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火を吹く果実の薬剤師

 ある晩夏の夜、アパートの住人が「実家から送ってきたんで、よかったら」と言ってドラゴンフルーツを持ってきた。いろんなおすそわけがあるものだとおもった。さっそくその晩その果実に包丁を入れ、教えられたとおりにスプーンですくって食べてみた。しいてたとえるなら、それは人生の味がした。怪獣の卵みたいな形をしていて、赤むらさき色の果肉に真っ黒な種子がつぶつぶと埋まっていて、さっぱりしているが甘みはすくなく、きれいにたいらげても何だかよくわからない、それが人生でなければなんだろう?

 すっかり感じ入って、翌日は偉大なるドラゴンフルーツ農家の末裔であるアパートの住人(ドラゴンと呼ぼう)に礼を言いに行った。手ぶらでは気が引けるので、カレーの鍋を持って行った。含蓄と甘くない果汁に富んだ人生に対する返礼が鍋いっぱいのカレーというのはいささか突飛な気もするけれど、あいにくうちにはこれくらいしかおすそわけできそうなものが見当たらなかった。その結果、なんとなくふたりで食卓を囲むことになり、わたしとドラゴンとは親しく交わる間柄になった。

 いつしか恒例となったカレーを食す会で聞いたところによると、ドラゴンは一日の大半を病院で多くの薬剤に囲まれながら過ごす、正確無比な薬のスペシャリストだった。

「薬はいいよ」薬剤師はある夜うっとりと言ったものだ。「魔法使いになった気がする」

 指先による繊細な調剤が体内の災厄をせき止めたりかき消したりするなら、それはたしかに魔法かもしれない。ただわたしとしては、ドラゴンという伝説の生き物が魔法使いに憧れて薬剤師になった、と言えなくもない解釈のほうがずっと深く印象にのこった。

 何度か部屋を訪れて気づいたのは、難しそうな専門書とDVDが整然と並ぶ本棚の脇に、玉網が立てかけてあることだった。釣った魚を引き上げるときに使う長い網で、見たかんじ釣りをするようには見えなかったし、本棚にもそれらしい本は見当たらなかったから、何かの折に釣りはするのかと尋ねてみた。ドラゴンは質問の意味を汲みかねていたようだったが、わたしが指さした先に玉網があるのを見て取ると、そうじゃないと笑いながら首を振った。

「いいだろ。拾ったんだ、何かあったときのためにさ」
「何かって?」
「ねずみとか泥棒とかお化けとか……さわらなくても捕まえられる」
「網で?」とわたしは言った。「お化けを?」
「いいんだよ、やるときゃやるぞって意思表示でもあるんだから」
「火を吹けばいいのに」とわたしは他意なく言った。「ドラゴンなんだし」
「冗談だろ」とドラゴンは目をみはった。「こんなボロアパート、一瞬で焼け落ちるよ」

 ある夜おそく、近所のコンビニから帰ってくると、ちょうどドラゴンが自転車にまたがってどこかに出かけようとしているところだった。散歩だというので、せっかくだからわたしも自転車のうしろに尻を乗せてついていった。十分くらい走ると、大きな運河に沿った道に出た。わたしたちはそこで降りて、自転車を押しながらてくてく歩いた。

 工業地帯の夜は明るい。運河の向こう岸には、煌々と光り輝く製油所があった。不規則に立ち並ぶ大小さまざまな銀色の塔に曲がりくねったパイプが蔦のようにからまり合い、ある突端からは赤くやわらかな炎が噴き出し、また別の突端からは白い煙がもくもくと立ちのぼり、ちりばめられた無数の照明がそのすべてを網状に包みこんで、月夜にきらきらと浮かび上がらせていた。わたしにはそれが、荘厳な氷の宮殿に見えた。珊瑚玉の簪や鼈甲の笄を挿した艶やかな花魁に見えた。精緻をきわめた夜の心臓に見えた。そうして波紋のように音もなく伝わる巨大な鼓動を、肌で感じた。

 気がつくと横で、ドラゴンが月を見上げながら火を吹いていた。風鈴を息で鳴らそうとするような軽さで、溜まっていた熱をゆっくりと細く吐き出していた。炎は青く、ドラゴンの顔をほのかに照らした。

「擬態だ」とわたしは言った。
「目立たないだろ」とドラゴンは言った。

 伝説上の生き物と同じように、ドラゴンにも逆鱗はある。向きが逆さまで、触れると激昂するというあのおそろしい鱗のことだ。初めてそれを見たのはドラゴンの部屋に空き巣が入ったときで、触れたのは通報で駆けつけた警官だった。わたしはドラゴンのそれが大いなる誤解であることを知っていたけれど、もともと中性的な見目をしているせいもあって、その鱗はこれまでもたびたび無神経にさわられてきたらしい。

 ドラゴンはちょっとした外出で鍵をかけ忘れるくせがあった。ゴミ捨てとか、日々の買い物といった、出てすぐ帰るつもりのときはいつも鍵をかけなかった。空き巣はそのわずかな隙をついて忍びこんだ。

 運良くというべきか、それとも悪くというべきか、ドラゴンが部屋に戻ると、空き巣はまだそこにいた。玄関の三和土にきちんと靴が脱いであって、なぜか冷蔵庫を開けていたと、あとになって聞いた。

 わたしは部屋で試験勉強をしていた。わたしたちの住まいは間にふたつの部屋を挟んでいたから、すぐには異常に気づかなかった。金切り声は聞こえていた。でも悲鳴でないならそれは単なる金切り声だから放っておいた。しかしなかなか止まず、扉のすぐ外から聞こえる気もして外に出てみると、ドラゴンの部屋が開け放たれているのが見えた。発信源は明らかにそこだった。

 おそるおそる様子をうかがいにいくと、ドラゴンがキッチンの前で女を羽交い締めにしていた。ドラゴンはわたしを見ると、「わるいけど通報してくれ」と言った。女は、ちがうって言ってんのにとか、何なのあんたとか、やめなさいとかじたばたしながら喚いていた。わたしは急いで部屋に帰り、電話をつかんで通報したのち、またドラゴンの部屋に戻ってふたりで女を抑えこんだ。なぜわたしが殴られているのかさっぱりわからなかったが、とにかくポカスカ殴られた。

 警官は来た。しかしほとんど役に立たなかった。ドラゴンは女が部屋を物色していたと主張し、女は入ってない、ドアが開いていたからのぞいただけだと言い張った。とくに何も盗られてはおらず、ふたりの言い分が食い違っていたことから、警官はこれを些細なご近所トラブルと見て取り、その方向でまとめにかかろうとしていた。女には「あなたがいけない」とたしなめ、ドラゴンには「しかしあなたも大人げない」とたしなめ、その顔には「なので本官は帰ります」と書いてあった。

 ドラゴンは苛立ちを抑えながら、指紋をとればわかるはずだと言った。女はそんなの必要ないと吐き捨てた。警官は「まあまあ」と言った。それからドラゴンに向かって「相手は女性ですし、ここはひとつ」と付け加えた。それがドラゴンの逆鱗にふれた。「あたしも女なんですけど!」

 形勢は逆転した。思わぬしくじりをやらかした警官は自分の粗忽を認め、バツが悪そうに女をしょっぴいていった。まあそりゃそうだよな、とわたしはおもった。言うまでもなく被害者は大層ご立腹だった。

 失礼しちゃうよな、とドラゴンは忌々しそうに口をとがらせた。今度はわたしがそれを「まあまあ」と宥めた。また製油所を見に行こうと言いかけたけれど、これくらいで火なんか吹かないよいちいち、と返されそうで結局言えなかった。

 代わりにわたしは本棚の脇に立てかけてある玉網のことを指摘した。あれはこんなときにこそ使うべき得物ではなかったのか?もちろんわたしも忘れていた。そして仮にもう一度同じことがあったとしたらやっぱり忘れてしまうだろうことも、身をもって実感した。それでもあれが使えていたらわたしはポカスカ殴られずに済んだかもしれない。するとドラゴンはこともなげにこう答えた。「だからやるときゃやるって言っただろ」

 たしかにそうだ、とわたしは納得した。

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