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捜し物は何ですか?と、問われたら

捜し物は何ですか?

・・・と、冒頭で問う大変によく知られた曲がある。

映画「放課後」主題歌でもあり、ご存知井上陽水氏が、1973年3月にシングルとしてリリースしたことでも知られる「夢の中へ」の冒頭の一節だ。
なお、陽水氏の同時期の大ヒットアルバム「氷の世界」には収録されていない。関係はないが、自分もこのシングル盤をどういうわけか持っている。CDシングルではなくアナログレコード盤で。
また、斉藤由貴がユーロビート風のアレンジでカヴァーしていることでも知られるし、他にもカヴァー例がある日本の誇る名曲の1つだ。

これに対して、1980年代半ば、というより1980年代後半期と言った方が近い時期に、アイルランド方面から返答があった。

彼らは歌う。

I still haven't found what I'm looking for
(捜し物はまだ見つかってない)

・・・と。

アイルランド出身の世界的なバンドであるU2が1987年にリリースしたアルバム「The Joshua Tree」の前半2曲目に収録されており、シングルとしても発売され(だからメンバーが賑やかな繁華街と思われる街角を徘徊するビデオクリップも存在する)大ヒットした。「終わりなき旅」という邦題(というかサブタイトル)が付けられていた時期もあったようだ。2020年現在に流通している版で、そういう邦題というかサブタイトルがついているかどうかは確認していない。

これら双方の楽曲にはもちろん関連性など欠片もないと思う。単なる偶然の産物に過ぎないだろう。

・・・と、それぞれの楽曲の紹介や、双方の曲に関連性があるかどうかはともかくとして。

以下、とりとめとまとまりの無いエッセイと称する文章にしばらくおつきあい願おう。

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若かりし頃の井上陽水氏は、この「夢の中へ」で、そんなものはとりあえず打っちゃって「夢の中へ行ってみたいと思いませんか?」と何度も無邪気に問うのだけど、U2は「I still haven't found what I'm looking for」の中で「だけど捜し物はまだ見つからないんだ」と繰り返し述べている。

U2が捜している(としている)ものと陽水氏が捜している(としている)ものが同じかどうかも知らないけれど、もし仮にこの両者が「捜している」としているものが、実は同一だったら・・・。

陽水氏とU2はそれぞれの曲を、今の世に於いてもライブなどで歌っている。その度に陽水氏は「捜し物は何ですか?」と問うているし、U2は同じく「まだ見つからない」と述べている。それが、それぞれの歌の持つ使命だ。

人生というのは、何かは知らないけれど、捜し物を捜して歩く旅のようなものだと思ってしまう。自分が今、何を捜していて、どんな形でそれが見つかれば良いのか、自分にはわからない。

その、よくわからない捜し物を当てもなく捜して歩く旅を、人間というのは恐らく生まれ落ちたその時から、ずっとしているのだろうと思う。

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その「捜し物」を確定的に見つけられるのかは、先程も書いたように、自分では恐らくわからない。
そもそも、自分が先ず何を捜しているのかをつかみ取ることから始めないことには、何も始まらないのではないか。

何を捜しているのかを最初のうちは自らは一切つかみ取れていないけれど、いろんな人と会ったり、いろいろな場所に赴いたり、多くのことを体験したり、それらによって知り得た様々なことを知識として獲得していく間に、やがて最終的に何を捜しているのかを(朧気なのか、明確になのかはわからないけれど)つかむことができるのではないか。

人生って、結局のところ、そういうものなんじゃないかなあ、と漠然と思ったりする。

そりゃあ、生きている間には、「〇〇をしたい」「××をしたい」などの目標が浮かんでくるだろうし、それらに向けて努力研鑽を積み重ねながら邁進していって、その結果、何らかの成果を挙げたり、目標を達成できて、功を成したり名や財を成す人も中にはいると思う。

順調にできるような人ばかりなら良いが、何らかの挫折や失敗や落胆をしてしまい、その結果として目標達成の努力を中断したり、あるいは目標達成を完全に断念してしまうこともあるかもしれない。その辺は人それぞれだろうと思う。

ただ、前者にしろ後者にしろ、そのような過程で得られるであろうものが、その人にとってのいわゆる「捜し物」であるかどうかは、一度真剣に吟味してみる必要があるかもしれない。

とはいえ、それは若い頃にするものでもないだろう。ある程度人生を過ごしてきた時期にこそ、するべきだと思う。若い頃にそれをして、結論を早々と見つけてしまったら、そこで人生が終わってしまいそうな気がする。そんなのは、さぞかし面白くないだろう。

人生に於ける「捜し物」なんて、簡単には見つからないぐらいがちょうど良いのだと思う。そんなものが簡単に見つかる人生なんて、少しも面白くないんじゃないか。

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だから、生きている今のうちは、井上陽水氏みたいにあっけらかんとしながら「捜し物なんか良いから、それより夢の中で僕と一緒に踊りませんか?」と問うぐらいでちょうど良いし、U2みたいに「でもまだ、捜し物なんか見つからないんだよ」とぼやいてみせるぐらいでちょうど良い。

かく言う自分も、その「捜し物」が何であるかをわかっていない。たぶん自分は一生それが何であるかを捜し当てられないかもしれない。見つからないからと言って、八つ当たりするつもりもない。そんな人生を送ったのは自分であり、他者ではないものな。

まあ、捜し当てられるかどうかはともかく、仮に死ぬまで捜し当てられなかったとしても、それはそれで生きてて面白かった、と思うようにしておけば良いのではないか、と思ってしまう。

自分はわりといい加減に生きてきたつもりだし、これからも基本的にはいい加減に生きていくしかないんだろうと思う。その結果、人生に於ける「捜し物」が何であるかは、先にも書いたように見つけられないかもしれない。それで後悔してしまうかもしれない。
でも、そうなりゃそうなったで、自分の人生だもの。確かにその時は悔しく思うかもだけど、そういうのを見つけられないような人生しか送れなかった自分の責任なんだと思うことにしておくしかない。
決して、他の誰かが悪いわけではない。自分の人生だもの。何故他人や周囲を取り巻く状況の全てに責任転嫁できようか。
「悪いのはそんな道を選んだてめえだろ?」ということで全てのカタが付くはずだ。人生のケリの付け方って、結局そういうものだと思う。

ま、そんなことが易々と断言できるほど、満ち足りていたり、しっかりとしたような人生を送ってきたわけでもないのだけど、自分の出しつつある結論というのは、その辺りに落ち着きつつある。

自分は、この10年ぐらいの間に、脳梗塞で2回倒れ、家の階段から転げ落ちたり、この数ヶ月間では腸の中にできた憩室から二度も出血するという目に遭っている。
そんな目に遭う度に、自分に残ってる時間は、たぶんそこまで多くはないんだろうなって思えるようになってきている。

まあ、そうなったのは若い頃の自分の不摂生と、堕落した生活ぶりが原因なので、別にそのことは後悔はしていない。後悔したって、今更健康体が取り戻せたりしないもの。だから、しても意味が無いと思っている。

それよりも、これから先、何年あるか知らない人生の残り時間を、自分らしく楽しめたらそれでいいやと思うようになっている。

その結果、自分の人生に於ける「捜し物」が、そんなものを捜そうとあくせくするのを止めた時に、ひょっこりと目の前に現れるかもしれない。

井上陽水氏だって歌っているだろう。

捜すのを止めた時、見つかることもよくある話

・・・だとね。

だから、人生の中にある「捜し物」を一生懸命に見つけようとするよりも、先程も書いたように、これからはおおらかに構えながら、自分らしく残り時間を楽しませてもらおうってことにしたい。
それは、いい歳をしたおっさんの、ただの責任逃れとかではなく、自発的で積極的な人生の質を追求する行動・・・というように思っていただけたら良いかな。甚だ身勝手ではあるけれど。
いいじゃねえか、自分の人生なんだから。怠けたりサボったり堕落したりとかでなく、最後ぐらい好きに生きてみたいよ。

そんな望みを、何となく抱きながら、残った人生の時間を過ごせたら最高だなと思う。自分の現時点での希望はそれだけ。

・・・とまあ、何だかまとまりのない文章を書き殴ってみた。いい歳をしながら、何を中二病みたいな文章を書いてるんだ、と思われても仕方がない。それが自分のスタイルだから。たぶんこの先も、何かを書くことがあれば、こんな文章を書き続けるだろう。
せいぜい、そのスタイルを皆さんが「しようがねえなあ、あの馬鹿野郎」などと言いながら笑納してくれたら、それで満足することにする。

ここんとこ、入院したりで少し気分が落ち気味のおっさんが、勢いに任せてこんなしようのない文章を書いただけだよ。あんまり深い意味を読み取ったりしなくて良いよ。俺は生まれてこの方、ずっといい加減な行き方をしてきたおっさんだから。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。