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小説「転身」第五話

第五話

 高速道路に設置されたライブカメラが、止むことのない雨の中を走行する車たちを捉える。それぞれの目的地に向かって、何台もの車が通り過ぎていく。それらは代わり映えのない風景として記録され、いずれ消されていく。何事もなかった一日として。
 外から見ればそんな一台にしか過ぎない車内で、見えない静かな戦いはすでに始まっていた。ゲームをしようという先生の提案は罠だろう。でも、受けなければ情報は得られない。Aはバックミラー越しの先生に頷くと、車の速度をゆっくりと落としはじめた。
「それで、ゲームはどうやってするの?」
 Aは言いながらも、先生に対する警戒は解いていなかった。
「次の出口で一般道に降りましょう。そこからいくつめの信号で赤になるかをお互いに当てます。近いほうを勝ちとし、先に三回勝ったほうが相手の要望を叶える。いかがです?」
 先生はAが黙って聞いていることを確認すると、続けて言った。
「どちらにも不公平はないと思いますが。僕から先に言ってもよろしいですか?」
「先行は私がもらう」
 Aは先生にリードされるのは不利だと考えた。何かまだ裏があるように思えたからだ。
「一般道ですから制限速度を守って、安全運転でお願いします。あなたも警察に止められたくはないでしょう」
 先生は指をタクトのように振りながら言った。自分のペースで進んでいることに満足しているようだ。
「それもゲームのルールってことね」
 Aは先生の提案を受け入れた。制限速度内であれば、運転できるこちら側が有利だと考えたからだ。

 Aは出口の標識を見つけると、速度を落として左側のウィンカーを点灯させた。出口に入るとさらに速度を落とし、一般道と合流する手前の赤信号を確認してブレーキを踏んだ
「ここからスタートでいい?」
「ええ、かまいません」
 Aはバックミラー越しに見た先生の顔に浮かぶ余裕が気になったが、負ける気はしなかった。運転側なら数個先の信号まで見通せるので、有利さは変わらないからだ。
「ここから五個目の信号で赤になる」
 Aはそう伝えると、先生の様子を探った。先生は右手を顔の下に当て、考えこんでいた。僅かな沈黙の後に納得したように肯いた。
「では、僕は四個目でお願いします」
 Aはミラー越しに、先生が口元に笑みを浮かべたのが見えた。隠そうとしないので、こちらに余裕を見せているのだと分かった。敢えて後攻になることで、相手より有利な選択をすることが狙いだったと気づいた。
(そう簡単にはいかせない)
 Aにはハンドルを握っているという大きなアドバンテージがあった。青信号を確認して車を発進させると、Aは見通しの良い道路の先に視線を向けた。少なくとも三個先の信号が見渡せる。またカーナビのディスプレイにも信号の位置が示されており、情報量は圧倒的にAが把握していた。
 Aは制限速度の五十キロを保ったまま、車を走らせる。三個目の信号を過ぎたところで、次の信号付近の変化に気づいた。隣接する横断歩道の歩行者用信号が点滅をし始める。
(これなら車道の信号も黄色に変わるはず)
 Aは次の信号の手前からアクセルを緩め、目標としていた五個目の信号が赤に変わるまで減速を続けた。
「交通法規は守るのがルールでしょ」
 Aは五個目の信号が黄色に変わった瞬間にアクセルを離し、もったいぶるかのように停止線の少し前で車を停めた。
「おめでとうございます。今回はレディファーストということで勝利はお譲りしましょう」
 先生はまだ余裕があるのか、大げさに拍手をした。
「では、次の選択肢を聞かせていただけますか」
 先生は指をタクトのように振って、次のゲームを促した。Aは彼の余裕な態度はブラフだろうと思ったが、どこか違和感を感じる。まとわりつくような不安がどうしても拭えなかった。
「もう一度、五個目でいくわ」
 Aは勝利をもたらした幸運の数字に乗ることにした。このまま勝ちきってしまえば、相手が何を企んでいようが取り越し苦労に過ぎないと自分に言い聞かせた。
「なるほど。先程も五個目でしたから、悪くありませんね。僕は、そうですね。三個目でお願いします」
 先生の言葉を聞いて、Aは耳を疑った。範囲で言うなら先程と同じく四個目にした方がいいはずだった。四個以下は先生の勝利となる。敢えて短く指定したのは、それだけ確信があるということなのか。
 Aは困惑したために、信号が青に変わったことに気付けなかった。
「信号が青になりましたよ」
 先生の注意にAは慌ててアクセルを踏み込んだ。急発進のGに身体が前のめりになる。
(なぜ? 何か間違えたの?)
 言葉がAの頭の中でぐるぐると巡る。Aは先生の指定した二個目の信号をカーナビで確認した。距離にしておおよそ200メートルほどだ。信号は青に変わったばかりで、そんな早く赤になるはずがない。
 Aは時速五十キロを保って一個目の信号を通過し、視界に入ってきた二個目の信号と周囲を注意深く観察した。渋滞もなく、工事などトラブルの原因になりそうなものも見当たらない。
 Aはかえってそれが不安に思えて、僅かながらアクセルを踏む力を強めた。その瞬間、目の前に迫った信号が黄色へと不意に変化した。通過した後も自分の目が信じられなくて、信号を確認しようと振り返った。
 しかし、注意を奪われたのは信号ではなく、先生の手元だった。先生の手にはスマートフォンがあり、ストップウォッチのアプリで時間を測っていた。
(どういうこと? 何してるの……)
 Aは混乱した。ナビゲーションでなく、ストップウォッチなのは何故なのか? 時間を測ることがこのゲームの中で何の意味を持つのか? 
 だが勝負はすでに始まっている。Aは前に向き直って、三個目の信号を探した。既に黄色に変化しており、距離はまだ20メートル以上もある。
(まずい、このままじゃ)
 焦ったAはアクセルを一気に踏み込んで速度を上げた。加速するGが身体にのしかかる。間一髪で信号を黄色のままで通過したが、次の信号までの距離も短く慌てて急ブレーキを踏む羽目になった。
「安全運転でお願いしますと言いませんでしたか?」
 先生は揺さぶられて乱れた服装を直しながら、Aを嗜めた。その言葉に込められた苛立ちは、蝶ネクタイが曲がったことが一大事かのように聞こえる。Aが制限速度を超えたことや、連続で負けたことなどは意に介してない様子だった。
「うん、これならいいでしょう。では、続けましょうか。これ以上は負けられないですから」
 先生は蝶ネクタイが真っ直ぐになったことが嬉しいとでも言うかのように、指をタクトのように振った。
「さっき制限速度を超えてしまったわ」
 Aは先生の意図を確かめたくて、わざと自分の不利を認めてみた。先生は少し考えこんだ顔をしたが、すぐにいつもの調子で答えた。
「制限速度を超えたら負けとは言いませんでしたから、仕方ありません。次からは反則ということでお願いします」
 先生はすでに勝利を確信したかのような口調だった。
「それと超えてしまったペナルティと言ってはなんですが、今度は僕の先行でよろしいでしょうか?」
 先生は下から覗き込むようにAを見た。瞳に宿る自信には揺るぎはない。
「もう一度、三つ目の信号でお願いします」
 先生の声がまるで勝利宣言のようにAには聞こえた。
「私は四つ目にするわ」
 Aにはそう答えるしか選択肢がなかった。まだ余裕がある。後一つ勝てば終わるはずだと思う気持ちに、むしろ焦りを感じていた。寒気を感じるのは、粘りつくような汗を気づかぬ間にかいていたせいだった。

 横断歩道用の信号が点滅して赤に変わる。目の前の信号が変わると同時に、Aはスタートを切った。一秒でも早く進むために躊躇することを捨てた。
 しかし、そんな抵抗も数秒後には虚しく散って終わることになる。僅か十数メートル先の信号が、エンジンが唸りを上げる前に黄色から赤に変化をした。まるでマジックを見せられたかのような手際だった。
「素晴らしいですね、計算通りです」
 先生はAに向かって手に持っていたスマートフォンの画面を見せた。ストップウォッチのアプリが三十秒ぴったりで止まっていた。
「初めて運転したあなたはご存知ないかもですが、道路の信号には系統制御という機能があるのです」
 先生の言葉に、Aは力なくハンドルに突っ伏した顔を持ち上げた。
「経験はありませんか? タクシーに乗っていて、短い区間に何度も止まったり、逆に不思議なくらい青信号が続いたりとすることが」
 先生は説明の間ずっと機嫌良く指をタクトのように振っていた。
「渋滞を避けるためには、車を出来るだけ止めない事が大切です。そのために交通量の多い道路で青信号になる区間を続けるよう系統制御という機能が設けてあるのですよ」
「知ってたのね、最初から?」
 Aの質問に、先生は満足気に頷いた。
「その答えはイエスになります。あ、質問されたら答えるつもりでしたよ。でも、あなたは自分が有利だと思った。違いますか?」
 Aは感じた不安の正体を知って後悔したが、すでに手遅れだった。
「さぁ、ゲームを続けましょう。先行はお譲りします」
 Aは答えに窮した。法則がある以上は、それが分からなければ勝利は望めない。しかし、彼女に与えられた情報からは解き明かすことは不可能だった。
「三つ目の信号で」
 Aは賭けに出るしかないと、先程の先生の答えを真似た。
「なるほど悪くない答えですね。では、僕は十個目でお願いします」
 先生が浮かべた微笑みに、Aは相手がすでに法則を読み切っていると感じた。十個と言い切ったのは、圧倒的な大差で勝てると思っているからだ。
(このルールで戦ってたら負ける……)
 Aは信号が青に変わると同時に、左折のウィンカーをつけて交差点を曲がった。法則から逸脱するには、ゲームの場所を変えるしかなかった。
「なるほど考えましたね」
 そう言った先生の言葉が僅かに震えていた。
「曲がってはいけないなんてルールはなかったはずよ」
 Aは信号を避けて右左折を繰り返し、時間を稼いだ。見通しの良い場所で赤信号を見つけて止まる作戦なら、信号の制御は関係ないと考えたからだ。
「統計制御は主要道路を中心にして周辺にも及びますから、裏道は赤信号で抑制されています」
 先生の言葉通りに、裏道は信号こそ少ないものの先に見えるものはほとんどが赤だった。Aはいま停止すれば勝てるはずだった。それが油断につながるとは思いもしなかった。
「ですが、時間が悪かったですね」
 目前に迫った赤信号が黄色で点滅をし始めた。Aは目を疑った。
「夜間帯は交通量から、赤にならない場所が増えるのです」
 振り返るまでもなく、先生の顔に喜色が浮かんでいるのがわかった。
「シートベルトしておいた方がいいわよ」
 Aは五十メートルほどの直線の先に赤信号を見つけると、メーターが振り切れるほどスピードを上げた。
「田畑さん、焼けになったんですか? 反則以前にこれだと間に合っても止まれませんよ」
「忠告したから」
 Aは振り返って先生に微笑んだ。先生がその顔が脅しではないことを知った時に、勝負は決していた。側道からゆっくりと右折してきたセダンの後部に、矢のように真っ直ぐ放たれた車体が突っ込んでいった。
「や、やめろ!」
 Aはアクセルを踏んだまま足を突っ張ると、頭を両手でガードしながらヘッドレストに押しつけた。エアバックの直撃を避けるためだ。
 減速なしに突っ込んだ車体は、歩道の柵や縁石のあちこちに衝突した後に横転して停止した。
 
 衝突からどのくらい過ぎたのだろうか。顔に降りかかる雨粒が小さな固まりになり、やがて肌を伝って登っていった。Aはぼんやりとそれを眺めながら、自分がいまどこにいるのか思い出そうとした。
(ゲームは……まだ……)
 視界から入る情報が整理できず、Aには地面がどちらにあるかさえもわからなかった。重力を感じるには脳を揺さぶられ過ぎたのか、自分の身体の重みすら感じることが出来ずにいる。手探りで探し当てたシートベルトを外した途端に、Aの身体は隣のシートへ落下して叩きつけられた。
 Aはふらつく身体で運転席のドアまでよじ登ると、割れたドアガラスから脱出した。振り返って見た車のフロントは大破しており、歪んだフレームが衝突のエネルギーの大きさを物語っていた。
 かなりの衝突だったはずだが、Aの記憶に残ってはいない。どのくらい気を失っていたのか、それさえも覚束無いでいた。鈍い痛みが全身で訴えを起こしており、肋骨が折れたのか呼吸も上手く出来ずにいた。
「先生は……」
 周囲を見回したAは、数メートル離れた壁に叩きつけられた、おそらく先生だったであろう塊を見つけた。
(質問の答えは聞けそうにないね)
 Aが死体から視線を背けた時、道路に落ちた先生のタバコの箱に目が留まった。拾い上げて箱の隙間に差し込んでいたライターで何度か火をつけようとしたが、タバコは雨で濡れてしまっていた。手の中でタバコの箱を握り潰しかけて、ふと手を止めた。
(なんで、こんなにも……)
 いつから何も感じなくなってしまったのか。たった数日で五人以上もの死が起きたせいなのか。いや、他人事のように言うが違う。殺したのだ。Aは自分の変化をそら恐ろしく感じた。
(あの人は……優しい君が好きだって言った)
 恋人だったであろう男の言葉が何故かAの頭に浮かんだ。いまの自分を見ても同じことを言ってくれるだろうか。
 Aはもう一度タバコの箱を見た後、先生の遺体へと歩み寄った。しかし、左脚の膝から下の感覚がなく、不恰好に転んでしまう。
 足は通常と反対方向に曲がっていて、折れているのは明らかだった。痛みを感じないのは、極度の緊張と疲労が原因だ。歩くことを諦めて這って遺体の側まで行くと、Aはタバコの箱を前に置いた。
「必要でしょ、これが」
 Aは身体を起こして、壁に背中をつけて座った。雨は身体を打つが、その冷たさを心地よく感じている。鈍い痛みと疲労はだんだんとAの思考力を奪った。眠ろうと思うまでもなく、意識が自然と落ちていった。
 明日はきっと上手くいく。Aは眠る前にせめてそう思うことにした。
「眠るな」
 内側から響くような声が聞こえた気がしたが、Aは考える前に意識が途切れた。

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