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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 39

最終話. 尾ひれにも似たエピローグ


シュガーヒルの自然的良心ともいうべき一級河川を、窮屈そうにずりずりと強引に這い進んできたのはたしかに戦艦だった。ほとんどビルみたいな規格外のサイズ感から察するに、途中にかかっていた橋という橋はすべて破壊しながらやってきたにちがいない。もちろん、こんなものの出所は聞かずともわかりきっている。まるで死の100円ショップだな、とわたしはムール貝博士を他人事のように思い浮かべた。

甲板には目を射る過剰な明るさにつつまれて、ひとつのシルエットが浮かび上がっていた。全身を甲冑でかためた中世の騎士みたいな人物が長い槍をもち、厳粛なオーラを漂わせながら仁王立ちでこちらを睨みつけている。

Sweet Stuff の正面までくると騎士は合図をして戦艦を停め、どこからか拡声器をおもむろに取り出すと、びりびりと周囲の空気をふるわすようなバリトンでこう言った。「あーあー。本日は晴天なり。本屋さんは閉店なり。わたしの美声が聞こえるかねシュガーヒル・ギャングの諸君。わるいことは言わない。娘を返してもらおう」
「パパ!」スワロフスキは口の回りをクリームだらけにしながら笑顔になって立ち上がった。「パパー!」
「ああ」とアンジェリカは思い出したように言った。「そっか。忘れてた」
「パパってまさか」わたしは転げるようにして庭に駈け戻った。「甘鯛のポワレ教授か?どうしてここが?」
「ここに来る前にあたしが話したから。話さないわけにはいかないでしょ。何も知らされてなかっただろうし、責任あるなとおもって」
「なんて間のわるい人だ」とわたしは言った。「もう話はついたのに」
「わたしの慈悲が届くようなら、シュガーヒル・ギャングの諸君」と甘鯛のポワレ教授はいまいちど拡声器で叫んだ。「すみやかにその耳をわたしに預けることをおすすめする。今すぐに娘を返すのならば、今回だけは見逃してやらないでもないと言わないこともないような気がしないとは言い切れない保証がどこにもないわけではないとも限らんぞ」
「返すも何も、とんちんかんな男だね」とシュガーヒルの大姐御はため息をついた。「腹を決めてきたんなら、そんな高みからこわごわ見物してないでさっさと降りてくりゃいいじゃないか」

右手に槍、左手に拡声器を掲げたまま、甘鯛のポワレ教授は微動だにしなかった。こちらの反応をうかがいながら次に何をどう切り出すか、思案しているようにもみえた。それからふと、言い忘れていたかのような調子であわてて付け加えるのが聞こえた。「べつに重たくて動けないわけではないぞ」

「動けないんだね」とシルヴィア女史はもういちどため息をついた。「あんな重たい甲冑を着込んでくるからだ。頭に血がのぼってるんだ。言ったって聞きゃしないよ」
「沈黙をもって答えとするというのならば、それはそれでよろしい」と教授は色気のあるバリトンでおごそかに宣言した。「主砲射撃用意」

その命令が伝わると同時に、戦艦に据え付けられた物々しい砲塔がきりきりと左に回転し、1本の太くりっぱな砲身とその丸い口が照準を Sweet Stuff に合わせて、真正面からこちらにまっすぐ向いた。攻撃すればスワロフスキもその対象にふくまれてしまうというのに、駆け引きも何もない。すべてを抜け目なく計算していたアンジェリカとはちがって、日ごろ権謀術数になじむ機会のないポワレ教授はただ引くに引けないようなところまできもちが追い詰められてしまっていたらしい。唯一説得力をもって止めることができそうなアンジェリカまで何も言わずに黙っているところをみると、シルヴィア女史と同じく聞く耳もつまいと匙を投げているのかもしれなかった。ブッチはより戦艦に近い位置で賢いハンス号といっしょにぷるぷるとふるえている。わたしは半ばやけくそみたいな面持ちでつぶやいた。「どうしたらここから帰れるんだ……?」

拡声器をかまえた甘鯛のポワレ教授の無鉄砲な「撃て!」という声より先に、飛び出したのはいつの間にかスワロフスキと同じく口の回りをクリームでべたべたにしたみふゆだった。あまりに速い所作だったので例の脇差しが一閃したかどうかも判然としなかったが、おそらくこの時点で砲弾は賽の目に刻まれていたのだろう。縦横に切り込みの入った状態でみふゆの頭上を通貨した砲弾の先には、いつの間にかアンジェリカがいた。全身をバネのようにしならせたアンジェリカは、コンキスタドーレス夫人から拝借したと思わしき扇子でこれをパァンとそのまま真正面にはじき返した。砲弾は戦艦の上方に向かって飛び散ると、花火のようにパチパチとささやかに爆ぜたのち、音もなく暗がりのなかへ溶けていった。まばたきひとつする暇も与えられない、刹那のリアクションだ。拡声器をかまえたまま身動きの取れずにいるポワレ教授から、追加の攻撃命令が出されることはもはやなかった。

 *

今度こそ話はついた。語り尽くして、絞り出せる水はもう一滴もない。わたしはアンジェリカの運転する賢いハンス号に同乗して送ってもらうことになった。もちろんブッチもいっしょだ。ブッチはアイスノンの貴重な卵についても、めでたく独占契約をむすぶことができた。これからは週に一度、運がよければ天竺鶏の冷たい卵がひとつふたつ、ブッチの店に並ぶことになる。わたしも味わってみたいというようなことを言ったら、ブッチはこの日生んでクーラーボックスに収めておいたぶんを気前よく譲ってくれた。パンツ一丁であちこち連れ回されただけの甲斐はあったろうとわたしもおもう。

死神の鎌を手にしたコンキスタドーレス夫人とみふゆはタクシーを拾うと言って、Sweet Stuff で別れた。考えてみれば、この日いちばん多く危険を退けてくれたのはみふゆなのだ。彼女がいなかったらすくなくともわたしとブッチは2回くらい黒焦げになっていたにちがいない。たった1本の脇差しでこうなのだから、太刀を持たせたらいったいどうなってしまうのだろう?興味を示していたフォーエバー21に寄ってやれなかったことだけが、今となってはなんとなく心残りだ。

ちゃぶ台を食事が終わってからひっくり返しにきた甘鯛のポワレ教授は、あの重たい甲冑を身に着けたまま、スワロフスキと手をつないでガシャンガシャンと足をひきずりながらむりやり徒歩で帰った。なぜ脱がなかったのかと言えばそれはつまり、脱げなかったからだ。人のことを言えた義理ではないけれども、いったい何しにきたんだろうとおもう。町なかに持ち出した巨大な戦艦の派手な不始末を、結局その後どう片付けたのかわたしは知らない。個人的には撤去するよりいっそ船体をくり抜いて水を流したほうが手っ取り早いような気もする。

まろやかな宵の風を浴びて走る帰路の車中で、わたしはアンジェリカにたずねた。「もういちど訊くけど、本気で結婚するつもりだったわけ?」
「もちろん」とアンジェリカはハンドルを切りながら即答した。「何で?」
「何でってこともないけどね、それは」思いもよらず問い返されて、わたしは言葉を詰まらせた。「しかし、そういうもんかね」
「そういうもんでしょ。何だってそうだけど、なるとなったら四の五の言わずにそれでやっていかなくちゃいけないんだから。けっきょく反故になって逆にヘンな感じがするくらい」
「愛情を忘れてるとおもうんだよ。だって、結婚なんだぜ」
「あとから芽を出す愛情もあるでしょ」
「割り切るもんだな!」
「ははは」とアンジェリカは楽しそうに笑った。「ピス田さんてそんなロマンチストだったっけ?」

わたしはアンジェリカに奪われたスナーク・ノートのことを言わなかった。どのみち帰ればいやでも知ることになるのだから、今ここで消えかけた火に油を注いでもしかたがない。あの神秘の生ハムも屋敷に置いてきたことだし、うまくすればそれも、すでにその驚くべき味わいを経験済みのイゴールが火消しに役立てるだろう。

喧噪の Sweet Stuff から遠く離れて初めてわたしは、地の果てまでも追いかけてくるようなその強烈な甘いにおいに気がついた。あまり考えたくないことではあるが、シュガーヒル・ギャングの面々とは近いうちにまたお目にかかりそうな気がする。ふと訪れたやさしい沈黙の合間に後部座席を振り返ると、ブッチが大いびきをかきながらアイスノンといっしょに眠りこけていた。

おわり

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