麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑳

【本屋で昼食とアヤノさんとの会話】

 いつもの定位置であるテーブルにクーゼで買ってきた食べ物を広げる。かなりの量だった。
「ひょ~どれがアヤタンが握ってくれたおにぎりかな~」
「あんたの対応でずっとレジにいたでしょうが」
「じゃあミエタンが握ってくれたのどれかなー」
「全部だと思って食べなさい」

タクローより先に裕也がおにぎりを口に運ぶ。
「あ! おかかチーズ盗られた!」
タクローが騒ぐのを無視して食べる。おそらくお店のメニューを全て一個ずつ注文したのだろう。
「この店のおにぎりを全部貰える?」
鳴らない指を鳴らしながら言ったのかもしれない。得意げな顔で。少し笑えて頬が緩む。
「何笑ってるのさユウちゃん」
あんたの事を笑ってるんだよ。笑いがこみ上げてきた。
「何何~おもしろ独り占め~?」
タクローは口を尖らせて不機嫌そうにする。不思議な感覚だった。笑いを抑えきれなくて、肩が震えるくらい笑えてきた。と同時に目頭が熱くなってきた。それでも笑いは止められなかった。
 訂正しよう。あんたに笑わせてもらってるんだ。あんたのおかげで笑えてるんだ。
「がんばんなきゃだめだよ」車の中でタクローが言った言葉を思い出す。言われなくても解ってる。でも言ってくれてありがとう。
「がんばんなきゃなぁ」
裕也は呟く。どうしたら頑張れるのかをちゃんと考えよう。何を頑張るのかをちゃんと考えよう。
「何ちょっと! ユウちゃんちょっと涙目じゃん! そんなにおもしろい奴なの? 教えてよ~」
おかかとチーズがほどよくお米と調和してうまかった。

 最初のうちは美味しそうな味の取り合いだったのだが、最後の方は押し付け合いになっていた。それでもなんとか全て食べ終えた。タクローは食べ疲れて床に横になっていた。客を待つ店主の態度ではない。
 裕也はタクローがいつも座っている椅子で考えていた。
「本当は何をしたいの?」
タクローの問いに浮かんだものは、埋もれているはずの夢だった。
「やっぱりまだやりたい……のか」
人形のアヤタンへ聞くように呟く。返事は無いが、胸の奥がこそばゆいような、むずかゆい様なそんな気がした。
 携帯が鳴った。見覚えの無い番号だった。もしかしたら警察かもしれないと思いながらも電話に出た。
「あ、ごめんね。昨日の今日で……」
電話の主はトキエだった。本当に申し訳ないといった様子だった。
「今日の夜会えないかな?」
「かな? ってどうせ拒否権ないでしょう?」

タクローをちらりと見る。
「あのね、あたしを今日ある場所まで運んで欲しいの。車持ってる?」
「車なんか持ってませんよ」
「そっか……レンタカー借りようか。免許は?」
「あります」
「じゃあ、車を一日借りておいてくれる? あたし免許ないから」
「はあ……わかりました」
「じゃあよろしくね。あたしを下ろしたら帰っていいから。ごめんね。今日の夜12時にあたしが死んだ場所で待ってる」

死んだ場所。つまりあの信号がある交差点だろう。トキエはかなり急いでいた様子だった。今日のうちに運んで欲しいという事は明日なにかをする気なのだろうか。

 電話が終わってからぼんやりと気を重くしていると、タクローがムクリと起きて裕也に言った。
「車ならあるよユウちゃん」
「起きてたんですか!?」
「寝てないもの」
「何してたんですか……」

タクローが立ち上がり顔を近づけてきた。臭い。
「可愛いの?」
「かなりレベルは高いです。良い意味で」

悪い意味でも。
「よし。じゃあ今日は女の子と一緒にドライブだね!」
タクローは嬉しそうに言った。
「でも、いいんですか? なんか危ない事考えてるみたいですよ」
「大丈夫大丈夫。あ、アヤタンも連れて行ってあげようーっと」

裕也の心臓が跳ねる。
「え!? 誘えるんですか?」
「こっちのアヤタン」

タクローが人形の側へいって乱暴にテーブルまで連れてくる。無気力な瞳と目が合う。
「いつの間にか同じ名前になってるし……」
「これで2対2でドライブだね」

ラブドールを連れてのドライブなんて昨日トキエに話したデタラメ映画の話のようだと思っていた。


 夕方、暗くなる前にタクローの本屋を出た。次に向かう場所は決まっていた。タクローは自分の本屋でゲームに夢中になっていた。
 トキエと会う時間までに本を書いて貰う事も出来たが、裕也自身、簡単な本ではアヤノさんと釣り合いのとれたお付き合いができない事が心底解ったので急がせない事にした。
 一人で店内に入るとカウンターにはアヤノさんがいた。
「あ、お疲れ様です。いらっしゃいませ」
心臓をくすぐるようなやわらかい声と、かわいらしい表情に、今は胸が締め付けられた。
「えっと……抹茶黒蜜ラテをお願いします。甘さ少し控えめで」
特に会話をすることも無く、注文してから商品を受け取るまでアヤノさんの顔は見ることなく、裕也は三階のテラス席へと座った。
 その席は、洒落た中庭になっている三階の喫煙席の手前に位置していて二階を見下ろすことができた。客の疎らな時間帯らしく、ミエさんがいくつかの空席を拭いていた。中庭の喫煙席にも客はいなかった。
 裕也は携帯を取り出す。画面に一番連絡したくない相手を呼び出す。二ヶ月前に着信をくれたかつての仲間だった。今、役者としてドラマの仕事をいくつもこなしている元仲間だった。裕也は、自分が出来なかった事が出来ている人の言葉を聞いてみたいと思った。
 携帯の画面を見つめながら、第一声になんという言葉を使えばいいのかを考えていたそのとき、二階から三階へ向かう階段を駆け上がってくる音がして視線をむけた。アヤノさんだった。
ついさっき締め付けられた胸が再びキュッと締め上げられる。
アヤノさんは三階に着くなり、黙って見蕩れている裕也へ話しかけてくれた。
「お寒くないですか?」
裕也は落ち着ちを必死で装う。
「全然! だいじょうびです!」
噛んだ。
「味大丈夫でした? 黒蜜で甘さを出しているので黒蜜を少なくするしかなくて……」
……何? わざわざ一階から話しかけにきてくれたの?
「すごく丁度良いです。これこそ僕が求めていた味です。ありがとう」
「よかった」

アヤノさんが微笑んだ。いつもの彼女との間にあるカウンターが今は無いせいだろうか、その笑顔を見た時、あたたかい物に包まれた様な気がして、直後裕也の胸がジンとしびれた。
呼吸を忘れてしまっていた裕也へ、アヤノさんが再び言葉を投げてくれた。
「この辺りにお住まいなんですか?」
ハッとして返答する。
「いえ、お住まいは葛西っていう東京の外れなんです。しご……」
仕事と言おうとして言い留まった。仕事は今日無くなった。それに、なんの仕事かと聞かれても堂々と言える仕事内容ではなかった。他の女性ならともかく、アヤノさんには嘘をつきたくないと思った。
「しご……?」
アヤノさんが不思議そうに首をかしげていた。なんだそれ。いちいち可愛い。
「いや、しごーく素敵な街で大好きなんですよ。麻布十番!」
力技でごまかした。
「下町なので、わりと素朴な街だったんですけど地下鉄が通ってから賑やかになりましたね」
少し憂う様に言う。
「アヤノさんはこの辺りに?」
「はい。すぐそこが実家です」

壁の方を指さす。
「じゃあその辺りに引っ越してこようかな……」
「ふふふ。ぜひ。そしたらご近所さんですね」

あああ。だめだ。この笑顔が今自分だけに向けられていると思うと、少しでも鮮明に記憶に刻みこもうと、視覚と聴覚に全ての意識をもっていかれてしまう。気の利いた会話ができない。いやそもそも気の利いた会話ができるポテンシャルなんか自分にはない。
「ふだんは何かされているんですか?」
裕也が黙ってしまったせいか、アヤノさんがまた言葉を投げてくれた。なんとふがいない。
「ふだん……」
タクローから聞いた話からすると、アヤノさんはかなり頭のいい子であるはずだ。この聴き方は仕事の事と限定していない。もっと大きくて根幹の部分を短い言葉にまとめているのだ。つまり、あなたの理想とする将来に向けて現在、その為に何をやっているんですか? という事だろう。
「普段は役者をやってます。仲間とチームをくんで公演したりしてるんですが、僕は脚本書くことの方が多いです」
嘘をついた。でもこれはこれからやろうとしている事だった。もう一度、一からやってみようと思った事だった。だから完全に嘘ではない。嘘ではない。と自分の罪悪感へ言い聞かせる。
「あ、役者さんなんですかー。でもなんとなくそんな雰囲気してました」
「それどんな雰囲気?」

将来性がない雰囲気だろうか。
「なんとなくオーラみたいな物がある気がしてました」
「褒め言葉として受け取りますね」

笑いながら言う。少し落ち着いて話しが出来る様な気がしてきたところで、アヤノさんが一階の様子を気にしているそぶりを見せた。
少し話し込みすぎたらしい。アヤノさんは今仕事中だ。
「そうだ、なんて呼べばいいですか?」
「え?」

一瞬質問の意味が分からなかった。まさか、僕の名前の事だろうか。
「僕の事?」
「はい。まだお名前知らないので……」

そんな幸せそうな事があっていいのか。ここで僕が「ユウちゃんです」とか「ダーリンです」といえば、タクローの本の力無くして、恋人気分を味わえるではないか。
期待を込めつつ僕は言った。
「吉元裕也って言います」
チキンだった。でも下の名前で呼んでくれるかもしれない。
「吉元さんですね」
期待とは外れる事の方が多いものだ。うん。
「お連れの方……タクローさんはユウちゃんって呼んでましたね」
タクローはタクローなんだ……
「あれはお連れじゃないです。おつきまとわれです」
ふふふとアヤノさんが笑った。
「じゃあ私戻りますね。ゆっくりしていって下さい」
「はい」

アヤノさんが背を向けた。
もう一言。もう一言、会話の締めくくりに何か、彼女の記憶に残るような気の利いた一言を言いたい。いや言わなければ。
「あの!」
アヤノさんと言葉が重なった。
「へ?」
裕也は戸惑った。アヤノさんが振り向く。
「あ、ごめんなさい! なんでしょう?」
「あ、いえ。アヤノさんから先に……」
「別にたいした事じゃないんですけれど、タクローさんが本屋さんをやってると今日おっしゃっていたので……」

長々と自己紹介でもしていたのだろう。
「今朝はすみませんでした。ボクが謝るのもおかしいけれど」
「それで、思い出した話があって……」
「どんな話です?」

声を小さくして身をアヤノさんに近づける。
「麻布十番っていくつかおもしろい話がいくつかあるんですよ」
アヤノさんも声を小さくして一歩近づいてくれた。良い香りがした。
「その中の一つに私が子供の頃から好きな話があって……」
唐突な話だが、アヤノさんの話だ。裕也はさも興味ありげにする。
「どんな話ですか?」
「この街のどこかに、本の中身を売るお店があるらしいんです」
「……へぇー」

その店なら知ってる。
「でも特別な人にしか見えないお店らしいんです」
え? そうだったのか?
「ほう。特別ってどんな人でしょうね」
「もうすぐ死ぬ人」

アヤノさんがまっすぐこちらを見て言った。その視線から目をそらすことが出来なかった。落ち着かないのはアヤノさんが美しいからという理由だけではなかった。急にナイフで刺されたかの様な、緊張感が一瞬走った。もうすぐ死ぬ人。アヤノさんは落ち着いた声で静かにそう言った。
「そんな話です」
「なるほど……」

何もなるほどしていない
「子供の頃、暗くなるとそのお店に連れて行かれるぞーって親に脅されてました」
アヤノさんの頬が緩むのを見てようやく緊張が解けた気がした。
「それで、タクローさんの本屋ってもしかしたら……って気になって……」
「まったくぜんぜんそんなの違う普通の店ですよ。ぼろい感じの、本屋っていうかなんというか!」
「あはは。そうですよね……吉元さんは何を言おうとしたんですか?」

なんだったっけ? さながら都市伝説扱いのタクローの本屋に驚いてしまっていてそれどころじゃなかったが、平静を装いながら口を動かす。
「あの、ふだん女優さんか何かやってらっしゃるんですか?」
なんだそりゃ。と自分で思った。ふがいない。
「今まで見た女性のなかで一番綺麗だから……」
「いやいやいや……とんでもない。ただの学生です」

アヤノさんが遠慮がちに目を伏せた。
「あ、でもすぐそこの美容室のカットモデルはやってます」
「え?」
「でっかい私の写真があって少し恥ずかしいんですよ」
「凄いじゃないですか……」
「ただ昔から行ってたからですよ。凄くないです」
「じゃあそこに行けばいつでもアヤノさんに会えるわけですね」

彼女がまた笑う。その仕草一つ一つに心が躍る。
「会えます。メイクばっちりの私が居ます」
そういってもう一度笑顔を向けてくれた後、下の階へと降りていった。

 そのまましばらくぼーっとしていた。ぼーっとしたまま抹茶黒蜜ラテを口に流しこんだ。抹茶とミルクと仄かな黒蜜の甘みが同時に感じられた。不安感と幸福感と、仄かな期待を同時に覚える今を味にしたかのようだった。
 そもそも、タクローとは何者なのだろう。割と長く本屋をやっているらしいとは本人から聞いていたが、いったいどれだけの期間やっているのだろうか。もうすぐ死ぬ人しか店に入れないというのはどういう事だろう。うわさ話だろうから、多少の尾鰭がついてるとは思うが……もしかしたら、本の中身を売る本屋さんはタクローの店以外にもあるのかもしれない。それに、もうすぐ死ぬうんぬんの話もタクロー本人に聞けば解る事だ。とにかく、今日はアヤノさんとお話ができて、名前を覚えて貰ったのだ。結果的にはよしとしよう。
 もしかしたらこのままタクローの本が無くてもお付き合いできるようになるのではないかと期待して、そんな期待をした自分を「身の程を思い知れ」とグーでぶっ飛ばしてようやく目が覚める。
 そういえば携帯をにぎりしめていたままだったという事に気付く。
待ち受け画面には、電話を掛けようと思っていた相手の番号がまだ表示されていた。

 気持ちを切り替える。アヤノさんとの事も大事だが、まずは自分の事をしっかり見つめなければと決意したのだ。
 もう一度、ちゃんと役者をしたい。タクローに言われて気付いた。僕は諦めていない。周りの成功や、生活費を稼ぐだけの日常の中に諦める理由を探していた。都合のいい辞める理由を。それは逃げだ。諦める事とは違う。何も出来ない自分自身を隠す為に、格好をつけるためにちゃんと諦める事を放棄していただけだった。
 見えている方向にしか進めない。進んでいる時しか近づけない。
今度は自分でしっかり諦める事を認められる位、全力でやってみよう。
「よし」気合いを入れるように短く呟く。
裕也は決意表明の気持ちで発信のボタンを押した。彼が出演していたドラマはもう終わっているはずだ。もしかしたら、彼の役者としての成功譚の中で思いがけない刺激を貰えるかもしれない。
 何を話そう……。電話のコール音が鼓膜をふるわす。
緊張してきた。彼はもう有名人だ。僕は今有名人に電話しているんだ。いやでも、最初に着信を残してきたのは向こうだから。
 そうだ。この間の電話何だったの? とでも、軽く話せばいいじゃないか。五回目のコールの途中で懐かしい声がした。
「はい、もしもし」
「ああ、やっほーひ……ひさしぶり~。ドラマみたよー。凄いねたくさん映っていたね……」
「ただいま電話に出ることが出来ません」

裕也は電話を切った。

留守電に自分の声を吹き込める位のナルシズムを持て! という事を学んだ気がした。


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