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小説「転身」第十話

第十話

 京急線の蒲田駅で下車すると、鈴木は地図を開いてもう一度目的地を確認した。美穂と行動していたチンピラの武本は出所後に、実兄の運送会社に勤めているとわかった。ここからだと十五分ほど歩けば着く距離だ。
(やつは最後まで行動を共にしていた。もし連絡を取る可能性があるとしたら)
 他にはいないと鈴木はそう睨んでいた。
 鈴木は駅ビルのある東口を出ると、通りを西に向かって歩く。陽は傾きかけているが、焼けたアスファルトのせいでまだまだ暑い。鈴木は首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
 通りを一つ入ると街並みには昔ながらの下町が色濃く残り、まるで昭和に戻ったかのような錯覚に陥る。子供の頃はこんな景色ばかりだったと鈴木は懐かしく思った。
「さてと、この辺なんだが」
 周囲を見回すと、ガレージではトラックの洗車をしている姿があった。近づくと武本運輸という社名の入った看板も見つかった。どうやらここのようだと、鈴木は安堵した。
「すみません。社長の武本さんはおいでですかね?」
 ガレージにいた男に声をかけると、相手はバツの悪い顔をした。
「もしかして、電話くれた鈴木さん?」
 男の声ですぐに、鈴木は相手が兄の武本社長だと気がついた。
「はい。で、弟さんは?」
 鈴木は期待を感じたが、返ってきたのは予想外の答えだった。
「それが……実は勝のやつ、いなくなっちまって」
「いなくなった?」
 鈴木は思わず大きな声を出した。
「いや、いたんだよ。一昨日までは、ここに。でも、あんたが会いたいって話をしたら、姿消しちまって」
「弟さんは、昔の仲間に会ってるとか言っちゃいませんでしたか?」
「ないよ、ない。あの事件以来、心入れ替えて真面目にやってたんだ。だから、なんでいなくなったのか」
 どうにも不味い展開になったと、鈴木は思った。武本に会わせたくないやつが先回りした可能性がある。
「弟さんの部屋、見せてもらえます?」
「それはちょっと。だってあんた、刑事さんじゃないんだろ?」
 渋る社長に、鈴木は顔を近づけた。
「生きてるといいんですがね」
「ど、どういうことですか?」
 鈴木の脅しに、社長の顔は一気に青ざめる。
「探せますよ、弟さん。俺ならね」
 社長は震えながら頷いた。
(できりゃ、生きてお目にかかりたいが)
 最悪のケースも想定したが、消される前に見つけ出さなければ話は聞き出せない。厄介なタイムリミットだが、それは返って鈴木にガソリンを注くことにもなった。どうやら相手も焦っている。兎の影に近づいた証拠でもあった。

 奇跡的に生き残った二人として、Aと男がテレビニュースに取り上げられない日はなかった。病院からの退院後は、コメントを取ろうと何処へ行くにも報道陣が二人を追いかけた。
 ピークは恋人同士として一緒に暮らすことになった日であったが、事実は少し違う。二人は追い回されて疲れたことで引きこもったに過ぎなかった。
 二人で暮らしても、Aと男にこれといった変化があったわけではない。口の中に食べものを運ぶだけの作業として食事をし、長すぎる時間過ごすために眠った。
 顔を合わせても生きていくために最低限の必要な会話だけを交わす。ただ、それだけを日々繰り返した。同じ場所にいるが、互いに空気のような存在と言えた。
 そんな平穏がなせる業なのか、Aに他の人格が現れることもなかった。Aにとってこんなにも長い時間を主役として過ごすのは初めてのことだ。そんな生活が数か月過ぎた頃、男から結婚の提案があった。
「どうだろう? 悪い話じゃないと思うんだ」
 Aは驚きもなく、男の続ける話を黙って聞いた。男のすることにはいつも意図が隠されていたからだ。
 男は現在の状況を冷静に分析し、Aに伝えた。事件によって暴力団組織は壊滅的な状態となったこと。あり得ないが跡目を巡っては男の名前まで出ているらしい。安藤というカリスマがいなくなったことで組織も混乱しているのだろう。
「幸いにも遺産が手に入った。しばらくは困らないと思う」
 男は建前としては、視覚障害のために管理を任せられる人が必要なこと。また、しばらくはマスコミから追われるため、事件の真相を知る二人が一緒にいる方が自分たちにとっても都合がよいことなどを説明した。
「お金を使って変に身を隠すよりも、ハッピーエンドのほうが世間の同情が集まる。そっとしておいて欲しいとコメントを出せば、マスコミだって動きづらくなるだろう」
 まるで事前に用意していたかのように、男は淀むことなくしゃべり続けた。その後も男から理由はいくつか説明されたが、常識としては真っ当なものばかりであった。
 しかし、Aが納得のいくものは一つも見当たらなかった。男が本心を語っているようにはとてもだが思えなかったのだ。
「僕が言うのもなんだけれど、あれは危険だと思ってる。幸いにも君から聞いた他の人格も抑えられてるようだし。この環境が影響していることも考えられないかな」
 Aは男の言葉を頭の中で繰り返した。ここ数ヶ月の安定を考えれば、男の推測が違うとも言い切れない。しかし、力を使い果たした女が眠っているだけとも考えられた。
「本当の主人格は君なんじゃないかと思う」
「え……そんなはずは」
 Aは男の言葉を否定した。ある訳がない、いやあってはならないとさえ思った。Aはあの化け物を見つめてるだけの傍観者という存在だったからだ。
「そう考えたほうが辻褄が合う」
 男はAがほぼ全ての人格を把握していること。他の人格が極端な傾向を示すのに対して、Aは比較的にバランスが取れた存在であることなどを述べた。
「それはないと思う・・・」
 自信のかけらもないAの言葉は、むしろ肯定しているように見えた。
「彼ら彼女らの反対方向にいるのが、君なんだ。まるで君を守ってるように見える」
「何のために?」
 Aは男の言葉に反応して、思わず口調が強くなった。記憶の隅に押し込めた何かが、痛みを伴って蠢いていた。何重もの扉の奥に隠されたそれは、思い出す行為でさえも身体を震わせた。
「あれを生み出したんだとしたら、かなりのことなんだろうね。思い出さなくてもいいよ、目的はそこじゃない」
 Aは会話の間中、激しくなった動悸が収まることがなかった。
「主人格が君なら、あの子を生み出したのも……」
 男は言いかけた言葉を飲み込んだ。うかつに口に出してしまった。そんな表情をしていた。
「とにかく結婚して、子どもでも作ってみたら。このまま収まるかもしれない。それに」
「待って。あなたに何のメリットがあるの?」
 Aは思わず口を挟んだ。
「……僕はすべきだった目的がなくなった。だから、新しい目的を考えてた。それが理由じゃダメかな?」
「新しい目的って」
 Aは男の光のない瞳を覗き込んだ。彼の白く濁った眼球がわずかに上に動いたかのようにも見えた。
「復讐」
 男はそう呟いた。何かを隠しているが、嘘をついてるようにもAには聞こえなかった。
 
 次の日から男は定期的にAを連れて出るようになった。予約したレストランでの外食や大型のアウトレットでの買い物、近距離の日帰りの旅行など。まるで世間にデートを見せているかのようだった。
 まだあの血生臭い事件が風化したというには早く、非難や同情が混ざりあった好奇心が二人を逃さなかった。
 普通というカテゴリにある人々が瞬く間に怪物へと変わる。テレビや週刊誌の記者だけでなく、ありとあらゆる人が各々のカメラを手に二人に群がった。たとえそれが数人しか見ないようなSNSであっても、承認欲求を満たすためなら、善意などはもはや時代遅れでしかないのだろう。
 しかし、男は喜んで応じた。見たこともない人々と笑顔で抱擁した。幸せな記憶というより、Aにはそれがむしろ研究の記録を作っているように見える。
 Aがそう考えたのは、家に戻るといつもと変わらず、男は最低限のことをこなすだけだからだ。それこそが、この男だった。
 変わったことと言えば、一つ目が男から言われてAは基礎体温を記録するようになったこと。二つ目が排卵日に男から精子が入ったスポイドを受け取り、自分の子宮に放つことだった。男は本気で子供を生産する気らしい。それがまるで作業のように目的に向かうだけであっても、男は事足りると考えているように見えた。
 そんな強制された生活のストレスなのか、Aは同じ夢を繰り返して見るようになった。夢はいつも見知らぬ誰かを刺し殺すシーンで、目覚まし時計の音楽に起こされて終わる。
 殺される相手はどこか男に似ていた。Aは割れそうに痛む頭を抱えながら、そんなことを思った。三ヶ月ほどそんな生活を過ごしたが、Aに妊娠の兆候は見られなかった。
「うまくいかないものだね。まさか妊活に手こずるとは」
 男は微塵も悪びれる様子なく、真面目な顔でそう言った。
「別に妊娠しなくても」
 そう言いかけたAの言葉を、男は遮った。
「君の能力が影響してるのかも。方法を変えた方がいいのかもしれない」
 男が言った能力という言葉に、Aは違和感を覚えた。
「君は望んでいない」
「望むも何も、あなたから説明さえないわ」
 Aは思わず反論した。男の考えていることがさっぱり見えなかった。この繰り返される無意味な会話に、Aはイライラとした感情を感じてさえいた。
「静かに。聞こえてしまう」
 男はゆっくりした口調だが、威圧感を込めて言った。Aはそんな男の行動に違和感が募る。あの化け物はAを通して、この出来事を感じている。隠すことなど不可能だと思った。
 もし、仮に男がAではなく、あの化け物のために動いているとすればまた別なのだが。男は戻るまでの時間を稼ぐために、Aを守っている。むしろそんな考えのほうが腑に落ちるところがあった。
「一緒に暮らして気づいたんだ。異常な出会い方だったから、今でも思うところはある。でも、メリットやデメリットを整理して、総合的に考えると僕は君を愛していると思える」
 男の言葉は明らかに嘘だ。声の抑揚や振る舞いで分かったのではない。この男は人を愛さないと、Aは出会った時から気が付いていた。
「今から君を抱く。嫌なら突き飛ばしても、逃げても構わない。僕は見えないんだから」
 男はわざとその言葉を口にした。Aの逃げ道を塞ぎ、自身が望んでいると思わせるためだ。それを知ってさえ、Aは逃げることを考えなかった。
(わたしは必要とされている……)
 その考えは麻薬のように彼女の心を浸食し、依存させた。男が自分を愛していなくても、初めて必要とされた。その行為がAの心を捕えて離さなかった。
「私もあなたを愛してる……」
 Aは自分を肯定するためだけに言葉を口に出した。それだけで胸に刺さっていたものが軽くなる。たとえそれがサイズ違いの服であっても、与えれらなかった温もりを求めた。
 Aは男を受け入れた。優しい言葉も、愛撫もない。ただ繋がっただけの性交。それでも男の背中の広さに、腕回りの筋肉に安心を覚えた。逃げ隠れることのない、守られる場所を必要としていた。
 男は作業のように、Aの胎内に精を放った。その瞬間、Aは小さな命が生まれたことを感じた。錯覚ではない。まだ器官さえも誕生していない、その小さな細胞から視線をはっきりと感じたのだった。

 日が経つにつれて、夢はどんどん形をなしていく。手には誰かを刺した感覚が残るようになった。不安を感じたのは、最初は輪郭もぼんやりとしていた誰かの顔が男の顔に似てきたことだった。そして、それは現実になる日を迎えた。
 朝の光が、Aの眼前で部屋を浮かび上がらせる。そこは壁にも床にも染みが一つもない、異常なまでに白に統一されたあの部屋だった。
 Aは目覚めた瞬間にこの旅の始まりが、何処にあったかを思い出した。この部屋の中央に置かれたベッドの真上には、黒ずんだ血が薔薇の大輪を咲かせ、その花弁に包まれるようにAは男と並んで眠っていた。
 Aはゆっくりと手を伸ばして男の顔に触れてみる。既に血の気が引いた肌は冷たく、男は呼吸することを忘れたようだった。男の死を確認するのは二度目だった。
(わたしは……この人を愛していたのだろうか?)
 Aの頬を忘れていたはずの涙が伝う。
「悲しむことはないよ、記憶の中の残像に過ぎない」
 声に振り返ると、男がAの背後に立っていた。
「計画は成功したんだ。後は君次第さ」
 Aは内部からの胎動を感じた瞬間、全てが繋がったことを理解した。決着をつけるためのタイムリミットは迫っていた。
 

 目覚めた病院のベッドの上で、Aが最初に口にした言葉は看護師を驚かせた。
「警察を呼んでほしい」
 告げた言葉が独り歩きし、医師たちも重傷を負ってAが錯乱していると考えた。しかし、Aが詳細に次々と語る殺人の内容に人々の疑念は吹き飛んだ。世間を騒がせた事件とあまりにも符合しており、語り終える頃にはそこにいた誰もが信じざるを得なくなった。
 警察によるAの事情聴取はほぼ病室で行われた。主にはAの容体を慮ってのことだが、淡々と事実のみを語るAの覚悟に逃亡の可能性はないと判断されたからだ。
「わたしが全てやりました」
 Aがそう全面的に罪状を認めたことで、捜査は異様な速さで進んだ。ただ事実との整合性を言うなら、彼女の申告した死体の数は半分になった。花、先生、隠者と呼ばれた遺体は最後まで見つからなかったのだ。
 それでも検察は立件には充分と判断した。また罪状に記載しなかったことは、精神鑑定での無罪を避けたかったこともあるのかもしれない。
 裁判も異例の速さで進み、裁判に立ち会った裁判員たちも驚きを隠せなかった。彼らは口を揃えて彼女を評した。まるで感情を持たない人形のようでいて、死刑だけを望んでいるようでもあったと。
 Aの担当になったのは、小さな事務所のイソ弁と呼ばれる若手で、古賀という名だった。頭の回転も速く、物腰も柔らかで有能さは感じられたが、本人曰く損することが多いらしい。頼まれると嫌と言えないのだ。
「申し訳ありません、弁護士の先生に手間を取らせてしまって」
 Aは拘置所に接見に来た古賀へ、そんな言葉をかけた。
「もう体調はいいんですか?」
「はい、ケガ一つできなかったので」
「運がいいんですよ、首に巻いたシーツが切れたのは。大事にしてください、あなた一人の身体ではないんだから」
 古賀は心からAの身体を心配した。まもなく臨月で出産を控えており、精神的に不安定になっていると考えたからだ。
「食事もろくにとってないそうですね。大事な時期なんですよ」
「……先生、私の死刑はいつ頃になるんでしょうか?」
 Aの質問を、古賀は勘違いした。
「大丈夫ですよ、まだ検察の求刑が死刑になっている過ぎません。もしも不利な判決になっても控訴だってできるんです」
「そんなに待てないんです」
「田端さん、希望を捨てないで。これから生まれてくるお子さんだってお母さんが」
 Aはその言葉に思わず前のめりになって、両手で接見室のガラスを叩いた。
(何もわかっていない)
 Aは何も理解できない弁護士に苛立った。だがそれは空しい行為でしかない。Aと世界はこのガラス一枚で隔てられているからだ。
「おい、座れ」
 立ち会っていた刑務官がAを諫めた。
「接見を打ち切るぞ」
 Aはゆっくりと腰を掛けなおすと、深く息を吐いた。
「田端さん、たとえ死刑が確定しても執行までは平均で7年くらいはあるんです」
 古賀の言葉は最後通告のように聞こえた。
「そんな……」
 自殺もできず、死刑執行はAにとって永遠とも思える未来の話であった。 これでは八方塞がりであり、もはや成す術がなかった。
「まだ結婚もしてないから、姉に聞いてみたんですけど。良かったら」
 古賀はそう言って、新生児用の小さな靴下を見せた。
「あ、しまった。持ってきても渡せないんだ。困ったな」
 Aは古賀の苦笑いを薄気味悪いと感じた。
(しあわせとは何なのか……)
 Aには疑問でしかなかった。ただ生まれてくることを安易に喜び、生きていくことが正しく、未来は可能性に溢れていると疑わない。そんな生き方をどうやって引き当てればいいのか。何度リセットすればそこに辿り着けるのか。
 Aにとってそれは遠い世界の出来事であり、男と過ごした束の間の平穏も仮初でしかなかった。持たない者同士が滑稽に上辺だけをなぞり、時間だけが過ぎるのを耐えていたに過ぎない。
 自分たちという人形を使って、テレビで見たような暮らしをしているごっこ遊びだ。すべきことはただ一つ。
「もし、その日まで生きていたら、この子はどこで産むんですか?」
 Aは顔を上げ、古賀に質問をした。
「警察病院の予定です」
「警察病院……」
 Aはその言葉を反芻した。ここを出て一人になれる、チャンスはそれが最後だった。
「名前、決めましたか?」
「……つけたほうがいいんでしょうか?」
 予想外の質問に、Aは思わず聞き返した。死のうとする人間にとって、それが必要だとは考えてもみなかった。腹部に触れると、掌全体に胎動を感じる。その時はまもなくだということを告げていた。
「考えてみます」
 接見の最後に、Aはそう言い残した。
(名前……)
 何もかも知っているようで、Aはそれを自分に一度たりとも使ったことはなかった。
 名前は形を作り、意味を成す。この世界はその名を考え、存在を問うだろう。正であれ、邪であれ、翼を広げて舞うだろう。ただ終わりへ向かって進むために。生物は死ぬまでそれを繰り返す。意味はないその行為に、人だけが理由を求める。
 Aにとっては自分自身でさえも記号でしかなく、最後までその理に属せなかった。だからこそ訣別のためには名が必要な気がした。どんな英雄も屏風の虎は倒せない。この世界に形作らせなくてはならないのだった。

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