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小説「転身」第四話

第四話
 
 まだ六月が終わらないと言うのに、もうどこかで蝉が鳴いている。ニュースでは今年も猛暑で蒸し暑い日が続くらしい。
 建物の向きもあって、鈴木の事務所には夕方になると西日が差し込んでくる。オンボロのエアコンは効きが悪く、熱風でも出てるんじゃないかと思えた。
「まったく、電気代ばかり食ってこれだよ」
 鈴木はたまりかねて、机の上に置いていた扇子で顔を煽いだ。それでも汗が止まらず、読んでいた調書の上に滴って落ちる。
「ダメだ、集中できん」
 鈴木は事務所の冷蔵庫を開けてやかんを取り出すと、コップに麦茶を入れてがぶ飲みした。面倒でパックを入れたままなせいか、えぐみが口の中に広がる。
(自分で作るとなんでこうも不味いのかね。あいつはいつも)
 鈴木は妻の入れてくれるお茶を思い出す。捜査で夜中や明け方に帰っても、いつも彼女は『お疲れ様』とお茶を鈴木の前に置いてくれた。俺も焼きが回ったと鈴木は呟いた。最近は亡くなった時のことより、何気ない出来事ばかりが浮かぶ。
「まったく、年は取りたかねぇな」
 空元気で声を出し、鈴木は乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。仕事を再開しようと振り返った鈴木の前に、微笑む妻の幻が立っていた。
「よせやい、お迎えには早いぜ」
 鈴木は手を伸ばして、彼女の肩に触れようとするが無理な話だった。幻は霧散して消えてしまう。
(へ、おセンチになったと笑われちまうな)
 鈴木にとって家族は何より大切なものだ。妻の死後にその思いはよけいに強まった。だから行方不明者を探し出してやりたいと思い、駆けずり回ることも厭わない。
 だが、この美穂という女は異質だ。感情というものが読めなかった。もちろん、鈴木も元刑事として凶悪な犯人と接してきた経験がある。恨みつらみや孤独など、犯人たちが抱える闇をいくらでも知っている。ただこの女が違うと感じるのは、空っぽだからだ。どんなことが起きても、何も感じてないかのように見えた。

(もっとこいつを知る必要がある。それにはこの調書だけじゃなく、生の情報がいる。美穂に会ったやつを探さなければダメだ)
 鈴木はスーツの上着を掴むと、事務所を出た。建物の外では暮れかけた日差しがまだ肌をジリジリと焼くほどの暑さだが、気にもならなかった。根っからの刑事である鈴木は、いわば獲物を追う猟犬だ。外が性に合うのだ。
(来やがったな、クソガキ)
 先程から鈴木は背中に視線を感じているが、どうせあの少女だろうと思った。不快だが、放っておくしかない。俺は俺の仕事をするだけだと、鈴木は思っている。相手によって態度や仕事のやり方を変えるのは流儀ではなかった。彼にとっては、あちこちを這いずり回って積み上げた真実こそが命なのだ。
(必ず見つけ出してやる)
 それは鈴木の強い意志でしかない。ただ執念は時に常識を凌駕し、奇跡を導く。美穂という兎の影はまだまだ遠い。しかし、この老獪な猟犬は確実に一歩ずつ近づいている。その影は鈴木の脳裏に焼きついており、歩くほどに姿が浮かび上がってくるのだった。
 

 鈴木が一番初めに訪ねたのは、佐藤健介という人物だった。鈴木は調書にあった住所から、佐藤の住む古びたアパートに辿り着いた。あれから十年以上経っているので、住んでいない可能性もある。だが、非効率と言われてもそれが彼のやり方だ。
 鈴木は軋む階段を上がって、佐藤と表札のあるドアを叩いた。中から反応はない。
(留守か……)
 鈴木は確認のためドアに耳をつけて、中の物音を確認した。かすかに扇風機の回る音がしている。在宅していると当たりをつけた鈴木は、もう一度力強くドアを叩いた。
「佐藤さん、いるんだろ?」
 鈴木の低くすごんだ声に、相手は反応した。大きなため息が聞こえた後、動く物音がドア越しに聞こえてきた。
「刑事さん?」
 顔を出した佐藤は第一声でいぶかし気にそう聞いてきた。
「元だがな」
 鈴木の回答に佐藤は安心半分、不安半分の顔をした。
「田畑美穂って女について、教えてほしいんだがな」
「だと思ったよ。俺が警察に睨まれているとすりゃ、あの件以外ないからな」
 佐藤は鈴木に掌を向けて出してきた。
「なんだ?」
「金。あんたは元で、刑事さんじゃないんだろ」
 鈴木が佐藤を観察したところでは、白髪交じりの髪は伸びきっており、無精ひげもひどい。困窮してることは想像に難くなかった。
「一枚だ。情報次第で、もう一枚出してもいい」
 鈴木は懐から一万円札を出すと、佐藤に握らせた。
「助かるよ。でもな、俺は被害者なんだぜ。あの女に車を盗まれてから、ツキに見放されちまったんだ。車は差し押さえで戻ってこない。工事に穴を開けて、店もたたむことになってよ」
「気の毒だったな」
 鈴木は佐藤に少し同情していた。美穂が最初に逃走に使った車の持ち主が彼であり、状況から一時は共謀者として疑われた時期もあったからだ。
「こりゃ、警察に何度も言ったんだけどよ。俺はハニーなんて女、知らねえんだよ。それを娘がいるだろとか、若い女囲ってたとか。痛くもない腹探られて」
「ハニーって名前に聞き覚えは?」
「だから、知らねぇって」
「車は何処に置いてた?」
「マンションの駐車場だよ、ほら男が殺されてたって。あの日、そのマンションで引っ越し後の内装確認の予定があったんだよ。ちょっとコンビニまでコーヒー買いに行ったら、あのざまだ」
 佐藤の言葉は調書通りで嘘はない。十数年後にあえて庇うような理由も彼にはなかった。鈴木は彼の顔つきを見て、そう思えた。
「もういいだろ」
 佐藤はドアを閉めようとしたが、鈴木は隙間に靴を挟んで止めた。
「凶器に使われたのは、あんたのナイフだろ。それに車のキーもつけっぱなしだったな?」
 その言葉に佐藤の顔が曇った。彼が共犯だと疑われた理由がそれだったからだ。
「ありゃ、若い時に買ってダッシュボードに入れたままだっただけで。言われるまで、俺だって忘れてたんだよ。車のキーは、すぐそこだから、ついさ」
「あんたさぁ、なんであんな早い時間にからそこにいたんだ?」
「え? そりゃ、前日に大家さんから頼まれて」
 鈴木はメモ帳を出して確認すると、相手に理解できるようにゆっくりと伝えた。
「警察の捜査によると、大家は依頼をかけてねぇんだよ。だからあんたは疑われた。なぁ、電話の相手覚えてるかい?」
「でも、携帯電話にかかってきた番号は確かに大家さんで……いや、そういや若い女の声だったかも。その時はあまり気にしなかったけど」
「そうか、助かったよ」
 鈴木は佐藤に一万円札をもう一枚握らせた。
「いいのかい? 悪いね」
 鈴木が心変わりしないうちにと、佐藤は慌てて逃げるようにドアを閉めた。それを見届けてから、鈴木はゆっくりと階段を降り始める。
(誰かが佐藤に電話したってことは、殺人は偶然ではなく予定だった。それが美穂なのか、あるいは別の誰かなのか)
 少なくともパニクった女が偶発的に起こした事件ではない。その事実に鈴木は自然と笑みがこみ上げてくるの抑えられなかった。
 

 にわかに降り出した強い雨が、車の窓を叩いた。路面はグリップを失い、タイヤは足を取られ始める。道路は見づらくなって、初めて運転するAにとっては最悪のコンディションになった。
「え?」
 コンパクトカーのホイール部分が道路の外壁を擦って火花を上げた。夜の闇に一瞬だけ蛇行した車体が映し出され、すぐにまた闇に呑まれていく。Aは立て直そうと慌ててハンドルを逆に切るが、タイヤは横滑りしてコントロールできなかった。車体が振られるたびに、Aは右へ左へとハンドルを切り続けるしかなかった。
「何よ、これ!」
 Aは事態を解決する方法も分からず、苛立ちを口にした。下り坂を過ぎた辺りで縁石に乗り上げたのは幸運だった。ショックでスピードが落ち、Aはようやく車線に戻すことができた。
 しかし、アクセルを緩めている余裕はなかった。少しでも遠くへという気持ちが心に焦りを産む。
(あいつはすぐ近くにいる)
 パーキングエリアで、バンの中で、すぐそこにまで死の影は迫っていた。Aは何度もバックミラーを見ては、後続の車を確認した。何事もなかったかのように数台の車が抜き去っていくだけだった。
「ここまでくれば」
 Aは自分を落ち着かせるために、敢えて言葉にした。きっと逃げられると思った時、雨が先ほどよりも強くなった。大きな雨粒がフロントガラスの視界を塞ぐ。ワイパーは全開で忙しく働くが、追いついていなかった。
「もう」
 Aは不満げに舌打ちした。夜間の雨は視界を悪化させ、ヘッドライトのわずかな光が作る空間しか頼りになるものはなかった。Aは前方に目を凝らしたがどうにもならず、諦めてスピードを緩めるしかなかった。

 湿度が高くなったせいで、フロントガラスが下の方から曇り始める。Aは運転しながら、袖で拭こうとしたが簡単には取れなかった。
「こんな時にガラスが曇るなんて」
 Aは車の中を見回すが、視線は曇り止めのデフロスターのボタンを通り過ぎる。ガラスを温めて曇りを取る機能も知らなければ使いようがない。Aは苛立ちながらフロントガラスを拭き続けるしかなかった。その時、電子ライターでタバコに火を着ける音が背後で鳴った。
(何? ここにはわたしだけのはず……)
 Aは心臓の鼓動が跳ね上がるのが分かった。離れたはずだった。逃げきれたはずだと思いたかった。しかし、ジリジリとタバコの巻紙と葉が焼ける音が、Aには耳のそばで鳴ったかのように大きく聞こえる。
  Aは直接振り返る勇気が出ず、恐る恐るバックミラーを覗きこんだ。誰もいなかったはずの後部座席には、まだあどけない顔をした少年が子供用のスーツを着て座っていた。手に持ったタバコが強烈な違和感を放っている。
「降ってきちゃいましたね」
 少年は声変わりのしていない甲高い声で言った。肌が白く、顔にはソバカスがあって年齢よりも彼を幼く見せる。少年はずり落ちてきたメガネを上げながら、窓の外を眺めた。
「ごめんなさい、すぐ開けますね」
 少年はタバコの煙を手で煽ぎながら、後部座席のウィンドウを少しだけ下げた。雨粒がチャンスとばかりに吹きこんできて、窓枠を濡らす。少年は生き物を愛でるようにその様子を優しげな眼差しで見つめていた。
 Aは何か言わなければと思ったが言葉が出てこなかった。慣れない運転でおまけに雨が降っているので、前に集中しなければ危険なのは分かっている。しかし、どうしてもバックミラーから視線を外せなかった。
「やめようとは思っています。でもね、ストレスというんでしょうか、分かりますよね?」
喫煙者がその気もないのにする言い訳を口にしながら、少年は慣れた手つきでタバコを燻らせていた。
「あ、この先は下り坂ですので、スピードを緩められた方がいいと思いますよ」
 少年はバックミラー越しにAへ微笑みかけた。
「何をしゃべればいいのか? そういう顔をされてますね。まぁ、そうなるのも無理はありません。あ、前を見ていただいてもよろしいですか?」
 少年はAの心理を的確に読み取っては、勿体ぶった口調で披露をした。まるで教壇で講義でもしてるかのような態度だ。
「美穂さん。いえ、ほぼ初対面ですので田畑さんがよろしいでしょうか。まぁ識別記号なのでハニーさんのように自由に名乗られても構わないのですけれど」
 Aは少年の言葉から、彼が全てを知っていると確信した。
「あなた、誰なの?」
「おや、気がついているのに質問されるのですね。構いませんよ、頭の中の整理は大切ですから。結論で言いますと僕はあなたであり、あなたは僕であった。うん、なかなか詩的な表現になりました」
 少年は癖なのか、指をタクトのように得意げに振った。自分の回答に満足していたようだ。
「あった? 過去形ってことね」
 Aは文字の一つ一つを確かめるように区切って確認した。
「田畑さんて意外と飲みこみが早いようですね。安心しました」
 少年はスーツの内ポケットから携帯灰皿を取り出すと、灰が落ちそうになっていたタバコを押し込んだ。
「あ、僕のことは先生と呼んでいただけますか? 名前がないもの不便でしょう」
「……先生ってことは、いろいろと知ってるってことよね」
「まぁ、全てではありませんけれど、そう考えていただいても差し支えありません」
先生はそう言うと、腕を伸ばして扇形のデフロスターのボタンを押した。
「少なくとも田畑さんよりは、いろいろと詳しいと思います」
 先生は後部座席に深く腰掛け直すと、スーツのポケットから新しいタバコを取りだして口に咥えた。
「まぁ、ここまでに判別できたことにはなりますけれど。どうやら少なくともルールは二つあるようです。一つは認識の有無は関係なく登場はランダムである」
 先生はそこまで言うとタバコに火をつけ、答えを勿体ぶるかのように紫煙をゆっくりと吐き出した。言葉の合間にAの苛立つ顔をミラー越しにチラリと見る様子から、この状況を楽しんでいるようだった。
「僕はハニーさんを今までもウォッチしてましたが、田畑さんが出てきたのは今回が初めてでした」
「つまり、あいつは見てるってこと?」
 Aの質問に冷静だった先生の顔が曇った。どうやら、Aと同様に警戒しているらしい。
「……二つ目は、こちらに同時に存在できるのは二人まで。これは自身が相手を認識できる、そう言い換えてもいいかもしれません」
 先生は悟られることを恐れたのか、敢えてゆっくりと言葉を区切って話した。そしてやたらと二人までという言葉を繰り返した。
「辻褄が合わないわ。あなたの言葉が本当ならハニーを殺したのは、私かあなたしかいないってことになる」
 Aの言葉を先生は肯定も否定もしなかった。黙ってタバコを携帯灰皿に押し込むと、後部ドアのスイッチで窓を閉める。

 遠くで鳴った落雷の光が、一瞬だけ二人の表情を照らし出した。先生の頬がわずかに震えていたのを、Aは見逃さなかった。対照的に彼女は自分でも冷静になってきていることを感じていた。
「僕が言いたいのは、あなたの味方ということです」
 空々しいという言葉がこれほどぴったりくることはないほどに、先生の言葉は嘘に満ちていた。
 先生はタバコを吸う時と同じ動作で、スーツの内ポケットに右手を入れた。落ち着いていることを示したかったのか、ぎこちなさが見えるほどゆっくりしていた。Aはバックミラー越しだが、その不自然さを見逃さなかった。
「私を殺したら、あなたも無事じゃ済まないんじゃない」
 Aは自分の言葉を証明するかのように、アクセルを踏みこんだ。急加速にエンジンオイルが焼ける匂いが車内にも漂った。
「僕に何のメリットがあるのでしょうか」
 先生は内ポケットに入れていた手を出し、両手とも上に向けた。何も持ってないことを示すためだった。
 Aはそれを見てもさらにエンジンを吹かし、メーターの回転数を上げた。タイヤがウエットになった路面によってグリップを失い、横滑りを始める。Aはレーシングゲームのようにハンドルを切り返し、体勢を立て直そうとしたが車体は虚しく逆向きに滑るだけだった。それでも速度を落とすことなく、蛇行させながら運転を続ける。
「分かりました」
 先生はそう言うと、大袈裟にため息をついた。
「ゲームをしませんか? あなたが勝てば教えましょう」
 先生は敵意がないことを示すために、無理に笑顔を作ってみせた。しかし、見え隠れする悪意はどれだけつくろっても隠しきれない。Aは再び逃げ場のない状況に追い込まれていた。

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