そのコンテンツを『「体験した」という自分』を得たいだけでは?という不安感について

映画、小説、書籍、その他諸々のコンテンツを楽しんでいるときにふとこんな気持ちが去来することがある。

早く終わんねぇかな、という気持ち。
まだ半分あるな……という気持ち。

「いやお前がそのコンテンツをただつまんねえと感じてるだけだろ猿」というご指摘を頂くかもしれないが、そうでもない。
その時は面白いなぁと思いながら読んだり見たりしているのだ。
だからわざわざ我が四肢の如く大切なお金を使っているわけだし!

だがここにも色々と自問自答の余地はある。

■金払ったからといってそのコンテンツを面白いなぁと感じるかどうかは関係ないじゃん

→確かにその通りだが、私自身「まだ半分あんのかぁ」と思いながらもその時は楽しんでいた記憶があるんだもんしょうがないだろ!

■もしや「つまんねえ物に金払っちまった!」という己のBADENDルートを深層心理で回避しようと「これは面白いものなんだよ!損なんかしてねえんだよ!」と思い込んでるだけでは?そしてそれがふとした瞬間に表層に浮かび上がってくるのでは?

→……あり得る!非常に自分の場合有り得そうだから困る。しかもそれが世間的な評価が確立されている名作とされるものほどそう思い込もうとする心理は強まる可能性は高い。

「この映画わかんないや、つまんね」とリモコン投げて逃げ出そうとする本当の自分を見つけたもう一人の虚栄心や見栄などで塗り固められた自分がドドドドッ!と駆け寄って来て本当の自分くんの胸ぐらを掴む。

「これは世間では超評判も良いし名作と名高いし社会的メッセージもふんだんに織り込んだ価値ある作品なんだよ、それが理解できないとかつまんねえとか言ってたらテメェは一生猿のままだぞ猿コラァ!」

と血走った目で脅し、首がカクカクとバブルヘッドのようになるほど揺さぶり続ける。

それに屈した本当の自分は脳を騙して「面白いなぁ!深いなぁ!さすが名作と言われている作品だなぁ!」と偽の徳を積んだかのように思考している可能性は大いにある。

それらを総合して考えると、私はそういったコンテンツを「見た・経験した」という自分になりたいだけなんじゃないか?という疑心暗鬼に駆られるのだ。

その証左としてこれまで読んだり見たものの内容をほぼ覚えてないのだ。
脳に「あぁ、あれ読んだよね、どんな話だっけ?」と気軽にコーヒー片手に尋ねてみても官僚ばりに「記憶にございません」の回答を獲て松田優作リスペクトのブーッ!とコーヒーを吹き出しそうになる始末。

ただただそのコンテンツを金魚運動のように目を動かして情報を追い、得たはずのものはスポンジではなくステンレスのようになった脳の表層部をただ滑り落ちてその瞬間だけ映像を作り出して流れ去っていく。
結局私が得たものはそのコンテンツを「体験しました」という自己認識へのハンコだけ。
他人に披露することすらない砂上の自己陶酔。

そんなナルシズム的価値観のために私が冷やし中華の次に愛しく思っているお金と、限りある時間を費やしているのではないかこの猿は?と不安になる。

結論としては、とても私は冷やし中華が好きだが、あまり外食で食べたいと思わないのは多分家で茹でて食べる冷やし中華とそこまで劇的な差異を感じないからなんじゃないかな、とふと感じた夏であったというところに落ち着いた。

地方都市に住むにんげんです。 なにか思ったことなど、カタカタ書いておきます。