田は普通の人で、才能がある佐藤に認められているからなんとなく周りからも認められていただけで、恐らく当時から描けと言われて描いていて、佐藤を失ったら絵を描く意味も、意思も失ってしまった。
近くにいたみきときっとなんとなく結婚して、なんとなく生きてるんだろうな。
3人の中ではいちばん共感しやすい存在。
はっきり意思を持って生きるのって難しいから。

終盤、
お前は何者なんだ、俺は病人で、この絵を描いた。と問われた山田。
俺はその佐藤を知ってる人。それだけだ。
と答えると、
でもお前たけのこ好きじゃん。それだけじゃないじゃん。
と言われる。
見捨ててしまおうとすらしていた佐藤から、そんなことを言われてしまう。
それだけで生きていけちゃいそうな言葉だな。何者でもない人なんていないってことなのかも。

絵を描けっていうのも未来を見ている言葉で。
佐藤が2年を費やして何度も描き直した絵はもう完成していて、そこが到達点で、それ以上の未来はない。少し削ってみても、それが前進であれ後退であれもはや意味がない。

自分が死ぬのを悟ったとき、孤独な佐藤の頭に山田の顔が浮かんだんだと思うと、苦しくなる。せめて生を託して死にたかったのかも。

声もか弱くて、流されやすそうで、でも学生の頃から下手と言われながらも絵を描き続けていてたみき。それはきっと絵が好きだから。才能があるから描く、下手だから描かない、じゃなくて自分のために行動の選択ができる人。
最後も自分の意思で、最初の話し声からは想像もつかないような太い声で歌う。泣きながら。
意思表示はしないけど、芯がある子なんだな、そして本当に好きだったんだろうな、佐藤のこと。
山田と違って、昔と今が切り離されていなくて、今の佐藤のことを一瞬も見捨てていなかった。

セットはずっと変わらなくて、古びたベンチがふたつ転がっているだけ。場面が変わると、演者が芝居のなかでしゃべりながら組み方を変えていて、時にはコンビニの陳列棚、時にはカラオケのソファ、と用途が変わる。

あとは冒頭から展示会の看板を映したパネルが吊るされていて、それがコンビニ、河原の石ころ、カラオケのマイク、と場面が変わるごとに紙芝居みたいにめくられていく。

シンプルなのに情景が浮かびあがる演出、わくわくしてしまった。

タイトルの「投げられやすい石」
石目線なのはどうしてだろう??何の比喩だろう?石を投げるシーンは何を表してたんだろう?意思をもたない山田?
んー、難しい。おかしくなってしまった佐藤を表すためだけに作られたシーンでないことは確かなんだけど(笑)

佐藤が死神に連れられていなくなってしまったあと、2人はどう生きていくんだろう。なんとなくうまくいかない気がするな。

そう思うとハッピーエンドとは言い難くて、ずっと苦しいしずっと気まずいし最後までヒリヒリするような作品だったけど、それでもおもしろかったと思えるんだからすごい。

・・・っていう感想全部を背負ってもう一度見たら、ただの落ちぶれた天才の戯言かと思ってた佐藤の言葉がビシバシ刺さりまくりそうだな。
山田目線でなく、佐藤の悲痛な思いに寄り添って見てみたくなった。

岩井秀人さん演出の作品は2本目だったけど、飴を食べる際のお客さんへの注意は定番なのかな。演者が芝居に入る前に、めちゃくちゃフラットに客に話しかけてくるスタイル、ずるくて笑っちゃう。

やっぱり生で、客席で、見られたらよかったなあ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?