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小説「転身」第十二話

十二話

 エンジンの重低音がうなりを上げている。ぬかるんだ悪路を走る車の振動で、Aは意識を取り戻した。
「さすが姐さん。あの爆発で生きてるなんて」
 運転していた武本が気づき、振り返って声をかける。
「夜鳥は?」
「残念ですが見当たりませんでした」
「死体も?」
「えぇ……瓦礫に埋まったか、吹き飛んだか」
「戻って探さないと」
 Aの言葉に武本は慌てた。
「死んじまいますよ、姐さん。その傷だってホチキスで止めてるだけなんだから」
 Aは傷を確認した。医療用のステープラーで止められているものの血は流れ続けていた。麻酔の切れた身体に痛みが押し寄せ、かろうじてまだ生きていると教えてくれる。
「組関係の施設じゃ間に合わない。命あっての物種だ、近くの病院へ運びますんで」
 Aにはもはや戦うだけの力は残っていなかった。夜鳥が生きているという確信はないが、終わったと納得するしかなかった。
「終わったんだな……」
「えぇ」
 武本の相槌に根拠はなかった。しかし、Aが安堵を覚えたのも事実だ。
車は山道を抜けて舗装路へと入ると、速度を上げた。武本はつづら折りを執拗にクラクションを鳴らして抜けていく。
「もうすぐですから!」
 走る車体から落ちた黒い血が、アスファルトの上に点々と航跡を刻んでいた。
 
 最寄りというだけでAを持ち込まれた市民病院は、災難であったと言うしかない。遠慮もなく正面玄関へ横付けした車から、武本はAを担いで入口へ駆け込んだ。
「どけどけ、邪魔だ!」
 血まみれの逃亡犯であるAの姿は、SNSの時代では格好のネタだった。警察が到着する頃には、ニュースはあっという間に広がる。報道陣まで押し寄せて、警察上層部がひた隠しにしていた脱走事件まで明るみに出てしまった。
 Aは緊急手術で奇跡的にも一命は取り留めた。その後は絶対安静の状態で集中治療室に隔離され、警察官が二十四時間体制で警護に当たっていた。これ以上の失態は許されなかった。蟻の子一匹通さないようにと、上層部は現場の警察官たちへ厳しい指示を出していた。
(きっと、来る……)
 Aは胸に募る不安を隠せなかった。回復させようと身体は休息を求めていたが、それよりも恐怖が勝っていた。

 夜更けにやわらかい小さな足が廊下を歩く音が聞こえた気がした。幻聴と考えるのは簡単だが、それは頭の中でアラームでもあった。夜鳥は間違いなく迫っていた。
 警護の警察官たちの阿鼻叫喚が上がる度に、逆にAの頭は冷静になっていった。
(わたしは、勝てるのか?)
 戦う方法を考えるしかない。生き延びてきた経験値が彼女をそうさせていた。
 Aは呼吸を整えて、周囲を確認する。集中治療室の出入口は一つしかなく、袋小路に追い詰められた獲物同然だった。身体も充分に動かせず、直接戦うことは選択肢にさえ入らなかった。
(考えて、きっと方法はある……)
 Aに残されているもの、それは言葉だった。言葉は見えもせず、触れることもできない。しかし、人が作り上げてきた英知でもあった。
 ドアが音を立てずに少しずつ開いていく。夜鳥は半分のところでドアを止め、左半身だけを見せた。傷ついた左目が動き、潰れた眼球がAの姿を捉える。
「意思は見せてもらった」
 高揚や怒りもなく、夜鳥は淡々と言葉を発した。不思議と室内へ流れ込む空気にも禍々しさはなく、むしろ静寂さえ感じられた。
「初めて負けた感想は?」
「そうだな、悪くない。学ぶ事はあった」
「残念ね、あなたに待つのはこの先ずっとつまらない戦いよ」
「そうだな、美しくない……」
 夜鳥が迷っているとAは気づいた。だが、それが何かまでは分からなかった。
「ゲームをしない?」
 Aは賭けに出るしかなかった。Aの言葉に、夜鳥の口元がほころんだ。
「……いいだろう。お前が鬼になって、私を見つけろ」
「随分なルールね。瀕死の死刑囚なのよ」
「それはお前の事情だ。退屈させるな」
 それがAの聞いた夜鳥の最後の言葉になった。ドアは何事もなかったかのように閉じられ、闇は再び日常を取り戻した。
 Aは戦いには勝ったが、夜鳥を殺せなかった。内なる畏れがこの世界へ飛び立ったに過ぎない。
 逃げ出したあの日から、何かが変わったのだろうか。それとも傍観者を続けていただけなのか。混沌を抱えたままAは眠りについた。意識は混濁の中に溶解し、後悔と希望を融合して明日を再び作り上げていく。いつか終わる日まで何度も何度も繰り返して。
 

 探偵事務所で報告書をまとめていた鈴木は、煙草を切らしたことでいらついていた。そのせいか、ノートパソコンを打っていても文字の間違いが多い。いらつく理由は他にもあった。苦労の末に捕まえた武本も美穂、いやAには会っていなかった。
「姐さんは現れなかったんですよ」
 意気消沈した武本の顔は嘘とは思えなかった。Aは追われていることを警戒したのかもしれない。もう一人聞くべき相手がいたが、どこまで喋るかは疑問だと鈴木は思っていた。それには理由があるが、今がそのタイミングかは分からない。
「厄介なことに巻き込まれたもんだ」
 鈴木は気分転換にコーヒーを入れようと席を立った。キッチンで淹れたままになっていた温いコーヒーを注いでいる時、窓からの風がカーテンを揺らした。
 鈴木が気配を感じて振り返ったが遅かった。パソコンに差していたはずのUSBがなくなっていた。
「夜鳥か?」
 鈴木の放った声に反応して、カーテンに映った影が笑い声と共に揺れた。
「待て!」
 鈴木が慌てて窓に駆け寄ったが、既に姿はなくなっていた。ずっと鈴木を見張っていたあの視線も感じなくなっていた。
「……これで良かったのかい?」
 鈴木が部屋の奥に声をかけると、事務所の奥から出てきたのは弁護士の古賀だった。
「ありがとうございました。これで彼女は夜鳥を追いかけられる」
「まさかあんたが協力しているとは思わなかったということか」
「……それはどうでしょうね。なにせ、形は違えども二人ともあなたを使おうとした。自分たちを探し出せるものとして」
 誉め言葉なのかどうか、鈴木には古賀の真意は測りかねた。
「なんで、俺だった?」
「あなたには強い意志を感じます。どこか似てたのかもしれませんね」
 納得がいく答えではなかったが、鈴木はAの生き方を否定もし切れなかった。彼女が脱獄までして手に入れたかったものが何なのか、鈴木には分からない。ただ、Aも夜鳥も終わることなく追い続けるのだと思えた。それはまるで失われた片翼を求めるかのようだった。
「俺は追うぜ。こっからは依頼は関係なしだ」
「止めても無駄なんでしょうね」
 古賀は呆れた目で鈴木を見た。
「あんたさ、タバコ持ってる?」
 古賀は首を横に振った。
「だろうな……」
 鈴木は灰皿のシケモクを拾って、火をつけた。
「そう言えば、拘置所で彼女はこんなことを言っていました。窓から空が見えたそうです……」
 古賀は美穂と最後に会った時の言葉を語りだした。
 
 数えることを忘れそうになるくらいの長い時間が過ぎた気がした。Aは拘置所のベッドに身体を丸めて寝転がり、うたかたのように浮かんでは消える言葉を思い返した。
 夜鳥、男、逃亡、殺人。そして結審した裁判……
(控訴して、チャンスを待つべきだろうか……)
 弁護士の古賀は控訴の期限が迫っていると焦っていた。Aにその意思がないと見たのか、会うたびに赤ん坊の写真を見せて一日でも長く生きるべきだと訴えてくる。
(上手く逃げたものだ)
 Aは夜鳥には似ても似つかない写真を見て思った。ほかの赤ちゃんと入れ代わるなど夜鳥にとっては容易なのだろう。
 古賀という男は、そういった悪意を知らない善人なのだ、きっと。人に備わった心が正しい方向に導かれていくと考えているのだ。
(わたしは夜鳥を見つけられるのか? だが、見つけてどうする……)
 Aにはその先が思い浮かべられなかった。戦いはすでに終わった。闇は受肉し、この世界へと放たれた。
 Aの失敗は自分を取り戻すことができなかっただけではない。この世界の全てをやがて訪れる恐怖へと売り渡してしまったことに他ならない。ここを逃げたとしても、Aには夜鳥を探す終わりのないゲームが待ち構えている。
 目を閉じて眠れば、この悪夢が終わりはしないかとAは考えた。そんな行為に可笑しさが込み上げてくる。死刑になろうという人間がと思った。こんな時でさえ、人間は笑える生き物なんだと。

 絶望の日であろうと、希望の日であろうと、闇は訪れ、光によって照らされる。正しさも理不尽さも関係なく、また一日が始まる。Aがいたことも、いなくなった後のことも飲み込んでいく。
 明日になればまた立ち上がろうと、Aは自分につぶやいた。例え、それがどの世界であったとしても。見上げることができるのは、この空だけなのだからと。
                       
                               終わり

第十一話

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