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散歩の途中 3


トッカン

 「マスター、お土産。ほらこんなにたくさん」とバーカウンターの上に津崎さん夫婦がブルゾンのポケットから木の実を並べて見せた。
 ミズナラ、マテバシイ、クヌギ、サワグルミ…。公民館の秋の巨樹探索会に貸し切りバスで出掛けたのだ。
 バスで二時間ほど揺られ県北の自然公園の散策路を巡った。十一月に入っての冷え込みで紅葉の見事さはここ数年で一番だったらしく、夫婦は興奮気味に秋の山の色づきをマスターに語った。
 東京から転勤でこの町に来ている津崎さんは造船所のエンジニアである。二人とも都会育ちで、海にも山にも近い地方都市にいる間にさまざまな自然体験を、と考え週末ごとに精力的に海山を巡っている。
 巨樹探索会は年間プログラムで県指定の十二の巨樹巨木を訪ねる企画である。春から始まったこのツアーに欠かさず参加しているのだ。
 カウンターに並べた木の実を津崎さんの奥さんが手帳を見ながら説明してくれた。「ドングリはみんなドングリかと思ったら、みんなそれぞれ違うんですね」と感心してみせた。津崎さんもそばで笑いながら相づちを打つ。
 「収穫をいただきますか」とマスターは五つあったサワグルミの実を器用に割って、小皿に実を取り出し、バーボンのロックをそれぞれに注いだ。

 トッカンはどうしているだろう。木の実の感触を手のひらで確かめながら、マスターは小学三年の秋のことを思い出していた。
 三年とはっきり覚えているのは、父親が突然家からいなくなったその年だったからだ。母が働きに出たため、市郊外の祖母の家に預けられた。
 学校も市街地から少し山際にある小さな小学校に転校した。半ズボンにズック靴の子どもは一人だけでなかなかなじめなかった。
 トッカンは転校したばかりのクラスにいた。暴れると手がつけられず、三十人ほどのクラスも上級生も誰もが避けた。トッカンも学期の途中で転校してきたらしく、林道の入り口にあるトンネル工事の飯場に住んでいた。
 クラスのガキ大将ら数人が帰り道のトッカンを待ち伏せした。転校生を配下にする儀式だったらしいが、トッカンはそのガキ大将を無言の頭突きで倒してしまった。
 小柄なトッカンは無口で、まだ誰とも話すことはなかった。半ズボンでズック靴の転校生もまた待ち伏せされ、囲まれた。立ち竦んでいるとトッカンがあらわれて集団は舌打ちして散らばった。
 林道入り口の先に祖母の家があったので、二人は並んで歩く羽目になった。トッカンがポケットから握りしめた木の実を差し出した。先細の尖った見たこともないドングリだった。
 林道の分かれに小さな祠があってその後ろの小さな丘にこんもりとした森があった。
 トッカンは顎をしゃくるようにして「ついて来い」という仕草をした。森に入ると落ち葉を掻き分け、ドングリを拾い始めた。袴を付けたドングリを見つけると首を振り、濃い茶色のスリムな実だけを拾え、と指図する。何本もある大樹のうち三本だけがこの実を付けるのだと教えてくれた。
 二人のポケットはみるみる一杯になった。トッカンは初めて嬉しそうにまた「ついて来い」と目で合図した。男たちはみな現場に出て午後の飯場はがらんとしていた。
 トッカンは七輪に火を熾し、真っ黒なフライパンを熱くするとポケットの実を一握り投げ込んだ。焙った実は香ばしいにおいがした。トッカンがあつあつの殻を爪でこじ開け、透明の実を噛んだ。「食え」と摘んだ実を手のひらにのせてくれた。
 縦に割れた筋目に爪を立てると実がほろりと飛び出した。不思議な味がした。二人で夢中になって食った。
 それから何度もトッカンとその森に入った。冬が来る前にトンネル工事が終わり、トッカンはいなくなった。最後の日にトッカンはポケットから先細の実を手のひら一杯とサワグルミの実を五つくれた。
 その時も、「ほら」と顎を突き出しながら手を差し伸べただけだった。
 その山際の学校にいたのは三年生の夏から冬にかけてだけだった。四年の新学期から、父が自宅に戻ってきて、また町の小学校に転校させられた。
 トッカンのくれた細長い木の実とクルミは長い間プラモデルの空き箱に大切に仕舞い、時々開けてみた。
 高校生の時、祖母が亡くなり久し振りにその森に入った。あたりにはパイパスが出来、付近は新しい住宅地に姿を変えていたが道端の祠の背後にわずかばかりの雑木林が残っていた。
 先細の実はスダジイの木だと図鑑で知った。トッカンがいつも狙いを定めた木は、大樹だと思ったがさほどでもなかった。落ち葉を掻き分けてみたが、ドングリはみつからなかった。
 トッカンのことは誰の記憶にもなかった。トッカンはなぜトッカンでどこに行ったのかももちろん誰も知らなかった。トッカンのくれた木の実は中学のころまでは机の引き出しにあったのだが、いつのまにか分からなくなった。

 カウンターの上に津崎夫婦が並べてくれた木の実の中に先細のスダジイの実はひとつも無かった。
 もしあればこの実はフライパンで焙れば、最高のつまみになるんだ、と自慢げに語れたのにとマスターは少し残念に思った。

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