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小説「転身」第三話

第三話

 時間が恐ろしくゆっくりと流れていた。車のドアが開いて差し込んだ光が、車内に舞う埃でキラキラと反射する。瞬くようなその光景を、Aは美しいと感じた。Aはここで捕まってしまうのかという不安も忘れ、魅了されていた。時間さえも呼吸を忘れたかに思えた。
 車内を覗き込んだ警察官とAの視線が合い、吹きこんだ風が頬を撫でつけていく。Aはロープを手に構えたまま、呆然と立っていた。警察官もAを見た驚きで動転しており、腰ベルトの拳銃のカバーが外れずに慌てていた。
「お見合いしてちゃ、ダーメ」
 ハニーは警察官の背後から手で口を抑え、脇腹を手に隠したナイフで深く抉った。
「あはぁ、バックから襲っちゃったぁ」
 ハニーはそう言って、警察官をAの方向へ突き飛ばした。半死の警察官がAにのしかかるように倒れ込んでくる。下敷きになったAは必死で警察官を押し退けようとしたが、身体が予想以上に重くて動かせなかった。
「本気出しなよ、花ちゃん」
 ハニーはAと警察官の攻防を滑稽なものでも見るかのように笑っていた。
(なんで……)
 Aの首にかけられた警察官の手に力が込められ、呼吸することさえできなくなる。恐怖で身体が萎縮し、もがくほどに意識が混濁していった。
(こんなことしてたんだろ……)
 Aは力の入らない拳で警察官の顔を叩く。生きようという意思の現れだったのか。最後の抵抗だったのか。自分でも分からないが、Aは叩き続けた。やがて何度も繰り返し叩く拳は次第に力を失い、最後は届かずに空を切る。Aはもう意識を保つ力さえ失っていた。
(いいんだよね……もう)
 記憶の空間に飾られた思い出の一つ一つが、色も音も感じない漆黒の闇へと呑まれていく。これで終われるんだとAは思った。救いなのはいつもの場所にも似た安堵感があったことだろうか。Aの身体中から力が抜け、パソコンのシャットダウンのように意識が事切れた。
 警察官はAが動かなくなっても、力を緩めることはなかった。既にかなりの血液を失っていたが、容疑者を離すまいという意思が彼を突き動かしていた。
 Aの首の皮膚下には内出血の黒い染みが浮かび、呼吸も途絶えている。
「やぁ」
 その唇がゆっくりと動き、穏やかな声でそう言った。いつも顔を合わせる知人へ声でもかけるような調子だ。警察官の瞳に恐怖の色が浮かぶ。死んだと思った女から発せられた言葉が彼を怯ませた。
 絶命しているかに見えた彼女の瞼が開き、警察官を鋭く見据えた。彼女は警察官の傷口に指を突っ込むと、奥へと強引に手首まで差し入れていった。痛みにのけぞった警察官が彼女から離れるが、彼女の手には引き摺り出された腸管が握られたままだった。
「ごめんなさい。返すわ」
 彼女は慌てるでもなく言った。そこには興奮を感じられる感情の抑揚もなく、電車で他人とぶつかって思わず口にした。そんな口調に聞こえた。
 彼女はゆっくりと立ちあがると、床に落ちていたロープを拾い上げた。尻餅をついたまま後ずさる警察官へと近づいていく。姿形はAであったが、先刻まで震えていた姿はもはやそこにはなかった。
「人の選択とは不思議なものだ」
 彼女は背後からロープを警察官の首に巻き付けた。躊躇なく締め上げられたロープが、警察官の頸動脈に食い込んでいく。
「戻ってこなければ、違う未来もあった。だが、人は選択をする」
 警察官はロープに手をかけたが虚しい抵抗に過ぎなかった。裂けた皮膚から滲み出る血液を吸ったロープは、生きた蛇のように喉元に深く絡みついた。運命はもはや確定した。

 警察官は何か言葉を口にしたが、聞き取ることは不可能だった。顔にはチアノーゼが浮かび、口からは血混じりの唾液が溢れている。フリーズしていたAの意識が戻ったのはこの時だった。視界に飛び込んできた状況を理解する間も無く、警察官の痙攣が生々しく指に伝わってくる。
(止めなきゃ)
 その考えが先ず浮かんだが、Aはその手を離すことが出来なかった。殺されるかもしれない恐怖が、消去法で選択をさせる。Aは震える手で必死にロープを掴んで、締め続けた。断末魔の痙攣が何度か大きく波打ったが、やがて小さくなって消えた。警察官の身体が重みを増し、ロープの下に垂れ下がった。
(わたしが……殺した?)
 実感はなかった。同情や倫理観は後悔を伴って、いつか自分を苛むかもしれない。しかし、今は生き延びたことへの安堵感がAの中で勝っていた。
「私のせいじゃない。そうよ」
 Aはそう呟いた。人を殺めたことはもう誰かのせいにはできない。しかし、受け入れるにはまだ時間が必要だった。ロープを伝った血がAの手に落ちる。それはまだほのかに残されていた命の温もりを感じさせた。あっけなく小さな線香花火のように魂は終焉を迎えた。
(この人には誰か待ってる? なぜ殺したの?)
 Aはなぜこうなってしまったのかさえ、分からないでいた。警察官の男は最後に何を言おうとしたのだろう。家族はいたのだろうか。考えながらAは頭の中の疼きが、嘘のように消え去ったことに気づく。解放された快感が広がり、Aはこのまま何も感じずに眠ってしまいたいと思った。
 鎮魂のための静寂がこのまま続くかと思われたが、長くは続かなかった。狂宴の終わりを告げるかのように、まだ早朝の住宅街に数発の銃声が場違いに響き渡った。
 

 高回転で回すエンジン音が、まだ交通量の少ない県道を駆け抜けていく。バンは前走する車を煽りながら、得意げに隙間を縫って追い越しをかけていく。無謀な走行による車のタイヤの軋みがAにはどこか悲鳴のように聞こえた。
「はいはい、そこどいてねぇ」
 運転席のハニーは相変わらずのテンションで、アクセルを緩める気配もなかった。人目を避けて裏道をいくつか抜けたバンは、すでに郊外のインターチェンジから高速道路を西へ西へとと進んでいた。目的地が定まらない旅だ。
 Aは流れていく窓外の景色を眺めていた。半分ほど開けた窓からは朝の寒気が勢いよく流れ込んでくる。高揚した気分を覚ますためだったが、どこか心地よく感じられた。Aには罪悪感という思いは何故か湧いてこない。自己防衛なのか、仕方なかったと正当化する気持ちが強くなっていた。
(こんなものなの……)
 人を殺すということが、そこまで重石にはならなかった。Aは一連の出来事で感覚がおかしくなったのかもしれないと考えていた。
「車、乗り換えなきゃねぇ」
 誰に聞かせるでもなく、ハニーが呟いた。
「今じゃぁ、防犯カメラがあちこちあってさぁ」
 ハニーの言葉通りで、住宅街といえど今では防犯カメラは当たり前だ。映像から二人が警察官を殺害したことは、すぐに判明するに違いなかった。ハニーは事件の報道を知ろうとカーラジオをつける。いくつかのニュースの後に、マンションで遺体が見つかった事件の報道が流れた。
「お巡りさんのはぁまだみたい。もしかして、バレてないとかぁ……さすがにないかぁ」
 早く放送されて欲しい、ハニーの口調にはそんな期待が込められていた。
「遺体専門じゃなかったの?」
 嫌味のつもりではなかったが、Aは言ってからまずい質問だと感じた。
「私は花ちゃんのお願いなら、何でも叶えちゃうだけ」
 ハニーはそう言って、Aの顔をにこやかに見つめた。Aは思わず目を伏せる。ハニーの眼には光が存在していない。いくら笑顔であろうとも、希望とか温かみといった人が持つものを感じないのだ。笑顔というものを真似ているだけだった。あいつと同じだとAは思った。
「危ないから前見て」
 視線を合わせる勇気がAにはどうしてもなく、この同乗者に対してよそよそしい態度を示すほかなかった。
(わたしと彼女は違う……)
 どこか違う世界の人間だと思いこみたい気持ちがあった。Aは無意識にカーラジオのボリュームを上げた。例え同じシーソーの反対側に乗っている運命だとしても、ハニーといる重苦しい空気には耐え難かった。事件報道のほうが幾分ましだった。
「警察発表によりますと、被害男性の死亡推定時刻は23時59分と推測され、マンションの住人で行方不明になっている女性が何らかの関わりがあると見て捜索をしているとの……」
 Aは現実逃避で意識を強引にニュースに向けていたおかげで、一つの違和感にたどり着いた。
「ねぇ、おかしくない? アナウンサーがこんな初歩的なこと間違えたりするの」
 Aは思わず声が大きくなった。まったく現実感を持てないこのパズルのような状況に、初めてのピースが見つかったからだ。
「えー、なぁにぃ」
興味がなさげなハニーに、Aは噛み砕くようにゆっくりと伝えた。
「23時59分よ、分からない。0時頃とか24時前後じゃなくて、23時59分なの。死亡推定時刻がそんな正確に出るっておかしいわよ」
喜色を含んだAの言葉につられたのか、ハニーも笑顔で答えた。
「23時59分って、言うよぉ。なんかね、学校で習った気がするしぃ」
分かってないとAは反論した。
「だから、普通は23時59分って言わないの。時間で区切るでしょ」
「そうだっけぇ? まぁ、花ちゃんが言うならそうなんじゃない。難しいよねぇ」
 ハニーは愛想笑いして頭を掻いた。Aはその様子が返って気になった。お世辞にもハニーは理知的とは言えない。むしろ直感に頼っていると言い切れた。その彼女の感覚が正しいからこそ、盲信する花の意見に従ったように見えた。
「いま……2008年だよね?」
 Aは唇を震わせながら、一つの推論の確認のために質問をした。
「あー、だったかも……」
 ハニーは再び愛想笑いで答える。Aはその答えを聞いて、カーラジオのスイッチを切った。冷静になって考える時間が必要だった。この世界は未来なのか過去なのかも分からない。もしかすると存在していないのかもしれない。問題はAだけが知らないことだった……
 Aが考えを巡らせようとした時、鈍い疼痛がこめかみを襲った。まるで誰かが見ていて、妨害したかのようなタイミングだった。痛みはゆっくりと波形を描きながら、Aの中で息づいていることを示した。
 
 目立たないように暗くなるのを待って、大型のサービスエリアへとバンを乗り入れた。既に夜も8時近くに差し掛かっていたが、このサービスエリアは上りと下りのどちらにも出られるためか駐車場は様々な車で混み合っている。
 ハニーは小型車のレーンに車を入れると、照明を消して獲物を探しながらゆっくりと走らせた。
「やっぱここはさぁ、愛の逃避行じゃない。真っ赤なオープンカーで湾岸線て感じかなぁ」
 ハニーはいつもの軽い調子だったが、Aは捕まる気なのかと冷たく切り捨てた。
「もーう、冗談だって。ホント、やってらんない。花ちゃんてばぜーんぶ切り捨てちゃって。刀の錆にしてくれよう。えい!バサッバサッて。このサムライちゃんが」
 ハニーはふざけて手を刀のようにして斬りかかったが、Aは微笑さえ浮かべずに完全に無視をした。確かに窮地を救ってくれはしたが、一人でだってできないことはなかったとAは考えている。
「車を探しましょ」
「なによぉ。少しは拾ってよねぇ。愛情不足はよくないよー」
 ハニーは不満を隠そうとせずに喚いた。しかし、Aに相手をする気がないのが分かると、文句を言いながらも車の物色を始めた。
「小さい車の方が運転しやすいのかも……」
 Aは呟いた。免許のないAは車に詳しくなかったので、運転が比較的楽な方がと考えていた。ハニーと離れるには車が必要だったからだ。
「ねぇ、イモビライザーついてるやつはめんどっちぃからさぁ。やめよーねー」
 警戒感のないハニーが出す大きな声に、Aはイライラを隠せないでいた。
(もう、いっそここで……)
 苛立ちから浮かんだ言葉を、Aは慌てて打ち消した。こんな考え方をいつからするようになったのだろう。
(まるであいつの)
 そう考えた時に、Aは見られているような視線を感じた。気づいたことを悟られまいと、車を探す振りをして視線を動かす。しかし、どこにも姿を見つけることはできない。
「ハニー? いるんでしょ?」
 Aは口に上がりそうな不安を押し殺しながら、言葉をかけた。声は闇に吸い込まれ、そのまま消えていった。
 気のせいかと思いかけた時、パーキングエリアに入ってきた車のヘッドライトが人の影を僅かな間だけ映し出した。影は動くことはなく、ライトの光が過ぎ去るとともに消えていった。
「誰?」
 慌ててAが追いかけた時には既に誰の姿もなかった。車列の間から見えるサービスエリアの灯りが、高速道路しかない山の中で偽りの如く煌めいている。その光景が余計に不安をAの胸に掻き立てていた。

 バンに戻ったAは車両後部で工具箱を探すハニーに声をかけた。
「あったの?」
「うーん、我慢しちゃおうかなぁって。レクサスとか、なんかねー。お高い クルマさんはイモビライザーとかついてるしぃ、メンドーだけどぉ」
「イモビライザーって?」
 言葉の意味が分からずに聞いたAに、ハニーは顔も上げずにおざなりに答えた。
「ピーって鳴るのぉ。エンジンかからないしぃ。ここに電子キーを解除する道具があったはずなんだけどぉ」
 Aは無防備なハニーの背中を見つめた。今なら彼女を簡単に始末するチャンスだ。Aは無造作に置かれたままのスパナにゆっくりと手を伸ばす。その時、自分を笑うような声が聞こえた。慌ててスパナから手を離して、周囲を確認したが誰もいない。
(あいつがどこかに?)
 もう一度聞こえた笑い声はAの頭の中から響いていた。嘲笑や侮蔑ではない、明るい声だった。まるで何かを見つけた喜びのようだ。
「どうかしたのぉ?」
 ハニーがAを不思議そうな顔で見た。
「何でもない」
 Aは視線を合わせずに車を出た。考えたことを悟られはしなかっただろうか。あの笑い声はハニーだったのかもしれない。Aは考えがまとまらず、不安だけが募った。
(早くここを出ないと……)
 歩き回ることで解消するわけではないが、Aは敢えて闇雲に足を進めた。動いていれば余計なことを考えずにいられる。Aが足を止めたのは、コンパクトカーの折り畳んでないサイドミラーにぶつかったからだった。
「なんでこんなとこに」
 意識せずに当たった脇腹の痛みよりも、マナー違反の不快さに腹が立った。Aはどうせろくでもない人間が乗っているのだろうと、車の中を覗いてみた。幸運というのだろうか、運転座席の上に電子キーが置き忘れてあった。
「鍵が……」
 慌てていてポケットから落としたのかもしれないとAは推論を立てた。とにかく、こんなチャンスは逃せなかった。Aは車に乗ると電子キーを拾いあげ、すぐにスタートボタンを押してみた。低い唸りを上げたエンジン音から車に振動が走り、連動したカーナビのパネルに光が灯った。
「次は」
Aは運転をしたことがなかったが、ハニーの運転を思い出しながら見様見真似で発進する事ができた。ゆっくりと慎重にハンドルを切っていく。
「意外と簡単」
 Aは言い終わる前にアクセルを踏み過ぎて違う車にぶつかりそうになった。止まれたのは自動ブレーキが働いたおかげだ。
「大丈夫かも……たぶん」
 Aは激しい動悸を落ち着けるように、大きく息を吐いた。
(このまま逃げる? それとも……)
Aは練習のためにパーキングエリアを二、三回周る間、ハニーのことを考えていた。彼女が捕まれば自分の事を話すかもしれない。
(でも、彼女は味方なのは間違いない……)
結局は答えが出せずに、Aは車をバンの近くに止めた。彼女がいたら一緒に行動する。いなければ、このまま姿を消す。自ら選択することを避けたことが、重い影となって心にのしかかった。いなければいいと願いながら、Aはドアを少しだけ開けた。
「ハニー?」
 Aは開けた隙間から囁くように声をかけたが、返事はなかった。Aは安堵してドアを開けたが、車内の状況を見て言葉を失う。喉笛を切り裂かれたハニーがこちらを向いて座っていた。流れ出る血が彼女の服を真紅に染めている。声をかけるまでもなく、生きてはいないことは明白だった。
 Aは半分開いたままのハニーの目を手で閉じてやった。指先にまだ彼女の温かみが伝わる。救いだったのはハニーがどこか幸せそうな顔に見えたことだろうか。
 誰の仕業なのか、Aには分かっていた。直感が逃げなければいけないと告げていた。しかし、恐怖で膝は震え、立ち上がろうとする力が入らなかった。Aは転がるように後退りながら車から這い出た。
 ふと手に持っていたものに気がついて、慌てて投げ捨てる。それは車内の壁にぶつかって血の跡をつけると、鈍い音を立てて床に転がった。ナイフがAに切っ先を向けたまま、血を滴らせていた。

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