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溶かして冷ますガラス入り白線

 財布をどこかで落としたらしいと、帰ってから気がついた。

 交番に届けたらたぶん、諸手を挙げて歓迎してくれるだろう。何しろ我らが駐在さんは人が良すぎて詐欺に引っかかるほどの正義漢なのだ。よかったらお茶でもどうぞと手厚くもてなしてくれるかもしれない。しかしそうしている間にも誰かが拾ってしまったら、そしてその誰かが僕みたいなタイプだとしたら、こいつは天の恵みだぞと感謝することにおそらく何の抵抗もない。しかたがないのでもう一度自転車を出した。

 辿ったはずの道に沿って一日の行動を巻き戻しながら側溝や草むらや車の下をのぞきこみ、探索範囲を広げて普段は通らないようなエリアまでうろつき、今日どころかこの数ヶ月立ち寄った記憶もない郵便局のあたりまで来たところで、あきらめた。見つからないかもしれないとわかってはいても、実際に探して見つからなかったという事実はことのほか重たい。あると夢見ているときは希望しかないが、ないとなったら希望が目減りするばかりかますます募る。アトランティスみたいなものだ。僕の財布は失われた大陸になった。

 郵便局から南に向かう道は消失点までまっすぐに伸びていて、大人たちはこの道を「カラスぐち」と呼んだ。均等な太さで一息に引かれたこの長い直線がどこに辿り着くのか、誰も知らなかった。というか、知らないわけはないのだが、とにかくそういうことになっていた。知らないということは、すべての可能性がそこにあるということだ。この道もまた、失われた大陸のひとつだった。

 郵便局の敷地は山茶花やら躑躅やらの植え込みで仕切られていて、隣はもう田んぼだった。カラス口はこの田んぼと、山裾の雑木林にはさまれて南北に伸びていた。道の両脇には縁石つきの歩道があり、南に五百メートルほど行くと周囲に信号や建物がないにもかかわらず、横断歩道があった。

 この横断歩道までなら、昔はよく来た。探検とか踏査の一環で、いったい誰がどんな理由でこんなところを渡るのか、ノート片手に半日待ちつづけたこともあった。誰も通らないのでしかたなくじぶんで往復し、ノートには「二人」と書いた。田んぼでつかまえた蛙も渡らせてみたが、さすがに利用者が両生類では大人に見くびられそうな気がして、数に入れるのはやめた。

 当時の僕の調査によれば白線は長さが三メートルあり、幅が四十五センチ、この幅と同じ間隔を空けて計八本が平行に引かれていた。刷毛によるペイントではなく、百八十度に熱して夜間反射用のガラス屑も混ぜこんだ溶融式のラインで、厚さは二ミリ弱あった。それらの調査結果を総合すると、どこからどう見てもそれなりに実績があるとおもわれる業者の手できちんと施工されており、何のためにあるのかよくわからないことを除けば正真正銘の横断歩道だった。

 財布(という名の大陸)に対するあきらめと、在りし日を偲ぶような心境から田んぼに沿ってなんとなく自転車を漕いでいた僕は、やがて近づく横断歩道にどうも人がいるらしいと気づいて、仰天した。

 半日待ちかまえても誰も渡らない横断歩道にたまたま人がいてそれを見かける確率が果たしてどれくらいか、僕は頭のなかですばやく計算してみた。相当低いという結果が出た。顔見知り程度でそれまでとくに親しかったわけではないけれど、急に親しみが湧いて僕は声をかけた。鞠谷さんは振り向いて「あら」と言った。

 鞠谷さんは実際には鞠谷さんの奥さんで、下の名前は何と言うのかみんな一度は聞いたことがあるはずだが、誰も覚えていなかった。数年前に鞠谷工務店を継いだ二代目でもある旦那さんは昔からじぶんの姓になじめず、必要がないかぎりは周囲にコージさんと下の名で呼ばせていた。一方、結婚してこの土地に移り住んだ奥さんのほうは鞠谷という姓がじつにしっくりくる女性だったので、いつしか鞠谷さんといったら奥さんを指すようになった。

 横断歩道にいたのはその鞠谷さんだった。道を渡る途中というより、右車線のあたりに座りこんでいた。遠目からは靴ひもを直しているように見えたが、スニーカーは二足とも側に揃えてあった。鞠谷さんは直線の消失点を向いて、白線に腰かけていた。細く長い足をアスファルトに投げ出し、ふくらはぎから下を浸しながらちゃぷちゃぷと音を立てていた。

「こんにちは」と僕は言った。
「こんにちは」と鞠谷さんは笑った。「どこへ行くの?」
「財布を落としちゃったんです」
「このへんで?」
「いや、さすがにこのへんにはないとおもうんだけど」僕は自転車にまたがったまま、ハンドルの上で腕を組みながら答えた。「ここから先、行ったことないし」
「この先ってどこにつながってるの?」
「さあ……」
「知らないの?」
「聞いても教えてもらえないんです」
「大人たちは知ってる?」
「とおもいます、もちろん」
「長いよね」
「長いですね」
「みてみて!」と鞠谷さんがアスファルトに浸した足の先を指して言った。

 僕は自転車を降りた。周囲の空気を入れ替えるようにさっと風が吹き、西側の雑木林が控えめにささめいた。アスファルトにはさざ波が立ち、反射した日の光がきらきらと瞬いた。白線に足を踏み入れるのは、ここを調査したとき以来だからずいぶん久しぶりだった。白線の幅も長さも、踏み外したらそのままどぼんと落ちそうだったその隙間も、昔よりずっと小さく見えた。僕はここでようやく、鞠谷さんがシャツの下にスパッツタイプの水着を着ているのに気がついた。すらりとした足の爪先に目を移すと、釘みたいな銀色の小さな魚の群れがくるくると泳ぎ回っていた。

「みえる?足の指のとこ」
「ホントだ」
「なんかの稚魚かな」
「魚なんて初めて見た」
「魚見たことないの?」
「いや、ここでって意味です」
「けっこういるんだよ」と鞠谷さんは言った。「車もあんまり通らないし、澄んでるんだよね」

 僕は改めて白線の上から底のほうをまじまじと見下ろし、その透明度の高さにびっくりした。三メートルから四メートルくらいの深さがあり、底は白い砂地になっていた。ちいさな谷のような地形を成すごつごつした岩肌では、やわらかそうな苔や藻がすやすやと寝息を立てているのが見えた。鞠谷さんの足にじゃれつく釘みたいな魚のほかに魚は見当たらなかったが、青く透き通る静謐な世界がそこにはあった。僕は唖然とした。

「よく来るんですか?」
「そうだね、ときどきね」
「コージさんも?」
「あの人は来ないかな」と鞠谷さんは笑った。「前に魚のこと話したらなんかイヤそうな顔してたから」

 僕は鞠谷さんの笑顔を初めて見たことに気がついた。ひょっとすると前にも見ていたかもしれないけれど、なぜか初めて見た気がした。

 鞠谷さんは魚たちを驚かさないようにそっと足を抜くと、シャツを脱ぎながら立ち上がって伸びをした。それから滑らないように慎重に白線を踏みながら田んぼ側の左車線へと移動して、前屈みになったかとおもうと声をかける間もなくざぶんと飛び込んだ。
「ちょっと行ってくるね」と鞠谷さんは顔だけ出して言った。

「行くってどこまで?」と僕は馬鹿みたいなことを訊いた。
「行けるとこまで」
「泳いで?」
「もちろん」
「車に気をつけて!」と僕はまた馬鹿みたいなことを言った。
「財布」と鞠谷さんは口元に手を添えて言った。
「え?」
「見つけたらこのへんに置いとくから!」
「ありがとう」と僕はすこしずつ遠ざかっていく鞠谷さんに大声で返した。

 知り合いなんだし、近所なんだから届けてくれたっていいのに、道に置いとくなんて妙だな、と首をひねったのは翌日になってからだった。僕はもう一度自転車にまたがり、横断歩道まで行った。本当に財布があるとはおもっていなかったのだが、ともあれ行ってみないわけにはいかなかった。

 もちろん鞠谷さんはいなかった。代わりに、丸められたシャツとスニーカーだけがそのまま残されていた。財布はなかった。服を届けようかともおもったが、いつ戻ってくるかわからないので、そのままにしておいた。彼女もまた、失われた大陸のひとつになった。

 次の年だったか、その次の年だったか、横断歩道はこのあたりに三日三晩降り続いた大雨で、跡形もなくきれいに流された。まさかあれが流されるなんて、とみな驚いていたけれど、なくて誰かが困るようなことなどあるはずもなかったし、僕としては住民たちがあの白線の存在をきちんと認識していたことのほうがよほど驚きだった。

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