一期一絵 劉生の坂道とボクの宝荘

 

切通しの写生

 宝荘という粗末な木造二階建てのアパートは東京都渋谷区代々木4丁目にあった。ボクは70年代半ばの5年近くを、ここで暮らした。

 小田急参宮橋から歩いて5分。代々木は坂道の町である。西参道と山手通り(環6)がそれぞれ坂の頂上で、二つに挟まれた参宮橋の商店街や劇団四季の稽古場、わが宝荘などは谷の底の部分に位置していた。

 京王線初台駅までは坂道を上り約8分。国電代々木駅までは坂道を上り、そして下りきったところで小田急のガードをくぐり、また代々木ゼミの前までの緩やかな坂道を上る。それでも15分あれば十分だった。地の利は抜群。宝荘は代々木の高級マンションの谷間に、取り残されたようにたたずんでいた。

    ◇   ◇   ◇

 宝荘から代々木駅に向かう急な坂道は、岸田劉生が24歳の時、「切通しの写生」(1915年)として描いたその場所である。高校の国語教科書(筑摩書房)の巻頭カラーグラビアにあった国の重要文化財のあの絵である。

 72年の暮れにここに引っ越した。二階建ての1階に11室あった。真ん中に廊下があり、石垣側の奥から3室目の10号室。四畳半で日当たりは悪かった。近くにある文化服装学院の女子学生の専用アパートとして建てられ、部屋には半畳分のミシン置き場があり、陽当たりの悪い石垣に向けて出窓があった。卒業や作品提出日が近づくと、両隣の部屋からカタカタとミシンを踏む音が響いた。

 部屋代は1万2千円に千円の管理費。当時、田舎から上京しアパート暮らしをしていた連中もみな似たり寄ったりだった。。品川や中野、阿佐ヶ谷などからすれば山手線の内側ではないものの、地の利と周辺の雰囲気の良さは群を抜いていた。

  ◇   ◇   ◇

 劉生の坂道の話に戻る。「切通しの写生」の舞台がこの地であるなどとは思っていなかった。大学のゼミの論文で「日本洋画の草創期に後期印象派が与えた影響」をテーマにした時、異端でありながら大正期の画壇に大きなうねりを作り上げた劉生を調べた。

 ゴッホやセザンヌに影響を受けた時代を経て、劉生は北欧ルネサンスのデューラーに傾倒する。その時代である。年譜を繰ると「1914(大正3)年、代々木山谷に転居」とある。それでも毎日、上り下りする坂道と、教科書の巻頭のあの坂道の絵がボクの頭の中で重なっていたわけではない。

 代々木4丁目はマンション立ち並ぶ住宅地ではあったが、八百屋や銭湯など昔ながらの街並みも残っていた。ある日、銭湯に行く途中の民家の電柱に古ぼけた「代々木山谷」という住居表示板が目についた。そこでようやく代々木の坂道と「切通し」の坂道が結びついたのである。

 当時、代々木は東京のはるか郊外。むき出しの赤土は、宅造地して切り開かれている最中だった。画面左の石垣と塀は旧山内公爵邸のものである。

1970年ごろ

 「現代日本美術全集岸田劉生」(集英社)によると、「切通しの写生」の描かれた15年秋には、もう一つ「代々木付近の赤土風景」がある。この二作を見比べると、代々木4丁目「宝荘」の位置関係がくっきりと浮かび上がる。

  ◇   ◇   ◇

 画面の坂道左に描かれる公爵邸の白い塀あたりは、現在秀和のマンションなどが立ち並び、その駐車場になっている。右側上に造成中の平地あたりは現在は川崎汽船の社員寮がある。松の木が3本あるあたりは宝荘アパートの二階部分と同じ目の高さの駐車場、道路になった。「赤土風景」の絵でいえば、まさに手前の草むらあたりにわが宝荘は位置することになる。

 「劉生の坂道」の存在をひそかに誇りに思った。出会いのようなものを感じた、坂道の下で劉生が「切通し」を描いたと同じ24歳のころ、夜な夜な新宿で飲んだくれては、この坂道を下り、アパートに崩れ落ちるように眠りこけた。

  ◇   ◇   ◇

代々木の坂道

 この坂道を意識したわけではないが、そのころ「代々木の坂道」を描いた1点がる。切通しの坂道をひとつはずし、劇団四季に近い坂道を描いた。後に気付いたが、切通し同様に空がやけに青く澄んでいる。

 宝荘を引っ越し20数年がたつ。10年ほど前、あたりを歩いた。坂道の段差をうまく利用したしゃれたマンションになっていた。デザイナーオフィスが入居している。

  ◇   ◇   ◇

 切通しの坂道にはその後、東京都が立派な木柱を設置し、劉生の描いた場所を示している。劉生がイーゼルを立てたのは、ちょうど宝荘アパートの5、6段の石段を下り、代々木駅に向け、歩き始めたあたりの位置である。    =1998.4=

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?