1人に書いたラブレターは、誰が読んでも感動する。

調子に乗った文章からスタートする、久しぶりのNote。世間は5月病に苛まれる新社会人を弄ぶかのようにGWの賑わいを誇張表現してる。僕はそんな中、「1人に書いたラブレターは、誰が読んでも感動する。」この言葉と頭の中で向き合っている。

ミクロな捉え方をするも、マクロな捉え方をするも人それぞれだけど、僕はどちらもで受け取っている。

最近僕は、「お前、未練あるよ」と、会った友達10人中10人に言われる。もはや洗脳のように。。
個人的な話なので解像度は下げておくけれど、所謂花束みたいな恋をしていた、と想像していただこう。

その時に、なんで別々になる選択肢を取ったのかなぁなんて考えてて、最後の方の僕の行動が、「1人に書いたラブレター的」ではなかったんだなと、すごくすごく咀嚼することになった。

*前提として、多分僕は自分のことを美化しています。そんな綺麗な、言葉には表せない感情はあったと思う

で、だ。
結論から言うと、恋人とその他諸々の僕のしたいことの優先順位が、思いがけず同じベクトルに存在していたからだという話。1位仕事, 2位家族, 3位恋人, 4位酸辣湯麺。みたいな、人生における全てのコトガラを並列に考えていたのかなと思っている。

多分、一番モテない、自分勝手な行動を取っていたのかなぁと。「1人に書いたラブレター」ではなく、

「みんな(仕事・家族・趣味等)に書いたラブレター(熱量・どれだけ時間を使うか、にあたる部分)」

を、コピペで恋人にも渡していたような気がしている。

そりゃあ、嫌気がさすよな。と。今になって滲むように思っている。

だからそんな僕を見て、周りは未練タラタラだと思うわけでつ。

一旦、ちょっと違った文脈で話すと。
写真を撮っている時にも同じことを思う。

「大衆ウケが良いクリエイティブ」を、一個人が目指すと、それは平べったくて、角が取れてしまっている内容にしかならない。だから、「僕の写真」を、「僕が大好きな人たちへ」という心持ちで撮る・編集することを意識してる。

まぁ、そんな簡単なことじゃないんだけど。
みんなに平べったく良いと思ってもらえること、じゃなくて、特定のあの子に届けることを意識したら、みんなにも自然と波及していくのかな。と思ってる。

よく考えればそうだ。笑
大体、あいみょんとかバックナンバーの歌詞も、絶対個人的な内容が、特定の個人に対して向けられてる。それを大衆は自分ごとのように捉えて、大声で歌ってる。

そんな感じで、僕の生み出す何かは、特定の誰かが良いと思ってもらえるように設計して、僕自身の主張も混ぜて、理解してもらえる範囲が狭いことを許容して。そんな感じで組んでいきたい。

ここまで、目黒線の中で携帯で打ってるから、はちゃめちゃな文章になってるけれど、最近、考えていることでした。

P.S.
朝方の15分くらいしか差し込まない柔らかな光も、植物の表情も、好きな音楽も映画も、少しずつ、寛容に、受け取れるようになったよ〜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?