僕にとっての写真とは

写真家としての名を持つことが、自身にとって重要になる気配がしているこの頃。僕にとっての写真の立ち位置を明文化することに価値があると思い立った。
保険として言っておくと、もしかしたら、今までにも写真家の人が言ってきた内容かもしれないし、なーんだそんなことか。となるかもしれない。けど、それも含め現在地を将来の自分に示しておきたい。
ほぼ、箇条書きスタイルでいく。

凝りを解してくれる。
社会への偏見だったり、物事の解釈だったり、自身の持つ頭の凝りを、モミモミしてくれる感じ。写真を撮っている時もそうだし、編集している時もそうだし、枝分かれのような形で多面的に考える。これは、自分の解釈との戦いであり、自分の表現可能域を広げる活動であると捉えられる。出来ることが増える、に近いかもしれないけれど、ファインダーというフィルターを通して世界を見ることは、僕の頭を解してくれる。

切り取り方を教えてくれる。
写真は、目に見える世界をどう切り取るかという行為の結晶である。良いと思ったコト、逆に外したいと思ったコトが何かを、教えてくれる。無意識領域にある事象を、具現化して、写真という形で言語化されているような感覚がある。

繋げてくれる。
「写真をやってます。」
この一言で救われたシーンは山程あるだろう。社会から見た自分視点にはなるが、クリエイティブの一つとして見てもらえることもあるし、解像度を下げると、あ、この人は写真の人なんだと、印象付けることにつながる。またそれは、写真をしていないと会える訳もない人たちとの接点を生み出し、自分の可能性・選択肢を広げてくれる礎になる。

光を操ることが出来る。
写真は、どこまでいっても光の情報の集合体であり、光がないと生み出すことはできない。その分、光について考えることが増えたし、自分で操るステージに立つことが出来る。自然光での表現が一番美しいと思う自分だからこそ、操る、という感覚はあまりないっちゃないけれども、撮るという行為は光を操るに等しいのではないかと思う。

僕は、いわゆる現代クリエイターで数字を稼いで、フォロワーを伸ばしたいなんてことはあまり思っていない。現代資本主義化におけるただの技術職ではなくて、光の魔術師になりたい。し、僕の撮る写真が人々の心を動かして、どんな捉え方でもいいから心に少しの余裕と暖かさを提供できたらいいなと思う。

また、学生を終えるときに、どう写真について捉えるかを言語化してみようと思う。

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