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「標準体重を勝ち取る」についてのめちゃくちゃな思考

 まずは前回の記事をご覧いただいた方、ハートを押してくださった方に御礼申し上げます。本当にありがとうございます。不特定多数の方が見るネット上にああいった個人的な思いを文章にして載せるということは初めてでしたが、勇気を出して書いてみて良かったと思います。おかげで今回の記事で書くような自身の思考の癖や偏見を少しずつ可視化できている気がします。
 しかし文章を書いてみて思うのは、自分の思いを文章にするという行為の難しさです。「私はAと思っている」ということを書いているうちに、「本当に私はAと思っているのか」「そもそもAとは何か」「実はBと思っていないか」「話の辻褄を合わせるためにBという気持ちを無理矢理Aにしていないか」などと思考が取っ散らかり、自分が結局何を言いたかったのかわからなくなる。今回の記事は正にその混乱の塊です。


 それでは体重に雁字搦めになっている私の思考をご覧ください。
(トップの写真はなんとなく撮った写真です。特に記事とは関係ありません)




 私は前回の記事で自らが何の気なしに(本当に何の気なしに)書いた一文「標準体重を勝ち取った」の「勝ち取った」という表現に自分でつまずき、そのまますっ転んでしまった。
 転んで痛い、この石を置いたのは誰だ、ああ自分か、なんでこんな石置いた? そんな某ネコと某ネズミのアニメーションにあるようなシチュエーションに陥り、しばらくもやもやと悩んでいた。取り急ぎその一文については修正をし、このもやもやを言語化すべくnoteを開いて下書きをしては消し、一旦保存しては後日開いて消し、noteどころかPCすら開かずにしばらく放っておいてみたりと、気づいたら2月になっていた。他のことも記事にしたいなと考えた矢先、「勝ち取った」事件についてそろそろ一旦の決着をつけなければならない、と思ってこうして打ち込んでいる。

  標準体重に至るまでの自分は前回の記事にまとめた通り、「デブ」に全てをやられていた。その時代の中で好ましいとされる体重でなかったばかりに「普通」から追い出され、追い出されたと思ったら無理矢理「普通」の舞台に上げさせられ、罵声を浴びる。「あんなデブじゃなくてよかった」「アレを笑っていられる俺たち、私たちでよかった」という普通の奴らの連帯感を高めるダシにされる。
 もうウンザリだった。二度とあんなつらい思いをしたくない。そこで私が取った行動は、自分の外見を変えること=ダイエットをすることだった。あれこれ試して1年半、ようやく標準体重になった。
 動機からして少し道が間違っていたのかもしれない。結果として私が取った行動は奴らの「普通」の中で立ち位置を確立することだった。無理もないと思う。今みたいに簡単に情報にアクセスしたり、様々な価値観に触れる機会が絶対的に少なかった。「普通」に立ち向かうためにはまず自分がその中に入らなければならなかった。
 私にとって、標準体重は「勝ち取る」ものだった。デブ=肥満よりも価値のある、努力をして手に入れるものだった。そして、私はそれを勝ち取ったのだ。

 社会人になってしばらくしたとき、ふとどこかで目にした言葉に心を動かされた。

「自分が自分らしくいられる体重が、自分の適正体重なのだ」

 この言葉、Twitterで見たのかブログで見たのか、そもそもこういった書き方であったかも定かではない。ニュアンスとしては上記のようなものだったと思う。私はこの言葉に衝撃を受けた。太っていようが痩せていようが、自分が自分らしくいられるのならそれが適正。数字ではなく、自分の心で決めるのだ。自分に必要だったのは「普通」の舞台に立つことではなく、勝った負けたではなく、自分の意志だった。

 そう思っていたのに、である。標準体重を「勝ち取った」と書いてしまった。まるで標準体重以外の体重に価値がないと言っているように。書いたその瞬間はそういう意味で表現したのではないのかもしれないが、後日の自分はそういう意味で捉えて躓いて転んだ。自分で傷ついてしまった。めちゃくちゃだ。
 上辺だけ自分のコンプレックスを解消した気になっていても、文章にした途端に綻びが出てくる。まだ自分がその言葉を受け入れられていないこと、過去に追い出された「普通」の舞台に対する執着、僻みが見える気がする。こうして体重に妙にこだわっているこの記事こそ、自分がまだ何も解消できていない、何もかもが上辺だけ取り繕った状態であることの証左かもしれない。


 書いていて何が何やらわからなくなってきてしまったが、結論としては「勝ち取るという表現を使って標準体重以外の体重(主に肥満)の価値を踏みつけてしまった。その行為は自分がこうありたいと思った価値観(自分らしい適正体重)と相反するものであり、それを無意識に行ってしまった自分に失望、傷ついている」というところだろうか。

 何も解決している気がしないが、混乱の証として文章を残すことにする。今の自分には考えて書き、書きながら考えて、書いたものを読んで考えることしかできないから。

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