『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』

昨日、建築情報学会 準備会議なるものに参加して久しぶりに建築のことを考えたのだが、混ぜてもらった打ち上げで修士論文の話をして懐かしくなり、探してみたらwordデータを発見した。

今はあまり引っ張り出して聴く機会もなくなったCDたちに埋もれてデータが入ったCDRがあったのだが、このまま置いておくといつかきっと無くなってしまうだろう。手前味噌だけど今読み返してもなかなか面白いアプローチだと思うし、ただ消えてしまうのもそれも勿体無いので、アーカイブ的にnoteにあげてみようかとおもう。

以下は、2005年に著した、東京大学大学院 人文社会系研究科 美学藝術学の修士論文である。


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『建築家のドローイングにみる<建築>の変容 −−ドローイングの古典、近代、ポストモダン』 ①


凡例
(1) 引用文に関しては、参照箇所を脚注によって示した。ただし脚注内には著者名、タイトル、頁数などのみの記載とするため、詳細に関しては文末の文献リストを参考のこと。
(2) 外国語文献については原則として原典となるテクストを併記したが、特に外国雑誌などに関しては一部入手が困難なために記載できなかったものもある。またやむを得ず別の書籍の引用から転載することとなったものに関しては、その都度明記してある。
(3) 邦訳がある文献に関しては邦訳を参考にし、原則として訳文を引用するが、議論上なんらか不都合がある場合や、また極端に意訳的と考えられる文については訳を断りなく改めている箇所がある。原テクストを合わせて参照されたい。
(4) 引用文中の[・・・]は引用者による省略である。また指示の内容や文章の流れなどの点でわかりづらい箇所に関しては、引用者が適宜補足し、その箇所を中括弧[ ]によって示す。
(5) 引用文中の下線はすべて引用者による強調である。


1. 序  建築家のドローイングとは何か?

建築家のドローイングとは何か?

この問いに対して、それは例えば「建築のために制作される平面的グラフィック」であるというように答えることが出来るだろうか。しかしこの答えも明確な定義を与えているとはいえない。なぜなら何気なく用いられている「建築のため」という言葉が表す意味が自明のものでも一義的なものでもないからである。

一般的な語義としてはそれは、「建物を建てるため」とパラフレーズすることが可能であるかもしれない。この場合、建築という行為は「建物」の建設を目的としており、ドローイングはそのための一手段として考えられることになる。ドローイングをこのように考える観方は古くからあるものであり、かつまた明らかに最も広く信じられているものである。このような考え方によれば、ドローイングはあくまでも手段に過ぎず、あたかも建築現場における足場のように、建築が成った後には既にその役目を終えている仮設的で二次的な存在でしかない。

 しかし一方で20世紀中頃からドローイングを“作品”として鑑賞するような態度が現れてきている。美術館などでは数多くのドローイング展が企画され、また建築家のドローイングを集めた集成本なども多く出版されている。ヴィットリオ・マニャーゴ・ランプニャーニ編集の『ARCHITECTURE OF THE TWENTIETH CENTURY IN DRAWINGS: Utopia & Reality』もそのような図集の一冊であるが、その序文にある次のような文章はドローイングを二次的な手段としてではなく、建築家の“作品”としてみる態度を端的に表しているといえる。

「建築家のドローイングはしばしば完成された建物以上のものを表現する。技術やプレゼンテーションの手法、型、構成、線の扱い方や流行は、すべて芸術家の知的な意図を表している。建築のドローイングというものは従って文化的態度に対する証拠である。それらは正確であるだけでなく、情熱的なものであり、独立した芸術的価値を持ち、自律的な作品として独自の権利を持つことが出来る。」1*

ここではドローイングが「自律的な作品」として「独自の権利」を与えられており、それどころかむしろ「実際の建物以上」の価値を与えられてさえいる。このことは既にドローイングが「建物を建てるため」の手段としては見られていない、ということを意味している。建物を超える価値を持ったドローイング――――いったい建築ドローイングのこのような価値上昇、ないしは建物との価値の逆転はいつ、いかにして起こったのであろうか?

建築ドローイングは決して一般に考えられているように単純なものではなく、一括りに語れるような存在ではない。それは後に見るように、建築家と建物、あるいは建築家と社会との間で常に揺れ動きながら、その意義や機能をさまざまに変化させ、時代や場所によって多様なあり方をするものである。しかしこれまでのところ、そのような機能の変化や歴史などについて体系立てて論じようとする試みはほとんどなされてこなかったといってよいだろう。というよりもむしろこれまで、建築ドローイングが主題的に取り上げられる機会自体が極めて少なかったのである。これは、建築が論じられる際しばしば建物の形態や様式にのみ関心が払われ、ドローイングが透明な媒体として看過されてきたためである。ドローイングはしかし、全く透明な媒体などではなく、それ独自の建築的意義を持つものであり、<建築>という一つの創作行為の中核をなす主要な構成物と考えられなければならないものである。

本論文ではそのような関心から建築ドローイングを主題として取り上げ、その表現や機能、使用法の変容について辿ってみたい。このようなドローイングの変容の背後には、実用性と美との微妙な均衡点に成立し、また建築家一人の手になるものではなく、施工者、クライアントを含めた多くの関係者の間の複雑な力学と関係性の内に成立する<建築>という芸術の特殊性と、それが不可避に孕む葛藤とが潜んでいるはずである。そしてドローイングの機能や価値の変化を追うという作業を通じて−−――いわばドローイングを窓として−――−、<建築>というもの自体がどのように変化していったのか、その変容のあり方をも浮き彫りにすることが出来ると考えられる。本論文のいま一つの目的はここにある。

本論では、ドローイングの機能を論じるうえでそれぞれ特徴的と考えられる建築家のドローイングを具体的に実例として数点取り上げ、その表現の分析を試みる。その際各々のドローイングの特殊性や文脈を明らかにするために、背景としてそれぞれの時代の状況や建築上の潮流などについて概観し、また建築家自身の言説や思想をとりあげ跡付ける作業も必要になるだろう。しかしながら、本論は各建築家の作家論ではなく、あくまでそのドローイングの機能について論じるものである。そしてあくまでドローイング論としてのものである以上、各建築家の作品の全てや様式史的な展開、建築史上の位置づけといった、通常の建築論が主眼とするような事柄に関して網羅的に触れることは出来ないし、元よりそれを目指すものでもない。一次の分析対象はあくまでもドローイングであり、その表現と使用法、機能にこそ関心を持つものであることをあらかじめ断っておく。

 論はほぼ時系列的に展開される。それによってドローイングの歴史的変容に関しての大きな流れを跡付けることが出来ると考えられるからである。またこのような構成をとることよってドローイングの通時的、歴史的な意味合いについても明らかにすることが出来るであろう。

②を読む

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1* Lampugnani, Forword in ARCHITECTURE OF THE TWENTIETH CENTURY IN DRAWINGS: Utopia & Reality, p.6




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