神様のつくり方

私は宗教に関して一応仏教徒ではあるのだろうが、
特に信仰が厚いわけでもない、所謂普通のゆるふわ系仏教徒に分類されるだろう。
他の多くの日本人同様、多種多様な宗教のイベントを周囲とともに楽しむし豚も牛も食べて酒も飲み、何の意味もなくアーメン、南無阿弥陀、何妙法蓮華経、般若波羅蜜多、と節操もなく何でも口に出し、自分にとって都合の良いタイミングで都合の良い神様に祈りを捧げて無償で、もしくは10円程度で7億当たりますように!などと身勝手極まりなく祈りを捧げまくる。

そんな私にとって神様とは一体なんだろうか。

神様はこの世界を創った人だと言う。
神様は怒らせると災いをもたらすとも聞く。
神様はあらゆる物に宿り、存在するとも言う。

様々なことから私が勝手に個人的に何の意味もなく考えるに、神様というのはこの世界の『原理』すべてなのだろう。

私が最近になって棒を使って蟻を食べる術を覚えたチンパンジーくらい浅学なため、だいぶ偏差値の低いことを言っているのかもしれないが、そう考えた。

例えば万有引力の法則だったり雨がどのように降るのかだったり光によって網膜が映像を結ぶことだったり、もうこの世のあらゆる原理をすべて神様の手柄と罪と責任にして「そういうもの」としてこれまで世界中の人は生きてきたのかもしれない。

身の回りに起きる巨大な幸福も理不尽な哀しみも神様という存在が理由を与えてくれて様々なバランスを取りながら生きてきたのだろう。

ならば科学や技術など様々な分野が発展し、あらゆる原理が解明されていけば神様は絶滅するのだろうか?

恐らくしないだろうと思う。

この世から解明されない原理が無くなることもまずないだろうし、何かしらの確率を含む事柄がこの世にある以上は良くも悪くも神様という理由を担保してくれる存在がいなくなることはなさそうだ。
つまり自分の努力や行動だけで結果を決められること以外が存在する以上、神様はずっと頼られるし畏れられるのではないか。
例えば、雨を降らせてほしい!や子どもを授かりたい!などは古来から神様に祈りを捧げてきた事柄で、それは恐らくこれからも変らないような気がする。

次のステップとして人間は神頼みするしかない事柄に対して、代替可能な方法を考える事で発展してきたように思う。

神様が雨を与えてくださらない場合に備え、それ以外の方法で水を得る方法を考える。
じゃあ水を貯めよう、飲める様に濾過しよう、農作物に撒けるように管を配置しよう!
そんな技術発展的ルネッサンスはあらゆる分野で起こってきただろう。
そうすることで神様が多忙でこちらを見ていない場合に備えて人間はより人生の恒常性と言うのか、そういったものを獲得してきたように思う。

その調子で様々な神様の代わりが見つかったとしても、恐らくその代替品の存在がまた神様として崇められる。
故に神様は死なないと私は思う。

最も神様がこれからも存在し続けるだろうなぁと感じることがある。
それは他人の気持ちというものがどうしようもなくあるからだ。

人間は社会性を持つ動物で、他人と様々な交換をすることで生きていくものだ。
それはお金とモノだったり意見、感情、労働力など多岐にわたると思うが、そこで「自分というものを他人がどう感じるか」という部分に関して自身だけで絶対のコントロールを行うことは無理だと思う。

どんなに立派な人間であっても「顔がキモい」とか「生理的に声が嫌い」とか「昔嫌いだった奴に似てる」などの理不尽極まりない理由で他人は自分を嫌いになったりするものだ。

それ故に神様に祈るしかない。
顔がバキバキのイケメンになり声が阿部寛の様なバリトンボイスで誰からも好かれるキティちゃんのようなルックスにしてください!と。
これでキリッとした目鼻立ちの低音響かせたりんご3つ分の怪物が誕生する。
多分より多くの人に嫌われそうな気がする。

このように世の中で最も理不尽なのは人間の感情で、それが存在し続ける以上、神様は存在し続けると私は思う。

地方都市に住むにんげんです。 なにか思ったことなど、カタカタ書いておきます。