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勿忘草

 所在ない沈黙のあと、男は内ポケットから煙草とライターを取り出した。煙草をくわえ、真鍮の蓋を親指ではじいた。火をつけようと何度か試みて、ちりちりと散る火花でオイルが切れていることがわかると、煙草をくわえたまま、ライターをふたたび内ポケットに戻した。

 男は公園のベンチに腰かけていた。スーツ姿でネクタイをゆるめ、膝には革の書類鞄があった。宵の口にはまだ早い、まだ明るさののこる火灯し頃で、手入れの行き届いた足下の靴からは影が長く伸びていた。彼は一度くわえた煙草の遣り場に困ってため息をついた。

公園のベンチからはもうひとつ、影が長く伸びていた。男はその影に目をやってから、顔をすこし右に傾けて言った。「ライターなんて持ってないよな?」

隣には制服を着くずした明るい髪の少女が座っていた。少女はしばらく間を置いてから、無言のまま脇に抱えた鞄から使い捨てのライターを取り出し、男のほうを見もせずに渡した。

 男はライターが出てきたことに驚きながらも素直に受け取り、火をつけた。ふたつの影は地面にぴたりと貼り付いて動くことなく、煙草の煙だけがゆらゆらと燻った。ライターは当然のように、男の内ポケットにしまいこまれた。ふたりは父とその娘だった。

「神様ってのはいるもんだな」と父である彼はため息で煙を押しやりながらつぶやいた。「おかげで助かった」
「見なかったことにしたいわけ?」と娘である少女は冷たく言った。
「ライターのことじゃない」と男は言ってから、ふと気づいて付け加えた。「そういやおまえに何かもらうのって何年ぶりだろうな」
「あげたつもりないけど」と少女は言った。
「返したほうがいいのか?」
「べつに」
「じゃあまあ、もらっておくよ」
 少女は答えなかった。
「うちじゃろくに顔を合わせないのにこんなところで会うんだからおかしなもんだ」と男は言い、またひとつもくもくとため息をついた。「ひいばあさんがな」
「は?」
「ひいばあさんだよ。おまえのひいひいばあちゃんだな。お父さんは……」
「今さらお父さんとか、何言ってんの?」
「わかったよ」男は両手を軽く挙げてその異議を認めた。「子どものころ会ったことがあるんだけど、そんなにはっきりとは覚えてないんだ。親父(おまえのじいちゃんだ)が言うには、鶏を1羽飼ってて、しょっちゅう話しかけてたらしい。この話、したことあったかな」
 少女はそれを聞き流した。
「鶏はヒヨって名前で、夏祭りだったか何だか、露天商から買ったヒヨコがでかくなったんだ。卵を産むってふれこみで売られてるんだけど、ヒヨコはオスとメスの区別がつきづらいから、育ててみたらオスだったってことがよくあるんだよ。でもヒヨはたまたまメスで、大きくなるとよく卵を産んだ。可愛がられてたんだ。毎朝小屋まで卵を取りにいくのはひいばあちゃんで、そのうち孫である親父の役目になった。親父は今でも酔っぱらうとヒヨの話をする。このごろは酔うこともほとんどなくなったけどな」男は一息つくと、はずれかけた話の筋道を元に戻した。「犬でも猫でも鳥でも、亀でもなんでもいいが話しかけることは誰だってある。おはようとかいってきますとか、調子にのんなよとか言ったりするだろ。ひいばあさんはもうちょっと近所の知り合いに話しかけるような感じだった。親父はそう言ってた。誰それのご主人が役場でどうのとか、新聞の連載小説のつづきがどうとか、そういうのだよ。まあ、独り言みたいなもんだしみんなほっといた。でもあるとき親父が何気なしに言ったらしいんだ。ばあちゃん、ヒヨはにわとりなんだからしゃべらないよって。そしたらひいばあさんはおまえは何もわかってないって顔で首を振った。実際にそう言いもした。それからこう付け加えた……『あんたの父さんも同じこと言ってたけどね……そういうこと言うからよけいに喋りづらくなるんだよ』って」
 少女は眉間にしわを寄せながら絞り出すように言った。「何の話?」
「考えてみたらありえないなんて誰にも言い切れないよなって話だよ。今日だってそうだろ。ヒヨも親父が余計なことを言わなかったら喋ってたかもしれない」
「ふつうにありえないんだけど」
「まあな」と男は笑った。「でもなぜわかる?」
「本気で言ってんの?」
「まあ、ちょっと思い出しただけだよ」
「喋らなかったって言ったじゃん」
「そうは言ってない。というか、実際どうだったとかそういや突っ込んで聞いたことなかったよ。最終的にヒヨが焼き鳥になったってことだけは聞いた」
「可愛がってたとか言ってなかった?」
「首なしマイクって鶏がいてな……」
「は?ヒヨは?」
「首なしマイクはアメリカの鶏だ。首を切られても死ななくて、そのまま1年以上生きてたって鶏がいるんだよ」
「意味わかんないんだけど」
「検索したらいいだろ。おと……おれも子どものころ図書館で調べた。写真もみた」
「そんなこと聞いてない」
「その首なしマイクを雑誌かなんかで見たハルオさんが……」
「ハルオってだれ」
「もう亡くなったけど、親父の弟だよ。おれの叔父さんだからおまえの……なんだ、何になるんだ?」
「知るわけないでしょ」
「そのハルオさんがヒヨの首を切った。確かめてみたかったんだろう。実際アメリカでもものすごい数の鶏が同じ目に遭ったらしいからな。親父が鶏肉を食わなくなったのはこのときからだっておふくろが言ってた」
「何が言いたいの、結局」
「そうだな……」と父でもある男は言った。ベンチから伸びたふたつの影はすこしずつ足下に溶け出して、その輪郭を失いつつあった。「離婚する。引っ越す。おまえはつれていく」
「なに勝手に決めてんの?ついていくわけないじゃん」
「離婚する。引っ越す。おまえは母さんと生きる」
「それはもっとない」
「離婚しない。引っ越さない。みんなハッピー」
「それ、誰がハッピーなの」
「いつから知ってた?」
「ずっと前から」
「そうか」と男は言った。「おれは全然知らなかった」
「仕事ばっかりしてるからでしょ」
「そうなのか」
「じゃなんでこんなことになってんの」
「さあな」と男は言った。「おれも知りたい」
「一応聞いておきたいんだけど」
「いいとも」
「いつもこういうことしてるわけ?」
「そりゃ誰が見てもそう見えるだろうな」
「最低最悪のクソ野郎」

 それには答えず、男は内ポケットからふたたび取り出した使い捨てライターをてのひらで弄びながら言った。「ここにきたとき、本読んでたろ。何を読んでたんだ?」
「関係ないでしょ」
「じつは約束の10分くらい前には来てたんだ。おまえはもうここに座ってた」
「そのまま帰ればよかったのに」
「そうしようとおもったよ、何度も」と男は言った。「でなきゃ10分もうろうろしてない」
「言っとくけど、説教とか意味ないから」
「してないだろ」
「すごいムカつく」
「わかってるよ」
「わかってない」
「家を出たかったんだろ」
 少女は答えなかった。そして代わりにこう言った。「あたし家事とかやらないからね」

 宵闇はすぐそこまで来ていた。公園にはまだ、行き交う大小の人々があった。途切れた話の糸口を目の前にぶら下げたまま、ふたりは移ろいゆく風景を見るともなく眺めた。高い木々のてっぺんだけが、風に撫でられてしずかに揺れた。

 男は指に挟んだ吸い殻に目をやり、やがて思い出したように、帰るか、と言った。少女は何かを言いかけてやめた。まずひとりが立ち上がり、次いでもうひとりがベンチから腰を上げた。そうしていやでも同じ道を、鼓動のようにとくんとくんと帰っていった。

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