見出し画像

小説「転身」第六話

第六話

 ストレッチャーの小さな車輪から伝わる振動が身体の内側にまで響く。その度に痛みが波となって寄せ、Aはまだかろうじて生き残っていることを思い知らされた。
 肺が圧迫されて息がまともにできず、Aはいっそ意識を失ったほうが楽かもしれないと思えた。だが、事態は無情にもAの意思とは無関係に進んでいく。
「廊下空けて、早く!」
「左脚の脛骨及び腓骨に複雑骨折あり。レントゲンの用意をお願いします」
 病院の白い廊下を慌ただしく過ぎるスタッフ声たちが、緊急性を周囲に知らしめていた。消え去りそうな命を守ろうとする使命感と、救えないことへの無力さや苛立ち、焦りの感情を含んだその声さえもAにとっては苦痛だった。
「右肋骨に少なくとも複数箇所の圧迫骨折の疑いあり。呼吸困難を起こしています」
 数名の救急スタッフたちがAの状態を共有するために、医師に矢継ぎ早に答えていた。
「頬に裂傷があるぞ。頭部を強打している可能性は?」
「患者とは会話できていないので、わかりません。事故車の状態からも早急に検査が必要です」
 Aは混濁する意識の中で、自分の症状を他人事のように聞いていた。捕まる前にいっそこのまま死んだ方がいいのかもしれないと思えた。
「腹部の触診で胎動が感じられました。妊娠している可能性が高いと思われます。」
 救命士の言葉に医師は眉を顰めた。最悪の場合は胎児を取り出すことになる考えが頭をよぎったからだ。
「とにかく出血がひどいな、応急処置を急ごう。俺が止血してる間にオペのスタッフをかき集めてくれ」
 医師が指示を出すと、看護士やスタッフたちは最低限の必要な言葉を交わした。Aには分からないが、薬や器具の話のようだった。
「いいか、そっと移せよ。ショックは与えるな」
 手術室に運ばれたAが処置台に移された後、医師と看護士の二人だけを残して誰もいなくなった。

「さて、どうしたもんか」
 医師は口では言ったものの、大腿部の血管を縫合する止血作業の手の動きは緩慢だった。
「危険な状態ね。一真先生、間に合うの?」
 看護師の言葉に、一真と呼ばれた医師は大義名分を得たように手を止めた。
「分かってるさ。でも、今日は事故続きで急患が多すぎる。いくら俺でもな」
 根拠のない自信と投げやりな響きを込めた言葉に、Aは最低の医師に当たったと心の中で毒づいた。
「でも、一真先生ならできるんでしょ」
 猫撫で声の甘えた看護師の言葉が気になって、Aは眼球だけ動かして彼女の名札を見た。高原歩という名前らしい。
「誰かが朝まで寝かせてくれなかったからな」
 一真はにやつきながら、昨夜の歩の肢体を思い浮かべていた。人手不足で急遽雇ったらしい新人の看護師と彼は聞いていたが、遊び相手としては丁度良かった。ましてや相手から誘ってきたのだから、男としては断る理由がなかった。
「もう、一真先生ったら」
 歩は媚びた笑顔を一真に向ける。
「今日も可愛いがってやるよ」
 一真は無造作に歩の尻を鷲掴みにした。
「手術中ですよ、もう」
 一真たちの会話から、Aは二人が男女の関係であり、既に自分の存在さえ気にしてないとこを悟った。できることなら、担当変えを申し入れたいが、言葉さえ発せない状況だ。コント以下の下卑た二人のやりとりを受け入れるしかなかった。
「なんだよ、勿体ぶるな。医者は神じゃないんだ、ご褒美さえないのか? 俺が手を離したらこの女は死ぬ。だけどそれが何だ」
 面倒くさい男だと、Aは感じた。要は自己中心的でかまって欲しいのだ。
(あの人ならこんな時どうするのだろう……)
 Aは思いがけず恋人だった男を思い出した。そして、搬送中に聞いた妊娠の言葉。
(あの人の子供?)
 幸福な未来など描けるはずもなかったのに。滑稽な行為でしかないと、Aは思い直した。Aが彼の何を知っていたかと言うのだろう。写真や指輪からそうなのだと思っただけに過ぎない。所詮は他人の記憶でしかないのだ。
「……もちろん、先生の凄さはわかってます。今日だってたくさんの人が救われたわ。あなたがいたからよ」
 どこかぶりっ子にも感じられる演技がかった歩の言葉に、Aは彼女の押し殺したため息が聞こえた気がした。明らかに歩が年下だが、この二人の関係は彼女が握っているらしい。
「応援が遅いな」
 多少の機嫌を直したのか、一真は止血作業を再開した。先ほどとは打って変わって手際よく血管を繋ぎあわせる。少なくとも救急医としての腕は確からしい。
「確認してみますね」
 歩は壁掛けの内線電話をかけたが、コール音がするばかりで誰も出そうになかった。
「ダメ、誰も出ないわ」
「諦めるか、もう。どうせクスリかなんかやって暴走したんだろ。こんな奴は生きてたって苦しむだけだ」
「えー、先生が患者さん救うところ見たかったのに」
 くだらないとAは思った。二人のじゃれあいに苛立ちさえ感じる。直接的な危険がないことだけが救いだったが、なぜか嫌な不安が付き纏った。

 その正体が誰かの強い視線だと気づくのに時間はかからなかった。会話や仕草の隙間に向けられる憎悪の視線が、ハッキリと背中に突き刺さるのをAは感じていた。
 この二人のうちどちらなのか? それとも他に誰かいるのか? 身体を手術台に固定された状況では確認する方法さえなかった。
「あんな事故を起こすようなやつだ、どうせ犯罪者さ」
「まぁ、そうなんですけどぉ。でも、赤ちゃんいるかもしれないんですよぉ」
 この男なのか、それとも女の方なのか。Aは言葉から正体を掴もうとするが、どれも疑念となって頭の中で反響するだけだった。
「まぁ、事件絡みらしいし、朝にはニュースだろうな。助かったら取材とかあるかもしれないし。助けようとは思うよ。けど二人じゃ無理だろ」
「それは……そうですねぇ」
「よし、多数決でオペを続けるか決めよう。それなら民主主義だし公平だろ。俺たちはできることをやった、でも助からなかった」
「それはまだ。応援が来るかもだし」
「応援が来なかったせいだ。だから、ここで決めることは仕方ないんだ」
「うーん、そんな難しいこと言われても。あれ、でも二人だと多数決にならないんじゃ」
 歩の質問に、一真は縫合する手を止めて顔を上げた。
「二人とも反対すればいい」
「あ、そっか。一真先生って天才」
 一真は作り笑顔で微笑んだ。腹の中では歩に苛立ちを感じていたが、争いは避けたかった。この勤務明けには彼女と濃密な時間を過ごそうと考えていたからだ。
「じゃ、多数決を取るぞ。オペの中止に賛成するなら手を上げよう」
 一真はAを見下ろしながら、ゆっくりと手を上げた。罪悪感は微塵も感じてないらしい。
「よし、これで決まりだな。残念だが仕方ない」
 Aは一真がその相手だったことを悟った。言葉巧みに誘導して、不可抗力で手術を中断したというシナリオを狙っていたのだと。
「あの〜先生?」
「なんだよ」
 歩の言葉に一真は気付かぬうちに舌打ちをしていた。
「私は反対ってことでいいですか?」
 一真は耳を疑った。このバカ女は俺の話を理解できてないのかと、顔を引き攣らせた。
「もう、先生ったら顔が怖い」
「ふざけるなよ」
「違うの。あのね、聞いてください」
「この状態で助かるわけがない」
「でも、まだ意識ありますよね?」
 歩はAを指差した。そして、まだ話の意味を理解できてない一真に向かって説明を続ける。
「例えば五分以内に応援の連絡がくるじゃないですか」
「それは……」
「万一にでも助かったりしたら、殺人てことじゃ」
 歩はそこまで言って、チラリと一真を見上げた。彼が分かったのかどうか、様子を見るためだ。
「も、もちろん、今のは冗談だ。ば、場を和ませようとしたんだよ」
「ですよね?」
「そう、その……オペ中に患者がありもしないことを幻聴するのは……あるさ。そうだよ」
 一真は明らかに動揺しており、汗が顔にまで吹き出していた。言動とは裏腹に、気が小さな男だとAは思った。
「よかった。私、トラブルって嫌なんで。あ、私は何も言ってませんから」
 手のひらを返したような歩の態度に、一真は苦々しい顔をした。間抜けと言う顔があるなら、こういう顔なんだろうとAは思った。
「全力を尽くすよ、もちろんさ。リドカインを用意してくれ」
 どうやら強引に物事を進める性格ではないらしい。一真の態度の変化を見て、Aはそう感じた。
「分かりました、麻酔を用意しまーす」
 Aは動けないままの自分の生殺与奪権が、この二人にかけられてしまったことを理解した。
「良かったな、まだゲームオーバーには時間があるようだ」
 一真はそう言って、見下した視線をAに向ける。Aはまた新たなゲームが始まってしまったことを知った。
 今の彼女が動かせるのは指先や眼球と言ったわずかなものでしかない。もはやどうしようもないはずだった。ましてや生きることへの執着があったわけでもない。
(でも、あの人はどうして……)
 Aは何故かまだ伝えてないことがあるような気がしてならなかった。まだ終われない。そういう気持ちが湧き上がることに気づいた。
 二人のうちどちらがAを狙っているのか。どこかにヒントは必ずあるはずだ。Aは気づかれないように二人を見比べる。
 歩は背中を向けて手術器具の準備をしていて、こちらに特に注意を向けてる様子はない。一真はレントゲン写真とAを見比べて状態を確認していた。
『こちらに同時に存在できるのは二人まで』
 Aの脳裏に先生の言葉が浮かんだ。その仮説が正しいなら、この二人のうちどちらかがそうかもしれない。けれど、二人は知り合いのようにも見える。仮説が間違えている可能性も捨て切れなかった。
(見破らなければ)
 Aは思った。何のためにという考えは捨てた。今はこのゲームに勝つことだけを考えるしかなかった。

第七話へ

第五話へ

小説「転身」トップ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?